古事記物語 / 鈴木三重吉
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いる方へずんずん行って見ますと、糸はしまいに、三輪山のお社にはいって止まっていました。それで、はじめて、お婿さん
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命たちはしまいに、日向の国の高千穂の山の、串触嶽という険しい峰の上にお着きになりました
命は高千穂の宮というお宮に、とうとう五百八十のお年までお住まいになりました
ておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命が、高千穂の宮にいらしって、天下をお治めになりました。しかし、日向はたいへん
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禊ということをしに、近江や若狹をまわって、越前の鹿角というところに仮のお宮を作り、しばらくの間そこに滞在し
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あろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国に向かっておたちになりました。その途中、豊前の宇佐にお着きに
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になり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐の島、それから、そのじぶん筑紫といった今
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かじを取って、やがて摂津の浪速の海を乗り切って、河内国の、青雲の白肩津という浜へ着きました。
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、播磨国へとくだって行き、そこから因幡、丹波、但馬をかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江から美濃、尾張を
ても入れてくれないものですから、しかたなしにひきかえして、但馬の方へまわって、そこへ上陸しました。そして、しばらくそこに暮らして
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て、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国、播磨国へとくだって行き、そこから因幡、丹波、但馬をかけまわった後、こんどは
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。そして草薙の宝剣を媛におあずけになって近江の伊吹山の、山の神を征伐においでになりました。
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するとお子さまは、ちゃんと筑紫へお凱旋になってからご無事にお生まれになりました。それはかねて
空骸をつれておかえりになるていにして、筑紫をお立ちになりました。
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神のさしずで、さっそく、にわとりをどっさり集めて来て、岩屋の前で、ひっきりなしに鳴かせました。
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お宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸の国へおのぼりになって、多家理宮に七年間おとどまりになり、ついで備前
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神倭伊波礼毘古命は、そこからぐるりとおまわりになり、同じ紀伊の熊野という村にお着きになりました。するとふいに大きな大ぐまが現われて
そうすると、そこへ熊野の高倉下という者が、一ふりの太刀を持って出て来まして
に備わっている威光でもって、さっきのくまをさし向けた熊野の山の荒くれた悪神どもは、ひとりでにばたばたと倒れて死にました。それと
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そのじぶん筑紫といった今の九州と、壱岐、対島、佐渡の三つの島をお作りになりました。そして、いちばんしまいに、とかげ
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命はそれからすぐに、今の日向、大隅、薩摩の地方へ向かっておくだりになりました。そのとき命は、まだお髪
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そこから、なお東へ東へとかじを取って、やがて摂津の浪速の海を乗り切って、河内国の、青雲の白肩津という浜へ
を待ちうけて討ち亡ぼそうとおぼしめして、にわかに兵を集めて、摂津の斗賀野というところまでご進軍になりました。
ながら、そのうちを抜け出して、小船に乗って、はるばると摂津の難波の津まで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流
天皇がまだ皇子大雀命でいらっしゃるとき、ある年摂津の日女島という島へおいでになって、そこでお酒盛をなすった
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宇治の渡し
兵をしのばせておおきになりました。それから、宇治の山の上に絹の幕を張り、とばりを立てまわして、一人のご家来
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そして、いちばんしまいに、とかげの形をした、いちばん大きな本州をおこしらえになって、それに大日本豊秋津島というお名まえをおつけに
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の人をおさがしになりますと、一人の使いが、河内の美努村というところでその人を見つけてつれてまいりました。
しまいました。国夫玖命の兵はどんどんそれを追っかけて、河内の国のある川の渡しのところまで追いつめて行きました。
その鳥は、とうとう伊勢から河内の志紀というところへ来てとまりました。それで、そこへお墓を
なりながら、お宮の外へおでましになって、河内の方へ行く道のまん中にあった大きな石を、おつえをあげてお打ちに
木の影が淡路の島までとどき、夕日が当たると、河内の高安山よりももっと上まで影がさしました。
お酔いつぶれになっていた天皇は、河内の多遅比野というところまでいらしったとき、やっとおうまの上で
それから同じ河内の大坂という山の下へおつきになりますと、向こうから一人の女
なって、ちょうど玉をつないだようにおきれいでした。河内の多遅比の柴垣宮で、政をおとりになり、おん年六十でお
お二人は、それから河内の玖須婆川という川をお渡りになり、とうとう播磨まで逃げのびていらっしゃいまし
その若日下王が、まだ河内の日下というところにいらしったときに、ある日天皇は、大和からお
向かって復しゅうをしようというおぼしめしから、人をやって、河内の多治比というところにある、天皇のみささぎをこわさせようとなさいました。
