沖縄の旅 / 浜田青陵

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地名一覧

伊波貝塚

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一五 伊波貝塚から名護へ

伊波貝塚を一瞥した私達は、恩納村の邊で西海岸の縣道に出で、こん

勾玉

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の南城嶽とて、あの上にノロさんが住んで居り、勾玉を傳へてゐる、「どうです、御疲れでなければ夕食までの間に行つ

沖宮

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神社建築として面白い眞和志村の安里にある八幡宮と沖宮とを訪ね、その調子の變つた蟇股や、柱にかけた假面の彫刻を

荻堂貝塚

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國頭への旅に出かけた。往路は中街道を普天間から荻堂貝塚を訪ね、中城々址を見、伊波貝塚を經て名護に出る豫定で

九州

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云ふのは本當だと思はれた。私共は何時も、九州の片端に小さく入れられてゐる此の島の地圖を見せられてゐるので

波上宮

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等の墓と共に今一つ、左手に突出した岩塊(波上宮のある)の傍に、思ひがけなく翻つてゐた英國の「ユニオン・ジヤツク

四 那覇の波上宮と護國寺

波上宮へお參りをすると、これは明の詩人が筍崖と呼んだ港

波上宮の入口に近い護國寺には、かのペルリの時こゝに居つて英國の

首里城

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感がするが、さて本丸の頂上の廣場に出で、首里城の正殿百浦添の大厦の忽然として聳えてゐるのを仰ぐと、恰も

モンスーン

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からは、晝は中城貴族院議員の氣焔に聞入り、モンスーンの大ウネリに惱まされつゝ、夜は樂しかつた沖繩の旅に夢路を

首里

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次の日は朝から首里の浦添の見物に出かける。自動車を走らせて、ペルリの艦隊が碇泊して

が碇泊して居つたと云ふ牧湊の傍を通つて首里に向ふと、やがて道は蜒々と登つて丘陵は次第に高く、首里の城址

と、やがて道は蜒々と登つて丘陵は次第に高く、首里の城址が行手に青々と聳えてゐる。私は今迄首里はこんなに高い地形

首里の城址が行手に青々と聳えてゐる。私は今迄首里はこんなに高い地形にあるとは想像して居なかつた。併し同時に

にあるとは想像して居なかつた。併し同時に首里の大通りを通つて、こんなに淋しい田舍村の樣な處と思ひも寄ら

首里の城の見物は後廻しとして、我々は昔の士族屋敷らしい物靜か

で書かれた最後の金石文を見た私は、やがて首里の玉陵に其の最古の碑を見ることを得たのである。

七 首里の玉陵

浦添から首里に引きかへして、私達は尚侯爵の別邸を訪問した。先代の

さて玉陵は首里の城の南方、天界寺趾の前にある尚王家歴代の陵廟である

八 首里の城内

之と同じ形の門が、私は見なかつたが首里の東北冕ゲ嶽にもあるさうである。此等は何れも山嶽や森林

王歴代の位牌殿を見たが、この寺の門は首里から那覇への大道に接して立ち、三箇のアーチを開いた何の裝飾も

君の踏揚や、首里もり城、

首里天加那志  百歳まで賜れ

君に伴はれて、小竹君、島袋君と共に、首里の西南部にある尚家の南苑識名園を拜見することが出來た。規模

玉陵

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れた最後の金石文を見た私は、やがて首里の玉陵に其の最古の碑を見ることを得たのである。

鎌倉

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倭の鎌倉に譬へる、

琉球

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嘉永六年五月米國のペルリ提督が、始めて琉球を訪れて、那覇の港に船が近づく時、其の美しく青々とした

