樅ノ木は残った 01 第一部 / 山本周五郎
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「宇田川町のお屋敷へ、お願いにあがろうと思っていたのです」
「宇田川町へやれ」と彼は駕籠の中で云った。
駕籠が芝の宇田川町へかかると、そこで彼は駕籠をおり、宇田川橋を南へ渡って、
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――駿河台のほうへ来ているのかな。
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「雁屋は石巻から出て、石巻にも店を張っている筈だ」
「雁屋は石巻から出て、石巻にも店を張っている筈だ」
――石巻の店は弟の政吉がやっているということです。
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――九時でございます、厩橋(酒井忠清)さまへお越しあそばしますか。
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するとおくみが成瀬久馬から銚子を取って立ち、十左の前へいって坐った。
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酒を飲んでいた。給仕をしているのは、安芸の側用人の千葉三郎兵衛であった。千葉は甲斐を見ると、少しその座を
「話しを聞こう」と安芸は甲斐を見た、「下総の中田宿で松山どのからの密使に会った
。酒肴の膳があるためか、ひどく蚊が多かった。安芸や周防は扇子を使わなかった。二人は話しの重大さに気をとられ
安芸はぎらっと周防を見た。「――御逼塞が、その謀計の一つ
安芸の躯が動かなくなった。甲斐は沈んだ眼つきで、しかし殆んど無感動に
「六十万石を二つにか」と安芸が云った。
だがほかに人がいないわけではあるまい」と安芸が云った、「将軍家補佐として保科(正之)侯もおり、川越の
甲斐は立って、安芸のところへ挨拶にいった。そして、こんどは自分の席についた。
れた、私はその証拠を見たのです」彼は安芸を見て云った、「私が出府してすぐ、宇田川橋へ挨拶にいっ
は云った、彼は富塚の言葉をまったく無視して、安芸に向かってつづけた、「それで、いかなる人が一ノ関さまに札を入れた
安芸はしずかに云った、「すぐ江戸番になるのだが、在国が解けて
「船岡どの」と安芸が云った、「久方ぶりで、一つまいろう」
給仕の少年が、安芸から盃を受取って立ち、甲斐の前へ来た。甲斐が盃を取ると
注いだ。甲菱は盃の中を見、その眼で安芸を見た。
常居の間という感じだった。二人がはいったとき、安芸のうしろにいた一人の若い女が、立って、こちらへ目礼をして
た。安芸が寝所から出て坐り、女がうしろから、安芸の髪を直していたものらしい、周防は燭台を近よせた。
だけで、決して消滅したのではない、決して」と安芸は云った、「外に酒井侯があり、一ノ関は伊達家のまん中へ、
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午前の十時ころ、――仲町の通りは、浅草寺へ参詣する人で、かなり賑わっていた。おみやは知った人はいない
から出て来たおみやは冬空に高く棟を張った、浅草寺の本壁の屋根や、五重塔を眺めるようすで、すばやく道の左右に眼を
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た。雅楽頭は五人の供をつれていた。寛永寺へ参詣の戻りだそうで、座敷へとおると白湯を求め、懐中薬をのん
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「岩ヶ崎(田村右京・このとき栗原郡岩ヶ崎一万五千石)さまはともかく、一ノ関を後見に据えたのは酒井侯の主張
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――自分が江戸へ来たのは、去年の六月だから、この五月が御番あけ
「御病気の治療をするために、江戸の良い医者にかかりに来たのだ、と仰しゃっていらっしゃいます」
おくみが加わった。蜂谷は四百石の物頭で、去年から江戸定番になって来ていた。伊東七十郎は伊達の家臣ではなかった。
