長崎の印象 (この一篇をN氏、A氏におくる) / 宮本百合子
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に予定を変えるような目には遭わなかった。日向で青島へ廻った日、鹿児島で一泊したその翌日、特に快晴で、私達は
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広場から大通りに出ると、電車の軌道が幌から見える。香港、上海航路廻漕業の招牌が見える。橋を渡る。その間に、電車が
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ジャ※に出発されるところなのだ。福済寺、大浦、浦上天主堂への紹介を得、宿に帰った。
の外廓につきものの雑然さの中にある。私共は大浦の天主堂にいるうちに、天候が定ったらしいので俄に思い立ち、大浦停留場
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翌日、特に快晴で、私達は、世にも明るい日向、薩摩の風光を愛すことが出来た。五月九日という日づけにだまされ、
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一面こまかい蔦が密生している。狭い特色ある裏町をずっと興福寺の方へ行って見た。もう夕頃で、どの寺の門扉も鎖され
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同じ日に浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物
浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世
天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が経験した受難の種々は世に知られている。この建物
浦上は、今長崎市から電車で僅三十分ばかりの郊外である。市中との
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日の中にジャ※に出発されるところなのだ。福済寺、大浦、浦上天主堂への紹介を得、宿に帰った。
雨中、福済寺を見る。やはり黄檗宗で、明の帰化人、陳冲の子頴川藤左衛門が尽力
崇福寺などと同様、この福済寺も朱塗で、大棟に鯱や宝珠のついた明風建築だが、崇福寺
の波を踰え、鈍く光りつつ横わっている港の展望、福済寺は、長崎港の一番奥、東北よりの丘陵の上に位している。
福済寺から受ける全印象は、この寺が、嘗て僧院として存在したという
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門前に佇んで、低い胸欄越しに、模糊とした長崎市を俯瞰した時の心持だ。左手に、高くすっきり櫓形に石をたたみ
浦上は、今長崎市から電車で僅三十分ばかりの郊外である。市中との間は、都会
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跡だという春徳寺や、怪談の絡まる切支丹井戸の在る本蓮寺などへ行って見る予定を変え、悠くり家居することにした。宿の
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鈍く光りつつ横わっている港の展望、福済寺は、長崎港の一番奥、東北よりの丘陵の上に位している。埋立地もなかっ
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では幸運であった。京都にいた間、また、九州に来てから別府、臼杵などにいた間、塵をしずめる打ち水となる程度
霧雨であった。車室は、極めて空いている。一体、九州も、東海岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く
家にいて、四月二十七日に自分達が東京駅から九州へ出発しよう等と夢にも考えていなかった。三月初旬に、Y
だが温泉に行きたいな。」この一言が、我々を九州まで運ぶ機縁になろうと誰が思いがけよう。「温泉て――何処?」「別府
に悩まされ通しではあったが、楽しかった。大体、九州の旅行全体が楽しかった。九州は旅行するに変化ある。一つの盛沢山な
が、楽しかった。大体、九州の旅行全体が楽しかった。九州は旅行するに変化ある。一つの盛沢山な前菜皿のようだ。陸の
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長崎の印象
東海岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く列車など、実に閑散なものだ。窓硝子に雨の滴の
感じたということもあろう。鳥栖で、午前六時、長崎線に乗換る時には、歩廊を歩いている横顔にしぶきを受ける程
長崎のステイションも、夜来の雨で、アスファルトが泥でよごれている。僅かの
―ふむ――まだ宿をきめていないんだが、長崎ホテル、やっていますか」
、美味い紅茶やバターの味の欠乏を感じていた。長崎ではホテルに泊るというのが、楽しみの一つでもあった。
した結果、私共は二台の俥に乗った。長崎唯一のホテルであるジャパン・ホテルに先ず行って見ることになったのだ
が、タクシーもなく、激しい速力で昨夜から、長崎へ、長崎へと、駛りつづけて来、緊張した神経が突然無風帯に落ちこんだ
は心持よいが、タクシーもなく、激しい速力で昨夜から、長崎へ、長崎へと、駛りつづけて来、緊張した神経が突然無風帯
と訊ねた。我々は苦笑した。長崎というと、私共は古風な港町を想像し、古びながら活溌に整っ
響いて来ない。商館の番頭、小荷揚の人足も、長崎では今が昼寝の時間ででもあるのだろうか。一つの角
