私の青年時代 / 山之口貘
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なのであった。柳行李といっしょに人力車に乗り、早稲田の諏訪町にあった同郷の友人の下宿に落ち着いたが、この下宿を振り出しに
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かれの部屋で一睡させてもらったりしていた。宇田川町の喫茶店は、暖房屋のころから懇意にしていたので、そこに
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連れ立って再度上京したのであった。そして第一夜を目白台の道路にあった土管のなかにもぐって過したが、翌日、麹町富士見町の
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ぼくはかつて(大正十二年)、関西のある工場の見習工募集の門前広告に「但し朝鮮人と琉球人はお断り
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のである。つまり沖縄県なのだ。ぼくはその沖縄県の那覇市の生れで、那覇市は戦前の県庁所在地、現在は米国民政府と琉球政府と
沖縄県なのだ。ぼくはその沖縄県の那覇市の生れで、那覇市は戦前の県庁所在地、現在は米国民政府と琉球政府と、日本政府の出先
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県下では那覇の東北へ一里の首里に第一中学校があった。いわゆる名門校である。ぼくの学んだ小学校は、
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ぼくはそのころ戸塚にあった日本美術学校に籍をおいていて、時に本郷絵画研究所へ
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てサボル日が続いていた。まもなく兄夫婦が大阪へ出て行って、相ついで父母が石垣島へ渡り、弟や妹もそっちへ
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ばったりの所で睡眠をとったのである。その場所は日比谷公園のベンチの上であったり、知人友人の所であったり、あるいは夜明けまで
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で、沖縄流の発音でナフヮンチュである。つまり、ナフヮが那覇で、チュは人のことである。ついでに、本名は山口重三郎であっ
。ぼくは明治三十六年の九月にその町に生れた那覇人で、沖縄流の発音でナフヮンチュである。つまり、ナフヮが那覇で、
米国民政府と琉球政府と、日本政府の出先役所である那覇日本政府南方連絡事務所との所在地なのである。ぼくは明治三十六年の
県下では那覇の東北へ一里の首里に第一中学校があった。いわゆる名門校である
渡り、弟や妹もそっちへ行ってしまい、ぼくだけが那覇の家に残ったのであった。そこへグジーからの破談状が舞い込ん
もなくぼくは人質にならないうちにと石垣島を逃げ出して那覇に出たがそこではすでに住むところもないばかりか、友人知人のところ
すぐに父の事業が失敗していることを知った。那覇の家も人手に渡っていて、父は毎日海に向ってぽかんと
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なく兄夫婦が大阪へ出て行って、相ついで父母が石垣島へ渡り、弟や妹もそっちへ行ってしまい、ぼくだけが那覇の家
なかった。まもなくぼくは人質にならないうちにと石垣島を逃げ出して那覇に出たがそこではすでに住むところもないばかりか、
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いまでこそ沖縄の結婚式は東京並の形式になったらしいが、当時は古風で仰々しいもので、ぼくは
あったが、昭和十四年現在の職業安定所の前身であった東京府職業紹介所に就職するまでの十年間は殆ど住所不定の生活をして
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それから本郷台町の下宿、駒込片町の荒物屋の二階、駒込中里の先輩の家と不義理を重ねて転々としているうちに大正十二
本郷新花町の下宿に移り、それから本郷台町の下宿、駒込片町の荒物屋の二階、駒込中里の先輩の家と不義理を重ねて転々
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また友人知人の間を転々していたが、やがて、銀座二丁目の書籍問屋東海堂書店の発送部に住み込みで働らくことになっ
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にあった土管のなかにもぐって過したが、翌日、麹町富士見町の下宿にかれを案内して、いやがるかれをかれの兄さんのもと
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その後、職は暖房屋に変り、鍼灸屋に変り、隅田川のダルマ船に乗ったり、汲取屋になったりしたのであった