樅ノ木は残った 03 第三部 / 山本周五郎

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地名一覧

本郷

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多用とは云わせない、本郷あたりの隠宅へ、しばしば、数日も保養にゆくということを聞いている

駿河台

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兵衛が一ノ関にとりいって、月づき多額の手当を貰い、駿河台下に道場まで開いたこと、そしておみやを酒井邸の女中奉公に入れたの

石巻

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それから一刻あまりのち。伊東七十郎と里見十左衛門は、石巻の妓楼で酒を飲んでいた。北上川の川口の西を石巻、東岸

で酒を飲んでいた。北上川の川口の西を石巻、東岸を湊町と呼び、その妓楼はうしろが河岸に面していた。

黒川郡

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だが」と甲斐は手をあげて指さした、「あの黒川郡の山の、ひとところ高い」

涌谷城

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涌谷城は大手門からすぐ石段になり、鉤の手に登り詰めたところが中門、それをはいると

銚子

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七十郎は飲もうとして、銚子に酒がないのを知り、大きな声で辻村と呼んだ。又之助、酒が

大手門

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は堀川にゆき当り、石の架け橋を渡ると、城の大手門があった。

、家老二名、高野仲兵衛、大平一郎兵衛とが、大手門まで迎えに出た。甲斐はそこで、馬を返すようにと命じ、出迎え

涌谷城は大手門からすぐ石段になり、鉤の手に登り詰めたところが中門、それをはいると左に

安芸

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「安芸の福島(正則)はそうではなかったろうか、芸州も同じように永代不易

村山喜兵衛が先触れにゆき、すると、安芸の子の兵庫宗元と、家老二名、高野仲兵衛、大平一郎兵衛と

軸を懸け、伝来の甲冑が飾ってあるばかりだった。安芸がはいって来たとき、甲斐は、床ノ間に飾ってある甲冑を、

はいって来た安芸は、そこにいる兵庫に、去れ、という眼くばせをし、わが子が去る

「人間はみな自分が可愛い」と安芸が云った、「大藩は大藩なりに、わが身が大事と思うのであろう

十左を煽動したのは安芸であった。甲斐が一ノ関の与党になった、ということを云いだし、

は、みなそういう印象を与えて来たのである。安芸はむかしから、甲斐の性格をよく知り、深い信頼をもっていた。あまり

甲斐を「一ノ関の与党」であると、安芸が云いだしてから、甲斐を敬慕していた多くの者が、甲斐から

、それは期していたことではあるが、さすがに安芸も気がかりになっていた。

境論の要だけを聞いておいてもらおう、そう云って安芸は話しだした。

涌谷領遠田郡の者が、違法である、と云いだし、安芸も人を遣って、草萱用水の境を明確にしようとした。ところが

云い返して来た。だが、そうまですることは、安芸にとって、いかにもおとなげないし、こと面倒と思ったから、式部の

そのとき、こと面倒で片づけたのがいかなかった」と安芸は続けて云った、「こちらがへこんだとみたのであろう、こんどは

大貫村

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「たしか、大貫村の御隠居所(故定宗がいた)で拝見し、そのとき御先代から

黒書院

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)におめみえのため登城した。おめみえは黒書院でおこなわれ、先導役は、老中阿部豊後守、披露役は酒井雅楽頭で

本所

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「本所の、向島の牛御前の近くです」

寛永寺

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もしたように、肌がひんやりするほど、涼しかった。寛永寺へ参詣した帰りだろう、どこかの大名の行列が、黒門から出て来

栗原郡

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「古内の館、栗原郡岩ヶ崎まで送ったのだ」

筑後

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が済むと、宮崎筑後から、招宴の使いが来た。筑後は本丸城代で、これまであまり親しいつきあいはなかった。片倉隼人は、断わって

相生町

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のであった。その風呂屋は、道場からさして遠くない相生町にあり、新八は九月下旬から、もう五たびもかよって来ていた

松島

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で、かれらは石巻街道を北に向かい、その日は松島で泊ることになった。

それは仙台を立つときからの予定であったが、松島の少してまえにある、長老坂という処で、甲斐が「自分は湯ノ原で

が云った。坂を下る途中で、今村善太夫らは松島へ向かい、甲斐と二人の供は、道をそれ、湯ノ原へとはいって

伊東

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「おれは席を変える、伊東から戻ったらまいれ、誓紙を待っているぞ」