つたが、「實は別に何の當もないが、琉球の事物一切の概念を得るのが目的である」と白状して、六日間

とのことに、大に安心したものゝ、それでは琉球へ來て琉球名物のハブにお目にかゝらずしてしまふのは殘念で

てゐる難有さを感ずる。この學校のある處が、琉球に始めて佛教を傳へた僧禪鑑が、英祖王の時建立した極樂

大體同意味の文を刻してあるが、正文の方を琉球の國文で平假名を以て誌してあるのは、却つて日本内地では殆ど

の如き假名の名文を出してゐるだけである。此の點琉球は早く漢文の束縛から解放せられてゐるのは嬉しい。而かも日本で

の碑に日本の年號を使用してゐるのに、琉球では國字の碑に支那の正朔を用ゐてゐるのは、此の國の

書院造の應接室と、其の後ろの部屋に並べてある古い琉球の樂器(支那風の)などを拜見し、玉陵や崇元寺の拜觀

あをぎちにふしてたるべし」とあり、實に琉球文の金石中最古のものと稱せられてゐる。

して巨人の如く立つてゐる姿は、萬事規模の小さい琉球には珍らしい堂々たるものであつて、如何にも桃山時代から徳川初期の雄偉な

の眺めを賞して那覇へ歸ることにしたが、途中琉球の神社建築として面白い眞和志村の安里にある八幡宮と沖宮とを訪ね

ゐるが、アーチ形の小門などのある處は、如何にも琉球的である。ペルリ艦隊員の賞讃を博した通り頗る面白く出來てゐる。我々

いふので、洋服に著かへなほして見に行つた。琉球なればこそ此の一月のはじめに、野天で篝火を焚いて踊を見ること

も、慶長十四年島津氏が百艘の船を以て琉球入をしたのは確かに此處からであつた。

歸ると、病院の中川君が待つて居られて、古い琉球の型染の衣裳や、下手物の陶器などを持つて來られ、私は坐ながら

那覇

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片付け甲板に出て、次第に近づいて來る沖繩の海岸、那覇の港を見入つてゐると、意地惡く時雨がパラ/\と降つて

二 那覇へ着く

・ジヤツク」の旗が目を惹いたが、これは當時那覇に滯在して、耶蘇新教の布教に從事して居つたベツテルハイムと云ふ英

月米國のペルリ提督が、始めて琉球を訪れて、那覇の港に船が近づく時、其の美しく青々とした英吉利の景色に

教へられ、諸君と共に其處へ登つて見ると、美しい那覇の市中が一望に豁けるのも嬉しい。むかし王の大親と云ふ

今日は先づ那覇の市中を見物しようと、人力車に乘つて縣廳に顏を出し

四 那覇の波上宮と護國寺

那覇の市中には市役所の高塔が、最初の且つ唯一(?)の

此の城址には古い瓦の破片が散在してゐるが、那覇の圖書館で見た「高麗瓦匠」云々と銘のある平瓦も此

の位牌殿を見たが、この寺の門は首里から那覇への大道に接して立ち、三箇のアーチを開いた何の裝飾もない

くしい樹の茂みと、龍潭池の眺めを賞して那覇へ歸ることにしたが、途中琉球の神社建築として面白い眞和志村

さて那覇へ歸つて遲い中食を認め休息の暇もなく、女學校で開かれる

から南方糸滿と南山城を見に行くことにした。那覇町を出て低温な甘蔗畠を過ぎ三里ばかり、糸滿の町の

第三日目には那覇から南方糸滿と南山城を見に行くことにした。那覇町を出

海上に魚取りに出で、女は之を頭上にのせて那覇へ賣りに行きなどして、女も非常に活動する處から、體格も

午後一時頃那覇の宿に歸り、一休みの暇もなく那覇小學校に出かけて、『日本文明の由來』といふ題で一時間ばかり

ゐる。私は北岸から橋を寫生し、午後一時頃那覇の宿に歸り、一休みの暇もなく那覇小學校に出かけて、『日本

那覇への歸り道は往路とは別に、國場川口に架けられた眞玉橋

は更けても劇は中々終らない。併し私は明日早く那覇を立つて、今舞臺で見つゝある阿摩和利の居城勝連を遠望し、

第四日目はいよ/\那覇を出發して島袋、豐川、小竹三君と共に、國頭への

那覇の町はづれ、暫くは失業救濟の道路工事で車の通行も妨げられ勝

恩納村の谷茶では、先年那覇へ其の古い郷土の踊を出したことがあるので、あれを名護から

衆に此の類なき厚意を感謝し、別を惜んで那覇に向つたが、私は此親切純朴な恩納の人々の厚意を永久に

のヘッドライトに、假睡に落ちようとする眼を醒させながら、那覇の町へ這入つたのは午後七時過ぎ、二日ぶりに電車の走る

ば後から御案内致しませうとの事に、如何にも那覇に到著以來、毎々聞かされた此の遊廓を瞥見しなければ、何だか

、益々繁昌して今日に至つたと言ふ事である。那覇の他の民家とは違つて、青樓は多く二階屋であるが

奈良

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として聳えてゐるのを仰ぐと、恰も修繕前の奈良の大佛殿の前に立つた時の樣な思がする。

神戸

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た農學部の沼田教授とも同船したので、神戸まで四日の船路の淋しさを忘れることが出來た。

京都

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で、船も岸も見送りの男女で一ぱい。私は丁度京都へ歸られる福原君と行を同じくした上、はからず臺灣からの歸途

神田

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次の日は朝九時神田、福原二君などを加へて、名護の西方小一里にある上ン