胡堂百話 / 野村胡堂
地名一覧
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、今にも追剥ぎが出そうな気がした。天竜川では橋銭を取られ、御油の町では、キャラメルを買おうとしたが
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三島選手は、のちに高等師範の金栗選手と共にストックホルムに派遣され、我国最初のオリンピック選手たる栄誉をになったけれど、長浜
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「箱根、湯元。
箱根を舞台にしたのが幾編かあり、昭和二十五年に書いた「無間
落花狼藉という言葉は、旅の娘が、箱根の山で雲助に取りかこまれたりする時に、使うものだと思っていた
ビクターの連中を、主にして音楽関係の十人ばかりと、箱根から熱海まで行ったことがある。私の本名と、時々まちがえられることのある
里数では、見事に失敗したが、箱根は相当調べたつもりで、関所にまつわる小説だけで、十種以上は書いて
長男が生きていたころである。子供たちを、ひと夏、箱根で自炊生活をやらせ、私も、しばらく行っていた間に、関所破りの
箱根に関所が出来たのは、二代将軍の元和四年で、これは、
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番町の家は暑いから、急に思い立って、ここへ来た。山があって
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戦局が、だんだん落ち目になって、ラバウルの大要塞も、進攻するアメリカ軍の後方に置いてきぼりを食いそうになった頃で
「実は、ラバウルの司令官今村均大将が、陣中で読みたいから内村鑑三全集を送れと言って
もなく、全集は、参謀副長が携えて、南太平洋をラバウルへ飛んだ。
ラバウル十万の将兵を無謀な玉砕に追いやることなく、地下に潜って百年持久の
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するまで、一カ月に一度ずつ、重いレコードを提げては本郷へ通った。
。三月から七月まで(当時は七月が入学試験)本郷の下宿を一歩も動かず机にかじりついたら、別人かと思うほど、やせ
三年前)やがて大正になろうというころ、彼女は、本郷のレストランにいた。数え年の十九か二十で、学資のために働いてい
そこで、私は、質札をたよりに、本郷の質屋を捜して行った。根津の通りから、ちょっと、はいったところだった
の岩波書店に連絡したが一冊もない。神田、本郷の本屋街を、軒並み探したが駄目である。この上は、誰か蔵書
大正の末まで残っていた本郷の淀見軒は、内容豊富が一高生の人気の的だった。パラダイスは、
できかせた時などは、ある学生は感激のあまり、本郷から淀橋の自宅まで歩いて帰ったといって手紙をくれた。その学生は
家は本郷で、信陽館という下宿屋のむすこだった。私のいる下宿屋と、女将同士
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逗子駅から葉山へ抜ける左手の、あれは何という山だろうか。見上げるばかりの崖の上
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軽井沢へ逃げ出すと決めた時は、ひどく心細がって、わざわざ高井戸まで、やってきた。
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も幾度か会っている。第一次西園寺内閣の当時、駿河台の私邸へ文士を呼び集め、「雨声会」と号して、文学談を交わした
た福岡易之助君の姉さんである。福岡君は、駿河台の白水社の主人となって、フランス文学書を専門に出版したことは知る
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笹野新三郎は、平次の直属上官の、八丁堀の与力である。笹野も、それを知っているから、口で叱って、
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美濃の金山の城主、森武蔵守長一というのがある。本能寺で戦死した森蘭丸の兄で、鬼武蔵と呼ばれたが、これは
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私の生れは、岩手県といっても、県庁のある盛岡市から、汽車で五つ目の日詰で下りて、それからさらに一里半
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宿賃に対して、茶代を十円奮発した。伊勢の亀山で、鈴鹿越えのタクシーを頼むと、宿の女将が眼を丸くして「
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大久保の余丁町。現在は新宿区と呼ばれるが、抜弁天を左へ抜けて、坪内先生の
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T氏は、そのまま住みついて、今も浅間の噴煙と、高山植物の美しさとを描きつづけているが、まだ戦争の
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、質札をたよりに、本郷の質屋を捜して行った。根津の通りから、ちょっと、はいったところだった。