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「蝦夷どもをたいらげながら、常陸の新治や筑波を通りすぎて、ここまで来るのに、いく夜寝たであろう」とおっしゃる
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命はそこから筑前へおはいりになりました。そして岡田宮というお宮に一年の間
ある年、ご自身で熊襲をお征伐におくだりになり、筑前の香椎の宮というお宮におとどまりになっていらっしゃいました。
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「それには、丹波の道能宇斯王の子に、兄媛、弟媛というきょうだいの娘が
、紀伊国、播磨国へとくだって行き、そこから因幡、丹波、但馬をかけまわった後、こんどは東の方へまわって、近江から美濃、
に、かねて皇后がおっしゃってお置きになったように、丹波から兄媛たちのきょうだい四人をおめしよせになりました。
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そのうちを抜け出して、小船に乗って、はるばると摂津の難波の津まで逃げて来ました。この女の人は後に阿加流媛という神
の天日矛は、そのお嫁のあとを追っかけて、とうとう難波の海まで出て来ましたが、そこの海の神がさえぎって、どう
皇子の大雀命は、その髪長媛が船で難波の津へ着いたところをご覧になり、その美しいのに感心しておしまいに
難波のお宮
仁徳天皇はお位におのぼりになりますと、難波の高津の宮を皇居にお定めになり、葛城の曽都彦という人の
にお上りになって、その黒媛の乗っている船が難波の港を出て行くのをご覧になりながら、
まもなく御綱柏の葉をお船につんで、難波へ向かって帰っていらっしゃいました。そのお途中で、お供の中のある女
が、皇后のお船におくれて行き行きするうちに、難波の大渡という海まで来ますと、向こうから一そうの船が来かかりました。
お父上の亡きおあとをおつぎになって、同じ難波のお宮で、履仲天皇としてお位におつきになりました。
いう坂までおいでになりまして、そこから、はるかに難波の方をふりかえってご覧になりますと、お宮の火はまだ炎々とまっか
「それならば、これから難波へかえって、中津王を討ちとってまいれ。その上で対面しよう」とおっしゃいまし
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、まずいちばんさきに淡路島をおこしらえになり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐の島、
穴穂王は、軽皇子を、そのまま伊予へ島流しにしておしまいになりました。そのとき大郎女は、
ことばかり案じつづけていらっしゃいましたが、ついにたまりかねてはるばる伊予までおあとを追っていらっしゃいました。
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仁徳天皇はお位におのぼりになりますと、難波の高津の宮を皇居にお定めになり、葛城の曽都彦という人の娘の
向こうから一そうの船が来かかりました。その中には、高津のお宮のお飲み水を取る役所で働いていた、吉備の生まれの、
どこをひとつ見たいのでもない。見たいのは高津のお宮よりほかにはなんにもない」という意味をお歌いになりました。
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と、難波の高津の宮を皇居にお定めになり、葛城の曽都彦という人の娘の岩野媛という方を改めて皇后にお立て
、またのお名まえを飯豊王とおっしゃる方が、大和の葛城の角刺宮というお宮においでになりました。それで、この
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猿田彦神は、その後、伊勢の阿坂というところに住んでいましたが、あるときりょうに出て、
」とおおせになりました。それで命は、急いで伊勢におくだりになって、大神宮にお仕えになっている、おんおば上の
奉じて、またすぐにおでかけになりました。そして途中で伊勢のお宮におまいりになって、おんおば上の倭媛に再度のお別れ
そんなにして、やっと伊勢の尾津の崎という海ばたの、一本まつのところまでおかえりになります
その鳥は、とうとう伊勢から河内の志紀というところへ来てとまりました。それで、そこへお
そのとき伊勢の生まれの三重采女という女官が、天皇におさかずきを捧げて、お酒
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命はそこから筑前へおはいりになりました。そして岡田宮というお宮に一年の間ご滞在になった後、さらに安芸の国
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、お涙のうちに、やっと、女神のおなきがらを、出雲の国と伯耆の国とのさかいにある比婆の山にお葬りになりました。
須佐之男命は、大空から追いおろされて、出雲の国の、肥の河の河上の、鳥髪というところへおくだりになり
命はそれから、櫛名田媛とお二人で、そのまま出雲の国にお住まいになるおつもりで、御殿をおたてになるところを、そちこちと、
になりました。そうしているうちに、ある日、出雲の国の御大の崎という海ばたにいっていらっしゃいますと、はるか向こうの海の上
皇子は、いよいよ出雲にお着きになって、大神のお社におまいりになりました。
ている悪神どもを、片はしからお従えになった後、出雲の国へおまわりになって、そのあたりで幅をきかせている、出雲建という
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しかしそこから南の方へまわって、紀伊国の男の水門までおいでになりますと、お傷の痛みがいよいよ激しくなり
はかしこまって、その鳥のあとをどこまでも追っかけて、紀伊国、播磨国へとくだって行き、そこから因幡、丹波、但馬をかけまわった後
になる御綱柏というかしわの葉をとりに、わざわざ紀伊国までお出かけになったことがありました。
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そのつぎにはまた別のときに、大和の葛城山へお上りになりました。そうすると、ふいに大きな大いのししが飛び出して来まし
天皇はその後、また葛城山におのぼりになりました。そのときお供の人々は、みんな、赤いひものつい
もただ一言、いいことにも一言だけお告げをくだす、葛城山の一言主神だ」とお答えがありました。天皇はそれをお聞きになる
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二人の神はまもなく出雲国の伊那佐という浜にくだりつきました。そしてお互いに長い剣をずらり
それで建御雷神は、さっそく、出雲国の多芸志という浜にりっぱな大きなお社をたてて、ちゃんと望みのとおり
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ばよいかとお占わせになりました。すると、奈良街道からでは、途中でいざりやめくらに会うし、大阪口から行って
そしてお兄上のお死がいを奈良の山にお葬りになりました。
「私はとうとう山城川をのぼり、奈良や小楯をも通りすぎて、こんなにあちこちさまよってはいるけれど、それもどこ