澪標 / 外村繁
地名一覧
地名をクリックすると地図が表示されます
妻の故郷は蔵王山の一峰、竜山の山腹にある。道はいつか緩い勾配の坂道になり、荷馬車
地名をクリックすると地図が表示されます
慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いている。
。秋のよく晴れた日、私は妻や子供達と、横浜の桟橋まで長男を見送った。長男の乗った船が岸壁を離れ、徐徐に
長男が帰国する。妻と長女とが横浜まで出迎える。長男は生物学を専攻している。染色体の関係から、アメリカでは
地名をクリックすると地図が表示されます
私はまた京都へやって来た。円山公園を通り抜け、高台寺の方へ一人で歩いて行く。私は先刻から薄い霧のように私の
地名をクリックすると地図が表示されます
比叡山や、比良の山脈が見られる。右手には、三上山のある風景を中心にして、湖東地方の山野が望見される。私は
地名をクリックすると地図が表示されます
「知らんのか、わしの在所やないか。愛知川の上や」
地名をクリックすると地図が表示されます
「だって、ボストンには、パチンコはありませんからね」と、彼は笑っている。暫く
地名をクリックすると地図が表示されます
私の好きな場所であった。散歩の途次、私は二条駅の木柵に凭り、単線のレールが鈍く光っているのを眺めながら、花園、
地名をクリックすると地図が表示されます
過ぎなかったが、私の好む休みの場所となった。二条城も私の散歩の範囲にあったし、二条駅も私の好きな場所であっ
地名をクリックすると地図が表示されます
。遥か北方に伊吹山が聳えている。北から東へ、鈴鹿山脈の峰峰が連っている。空は一面淡青色で、その一つの峰
地名をクリックすると地図が表示されます
汽車が瀬田川の鉄橋を渡る時、私達の間で「グリーンランド」と呼びならされている、石鹿公園の緑の突端が見える。その時、ふと
地名をクリックすると地図が表示されます
と、彼は笑っている。暫く滞在して、長男は札幌に帰った。
七月、私と貞子とは札幌へ行き、長男の結婚式に列席する。しかし新婦にそのような様子は全然ない
地名をクリックすると地図が表示されます
三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵を建築、元文二年には本宅を改築
地名をクリックすると地図が表示されます
、柏、槙、欅、椋、檜、楓、伽羅、山梨、漆、樫等の木立に囲われて、妻の生家はあった。
地名をクリックすると地図が表示されます
経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げであるが、梶井は
地名をクリックすると地図が表示されます
十五年には麻苧を仕入れている。正徳三年には名古屋へ行商に行き、享保十一年には江戸に入っている。同年、文庫蔵
年には隠居所を新築している。宝暦三年、名古屋では定宿を取り、その商売形式は完全な問屋卸しとなっている。天明
のよくない青年と、家出した報を受ける。母が名古屋の姉の許へ行っていた、留守中の出来事であったという。
地名をクリックすると地図が表示されます
事実、碓氷川の川瀬の音や、河鹿の声や、妙義山の新緑や、その山霧等、私は今もはっきり覚えているが、とく子の肉体
妙義山の山中で、突然、深い霧に包まれ、私は衝動的にとく子と初めて接吻し
地名をクリックすると地図が表示されます
北東部には遥かに田園の風景が開け、北方には伊吹山、東方へかけて、霊仙山、鈴ヶ岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御
、早朝の田園の風景は至って清明である。遥か北方に伊吹山が聳えている。北から東へ、鈴鹿山脈の峰峰が連っている。
はない。幼い時から見馴れた風景の中には、伊吹山も、県境の山山もある。首を返すと、観音寺山や、明神山
地名をクリックすると地図が表示されます
中に突き出ている。左手には、近く長等山や、比叡山や、比良の山脈が見られる。右手には、三上山のある風景を中心に
地名をクリックすると地図が表示されます
て、霊仙山、鈴ヶ岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御在所山等、滋賀、三重両県境の山山が望まれる。
地名をクリックすると地図が表示されます
に顔を寄せ、夏の田園風景を眺めて飽かない。高崎、新前橋、渋川を過ぎると、既に高原に近い風景で、汽車は利根川の
地名をクリックすると地図が表示されます
氏の居城のあった観音寺山がある。その山頂にある観音寺は西国第三十三番の札所である。西方の一峰は明神山と呼ばれ、
の峠を、俗に「地獄越」と呼んでいる。観音寺山城が織田氏の軍に攻略された際、城中の婦女子の逃げ落ちた
地名をクリックすると地図が表示されます
毎日、私は妻の病院へ通っている。国電で四谷まで行き、地下鉄に乗換え、西銀座で降りる。西銀座から病院まで、私は
地名をクリックすると地図が表示されます
脇村先生が京都大学の国文科に学ばれることになり、私達は大津市の関寺町に移った。関寺町は大津市の西南端にあり、学校までは
なり、私達は大津市の関寺町に移った。関寺町は大津市の西南端にあり、学校までは四キロ近くある。しかし乗物を用いることは
地名をクリックすると地図が表示されます
の私達の生活は尋常のものではなかった。長男は北海道の大学へ行っている。毎月の送金を欠かすことはできない。二男は都
地名をクリックすると地図が表示されます