一といいながら、ボルト酒のよいのを持たない、「長崎のジャパン・ホテルにだって一九一一年のブルガンディー酒があるくらいだのに」
なるらしいが、俥夫はあの玄関まで行くのであろうか。長崎名物の石段道なら、俥は登るまいなど、周囲から際立って瀟洒でさえ
この位の規模でないと遣って行けないんだな、長崎というところは……」
前に経験したばかりのことだのに、この福島屋の長崎港を見渡す畳の上で目がさめた瞬間、ジャパン・ホテルに行った
とを麺棒に使い、貧弱な旅費の捏粉を巧に長崎まで延して来たのであった。
が第二。「先刻地図を見たら、南を廻って長崎まで行くのも、小倉の方から行くのも大して違わないらしい。――
の地図を拡げる時、独特な愉快を感じるらしい。今度、長崎に来たのだって、謂わばYのこの地図に対する情熱が大分原因
さらさらした塵と化すといった風の古びかただ。長崎のは湿っぽい。先ず黝ずみ、やがては泥に成るというように感じられる。
雨あがりの日であったためか、長崎の街は、同じものさびるにしても、奈良、京都などとは趣
醒めたら発熱していた。K氏からの紹介で、長崎図書館長、永山時英氏を訪ねる予定なのであった。私は独り俥
そこでは全町民強制種痘をしたという。まして、長崎へ行くのなら危険此上ないというK氏の言葉で、計らず臼杵
、他人の容貌ほど対象として意識し難いように、長崎の穏やかな市民は、第三者が当然爾あるべしと予想するだけ充分
薩摩人が或る距離を置いてそこに視たものを、長崎港の住人は体中に浴びた。水と一緒に腹の中に飲ん
日本を啓蒙しようとする、明かな受用の意志が在る。長崎の人々が南蛮、明の文化に接した工合は全然違う。薩摩人が
持ち合わせながら、組織立った博物館にして見る気にならない長崎人の心持も、私は興味を以て感じた。ざっと見ただけ
に貧しい予備知識と短い時間しか持ち合わせず、而も、過去の長崎が経験した文化史的活動の実証を一瞥したい者は、永山氏を
いる。その節、永山氏も云われたことだが、長崎は、日本文明史に重大な関係を有す特別な都市でありながら、未だ
墨絵の竹の軸がかかっていた。永山氏は、長崎史研究者として知られている。その節、永山氏も云われた
二時頃から小糠雨が降り出す。長崎に切支丹伝道が始って間もなく建った、とーどのさんた寺の跡
鈍く光りつつ横わっている港の展望、福済寺は、長崎港の一番奥、東北よりの丘陵の上に位している。埋立地
、嘗て僧院として存在したというより、明人及長崎先覚者等の間に倶楽部のような役目をつとめていたらしいことだ
になれず、従って私も部屋で、宿から借りた長崎風土記など読む。可愛く若い福島屋の細君が、
降ることだ。名物の紙鳶揚も春とともに終った長崎の若葉を濡して、毎日雨が降る。Yは、哀れな、腕
――長崎というところは、然し不思議なところだ。鹿児島から着いた時、ジャパン・
、宮崎にしろ、特色をはっきり保有している。鹿児島と長崎など、ただ一夜汽車に乗るだけで、見ぬものにこうも違おうとは
て、私共自身への土産に些細な買物をし、長崎を立ったのはその夜十一時であった。前後たった四日の
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。一体、九州も、東海岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く列車など、実に閑散なものだ。窓
目には遭わなかった。日向で青島へ廻った日、鹿児島で一泊したその翌日、特に快晴で、私達は、世にも明るい
、十四五年ぶりの植疱瘡では無理もない、鹿児島の市を歩いている頃からそろそろ妙になって来た。Y、繃帯
――長崎というところは、然し不思議なところだ。鹿児島から着いた時、ジャパン・ホテルにいた数時間、実に堪え難い程町
にしろ、宮崎にしろ、特色をはっきり保有している。鹿児島と長崎など、ただ一夜汽車に乗るだけで、見ぬものにこうも違おう
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から十日余、天気の点では幸運であった。京都にいた間、また、九州に来てから別府、臼杵などにいた
宿屋は二三、名を調べてあった。然し私共は京都を出たばかりから、美味い紅茶やバターの味の欠乏を感じていた
の、落葉のある甃を歩き廻りながら、私共は、懐しく京都の黄檗山万福寺の境内を思い出した。去年、始めて私は観たの
長崎の街は、同じものさびるにしても、奈良、京都などとは趣を異にしていたのを感じた。奈良などの
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へ廻った。臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な
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旅費が出るのよ、と困りつつ、嬉しさ一杯で私達が神戸迄の切符を買ってしまった。紅丸で別府へ行った。ここは
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とは趣を異にしていたのを感じた。奈良などの建物が古びたのは、あの乾燥した日光と熱とに照りつけ
か、長崎の街は、同じものさびるにしても、奈良、京都などとは趣を異にしていたのを感じた。奈良
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苦笑せざるを得ない。自動車で大浦天主堂に行く。松ケ枝川を渡った山手よりの狭い通りで車を下り、堂前
という話も聞いた。御堂の大さは確に、大浦天主堂の数倍あるであろう。合唱台もあるらしかった。けれども、建物が
同じ日に浦上の天主堂も観た。大浦天主堂は日本最古の建築、浦上のは最大の建物だ。浦上の切支丹信徒が