江戸

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左どのは、しんそこ父に傾倒していて、国許と江戸の往来には、必ず船岡で幾日か滞在していったし、いつも、

、今年二十九歳になる。結婚するとすぐに、甲斐は江戸へ去り、伊久はあとに残った。まだ夫婦とは名ばかりであるし、

「正式にはまだ仰せ出されませんが、江戸ではそう決定しているとのことです」

のことは諦めましょう」と七十郎が云った、「私も江戸で会って、膝詰めで話してみたんです、もしも本音があれば、

「いつ江戸へ立たれますか」

又之助は十四歳になる、甲斐の側仕えにあがったが、江戸へは付いてゆかなかった。彼はむっとした顔つきで、焙った鮎の

「それは珍らしい」と砂山が云った、「江戸にいたのだな」

会ったのです」と新八は答えた、「脱走して江戸へ戻って来たとき、道で偶然に会って呼びかけられ、その妹の家

それは兵部が、江戸から仙台に着いて以来、里見十左衛門がしきりに面会を求め、兵部が拒絶する

が一ノ関へ去ってから、数日して、原田甲斐が江戸から到着した。甲斐は船岡の館へは寄らず、まっすぐに仙台へ来

「江戸でいさましく宣告した筈ではないか、もう原田を訪ねる必要はないって」

「言葉のようすでは江戸のように思うが」と甲斐が云った。

「江戸でございます」と一玄は椀の蓋を持ったまま、静かに手を膝

てゆこう、と決心するまでのことは省略する。自分は江戸を去って、旅から旅へと、ながれ歩くようになった。そうなってから

です」と甲斐は云った、「去年のことですが、江戸で寺池さまが私に訴え、一門の面目からもあとへはひけぬ、と

、「誰に憚ることもなく、なにを恐れることもなく江戸の町を歩ける、おれもようやく、人間らしい気持になることができたんだ

「御推察どおりと存じます、国許では、江戸にもむろんございますが、国許では特に、早くから或る風説が根づよく弘まって

旭山

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に見えるあの」と兵庫は東南を指さした、「あれが旭山ですが、あの山の向うにあるのです」

小石川

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だ」と周防は甲斐の眼を見つめながら云った、「小石川の普請小屋へ、久世侯から密使が来て私が呼ばれ、侯自身から

人のように艶があった。――四年まえ、小石川の普請場で見たときより、髪には白い毛が多くなり、額の

志田郡

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た。かれらは※で馬を進め、十時には志田郡の平渡へ着いた。そこで休息して、馬を替え、道を右に

大柳は遠田郡であるが、志田郡松山へは二里ばかりしかない。午の弁当を済ましたとき、村山喜兵衛が

加賀藩

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知ってのとおり、信助は唐船をやっているので、加賀藩の抜荷船とかかわりがある、それを手掛りに、引寄せようと思う」

――相手は加賀藩の留守役、奥村藤兵衛という人物で、数日うちに密会する手筈だと

安芸は坐り直した。甲斐は扇子を膝の上におろし、加賀藩の奥村藤兵衛と会った話しをした。安芸は黙って聞いていたが

という人物は留守役ですから、彼の意見だけで、加賀藩の意向をきめることは誤りでございましょう、けれども、同じ外様として、

薩摩

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もしうまく伊達家を潰すことができれば、加賀の前田や薩摩の島津へも手が付けられるかもしれない」

この手が、もし成功するとすれば、幕府は加賀、薩摩にも手をつけるだろう、そんなことは不可能だという証明はどこにもない

登米郡

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と云いだし、桃生郡深谷と、遠田郡の小里村、また登米郡の赤生津の三カ所について、こちらの不法を挙げて来た、と

式部との、領地の境界の争いは、遠田郡小里村、登米郡赤生津村、桃生郡深谷、という三カ所で起こっていて、甲斐はその

大窪村

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生津の二カ所で地境を侵しはじめ、また、深谷でも大窪村の西にある田地十町あまりを、若生半右衛門に分与した、――これ

兵庫

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もこんな話しがある」と甲斐はゆっくりと続けた、「兵庫の湊川で、足利勢と決戦するまえに、正成はやはり禅僧それがしを訪ねて