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遺した下総馬場は、むろん、お江戸日本橋から、品川、川崎と歩いているが、私は、学生時代に小田原まで歩いたことがあり、その後
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たいものである。私は、レコードを背負って、北海道から九州まで、講演にとび回るようになった。
注文も来るようになった。東大の講演だけでなく、九州からも北海道からも、お座敷がかかった。重いレコードを背負っての旅は、
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建築落成の日に、ふっと姿を消してしまった。北海道へ渡ったとの噂もあったが、それすらも、はっきりとは分らない
は語り合いたいものである。私は、レコードを背負って、北海道から九州まで、講演にとび回るようになった。
ようになった。東大の講演だけでなく、九州からも北海道からも、お座敷がかかった。重いレコードを背負っての旅は、決してラクで
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谷好文という、いい記者がいた。本所に宵強盗があって現場へとんだ。被害者のお婆さんに話をきく
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博士なども常連の一人だったそうで、昭和十八年に軽井沢へ疎開するまで、一カ月に一度ずつ、重いレコードを提げては本郷へ通っ
いま、あるのは、郷里の家の白壁の土蔵と、軽井沢の緑陰と、二枚だけになってしまったが、これを自分の居間の
軽井沢へも持って行ったし、伊東で仕事をするにも、この万年筆だった
毒ゼリというものの恐ろしさを、私は、軽井沢で、まざまざと見た。あんなに恐ろしい毒草が、案外の身近にあるかと
私は戦前から、軽井沢に山小屋があって、夏の三カ月間は、サッサと東京をあとにする。
私が、軽井沢へ逃げ出すと決めた時は、ひどく心細がって、わざわざ高井戸まで、やってき
そんな子供っぽい手紙を軽井沢へ、何回もよこした。そのくせ、自分は東京を離れようとしない。
戦争で、物が不自由なころ、軽井沢へ出かける前に、苦心して手に入れた上等のお茶を、カバンに
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私はそのころ、目白台に住んでいたが、朝早く戸をたたくのは、大抵、谷好文の
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軽井沢へも持って行ったし、伊東で仕事をするにも、この万年筆だった。汽車はすごく混んでいたし
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あるものでなく、いわば、うすあじの作品と言えるが、江戸の情緒を描き出したあの背景は素晴らしいし、一服の、ほのあたたかい人情味とともに
ない。棒の達人、豹子頭林沖は勇ましいが、江戸の町では、しょっちゅう、六尺捧をかかえて歩かせるわけにはゆかない
岩手に生れ、東京では山の手ばかりに暮した私が、江戸を書くようになったのは、川柳と、寄席と、浮世絵と、いろいろの
二百年前の江戸の庶民たちは、歌麿の美人画を壁にかけ、広重や国貞の絵ウチワで
旅というのがあったと聞いているが、一般に江戸の岡ッ引きは遠っ走りしないのが原則であろう。それに、本当のこと
消えゆく江戸のよさ
近ごろは「江戸のよさ」ということが、忘れられているようだ。
「江戸に生れないで、どうして、江戸が書けるのですか」
「江戸に生れないで、どうして、江戸が書けるのですか」
ないでよろしい。岩手に生れた私に、多少でも、江戸の息吹きが書けているとしたら……」
そのタネ明かしは、ほかでもない。江戸の古川柳である。「柳樽」をはじめとする川柳を読んだおかげである
五番目は同じ作でも江戸生れ
この二句にはじまる江戸の風物詩百六十六編が、どんなに、私を夢中にさせたことか。
中年から小説を書き始めた私が、舞台を江戸に取り得たのは、全く川柳のおかげである。フランス語の法律では飯
の知らない苦労をなめたことだろう。勉強によって、江戸の知識は仕入れることが出来るが、江戸言葉となると容易ではない。
。江戸研究に凝ってる書生さんがいるんだって? 江戸のことなら、おれっちくらいくわしい者は、あんまりいないと思うんだが
「古本屋の入札じゃあるまいし、すわりこんでいちゃあ、江戸は分りませんや」
の名人たちが、正にそれと同様で、藍をぼかした江戸の空や、一人一人の人間像を、見事に浮彫りして見せてくれる。
江戸の匂い
にまかせて歩き回った。文明開化になったとはいえ、江戸の匂いは、至るところに帰っていた。日本橋の魚河岸の近くでは、
ように日本橋へ通った。今日、私がいくらかでも江戸が描けるとしたら、それは、こうした人たちの賜物である。
今度、こういうものを書こうと思う」といった時「江戸から東京へ」と題をつけたのは私である。
江戸の方から行って、のぼり四里。下りは三里となにがしと記憶して
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が煙と消えて、その昔、広重が描いた通りの富士山が、日本橋から丸見えになった。作者は一松だったと思う。これなどは
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やがて小石川の下宿に移り、間もなく赤十字病院に入院した。原敬は、その時
小石川の林町の邸は、明治調のサンプルというのであろう。皇太子殿下ご
小石川の金富坂を上がって、貧弱な素木の門をはいると、玄関までの十
