日本婦道記 笄堀 / 山本周五郎
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で里余の長堤が築きあがった。すぐに刀根を切り、荒川を切った、ふたつの川水は濁流となって忍の低地へおち、忍
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はほとんどその旗下にはせ参じ、明けて今年の三月には小田原城をまったく包囲してしまい、さらに石田三成、大谷吉継、長束正家らをして
のである。城主たちはおのおのその兵の大半をつれて小田原城へたてこもった、したがって留守城はどこも防備がてうすだった、兵も
ていたのだ。しかし事情はまったく違ってしまった、小田原城が重囲のうちにあってなお頑強にたたかっているとき、はやくも関西軍の
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よく承知していた、そしてもしも小田原が落城し、関西の軍勢が押しよせて来るようになったら、城に火をかけていさぎよく自害しよう
の名をもって布令書がまわされた。それには関西の軍勢三万余騎が攻めて来ること、城主はじめ留守の将士は城をまもっ
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…酒巻靱負之助のもとへ来た使者というのは館林城からのもので、すなわち石田三成が三万の大軍をもってくに境へ迫って
と、新田常陸介が同意の者の意見を代表して、館林城へ合体するのが良策であると答えた。
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ものであった。三成はこの地形をみて、かつての高松城のたたかいを思いだした、秀吉はなかなか落ちない高松城を水攻めにした、いま
かつての高松城のたたかいを思いだした、秀吉はなかなか落ちない高松城を水攻めにした、いま見るところでは忍城も水攻めには屈竟である
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のは天正十八年五月であった。かれは佐竹、宇都宮、結城、多賀谷の諸将を指揮し、二十七日早朝から館林を攻撃せしめ
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かつての高松城のたたかいを思いだした、秀吉はなかなか落ちない高松城を水攻めにした、いま見るところでは忍城も水攻めには屈竟
ものであった。三成はこの地形をみて、かつての高松城のたたかいを思いだした、秀吉はなかなか落ちない高松城を水攻めにした
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「すればやはり館林へ御合体でござりますか、それとも……」
、西島などの諸城の人々は、北条氏規の居城だった館林の城へ合体したのである。
…酒巻靱負之助のもとへ来た使者というのは館林城からのもので、すなわち石田三成が三万の大軍をもってくに境へ
たしかだった、真名女はそれをはっきりと認めながら、「館林からの使者のおもむきは、靱負之助からすでにきいたことと思います」
「使者の口上には、この城をひきはらって館林へ合体するようにとあります、みなみなはどう思われますか、ありよう
と、新田常陸介が同意の者の意見を代表して、館林城へ合体するのが良策であると答えた。
とうてい大軍をひきうけて戦うことはできません、それにひきかえ館林の城は防備も堅く、上野八ヶ城の人数が合体しております
評定はその一瞬にきまった、館林へ合体しようと云った常陸介とその同意の人々も、むろん忍城のまもり
を指揮し、二十七日早朝から館林を攻撃せしめた。館林には留守兵をはじめ、上野のくに八ヶ城の兵およそ六千余騎
宇都宮、結城、多賀谷の諸将を指揮し、二十七日早朝から館林を攻撃せしめた。館林には留守兵をはじめ、上野のくに八ヶ
城の防備がどれほどのものかよくわかっていた、館林でさえわずか三日で陥ちたのである、まして忍などは半日もかかれ
たのだ、八ヶ城六千余騎の兵をあつめた館林がわずか三日で開城したのに、忍がこれだけめざましく戦いつつ三十
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しまい、さらに石田三成、大谷吉継、長束正家らをして上野、武蔵、下総の諸国にある北条氏の属城を攻めおとすべく軍を進めさせ
できません、それにひきかえ館林の城は防備も堅く、上野八ヶ城の人数が合体しておりますから、これと力をあわせれば
館林を攻撃せしめた。館林には留守兵をはじめ、上野のくに八ヶ城の兵およそ六千余騎がたてこもり、力をあわせて防戦
石田治部少輔三成が三万の軍をもって上野のくにへ攻めいったのは天正十八年五月であった。かれは佐竹