いごこちがいいとみえ、船岡の館でもそうだし、江戸のばあいでもしばしば原田家に滞在した。七十郎は多能多才で、弓、
奔放なたちで、ひとところにじっとしていない。仙台、江戸、京、大阪、また北は津軽から南部、越後あたりまで気がるに歩きまわるの
――くみの申すには、江戸で良医の治療をうけるためだと申しておられるが、病気のようには
それからあとは、私の国の船岡へひきとるつもりだ、江戸にいては、いろいろと面倒なことが多い――両親を討ったものが
た。妻の律も、かれら供の者たちも、江戸へ着いて以来五日、無届け出府のため、甲斐のおもわくを案じて、ずっと
が、正保元年、二十四歳のとき、兄にすすめられて江戸へ出て来、まもなく一万石の直参大名になった。直参大名と
で、一ノ関からすぐ仙台へとばしました。里見十左衛門はすでに江戸から到着しておりましたが、奥山どのが吉岡の館へまいられたの
とみえましたが、やがて安房さまが、入札の件は江戸にある一門老臣の合議で定ったことだから、自分はそれに従うことに
――意見は江戸へまいってから述べるが、御一同が入札をなさるなら、自分もいちおう入札を
「在国の者と江戸の差だな、こっちではさすがに頭をつかう者がある。入札もいちよう
―そのとき母はすでに死んだあとで、一家三人は江戸へ出て来たが、江戸へ来るとまもなく父も死んだ。母
あとで、一家三人は江戸へ出て来たが、江戸へ来るとまもなく父も死んだ。母の墓は大垣の在にあり
兵衛は剣術が上手で、大垣でも評判だったし、江戸へ来てからも、諸方の道場へいって試合をしたが、負けた
「江戸から三日かかりました、江戸を出たのが七月二十九日ですから」
「江戸から三日かかりました、江戸を出たのが七月二十九日ですから」
「江戸へ逃げ帰ったのは、そのためか」
「おまえは江戸に残れ」と甲斐は云った。
)どのがのぼられれば私も帰国する、達弥はそれまで江戸にいるのだ」
日の夜。中黒達弥が自殺しようとした。達弥は江戸に残されてから、ひと間にこもったきり、人と話しもせず、
、母は朽木氏であった。鳥取で生れたが、江戸へ出て、十三歳のときから叔母の紀伊に養われた。紀伊は初め
「おまえは、護送される途中で脱走し、江戸へ戻って来たときに、原田どのを頼るつもりだと云っていたな
――いまかの者がまいり、宮本新八が江戸にいると申しました。
を気仙沼にまわし、御蔵米と称して自分年貢の米を江戸へ回漕している、これはたしかな事実だが、これらについても
これはたしかな事実だが、これらについても、江戸の重職の意見が聞いておきたいと思う」
起こる、隼人にも苦労をかけなければならない、惣左衛門は江戸で勤めてくれ、惣左は江戸では欠くことのできない人間だ」
ばならない、惣左衛門は江戸で勤めてくれ、惣左は江戸では欠くことのできない人間だ」
いうことがわかったからである。――惣左衛門はまた、江戸で正月をされては困る。一日も早く帰国されるように、と
どもから聞いていたし、厩橋侯であることは、江戸の市民なら誰でも知っているであろう、と答えた。
あがって、幼君に帰国のいとまを乞い、それから戻って江戸に残る家従たちと簡単に別れの盃を交わしてから、船岡へと出発
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から涌谷さまが来られた、藩邸にはまだ内密で、小石川の普請小屋に周防どのとおられる」
風邪が治って、甲斐が出仕した日に、小石川の普請場で事が起こり、評定役に検分を求めて来た。朝から
―綱宗さまの不行跡は茂庭どのがすすめたものである、小石川の堀普請がはかどらず、多額の失費を重ねて藩の財政を窮迫せしめ
「場所がない」と周防が云った、「小石川の小屋場からはなれられないし、小屋場では会う場所がなくなった。どんな隅
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ていたが、いまでは隠居して、くにもとの志田郡松山の館に、ひきこもっていた。
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さらに藩家の一門である伊達兵部少輔から信任され、四国老のなかでは、誰よりも大きな権力と威勢を張っていた。