これも信じられない、と甲斐は云った。正成は兵庫へゆくまえに、桜井ノ駅で正行と別れているが、別れに際して

兵庫はそう云って、二人の家老に眼くばせをした。高野と大平は去り、

兵庫も黙って、甲斐について歩いた。

忘れたじぶんに、甲斐はまた独り言のように呟いた。兵庫はそのとき、初めて、静かに云った。

甲斐は祝いを述べ、兵庫は続けて、長男が生れるとすぐ、寺池(伊達式部)との地境の争い

このうしろに当りますし、深谷は向うに見えるあの」と兵庫は東南を指さした、「あれが旭山ですが、あの山の向うにあるの

兵庫が先に立って、館へゆき、大玄関からはいった。そこには家老

はいって来た安芸は、そこにいる兵庫に、去れ、という眼くばせをし、わが子が去ると、斜めに坐って

池之端

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石段を登って来るらしい。崖下にも人声がして、池之端のほうへ遠のいてゆき、石段を登って来る人のけはいと、草履の音

そこから池之端へ出、不忍の池の畔をまわって、弁天の茶屋のほうへゆくあいだ

奥州

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の祖、与次郎がその家臣となった。宗村は常陸から奥州へ所替になり、伊達郡に館を構えて「伊達」を称してから、

湯島

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に耳についた。三日まえから、甲斐は、この湯島の家へ来ていた、「くびじろ」の角にかけられた傷が

湯島の家へ、原田甲斐を訪ねたのは、二、三日まえのことで

二階で、女とたわむれていた同じ夜――、湯島のおくみの家では、賑やかな酒宴が催された。甲斐が来たの

、あの浪人者がいたという。柿崎なにがしが、この湯島の家へあらわれたとき、丹三郎が見て、畑姉弟が誘拐されようとし

「知っている、湯島の隠宅におるのがその妹であろう」

二日、袴着の祝儀の八日まえに、船岡どのが湯島の家で、塩沢丹三郎と一夜を過したもようだと申します。

――その日は、かの成瀬久馬が湯島へ供を致しました。久馬からはなんの知らせもございません。彼が

「しかし、なんのためだ、湯島の一夜になにがあったのだ、呼んだのは原田か、丹三郎か、

た。おみやは自分の過去をすっかり語った。それはちょうど湯島の家で、宮本新八が甲斐に向かってした告白に似ていたが

消してみたりしながら。――彼は浅草三軒町から、湯島へ帰る途中だったが、ついうっかりしていて、人に呼びとめられ、気

かよったこと、町方役人に追われたこと、助けられた湯島の家が、原田甲斐の隠宅だったことなど。そして、女にいれあげた金

いつ毒死してもいい、という覚悟をきめている。湯島の家で会ったとき、彼がそう覚悟している、ということを自分

風呂屋の女などにかよって、町方に追われて逃げまわり、湯島で危なく助けられた、などということは、塩沢からみればさぞかし不潔で、

湯島で助けられたことはよかった。原田甲斐は事情を聞いて、重職の評定

薩摩外記について浄瑠璃の稽古をして来た。もちろん湯島の家の許しを受けたうえで、もう二年ちかく稽古にかよい、そのかたわら

「私は湯島の家で御厄介になっている者です」

「湯島の家にいるというのは慥かだな」

「おれは湯島へ帰らなければならないぜ」

たんだ。彼はそう思うようになっていた。湯島の家で暮しているあいだに、自分の経験したことは自分の性分から

たのである。自分の屋敷には内通者がいる、この湯島の家も安全ではない。証書の盗まれたことがわかれば、雅楽頭

」の名がうかぶに相違ない。したがって、屋敷やこの湯島の家は、いつかれらの手で捜索されるかもしれない。だが

鎌倉

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甲斐は云った。時宗はそのまえに、元の国使を鎌倉で斬っている。他国の王の使者を斬るということは、そのときすでに

の俊基関東下向のくだりで、「路次にて失わるるか、鎌倉にて斬らるるか、二の間をはなれじと思いもうけてぞ、いでられける

衣川

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た、「いつか一ノ関さまと吉岡の奥山大学とで、衣川の片瀬片側の論がありましたが、なにしろ図面が明確でないのですから

恵林寺

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滅亡したときに」と甲斐は続けて云った、「恵林寺の某という禅僧は、織田勢の手で一山の僧と共に焚殺さ

