古句を観る / 柴田宵曲
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の庵』という集にあるので、洒堂が膳所から難波へ居を移した記念のものである。従ってこの集の中には「
径は洒堂のそれまでいた膳所の人で、膳所と難波は遠距離でもない以上、親しく新居を訪れた際のものとしても差支
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芭蕉が最後の旅行に出た時、東武の門人たちが川崎まで送って行った。芭蕉が別れるに臨んで「麦の穂をたよりにつかむ
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らしい。穴一銭と称して両面に恵比須大黒だの、富士山だのを鋳出したものがあったという。石ケリ玉にも先輩があっ
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、という話を書いた。『懐硯』にも「早や敦賀に売られ、筒落米拾ひし事を忘れたか」とあるから、最初
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「二丁上れば大悲閣」ではないが、項上まで登って見たら、上に平なところが
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の夏凡兆が宅に臥たるに、二畳の蚊屋に四国の人ふしたり。おもふこと四にして夢も又四くさと書捨たる
云出して笑ひぬ」などといっている。同じ蚊帳に四国の人が寝て、四通りの夢を見るなどは、俳諧らしいおかしみである
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時雨は関東の地に絶無というわけでもあるまいが、山に遠い関東平野の中
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地に絶無というわけでもあるまいが、山に遠い関東平野の中にいるわれわれは、さっと来て直に去る初冬の時雨なるものに
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」は『碧巌集』にある話である。徳山がはじめて龍潭に参した時、侍立するほどにいつか夜が更けてしまった。「潭
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時代、富田基度のために押領されたのを、鎌倉に愁訴して旧に復したなどという由来も伝えられている。更に伊勢
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がつかなかったが、その内容を一読するに及んで、奥州の大豆畠における日光の美しさを説いた文章が、巻頭に置かれ
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大きな川ではあるまい。その向側が小松原になっていて、そこからケンケーンという雉子の声が聞えて来る。雉子
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今日のように夜東京を発して、翌朝神路山を拝し得る便利な時世ではない。幾日幾夜の旅を続けて小俣まで
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によると「クキル」というのは古い言葉らしい。「北海道では今、群来の二字を充てるが、古は漏の字を充て
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江戸留守の枕刀やおぼろ月 朱拙
主人が江戸に出ている場合であろう。留守の心細さに枕許に刀を置いて寝る
江戸留守や笋はえて納戸口 露竹
江戸留守を嫁々の岡見ぞをかしけれ 涓流
江戸留守を題材にした点は同じであるが、一句の働きにおいては
吟なれども、一茶は同じ明月にも、「明月や江戸のやつらが何知つて」と、気を吐かざるを得ざりしにあら
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鳴雪翁の自叙伝に、今の芝公園と愛宕山の界のところを「切通し」という、昼間から宵の口までは相当賑であった
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沙明というのは筑前黒崎の人である。助然がこれを訪ねて別るるに当り、沙明
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馨しい名木ではない。オウチの実である。かつて新年に伊勢神宮に参拝した時、黄色い実のなっている木があって、センダンだと
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東春日井郡にもあれば、近江の神崎郡にもある。伊勢の三重郡には大治田と書いて「オバタ」と読む地名があって、一に
旧に復したなどという由来も伝えられている。更に伊勢の度会郡には小俣という村があって、「オバタ」と読む。宮川の
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。嵯峨の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹と嵐山に行く」と漱石氏が書いた洛外の春でもない。そこにはただ
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な風が吹渡る度に、きらきらと光りながら翻る。『武蔵野』にある「林影一時に閃く」とか、「木葉火の如くかがやく」