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歳のときから叔母の紀伊に養われた。紀伊は初め江戸城の大奥に仕えていたが、池田輝政の女、振姫が、将軍秀忠の
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かれらに一ノ関を抑えることはできない、周防も主膳も兵庫も、おそらく一ノ関に操縦されるのがおちだろう。
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「湯島がみえました」と惣左衛門が云った。甲斐は黙って惣左衛門の顔を見
「湯島へいらっしゃいました、お友達という方とごいっしょに」
た。かれらはみなおくみを知っていた。おくみの湯島の家で、しばしば馳走になっているので、甲斐とおくみとの片づかない
「つまり湯島へ寄ったのはその帰りですか」と甲斐が云った。
「御用で出られなかったって、湯島へは半月もいらっしゃらなかったのに、曲輪へいらっしゃるひまはおありになった
「湯島の家をまかなうんですね」
――湯島に家があります。
信助という海産物問屋の妹で、八年ほどまえから、湯島に家をもち、あの方がそこへかよっておられるのです。
――湯島の家へはあの方の知友もしばしばゆかれますが、みんなそれを知って
――それに、湯島の家は雁屋で買い、数寄屋の増築や、庭の造り変えなど、ずいぶん金を
――湯島へ人を増しましょうか。
古参だったので、そのあいだぬけることができず、もちろん湯島へゆくひまもなかった。
――それから湯島へも。
良源院を出た甲斐は、そこから湯島へまわった。
日、無届け出府のため、甲斐のおもわくを案じて、ずっと湯島の家から出ずにいたのである。
湯島の家の居間で、原田甲斐は机に向かって覚書を書いていた。
――湯島の家ではくみという女といっしょでございます。
湯島の家へゆくと、甲斐は寝間の支度をさせて横になった。
は中座して、いちど帰宅したうえ、夕方ちかくに湯島の家へいった。柴田外記が上府したので、彼の江戸番の
ですか、と惣左衛門が訊いた。そこで甲斐は初めて、湯島へ雅楽頭のあらわれたことを話した。惣左衛門は頭を垂れた。主人の
その日、湯島へは矢崎舎人と中黒達弥、それに塩沢丹三郎が供をした。
信助は甲斐にそうすすめ、自分の費用で、湯島の家を手にいれた。そして、「お側の用をさせて下さる
。兵部にそんな必要があろうと思えないし、そのために湯島などを訪ねるような、雅楽頭とも思えなかった。
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、「将軍家補佐として保科(正之)侯もおり、川越の侍従(松平信綱)もおられる筈だ」
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左は寺、すぐ向うに愛宕山が見える。右側は武家屋敷で、仲間たちが門前を掃いているのが見えた
だが、六郎兵衛はすぐに丹三郎を追いつめた。そこは愛宕山の下で、左に男坂の高い石段が見える。丹三郎は溝に架かった一間ばかり
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、ひとところにじっとしていない。仙台、江戸、京、大阪、また北は津軽から南部、越後あたりまで気がるに歩きまわるのであった。
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「古内は高野山へいった」
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良源院は増上寺の塔頭で、伊達家の宿坊になっていた。増上寺で将軍家の年忌
寺の塔頭で、伊達家の宿坊になっていた。増上寺で将軍家の年忌行事などのあるとき、それに列する藩主や重臣が、そこで
たつ女には聞えなかったらしい、振返って、増上寺の山門が見えると云った。振返ると、松林の梢をぬいて、意外な
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たが、――おれのところへやって来おって、小日向の普請小屋に、不取締りのことがあるから、注意するようにと申しおっ
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、「私は詳しいことは知りませんが、御領内の金山は、政宗公が豊家から拝領したとき、いかほど金を産するとも、自分