を敲くなどということはある筈がない、これは、恵林寺の僧の逸話と同じように、禅門の作った俗話にすぎない、私は

は言葉を継いだ、「人間はかなしく、弱いものだ、恵林寺の僧がもし大悟徹底していたら、火中であんなことは云わず、黙っ

仙台城

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年が明けて、正月二日に、――仙台城の二ノ丸で、幕府からの国目付の饗応が行われた。国目付は内藤

加賀

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「もしうまく伊達家を潰すことができれば、加賀の前田や薩摩の島津へも手が付けられるかもしれない」

というこの手が、もし成功するとすれば、幕府は加賀、薩摩にも手をつけるだろう、そんなことは不可能だという証明はどこに

に会って、よく話しも聞き自分の意見も述べたい、加賀へ呼びかけることはそれまで待つように、と念を押しておられた」

するつもりだと云っていた、こんども国の物産を加賀と交易でもしようということではないか」

小里村

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を侵していると云いだし、桃生郡深谷と、遠田郡の小里村、また登米郡の赤生津の三カ所について、こちらの不法を挙げて

安芸と伊達式部との、領地の境界の争いは、遠田郡小里村、登米郡赤生津村、桃生郡深谷、という三カ所で起こっていて、

「いや、赤生津と小里村はこのうしろに当りますし、深谷は向うに見えるあの」と兵庫は東南を

、「こちらがへこんだとみたのであろう、こんどは小里村、赤生津の二カ所で地境を侵しはじめ、また、深谷でも大窪村の

仙台藩

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「仙台藩と全家中のためにです」

仙台

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は一、二の臣といわれて来た。政宗が仙台に移ったとき、原田家も柴田郡船岡へ替り、以来、百年ちかいあいだ

――目付役にあげられ、七月に仙台へまいった、渡辺七兵衛にございます。

「小野の留守を預かるのだそうで、仙台の屋敷へ訪ねて来た」

。これからも例の気性で、うるさく騒ぎたてるに相違ない。仙台でどんな工作を始めるかもしれないから、よく注意していて、必要

彼は仙台へ護送される途中で、脱走した。仙台へゆけばよかったのである、数年のあいだ預けられていれば、

彼は仙台へ護送される途中で、脱走した。仙台へゆけばよかったので

「兄のように、殺されると思ったのです、仙台へゆき着くまえに、途中で殺されるかもしれないと思ったのです」

「仙台さまの御家来でした、御存じの方でしょうか」

「よくはわからないのですが、仙台の六十万石を分割して、兵部さまに三十万石を与える、という約束

「仙台藩と全家中のためにです」

「会う、この年末に帰国するそうだから、仙台でぜひとも会うつもりだ」

「それは、仙台の紛争、についてか」

ないのか」と宗休は云った、「おまえが、仙台家中の紛争に、かかわっているということは、うすうす知っていた、

「それほど、仙台のことが大事なのか」

年が明けて、正月二日に、――仙台城の二ノ丸で、幕府からの国目付の饗応が行われた。国目付

相伴した。一ノ関の兵部宗勝も、帰国の途中で、仙台に滞在していたが、彼は名目上、直参大名に列している

それは兵部が、江戸から仙台に着いて以来、里見十左衛門がしきりに面会を求め、兵部が拒絶すると

船岡の館へは寄らず、まっすぐに仙台へ来た。仙台の屋敷は大町一丁目西ノ南側で、広瀬川を前にした断崖

した。甲斐は船岡の館へは寄らず、まっすぐに仙台へ来た。仙台の屋敷は大町一丁目西ノ南側で、広瀬川を

仙台へ着いた甲斐は、御霊屋で政宗、忠宗の墓所に詣で、それ

糸を投げてから甲斐が云った、「子供のじぶん、仙台へ来ると、この河原でずいぶん遊んだものだ、そのじぶんは、まだあの

「おれが仙台にいるときから、十左はおれを跟けまわしていた、城中でも

「あいつは逆上しておる、仙台のときにそう思った、船岡からもそう告げて来ている、あいつは

――仙台より、佐々木権右衛門が戻りました。

「十左が、仙台にか」

、あの痴れ者め、さてはなに者か使ったな、おのれは仙台にいて、この一ノ関へはなに者かをよこしたのだ」

、二月十日、と申しますから、三日まえに仙台を出立したということです。

それは仙台を立つときからの予定であったが、松島の少してまえにある、長老

、中には悪意をいだくようになった者さえある。仙台では血気の若者たちの一部に、原田を除け、という空気さえ出

左には会いませんが」と甲斐が云った、「仙台の屋敷へ七十郎が訪ねて来まして、あらまし話しは聞いております」

――仙台より急使が到着いたしました。

松山

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母を離別した理由もわからないし、あんなに親しかった松山の茂庭家や、涌谷の安芸さまと疎遠になったわけもわからない、