一点、暮色漸く到り、林影漸く遠し」という『武蔵野』の一節を想い出さざるを得ない。「星光一点、暮色漸く到り、林
と描き得た文章は稀であろう。この稚志の句は武蔵野の如き平野の光景であるかどうか、それはわからないが、自らその間
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、実際目のさめるような感じがする。一時トタン塀を建仁寺まがいに作って、青いペンキで竹らしく見せようとしたものがあったが、
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のかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ帰り得る時代でないから、月を待ってどうしようというのでもある
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鳴雪翁の自叙伝に、今の芝公園と愛宕山の界のところを「切通し」という、昼間から宵の口までは相当
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なきものに候、今天下第一の歳旦なるべしと京大津の作者も致称美候」という手紙を送って賞めた。畳の上
これは何方のお聖様ぞ、笠の内がおくゆかし、大津坂本のお聖様、おゝ勧進聖ぢや」とあるによって明で
「大津止泊の比」という前書がついている。湖畔の家に泊って
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いう季題は、東京などでは夙にその実がなくなった。京都あたりでは比較的近くまで、その風を存していたそうであるが、
ているのかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ帰り得る時代でないから、月を待ってどうしようというの
直に去る初冬の時雨なるものに縁がない。その代り京都の冬を談ずる者の必ず口にする「底冷え」なるものからも免れて
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驚いたのは道の暗いことであった。元禄時代の奈良は更に暗かったであろう。作者はどんなところに円居しているのかわから
もう十年近くも前になるか、奈良に遊んで一宿したことがある。当時は燈火管制も何もなかった
奈良の月は直に「春日なる三笠の山を出でし月」を連想せ
に生れ合うことよ、というほど強い意味ではない。奈良で鹿が子を産むのを見た、それがあたかも灌仏の日であっ
な」という句がある。場所は仏に因縁の多い奈良であり、日も多いのに灌仏の日に生れるということが、芭蕉
芭蕉にも奈良で詠んだ「灌仏の日に生れあふ鹿の子かな」という句が
芭蕉が「ぴいとなく尻声かなし」と詠んだ「奈良の鹿」は、今日でも聞くことが出来るが、古人は更に山野に
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「長崎にしばしのいとまあり名主の家に入て」という前書がある。虫干
長崎の絵踏のことは、古い歳時記には皆説明が出ているから、ここ
際の人名その他を記したものであろう。悠川が長崎に行った時は、切支丹迫害当時よりは大分年数がたっているので
ところにある絵踏帳というのはどんなものか、それは長崎研究者に聞くより外はないが、恐らく絵踏を行う際の人名その他を
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作者は熊本の助成寺の住僧だそうである。平素純粋な精進料理に慣れている
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の勝手な連想に過ぎない。実をいえばその時の広島は、夜寒を感ずるには少し暖かったからである。この木犀は庭に
もう何年前の秋になるか、一週間ほど広島に滞在した時、雨戸を引かぬ障子の外の中庭に、木犀の
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今日のように夜東京を発して、翌朝神路山を拝し得る便利な時世ではない。幾日
には、盛んに雉子が遊んでいた」という。東京にいても耳にする機会はいくらもあったらしいのである。
、柳田国男氏に従えば、雉子の声を聴くには東京がかえって適していたということで、「春の末に代官町の
出代という季題は、東京などでは夙にその実がなくなった。京都あたりでは比較的近くまで、その
少からずある。それも遠い地方ではない、先年大東京に編入された府下の某村などでも、役場とか、学校
それでも古い屋敷などで長屋門を存しているところが、東京にもいくつかある。門の両側が長屋になって、人の住むよう
たのは、已に四十余年の昔だから、今の東京に鯉幟が幅を利かしているのも、勿論やむをえぬ次第である
なっているが、これは夏のうちから鳴いており、東京あたりでは普通の蝉より早く鳴きはじめる。従ってこの句は秋では
聞えるのみだというのであろう。われわれも少年の頃、東京郊外の田圃でしばしばこういう感を味った。「鉄砲の水田になりて
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も雉子の声が聞えていた」というし、「駒込でも岩崎の持地がまだ住宅地に切売されぬ前には、盛んに
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は束帯を脱いでただの人で坐っていた、そして目白の話をしたりしていたが、帰る時に好いついでだからと
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昔の通人は屋根船を綾瀬川まで漕ぎ上せて、月下の水に向って開いた銀扇を投げる。地紙の