おせん / 邦枝完二
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東叡山寛永寺の山裾に、周囲一里の池を見ることは、開府以来江戸っ子がもつ誇り
谷中から上野へ抜ける、寛永寺の土塀に沿った一筋道、光琳の絵のような桜の若葉が、道
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秋の水をたたえた隅田川は、眼のゆく限り、遠く筑波山の麓まで続くかと思われるまでに澄渡って、綾瀬から千住を指して遡る
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。おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢があるんだ。
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奥からの声は、この春まで十五年の永い間、番町の武家屋敷へ奉公に上っていた。春信の妹梶女だった。
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時に、若旦那、あなたは何んと仰しゃいました。当時、江戸の三人女の随一と名を取った、おせんの肌が見られるなら、
ありませんや。松五郎自慢の案内役、こいつばかりゃ、たとえ江戸がどんなに広くッても――」
「江戸はおろか、日本中に二つとねえ代物を煮てるんだ」
どうだ松つぁん。おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢が
にこいつァ、ただの女の爪じゃァねえぜ。当時江戸で、一といって二と下らねえといわれてる、笠森おせんの爪な
そんじょそこらの、大道臼を乗せてるんじゃねえや。江戸一番のおせんちゃんを乗せてるんだからの」
もう仙蔵のいう通り真正間違えなしの、生きたおせんちゃんを江戸の町中で見たとなりゃァ、また評判は格別だ。――片ッ
日にゃ、それこそこちとらァ、二度と再び、江戸じゃ家業が出来やせんや。――そんなにいやなら、垂を揚げるたいわ
影を曳きそうな、日本橋から北へ僅に十丁の江戸のまん中に、かくも鄙びた住居があろうかと、道往く人のささやき交す
ておせんさんは、弁天様も跣足の女ッぷり。いやもう江戸はおろか日本中、鉦と太鼓で探したって……」
師の歌右衛門を慕って江戸へ下ってから、まだ足かけ三年を経たばかりの松江が、贔屓筋と
と、あれ程堅く約束をしたじゃァねえか。――江戸一番の女形、瀬川菊之丞の生人形を、舞台のままに彫ろうッてんだ
そろって上方下りの人達である中に、たった一人、江戸で生れて江戸で育った吉次が、他の女形を尻目にかけて、めきめき
の人達である中に、たった一人、江戸で生れて江戸で育った吉次が、他の女形を尻目にかけて、めきめきと売出した調子
当時江戸では一番だという、その笠森の水茶屋の娘が、どれ程勝れた縹緻
ないとの、固い己惚があったのであろう。仮令江戸に幾千の女がいようともうちの太夫にばかりは、足の先へも
流石にいま売だしの、堺屋さんのお上さんだの。江戸の女達に聞かしてやりてえ嬉しい台詞だ」
「おや駕籠屋さん。左様にいうたら、江戸のお方に憎まれまッせ」
、拭きながら、ぞろぞろつながって出てくる有様は、流石に江戸は物見高いと、勤番者の眼の玉をひっくり返さずにはおかなかった。
「これはまた迂濶千万。飴売土平は、近頃江戸の名物でげすぜ」
かと思ったら、お金かい。憚りながら、あたしァ江戸でも人様に知られた、橘屋の徳太郎、おせんの頼みとあれば、
「江戸で名代の橘屋の若旦那。二十五両は、ほんのお小遣じゃござんせんか」
だろう。伝吉ァただの床屋じゃねえんだぜ。当時江戸で名高え笠森おせんの、襟を剃るなァおいらより外にゃ、広い江戸中に二人
の噂は、忽ち人から人へ伝えられて、今は江戸の隅々まで、知らぬはこけの骨頂とさえいわれるまでになっていた
が報ぜられたのは、その日の暮れ方近くだった。江戸の民衆は、去年の吉原の大火よりも、更に大きな失望の淵に沈んだ
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こすって、ニヤリと笑ったその刹那、向うから来かかった、八丁堀の与力井上藤吉の用を聞いている鬼七を認めた千吉は、素速く相手
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になろうという。女ならでは夜のあけぬ、その大江戸の隅々まで、子供が唄う毬唄といえば、近頃「おせんの茶屋」に
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も、二人とないとの評判娘。下谷谷中の片ほとり、笠森稲荷の境内に、行燈懸けた十一軒の水茶屋娘が、三十余人束になろうが
時分から伊勢新の隠居の骨折りで、出させてもらった笠森稲荷の水茶屋が忽ち江戸中の評判となっては、凶が大吉に返った有難
頷いた伝吉は、折から通り合せた辻駕籠を呼び止めて、笠森稲荷の境内までだと、酒手をはずんで乗り込んだ。
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られないからでござんす。――みんなして、近所の飛鳥山へ、お花見に出かけたあの時、いつもの通り、あたしとお前とは夫婦
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も触らせることではないと、三年前に婚礼早々大阪を発って来た時から、肚の底には、梃でも動かぬ強い
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赤い鳥居の手前にある。伊豆石の御手洗で洗った手を、拭くのを忘れた橘屋の若旦那徳太郎が、お稲荷
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の遊女をすぐっても、二人とないとの評判娘。下谷谷中の片ほとり、笠森稲荷の境内に、行燈懸けた十一軒の水茶屋娘が
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おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢があるんだ。
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れた訳ではないが、何んといっても中村松江なら、当時押しも押されもしない、立派な太夫。その堺屋が秋
だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江が写したお前の姿を、舞台で見られるとなりゃ、何んといっ
話をさせようのと、そんな訳合じァありゃしない。松江は日頃、おいらの絵が大好きとかで、板おろしをしたのは
もはや縁先近くまで来ていたのであろう。藤吉が直ぐさま松江に春信の意を伝えて、池の方へ引き返してゆく気配が、障子
勢い込んで駕籠で乗り着けた中村松江は、きのうと同じように、藤吉に案内されたが、直ぐ様通し
評判を取った笠森おせんを仕組んで、一番当てさせようと、松江が春信と懇意なのを幸い、善は急げと、早速きのうここへ訪ね
江戸へ下ってから、まだ足かけ三年を経たばかりの松江が、贔屓筋といっても、江戸役者ほどの数がある訳もなく
庭に降り立った春信は、蒼白の顔を、振袖姿の松江の方へ向けた。
春信の眼は、松江を反れて、地に曳く萩の葉に移っていた。
、中村喜代三郎にしろ、または中村粂太郎にしろ、中村松江にしろ、十人いれば十人がいずれもそろって上方下りの人達である
に、芝居の衣装をそのまま付けて、すっきりたたずんだ中村松江の頬は、火桶のほてりに上気したのであろう。たべ酔ってで
鏡のおもてにうつしたおのが姿を見詰めたまま、松江は隣座敷にいるはずの、女房を呼んで見た。が、いずこへ
松江はそういいながら、きゃしゃな身体をひねって、踊のようなかたちをし
あわてて箪笥の抽斗へ手をかけた新七は、松江のいいつけ通り、片ッ端から抽斗を開け始めた。
、一枚残らず畳の上へぶちまけたその中を、松江は夢中で引ッかき廻していたが、やがて眼を据えながら新七に
剃りたての松江の眉は、青く動いた。
包んで、膝の上に確と抱えたのは、亭主の松江が今度森田屋のおせんの狂言を上演するについて、春信の家へ
ついに一度も来たことのない、中村松江の女房が、訪ねて来たと聞いただけでは、春信は、直ぐさま
寄せたまま、ただいらいらした気持を繰返していた中村松江は、ふと、格子戸の外に人の訪れた気配を感じて、じッと耳
そう、思った松江は、次の座敷まで立って行って、弟子のいる裏二階へ声
へまぎれて行ったのであろう。もう一度呼んで見た松江の耳には、容易に返事が戻っては来なかった。
口小言をいいながら、自ら格子戸のところまで立って行った松江は、わざと声音を変えて、低く訊ねた。
上って、膝を折ると同時に、春信の眼は険しく松江を見詰めた。
松江のおもてには、不安の色が濃い影を描いた。
松江は、われとわが手で顔を掩ったまま、暫し身じろぎもしなかった
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「でげすから、あっしは浅草を出る時に、そう申したじゃござんせんか。松の位の太夫
に外ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草の、この春死んだ志道軒の小屋前で、出会頭に、ばったり遭ったの
だが蝙蝠と一緒に、ぶらりぶらりと出たとこを、浅草でばったり出遭ったのが若旦那。それから先は、お前さんに見られた
と鬼七は肩をならべて、静かに橋の上を浅草御門の方へと歩みを運んだ。
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音も気遣う心から、身動きひとつ出来ずにいた、日本橋通油町の紙問屋橘屋徳兵衛の若旦那徳太郎と、浮世絵師春信の彫工松五郎の
なひと構え、お城の松も影を曳きそうな、日本橋から北へ僅に十丁の江戸のまん中に、かくも鄙びた住居が
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伜の千吉を生み、二十六でおせんを生んだその翌年、蔵前の質見世伊勢新の番頭を勤めていた亭主の仲吉が、急病で
た時分から、王子を去った互の親が、芳町と蔵前に別れ別れに住むようになったばかりに、いつか会って語る日もなく
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たのが、この匂なんだ。――三浦屋の高尾がどれほど綺麗だろうが、楊枝見世のお藤がどんなに評判だろうが、とどのつまり
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夜が白々と明けそめて、上野の森の恋の鴉が、まだ漸く夢から覚めたか覚めない時分、
谷中から上野へ抜ける、寛永寺の土塀に沿った一筋道、光琳の絵のような
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安心の胸を撫でおろしていた時分、当のおせんは、神田白壁町の鈴木春信の住居へと、ひたすら駕籠を急がせた。
「壁に耳ありよ。さっき、通りがかりに飛び込んだ神田の湯屋で、傘屋の金蔵とかいう奴が、てめえのことのように
「なんだ神田の、明神様の石の鳥居じゃないが、お前さんもきがなさ過ぎる
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浜町の細川邸の裏門前を、右へ折れて一町あまり、角に紺屋
「お母さんの薬を買いに、浜町までまいりました。」
「浜町。そりゃァこの雨に、大抵じゃあるまい。お前さんがわざわざ行かない
三日前の夜の四つ頃、浜町からの使いといって、十六七の男の子が、駕籠に乗った女
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の麓まで続くかと思われるまでに澄渡って、綾瀬から千住を指して遡る真帆方帆が、黙々と千鳥のように川幅を縫って
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いいから会いたいとの、切なる思いの耐え難く、わざと両国橋の近くで駕籠を捨てて、頭巾に人目を避けながら、この質屋の裏
下総武蔵の国境だという、両国橋のまん中で、ぼんやり橋桁にもたれたまま、薄汚い婆さんが一匹五文
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折柄の上潮に、漫々たる秋の水をたたえた隅田川は、眼のゆく限り、遠く筑波山の麓まで続くかと思われるまでに
ねえのにいって見ねえ。それこそ簀巻にして、隅田川のまん中へおッ放り込まれらァな」