公儀へ、産金のいくばくかを献納するとすれば、その金山は本藩に属するでしょう、そうでないとすれば、鉱山は土地に付いたもの
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た石段である。――のちに丘上の叢林をひらいて天満宮が建てられ、そこから北よりに切通しができてからは廃絶してしまったが
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ない、私はその冗談のわからないところが好きだ、いったい仙台藩には冗談のわからない人間が多いけれども、里見さんほど生一本で、混りけなし
――金も持ってはいないし、仙台藩の追手に捉まるだろう。
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「冬になると、蔵王のお山から雪になる」
「わたくし、今日のお話しをよく覚えておきますわ、蔵王のお山や、青根の湯泉や、白石川や阿武隈川のことを、―
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たが、いまでは隠居して、くにもとの志田郡松山の館に、ひきこもっていた。
「では松山へこれを」
の姉に当っている、茂庭家の娘だ、おれは松山の館で、まだ少女だったあれを見た、顔だちの美しい賢い娘だっ
「烏帽子親は、松山のお祖父さまにお願いするのだと、仰しゃっておられました」
松山の祖父とは茂庭佐月のことで、母親の律が佐月の女であり
「松山が待っているんだ」と甲斐が云った。
律はさしのばしていた手をおろした、「松山って兄でございますか」
」と安芸は甲斐を見た、「下総の中田宿で松山どのからの密使に会った、藩家の大事について申し告げたいから
「席は松山さんです」
「涌谷どのもそうだが、松山(茂庭周防)もきちんとした人だ、七十郎が招かれているならべつ
ひと言だ」と甲斐は云った、「かれらが、特に松山と私に眼をつけていることは、わかっているな」
いうことは、かれらにもすぐわかってしまう、松山は松山で考えてくれ、私には私で手段がある」
だということは、かれらにもすぐわかってしまう、松山は松山で考えてくれ、私には私で手段がある」
「松山には本心が云える」
ことは、一ノ関さまのほうにもとっくにわかっている、松山がいまそんなことを云うのはおかしいくらいだ」
時代には、近い親族の年長者をたのもしく思うものだ、まして松山と私とは重縁になっているし、年も三つちがいで、そこもと
―明けがたまでなにごともなく、彼がうとうとしていると、松山どのの声が聞えたそうです。
――いや、松山どのだけで、涌谷さまの声はしなかったと申します。
、そうすれば甲斐は船岡へ帰ることができる。彼は松山の茂庭佐月に、そのむねを手紙で知らせ、また、同じ意味の手紙
云った、「彼は招かれてはいないんです、松山(茂庭周防)は御承知のとおりの気性だし、涌谷さまは規矩を紊
「涌谷さまが帰国されるので、松山の家で別宴が設けられたときです」
甲斐は首を振った、「松山が来るんだ」
つよく追求しているらしいが、工事を完成させるために松山は精根をつくしている、そのうえ密訴のことなど、どうして私に
「松山は疲れている」
「松山は疲れている」と甲斐はまた云った。
ただ推察されることは、一ノ関が吉岡を怒らせて、松山とのあいだに紛争を起こさせるだろう、ということだ」
「いつか松山の家で、涌谷さまと三人で話した」と甲斐はつづけた、
「松山は辞職すべきだ」と甲斐は云った、「堀普請が終りしだい辞職
云った、「そこもとが帰国したら松山の館を訪ねよう、松山からなら涌谷へも近いし、なにかの機会があるかもしれない」
なるか」と甲斐は云った、「そこもとが帰国したら松山の館を訪ねよう、松山からなら涌谷へも近いし、なにかの機会が
私は堀普請が終ったら国老を辞任する、それからは松山の館にこもるから、どんな役にも立てるだろう」
「松山は疲れている」と甲斐が云った、「別れよう、大事にしてくれ
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である。御他界のおり、みまいに来られた水府(水戸頼房)卿が、「つな宗どの若年なれば、兵部どのにはよくよく家中