私はすぐに、小石川の邸を訪ねると、夜がおそいのに、博士は、こころよく応接間へ通して
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ほんとうの独り旅は、十四の年に平泉の中尊寺へ行った。父も母も、危ながって旅費を出してくれなかっ
平泉から、黒沢尻へ回り、さて帰りのキップを買おうとすると、お金が足りない
それから五十何年たった昭和二十年のことである。平泉へ行った私のオイが「中尊寺で叔父さんの落書きを見つけましたよ」
その落書きを消したいと思ったが、その後、いまだに平泉へゆく機会がない。
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抱琴が死んで初七日に、私たち若い仲間が築地本願寺で追悼会を開いた。
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「道中袖日記」を遺した下総馬場は、むろん、お江戸日本橋から、品川、川崎と歩いているが、私は、学生時代に小田原まで歩いた
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ほんとうの独り旅は、十四の年に平泉の中尊寺へ行った。父も母も、危ながって旅費を出してくれなかったから
そのころの中尊寺は、寂しくて、そして美しかった。金色堂は修理中だったけれど、物売る
年のことである。平泉へ行った私のオイが「中尊寺で叔父さんの落書きを見つけましたよ」と、いうのである。
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、町の常連が、学生も職人も集まってきます。横浜へ汽船がはいると、大ぜいかたまって他流試合に来たりします」
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谷中の大覚寺への葬列は、秋の陽の下を、俳人、文壇人の総ざらいであっ
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であろう。それに、本当のことをいうと、私は関西をあまり知らない。五十三次はドライブしたが、京都や大阪は、そんなに
その後、関西の金持の手にはいったとか、外国へ流出したとか、風の
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名古屋の旅館は、新聞社から口をきいてあったせいだろう。大変に歓待され
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石見銀山のネズミ捕りという手があるが、あれは、そう簡単に死ねるものでないし
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品川の町はずれ。小倉山の稲荷さまのうしろを回って、門を一足はいると、石器土器の山
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一日十里を、テクテク歩いて能代から秋田、それから八郎潟を舟で縦断したのだが、能代の浜で大変な騒ぎにぶつかって
それから秋田へ出て、八郎潟では船賃が足りず、川尻の俳人、佐々木北涯氏の家へ、私
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十一人前の大記録を作った覚えがある。たしか、赤坂の三河屋ではなかったかと思う。
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貞任が、花道の中ほどで引き抜きになり、「まことは、奥州のあらえびす」と威張るところがある。
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静岡に一泊して、翌朝早く、安倍川を渡った。橋のたもとに「元祖あべ川餅」の、のれんを見て
三島と安倍川ばかりでない。宇津の谷峠も、桑名の城も、鈴鹿峠も天竜川も、ことごとく
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から、関所の手前を右へそれて、山ひだの間を石垣山へ抜けるのである。須雲川の谷底をつたって、うまくこの道へ出られれば
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私は当時、鎌倉に住んでいた。今は、もう少し、スピード・アップされただろうが
上村彦之丞海軍大将に叱られたのは、鎌倉の材木座の私邸だった。
どうも調子がおかしい。わざわざ鎌倉まで怒鳴りつけられるために来たわけではない。だが、話しているうちに
この手紙を、私は、大切にしまっていたが、鎌倉へ引越す時に、なくしてしまった。露子は、それから間もなく死んだ
が、卒業も見ないで病に取りつかれた。私が鎌倉の山の上の、遠く三浦三崎の灯台までも見えようという青嵐の中に
たので、多年住みなれた目白界隈を離れ、静かな鎌倉へ引越した。国内のレコード熱は急ピッチで上昇し、専門雑誌が三つも
光一氏は鎌倉に、私は豊島区の雑司ヶ谷に住んでいた。その後、私も鎌倉へ
は豊島区の雑司ヶ谷に住んでいた。その後、私も鎌倉へ越して、二人の野村は、ますます、こんがらかることになるのだが、この
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、われわれ捕物作家クラブが建てた半七塚がある。京都や大阪には、浄瑠璃や小説の主人公の墓が保存されているそうだ。岡本