て云った、「私に縁談が起こっている、相手は松山の娘だ」

、「しかしお祖母さまには逆らえない、お祖母さまも松山から来た人だし、その娘と私とは従兄妹に当る、――

わたくしは御政治むきのことはかいもく知りません、けれど、松山が国老の任を解かれたのも、吉岡どのが罷免されるのも

「私は涌谷さまにも、松山どのにも会って、以上の経緯を聞きました、しかし、御両所とも

」と慶月院は云った、「涌谷さまはともかく、松山がそんなふうに云うとは合点がゆきませんね、いったい甲斐のどこが

「松山がですか」と慶月院は云った、「涌谷さまはともかく、松山

たのです、しかし船岡どのはなにも知らぬ、涌谷、松山との盟約などもない、家中の者は火のない煙を騒ぎたてている

一ノ関を謀る手段だと思われましたが、いまでは松山との縁を切るのが、本当の目的だったのだとさえ、いわ

た、一ノ関との関係は密接になるが、涌谷さまや松山どのとは遠ざかるばかりなのです、初め、御内室を離別されたとき

「涌谷さま、松山どの、その他の者も殆んどそうみております」

なるように計らっているし、それについて、涌谷や松山にはなんの連絡もなく、却って離反する態度が強くなりつつあること、

続けた、「私は船岡どのを信じたい、涌谷さまも松山どのもそうでしょうが、私は誰よりも船岡どのを信頼して来た

ましょう。こんど孫の帯刀に縁談が起こりました、相手は松山の娘です」

「――松山どのの……」

、宗輔にもさして異存はないでしょう、しぜん、あれが松山と絶縁するつもりだという評は、誤っていることになります」

、預かりましょう」と七十郎は云った、「もし必要なら、松山へも写しを作って渡しましょう」

「松山へ寄るのか」

「いや、松山へはいい」

た人間が、そろって船岡から離れてしまう、涌谷さま、松山、そこもと、十左、そして私も、青根このかた私も同じように考えて

ば、国老就任は辞退する肚のようで、その仔細は松山にも話したもようだと、書いてまいりました。

「松山さまがみえました」

「――松山だと」

寸断する密約がある、ということを聞かされたのは松山だ」

がどんな波紋を起こし、どのようにひろがりつつあるかは、松山も現に見ているだろう、繰り返して云うが、侯は石を投じた、

てもいい、私が軽率なことをするかどうか、松山は知っている筈だ」

手紙を出す、御趣意はたしかにうけたまわりましたと申そう、松山からは、御意見をたしかに申し伝えた、とだけいってもらいたいが、

甲斐はおくみに、「支度が出来たか」と訊き、松山を案内しておいてくれ、と云った。

意見書を出した。自分のところへは来なかったが、松山(茂庭周防)に宛てた書面を見ると、極めて過激な文言が多く、

、松山が国老に再任されることは確実になった。松山は病弱だから、自分としては辞退してもらいたいが、彼は

――大学罷免によって、松山が国老に再任されることは確実になった。松山は病弱だから、

――筆じりになったが、帯刀と松山との縁談は、自分が帰国するまでそのままにしておくように。

ておられた、だが涌谷さまは老躰だし、松山は温厚だが小胆だ、小胆といって悪ければ大事をとりすぎる、あの

「涌谷さまや松山は、船岡と力を合わせて一ノ関に当る、三人協力して、一ノ関

の弁当を済ましたとき、村山喜兵衛が甲斐を見て、松山へはおいでにならないのか、と訊いた。

大柳は遠田郡であるが、志田郡松山へは二里ばかりしかない。午の弁当を済ましたとき、村山喜兵衛が

「そうだ、松山(茂庭周防)はこのとき発病していたのだ」と甲斐は口

――評定は一ノ関の思うままに操縦された。松山(茂庭周防)は病中で欠席したし、原田どのは賜暇で不在。

。――河野道円の妻と娘は茂庭周防の館、松山へ永の預けとなり、また、斬罪になった料理人のことは不問に

年ちかくになる、去年(寛文六年)の正月には松山(茂庭周防)が病死した」

「松山は原田のもっとも親しい友だ」

どのの長男帯刀宗誠どのにも、一昨年の冬、松山から輿入れがございました。

なく、重縁の親族でございます。原田どのの御生母が松山の出であり、原田どのの長男帯刀宗誠どのにも、一昨年の

妻女は、松山どのの家から出ました。養女ですから松山と血のつながりはございませんが、噂によると不貞なことがあっ

――原田どのの、離縁された妻女は、松山どのの家から出ました。養女ですから松山と血のつながりはございませ