鈴ヶ岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳、御在所山等、滋賀、三重両県境の山山が望まれる。
滋賀の家へ帰った時、山形の家へ行った時、また共に旅行に
地名をクリックすると地図が表示されます
が新大坂町へ移転している。慶応二年には京都店を開き、明治六年には横浜に貿易店を開いている。
小学校の六年生の時、私は京都の女学校に行っている姉から、「カチューシャの歌」を教えられ、
翌年、膳所中学を卒業し、京都の第三高等学校を受験する。身体検査の時、私は初めて性器の検査
いつの時代にも、権力者の華やかな文化の底で、京都の庶民はこのようにして生き堪えて来たのではないか。
住んでいるので、露地の奥からも聞えて来る。京都に住んで、ひどく不粋な話である。が、いつの時代にも、
を着け、別に医者の当てもなく、下宿を出る。京都の町医院には、門構もなく、仕舞屋風なのが多い。街路に
は、男枕の横に女の箱枕も置いてある。京都の、猥雑な場末町に住みついた町医者の感じでもある。
がいなくなるようなことはない。電車のなくなった、京都の深夜の街を、私は中谷と歩いて帰ったことも幾度かある
その夜、私達は例によって「レーヴン」に集り、京都に残る人達と酒を汲み交わす。私は前後不覚に酔ってしまったらしい
のように散歩しているのでもない。もう私は京都には住んでいないのであるから。強いて言えば、明日までの時間つぶし
私はまた京都へやって来た。円山公園を通り抜け、高台寺の方へ一人で歩い
が、その時、私に一番強く作用したのは、京都の生活はもう終ったのだ、という、先刻からの奇妙な感情の
むいているようで極めて醜い。しかし自業自得である。私は京都の町医者の言葉を思い出し、苦笑するより他はなかった。
地名をクリックすると地図が表示されます
二人は大津の県庁裏の堤に腰を下していた。月見草が咲いている
地名をクリックすると地図が表示されます
を提げ、とく子の郷里を去った。中谷孝雄のいる府下長崎に一戸を借り、私は妻と子を匿った。家賃は十二円
地名をクリックすると地図が表示されます
その二月、私は貞子と山形の妻の故郷を訪れた。戦後のまだ交通の不便な時である。
「山形ジープで行ってけらっしゃい」
滋賀の家へ帰った時、山形の家へ行った時、また共に旅行に出た時には、妻
「ね、そう言えば、花時に、山形へ行ったことはないんだね」
「来年の春は、山形へ行こうじゃないか」
却ってひどく艶に見えるだろう。ね、きっと、来年の春は山形へ行こうよ」
地名をクリックすると地図が表示されます
が起り、再び上京した。父の日本橋の店と、深川の工場は全焼したが、一人の負傷者もなく、高田町の工場は
地名をクリックすると地図が表示されます
翌年二月、文学再出発を志し、杉並区阿佐ヶ谷に移る。窮乏の生活が始まる。
地名をクリックすると地図が表示されます
名乗った。明治四十年、父は漸く独立を許され、東京新大坂町に開店した。
「たつ、東京が見えるか」
、教授達の間を運動中である。卒業後、私達は東京の大学へ行き、時期を見て、同人雑誌を出す計画である。その頃
たりして、かなり機嫌がよい。私は中谷とともに東京を発ち、それぞれの故郷へ帰った。
、至って気楽な感情のようでもある。或は若い私は東京の新しい生活に、新しい意欲を燃していたのかも知れない。
玲子は東京で育ったと言っている。私が歩き出すと、玲子も黙って従い
翌朝、玲子に見送られて、私は東京へ発った。
。が、とく子は養家を嫌い、家出同様にして、東京へ出て来たのであるからである。
「東京おんちゃん、しょんべん」
気を許したのか、一部始終を白状する。長男が東京に滞在中、時時姿を消したのは、口腔外科の主任教授に面会
地名をクリックすると地図が表示されます
その私の仮寓は三条大宮を東へ入ったところにある。京の三条通も堀川を西へ
地名をクリックすると地図が表示されます
九月、関東大震災が起り、再び上京した。父の日本橋の店と、深川の工場は全焼したが、一人の負傷者もなく、
、一月、私は上京して、父業を継ぐ。日本橋の店の父の部屋に起居する。十月、二男が生れる。十二月
地名をクリックすると地図が表示されます
私は経済学部経済学科に入学することができる。私達三人は銀座や、神楽坂を飲み歩く。酒を飲まぬ中谷は相変らず不興げである
銀座の有名な鮓屋へ入る。妻は健啖振りを示す。私はあまり食欲
で四谷まで行き、地下鉄に乗換え、西銀座で降りる。西銀座から病院まで、私は往復とも自動車に乗らないことにする。少しで
通っている。国電で四谷まで行き、地下鉄に乗換え、西銀座で降りる。西銀座から病院まで、私は往復とも自動車に乗らないこと
地名をクリックすると地図が表示されます
私ととく子は上野に着いた。しかし私は別れることはできない。私はとく子をその下宿
「上野からだと、全く春が、山に来た、里に来た、野
地名をクリックすると地図が表示されます
翌年二月、文学再出発を志し、杉並区阿佐ヶ谷に移る。窮乏の生活が始まる。
地名をクリックすると地図が表示されます
、入院します。そうして、手術をしてから、大塚へ移って、念のためコバルトをかけるんだそうです。いろいろ心配をかけ
「奥さんのはかなり進行していますから、手術後、大塚へ移って、コバルトをかけてもらいます」
た。ですから、手術の傷がある程度直れば、直ぐ大塚の方へ廻ってもらいます」
痛みもとれ、手術の傷の回復は至って順調である。大塚へ移るのもそう遠くはなかろう。
していた。その日、妻はコバルトをかけるため、大塚の癌研附属病院へ移ることになっている。