あの有名なお花さんや、専属の料理番として大阪の灘万の主人など、家の子郎党を、ワンサと引き具して、堂々たる大名
をあまり知らない。五十三次はドライブしたが、京都や大阪は、そんなにくわしく知らないから、尻尾を出すのがこわい。
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コペンハーゲンに万国測地学協会の総会があり、そのついでに、欧米各国を視察して、
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円の宿賃に対して、茶代を十円奮発した。伊勢の亀山で、鈴鹿越えのタクシーを頼むと、宿の女将が眼を丸くし
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のよさは、筋をはこんでいる中に、桜さく御殿山や、二十三夜の湯島台が、ありありと、まぶたに浮かんで来る。明治の
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花井さんと話したのは、大抵、神田錦町の法律事務所であったが、本箱と、書画がきちんと並んで、事務所という
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栗まんじゅうは三十幾つがレコードだった。それから、あの、根津権現のシイタケ飯。そうだ、あのシイタケ飯について、少しく語らなければなるまい
焼けた根津権現は、立派に再建されたそうだが、あのシイタケ飯を売る店が、
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つまらない。そこへ行くと関東は、千葉県から、埼玉、茨城あたり、思わぬところに妙な寺などが残っている。絵にも、詩
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その実、案外に少い。織田信長の家臣で、美濃の金山の城主、森武蔵守長一というのがある。本能寺で戦死した森蘭丸
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は、出来上がりすぎていて、つまらない。そこへ行くと関東は、千葉県から、埼玉、茨城あたり、思わぬところに妙な寺などが残っ
「関東の平原はいいですね。暁のもやに包まれた杉木立。夕べの雨
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茶碗でグイグイやりながら、自分で自分の文章に陶酔し、大江山の酒顛童子ほどの勢いで、大原稿を書いていた。なるほど、こう
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佐世保に集結した連合艦隊は、士気を鼓舞するためとあって、乗組み将士の
「佐世保のうしろに高い山がある。なんという山だったかな。あれへ、
「これが、佐世保以外に洩れたら、戦争は負けですぞ。どうか、秘密を守ってもらいたい
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関所の跡は、箱根町と元箱根の間に、今も桝形が残っているが、これを避けて姥子
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どうしても、そういう方面が発達するものですな。ローマもそうだ。フランスも、そうでした。しかし、歴史が長いだけに、何
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せた時などは、ある学生は感激のあまり、本郷から淀橋の自宅まで歩いて帰ったといって手紙をくれた。その学生は、のち
人の学生が集まり、私自身も激情をもって話した。淀橋まで歩いて帰った学生の話は、その時のことだったのである。
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世話女房は、たしか第十話あたりからで、最初は、まだ両国の水茶屋の看板娘だったはずだ。
両国の川開きは、広重が三十枚近くも描き残しているし、橋のたもとは見世物小
ステージは、両国の大きな貸席「伊勢平」を借り切って、何日も前から、大した準備であった
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し、一高へはいってからのことである。今の後楽園球場の少し先の、壱岐坂下を歩いていると、人力車に乗った山田
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ての原敬は、私も政治部記者として、芝公園の私邸にしばしば訪ねたが、彼がもしも凶刃に倒れず、あと十五
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談をのせる手はないよ。構わないから一時間ばかり、日比谷公園で昼寝して、訪ねたけれど留守だったといえばいい」
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県立盛岡中学……つい一月ほど前、「わが母校わが故郷」とかいうテレビ
盛岡の芸妓
燃えていた。それも東京の芸妓ではない。郷里盛岡の芸妓という芸妓を、総あげにしなければ、胸のつかえが、
北上川の対岸である。数え年の九つの時、はじめて盛岡へ連れて行かれて、おもちゃ屋で見た幻灯機械が不思議でたまらず、
「野村は盛岡の目抜き通りを、はだしで歩いているのを見た覚えがある」