福島

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「安芸の福島(正則)はそうではなかったろうか、芸州も同じように永代不易の

京都

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――兵部が京都方面から金を借りて、伊達本領の内で大量に米を買い占め、ひそか

向島

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あのときの男だ」と新八は云った、「いつか向島の土堤で、石川兵庫介さんに掠われようとしたとき、駆けつけて来

云った、「黒田さんのことものろけなんかじゃないわ、向島のときだって、黒田さんはあたしを近よせもしなかったし、それから

巧みに、そして大胆に彼に近づこうとした。彼女は向島で黒田玄四郎に助けられたことがある。そうして、彼と二人

柿崎に復讐するつもりだ、この春さきだったか、石川は向島でみやどのを誘拐しようとしたことがある、宮本新八がそう話して

「本所の、向島の牛御前の近くです」

と玄四郎は思った。向島の茶屋で逢ったときからみると、まるで人が違うようだ。あのとき

「この春、向島でおめにかかったときのことを思いますと、自分で自分をずたずた

「向島の、あの侍だな」

なって、まじめな女に生れ変るつもりでいたんです、向島で初めて、あなたにお会いしてから、あたしはずっとそういう気持でい

浅草

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ある。新妻隼人という者で、ひそかに呼びだされて、浅草はたご町の西福寺で会った。新妻はみんなを呼んだのだが、

つけてみたり消してみたりしながら。――彼は浅草三軒町から、湯島へ帰る途中だったが、ついうっかりしていて、人

、性分もどうやらそのほうが似あうらしい、ここの家人が浅草あたりに家を持たせ、もう暫く面倒をみてやる、と申している

ば捜索の手が伸びると思わなければなりませんし、浅草などは人の眼につきやすい場所ですから、みつかる危険も多いと思います

「もし二人がいっしょだとしますと、浅草などでは危険ではないでしょうか」と達弥が云った、「この証書

神田

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へいってみた」と内記は続けた、「場所は神田明神の下の同朋町というところで、古い長屋を改造したそまつな

日本橋

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内記はいやと首を振った、「そうではなく、日本橋の丸屋伝右衛門という、海産物問屋の補助だそうだ」

上は人の家です」と云うのが聞えた、「日本橋の雁屋信助という、海産物商の控え家で、登りきったところが裏木戸

――日本橋の雁屋信助が仲立ちだということです。

「いまこれが日本橋から届きましたの」とおくみが云った、「あまりみごとですから、お

おくみの兄、日本橋の雁屋信助を思いだしたのである。自分の屋敷には内通者がいる、

品川

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は綱宗さまから、月見の宴に召されて、これから品川の下屋敷へゆくところである。三年まえおめどおりをしたきり

と献上品を運ぶために、小者が三人ついた。品川の下屋敷に着いたのは黄昏で、下屋敷家老の大町備前(定頼)が

甲斐は駕籠で品川へ向かった。供は村山喜兵衛、矢崎舎人、辻村平六、そして成瀬久馬の

甲斐は微笑しながら云った、「私はおとついの晩、品川の下屋敷で、刺客に襲われた」

「聞いたように思う、たしか、品川の屋敷であったとか」

銀座

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甲斐が住居へ帰って、着替えをしていると、銀座の鳩古堂から、筆を届けて来た。

亀千代登城のあと、まだ十日と経たないうちに、銀座の鳩古堂を介して、茂庭周防から手紙が来た。それによると

上野

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いて、人に呼びとめられ、気がついてみると、上野の広小路へ来ていた。