行くのが、どうも面倒なのである。半年ぶりに盛岡へ出て来た父が、私の頭を見てキモをつぶし、否
盛岡で一番賑かな本町の通りを歩いていると、突如、私の後方で
かせぎのアルバイトなんてものではない。元をただせば、盛岡中学の同窓で、山田敬一というトテツもない男の仕業なのである
が出る。私たちばかりではない。明治三十年前後に、盛岡中学にいた人間なら、この変り者に影響されなかった者は一人も
生れの東京そだち。それが、どうした事情でか、盛岡師範の先生をしていた叔父に預けられ、中学の私のクラスへ
東京を去ること百三十里。因習の町の盛岡に、中学生の大ストライキという大変なことが、勃発したのは、
今にして思えば、若い野心的な先生が、盛岡なんぞに長く足をとめるわけがない。機会さえあれば、中央へ出たがる
ある。郷古、金田一、田子、及川、板垣、弓館など、盛岡中学の最も豊作といわれたのが、それからあとは、ぴったりである
私が生涯にやったことで、盛岡中学のストライキだけは、唯一つの失敗だったのではないかと
も同郷の先輩であるし、そのオイの原達は、盛岡中学で、おれ、きさま、の仲である。
きいて、お手紙を差しあげたところしばらくたって、郷里の盛岡から岩手富士の絵ハガキが来た。その中のフランス語が読めないので、
盛岡中学から、東京での大学時代にかけて、原抱琴、岩動炎天、岩動
ダテというものを着て、高慢ちきな中学生五人が、盛岡の町をあとに、秋田県下を四週間にわたって俳句行脚した。
一番の美少年だった。それに五山は、どういう料簡か、盛岡を出発する時から、墨染の法衣を着ていた。どこの寺から
私も、盛岡中学以来、その方では後に引かないが、田尻北雷博士だけには
盛岡の中学では杜陵吟社と称して行脚までやったり、一高に入って
三人が盛岡中学で机をならべたのは、五、六十年も前である。今
なまりは封建制度の余弊で、大きな藩ほど根強かった。盛岡は、東北六県の中では、色がさめやすい方だというが
立ってからは、確かに一回だけであるが、郷里の盛岡中学となると話は別だ。
盛岡名物の猪川塾漢学の猪川静雄老先生のところに、私はあずけられて
、だれでも自分の郷里が日本一だと思っている。盛岡の鰻も、正直なところ、東京以上とは申しかねるが、それほど番付
それよりも、盛岡で忘れられないのは馬肉である。天下に名高い南部駒の産地である
。そういう時に私はなんということなく、雪の盛岡郊外の、ゆれるあかりを思い出す。
私は、遠く盛岡時代に金田一君たちから、無理矢理、作らされた覚えはある。月下の高松
私が盛岡中学へ入学して、郷里の村から、はじめて盛岡へ出てきた日である。とりあえず、先輩の吉田直次郎君を訪ねると
話が、ずっとさかのぼるが、私が盛岡中学へ入学して、郷里の村から、はじめて盛岡へ出てきた日
布団や本箱は、別に馬の背で送ってもらい、盛岡の目貫きの、肴町の四ツ角で落ち合って、馬と一緒に、
盛岡中学へ入学して、たった一人で、この城下町へ行った時、布団や
中学生の頃、盛岡の町のある旧家へ、半年ばかり間借りしたことがある。この家の
の遊び仲間であり、田中館先生の養子の下斗米秀之進は、盛岡中学の同級であった。その関係で、特に目をかけられたので
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盛岡市外に高松の池というのがある。昔は上田の堤といった。東京で
君たちから、無理矢理、作らされた覚えはある。月下の高松池で歌会を開いたり、石川啄木と歌を論じたりしたことはある
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いやに兄貴ばかりを集めたようだが、このほかに、千葉亀雄、土岐善麿、矢部謙次郎、山根真治郎、遅塚麗水の諸氏……遅塚氏
師匠。実は私の友人の細君だったのである。千葉秀輔といって、ちょっと有名なドイツ語学者だが、私と同じ新聞社に
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生れは、岡山の片田舎のくせに、江戸っ子を絵に描いたような荻舟君が、これ
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には、われわれ捕物作家クラブが建てた半七塚がある。京都や大阪には、浄瑠璃や小説の主人公の墓が保存されているそう
誰も、そんなことを考えてもみず、第一、京都まで自動車でゆけるものかどうか、分らない。事実、途中の二カ所だけ
して、安政元年正月に、小判三万両を携えて、京都へ上った堀田備中守正睦の、あつらえ向きの事件がある。攘夷派の公卿
のようであるが、そんなことは、どうでもいい。京都の三条大橋へ着くまでに、私は、完全に、広重のとりこになっ
は関西をあまり知らない。五十三次はドライブしたが、京都や大阪は、そんなにくわしく知らないから、尻尾を出すのがこわい。
「京都や奈良の古社寺風景は、出来上がりすぎていて、つまらない。そこへ
て、その大葬の行列が、青山葬場殿をあとに、京都桃山へ向った時、乃木大将夫妻が自刃した。
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静岡に一泊して、翌朝早く、安倍川を渡った。橋のたもとに「
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から大正にかけて、殿様生活の生き残りといえば、芸州広島四十二万石の浅野長勲公と、いわゆる十六代様、徳川家達公がい
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時代だから、一日十里を、テクテク歩いて能代から秋田、それから八郎潟を舟で縦断したのだが、能代の浜で大変
それから秋田へ出て、八郎潟では船賃が足りず、川尻の俳人、佐々木北涯
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「京都や奈良の古社寺風景は、出来上がりすぎていて、つまらない。そこへ行くと
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苦しまざれに、南蛮渡来の秘薬というのが使われる。長崎あたりで密造されたというのであるが、化学方程式のない毒薬は
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春曙らの劇評家で、当時、東京随一といわれた下谷二長町の市村座で、花々しく幕をあけた。それも、余技と
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の夫人となった福岡易之助君の姉さんである。福岡君は、駿河台の白水社の主人となって、フランス文学書を専門に出版
、頼み手は、のちに田子一民氏の夫人となった福岡易之助君の姉さんである。福岡君は、駿河台の白水社の主人
が、厳重な男子禁制なので、校門の前で、福岡君の姉さんに渡し、その後はどうなったか、知るすべがない。
さて、二間半に一間半の背景は、福岡君と二人でかついで行ったが、厳重な男子禁制なので、校門
はいった時、一番は、若くて死んだ仏文学者の福岡易之助君(白水社主)だったが、やがて、芦田、川上の両者が
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神田明神の崖下の、ケチな長屋。現在でいうなら、千代田区神田台所町……昔は、敬称をつけて、お台所町と呼んだ。
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大久保の余丁町。現在は新宿区と呼ばれるが、抜弁天を左へ抜けて、坪内先生のお宅へゆく
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大田区雪ヶ谷の円長寺の住職が、同じ石器マニヤなので、一緒に多摩
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光一氏は鎌倉に、私は豊島区の雑司ヶ谷に住んでいた。その後、私も鎌倉へ越して、二人
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私が卒業して東京へ出ると、あとを追うように啄木も上京した。そして二度目の
てやろうと、修羅の妄執に燃えていた。それも東京の芸妓ではない。郷里盛岡の芸妓という芸妓を、総あげにし
ようなものである。頭のテッペンから足の爪先まで、東京の中学生の結晶みたいなのが田舎少年のまんなかへ、転校して来た
どういう風に変っていたかというと、つまり、東京の悪徳を、東北の小都市へ配達するために来たようなもので
の領事をしていたが、本人は、東京生れの東京そだち。それが、どうした事情でか、盛岡師範の先生をして
は、ボンベイの領事をしていたが、本人は、東京生れの東京そだち。それが、どうした事情でか、盛岡師範の先生
した。立派な御殿だなあ、と感じたのは、東京中がバラック住いで、私自身も庭の隅ッこの、掘立て小屋みたいなところ
何十年かたって、東京の古本屋で同じものを見つけた時、一議に及ばず買い取って今も私
というのがある。昔は上田の堤といった。東京でいえば、不忍池くらいの大きさがある。明治三十三年の中秋に、
東京を去ること百三十里。因習の町の盛岡に、中学生の大ストライキという
のために手を結んで、若くて優秀な先生が、東京あたりから新任してくると、奥女中式のやり方で、いびり出してしまう。
か転任になり、あとには若い近代的なのが、主に東京から補充された。これほど完全な勝利は例がないだろう。
およそ四十五、六年もたった昭和二十七年に、私は、東京のある新聞に、抱琴の思い出を書いた。すると、それから三日
感心したり、キモをつぶしたりした。岩手に生れ、東京では山の手ばかりに暮した私が、江戸を書くようになったのは
と、実に豪華けんらんの大文章を書き上げた。これが東京各紙のうち群を抜いた出来ばえで、新聞人の仲間で大評判になっ
へこたれるような八五郎でない。すぐに人力車をとばして、東京中の新聞社をかけ回り、出発の光景を目撃した記者から、順々に話
だ。誰からか、帝範臣軌の話をきいて、東京中の古本屋を四日間捜し回って、やっと見つけて通読した。そして大いに感激
十六代様、徳川家達公がいた。家達公は、東京では、なかなか逢わなかったけれど、別荘へ行けば、案外、のんきで、
「ええ。夏場所も済みましたし、東京は何かとうるさいので……」
盛岡中学から、東京での大学時代にかけて、原抱琴、岩動炎天、岩動露子、柴浅茅
都知事選挙も東氏の当選で一段落となったが、歴代の東京市長の中で、私が特に思い出すのは、名市長といわれた奥田
軽井沢に山小屋があって、夏の三カ月間は、サッサと東京をあとにする。借家ずまいの身で、まず、別荘を持ったのは
を使って、食べものの味を気にするようでは、東京の生活が移動しただけです。名高い名所を見物しても、岩と
、ツーと帰るのは、旅行というよりビジネスですね。東京弁を使って、食べものの味を気にするようでは、東京の生活
それにしても五十年前の東京は、近郊に、いくらも石器がころがっていた。
記者の私には、荷の勝ちすぎた命令である。東京帝大の総長で、明治の最初の留学生で、平面幾何の祖述者で、
さて、大正十二年の大震災で、古い東京は灰になった。見渡す限り、焼野が原である。
鬼太郎、杉贋阿弥、土肥春曙らの劇評家で、当時、東京随一といわれた下谷二長町の市村座で、花々しく幕をあけた
といったのは、厳密にいえばウソである。東京へ出て、社会に立ってからは、確かに一回だけであるが、
の弁士になった山田敬一だったことは、間違いない。東京の中学生生活の、あらゆる悪徳と積極性を身につけて、転校して来
「東京では、誰だってやっているよ。なあに、先生には言わなければ
最後は猪川先生の一喝でオジャンになった。そして私は東京へ出て、もっぱら、見る方へ、精を出した。
恥かしい話だが、私はバナナというものを東京へ来て、はじめて知った。嘘もいつわりもなく、世の中にこんな美味いもの
だと思っている。盛岡の鰻も、正直なところ、東京以上とは申しかねるが、それほど番付が下だとは思わない。
「ようし。今度全快したら、東京中のうまいものを食べ歩いてやる」
私は現在、東京でも有名な養老院と、道一筋の隣に住んでいる。身寄りのない
ますます、こんがらかることになるのだが、この時は、まだ東京にいた。
人があるだろう。『神巫殺し』から、三部作『東京』を経て『石合戦』『伴林光平』に至るまでの多彩な業績
手紙を軽井沢へ、何回もよこした。そのくせ、自分は東京を離れようとしない。
、いの一番に上司氏を訪ねた。上司氏は、大作『東京』の第四部の筆を起すのだといって、その構想を熱心
終戦になって、東京へ戻った私は、いの一番に上司氏を訪ねた。上司氏は、大作
ばかりで、飯田町の下宿にいる頃だった。一目で東京そだちと知れる青年が、私の部屋へ、
私が東京に出てきたばかりで、飯田町の下宿にいる頃だった。一目
どろの中へ、ふくらはぎまで突っこんだまま、私は、つくづく東京の女はこわいと思った。
なにしろ、東京中に、百六十何軒の寄席があった時代である。映画館も、現代
私と安村省三とは、性こりもなく東京中を、足にまかせて歩き回った。文明開化になったとはいえ、
こういうものを書こうと思う」といった時「江戸から東京へ」と題をつけたのは私である。
渋民村からはじめて東京へ出て来た当座の石川啄木は、有名人を訪問するのが趣味で
私は、東京へ持って帰って、今も机の二番目の引出しにある。書体も
、いろいろな面で感化を受け、私が中学を終えて東京へ出た時、ワラジを脱いだのも、五番町の田中館邸の書生部屋
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初舞台は溜池のローヤル館で、やがて浅草の世界館へ出るころは、ひとかどの顔になっていた。早大を
仏法科にいた。だから、これも勉強だと、浅草へ通ったわけなのである。むろん、相手が山田敬一……いや、
て、昭和二十四年の秋に、われわれ捕物作家クラブが、浅草の花屋敷に「半七塚」をたてた。除幕式には、当時の総理大臣
宮の松があり、逗子には、浪子不動がある。浅草には、われわれ捕物作家クラブが建てた半七塚がある。京都や大阪に
こう歩かせる。八五郎の住居は、向柳原だから、浅草見附(浅草橋)を、こっちへ渡る。柳原の土手は、辻斬の名所で
も娘義太夫である。戦後のジャズやロカビリー。大正中期の浅草オペラも、若人を熱狂させたけれど、夢中になった程度では、
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、そのうち横井氏を訪ねようと思っているうち、現在の有楽町のそごう百貨店、当時の報知新聞社の角で、これも旧友の安村省三にあっ
、ざっと一時間と十分ぐらい。それに、新橋―有楽町間と、鎌倉駅から家までの電車と、かれこれ二時間ほどかかるこの時間を
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手紙の主は「荻窪の一老女」とある。水茎のあともうるわしく、相当の教養を思わせる
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その頃、私は目白に住んでいた。女房が、日本女子大学に勤めていた関係で、
描いた。それが評判になったものか、次ぎは、目白の日本女子大から注文が来た。英語劇『アドリアの海』の背景と
をのぞくと、黄色いドロドロしたものが、かけてある。目白のエサみたいな気がして、薄気味悪かったけれど、サジでかき回して
女房が勤めをやめたので、多年住みなれた目白界隈を離れ、静かな鎌倉へ引越した。国内のレコード熱は急ピッチで上昇
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高田氏は、敗戦を憤慨して、足利市在の天狗山で、自ら生命を断ってしまったほど、バック・ボーンの太く
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間が、ざっと一時間と十分ぐらい。それに、新橋―有楽町間と、鎌倉駅から家までの電車と、かれこれ二時間ほどかかるこの
今は、もう少し、スピード・アップされただろうが、新橋、鎌倉間が、ざっと一時間と十分ぐらい。それに、新橋―
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神田明神下
明神の崖下の、ケチな長屋。現在でいうなら、千代田区神田台所町……昔は、敬称をつけて、お台所町と呼んだ。突き当り
神田明神の崖下の、ケチな長屋。現在でいうなら、千代田区神田台所町……
いうが、言葉の音感からいったって、やはり、芝よりも神田だろう。
これはもう、どうしたって神田である。芝で生れて神田で育ち……というが、言葉の音感からいったって、やはり、
、神田にしたか? これはもう、どうしたって神田である。芝で生れて神田で育ち……というが、言葉
平次の住まいを、何故、神田にしたか? これはもう、どうしたって神田である。芝で
折りも折り、神田の古本屋を漁っていて、紙屑あつかいされていたゴミの中から
東大在学中だから、明治四十二年だと思う。会場は、神田の三河屋……と記憶しているが、あるいは、違ったかも
私は、さっそく、神田へ出かけた。そのころフランスの本を扱っていた三才社と仏蘭西
発行所の岩波書店に連絡したが一冊もない。神田、本郷の本屋街を、軒並み探したが駄目である。この上は、
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お江戸日本橋七ツ立ち……。
メロディーに乗って、三度笠に、紺のキャハンで、日本橋をスタートするのが、本格であることは、私も知っている。
道中袖日記」を遺した下総馬場は、むろん、お江戸日本橋から、品川、川崎と歩いているが、私は、学生時代に小田原まで歩い
消えて、その昔、広重が描いた通りの富士山が、日本橋から丸見えになった。作者は一松だったと思う。これなどは、不朽
いえ、江戸の匂いは、至るところに帰っていた。日本橋の魚河岸の近くでは、頭にチョンマゲを載っけている、すごく威勢のいい
を切るのが聞きたくて、私は、毎日のように日本橋へ通った。今日、私がいくらかでも江戸が描けるとしたら、
古くなるが、明治十年頃の新聞を見ると、「日本橋区××町に、××という米屋さんがござります。その米屋さん
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」を遺した下総馬場は、むろん、お江戸日本橋から、品川、川崎と歩いているが、私は、学生時代に小田原まで歩いたことが
品川の町はずれ。小倉山の稲荷さまのうしろを回って、門を一足はいると
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、そそったのだろう。半世紀前の漁村には、駒込吉祥寺の寺小姓くらいに、見えたのかも知れない。
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を、そそったのだろう。半世紀前の漁村には、駒込吉祥寺の寺小姓くらいに、見えたのかも知れない。
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「うっかり、銀座を歩けないのが不自由だ」
、そうしているのではない証拠には、毎朝、銀座の千疋屋へ寄って、季節にかかわらず、飛切り上等のリンゴを一個
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大久保の余丁町。現在は新宿区と呼ばれるが、抜弁天を左へ抜けて、
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向島の堤から、雲水の横をはいってゆくと、伊勢物語にでもあり
萩寺には、萩が若芽をそよがせていた。向島で言問団子をたべて、白鬚神社から、梅若塚までテクテク歩いた。一体
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にお訪ねした頃は、貴族院の書記官長で、内幸町に官舎があった。やはり、そこいらじゅう本箱だったが、今より、
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子規が大学がいやになって、大宮市の宿屋で、ふてくさっているのに、漱石が心配して出したもの
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年であるから、すでに文名嘖々たるものがあるのに、代々木山谷の家を訪ねるのに、花袋では分らず、本名の田山録弥さん
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いう。明治も三十年代になってからであるが、桜田門の桝形に、甘酒屋が出ていたのを私は知っている。
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。八五郎の住居は、向柳原だから、浅草見附(浅草橋)を、こっちへ渡る。柳原の土手は、辻斬の名所で、そしてまた
浅草橋の高札場を、私は幾度も小説に書いた。町々には、木戸
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その後、再び日本へ送られ、巣鴨拘置所へ入った大将は、思いがけない手紙を私によこした。
やがて、巣鴨を出た今村氏は、当時珍しいウィスキーを手土産に私の家を訪ねて
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ように、ひろがっていった。美術学校の学生たちは、上野の池の端のしるこ屋「氷月」あたりを定席にして、私が見
音楽は、容易なことでは聞けるものではなかった。上野の音楽学校の土曜コンサートか、たまに軍楽隊の公開演奏があるくらいのもので
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亀戸の天神桜の太鼓橋は、今より、ずっと急だったし、萩寺に
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石川啄木の手紙がお茶の水の古書展で、二万四千円の正札がついていたのは十年ほども
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七里ガ浜や江の島が、一目に見える日本間で、ぴたりと坐った十六代様は