はじめてからはだいぶ諸方から小言が出た、去年あたりは水戸家からも意見されたそうですがね、ではどんな御乱行かと
ほど大きかったろう。周防は特に久世侯の周旋を謝するため、水戸(頼房)家より贈られた毛氈十間に、酒肴をそえて届けた
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その朝の客は三人、――仙台へ使者に立つ里見十左衛門と、蜂谷六左衛門に伊東七十郎という顔ぶれで、それ
彼は奔放なたちで、ひとところにじっとしていない。仙台、江戸、京、大阪、また北は津軽から南部、越後あたりまで気がるに
ない、私はその冗談のわからないところが好きだ、いったい仙台藩には冗談のわからない人間が多いけれども、里見さんほど生一本で、
は二年もかよいつめているそうですがね、これが仙台侯と思い当るような人はいないというんです」
主張するのは大学の意志によるものと考えられた。仙台にいる大学から、勘解由になにか命じて来たに違いない。そうで
遠山勘解由は、奥山大学の弟であった。大学はいま仙台にいる、勘解由が自説をつよく主張するのは大学の意志によるものと
(忠清)と、伊達兵部少輔宗勝とが結託のうえ、仙台六十万石を横領しようとして、その計画を現にすすめている、という
領から分けられたもので、名は直参でも事実は仙台御一門でございましょう」
「それと同じ意味で、こんどは仙台領を二分した三十万石を一ノ関さまに、という考えではない
――仙台でひまをとりました、御城下はすっかり秋でございましたが、こちら
――お使者をいただきましたので、一ノ関からすぐ仙台へとばしました。里見十左衛門はすでに江戸から到着しておりましたが、
――仙台からですか。
「仙台から指図をしたのだ、おれは大学がなにか始めるだろうと思って
「いま国から大槻斎宮が着いた、仙台のようすはほぼ予想どおりらしい。大学がまいるとひともめあるぞ」
ん、追われているんです」新八は云った、「仙台へ送られる途中で逃げたんです、捉まったら命はないでしょうから、これ
――金も持ってはいないし、仙台藩の追手に捉まるだろう。
出てみせる、きさまがその人間の名を云わなくとも、仙台六十万石の名は出ずにはいないぞ」
酒、――かような幼児に仙台六十万石の仕置はできない。故、政宗公の血統にて、十五歳以上
酒、――仙台をとりつぶせと。
た。彼は黒川郡吉岡、六千石の館主で、そこは仙台領のうちもっとも肥沃の地であり、したがって勝手向きも豊かであった。
れる幕府の国目付(幕府から諸国へ出される監察使で、仙台は毎年二人、任期は半年であった)が、将軍の墨印を持って
九月二日に、仙台へ派遣される幕府の国目付(幕府から諸国へ出される監察使で、仙台
「黙れ甲斐、仙台六十万石はおれのものだ」と綱宗は叫んだ、「兵部の陰謀に
幕府から国目付が来るので、自分は仙台へいって来た。
「わたくしまた、あなたは仙台へいらしったものとばかり思っていましたわ」
はまた唇を舐め、ふるえながら、せかせかと云った、「仙台へ送られる途中で、原田さんに救ってもらい、それからずっと匿まわれて
――仙台の奥山(大学)どのから、また密訴の書面がまいりました。
に紛争を起こさせようとしている、知ってのとおり、仙台人は我執が強く、排他的で、藩家のおためという点でさえ
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ているのは、安芸の側用人の千葉三郎兵衛であった。千葉は甲斐を見ると、少しその座をさがった。
いた。給仕をしているのは、安芸の側用人の千葉三郎兵衛であった。千葉は甲斐を見ると、少しその座をさがった。
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を分割するという陰謀は重大である。元和五年に福島正則が除封されてから、蒲生氏、加藤氏、田中氏はじめ、
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、三沢権佐といい、母は朽木氏であった。鳥取で生れたが、江戸へ出て、十三歳のときから叔母の紀伊に
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「でも三年まえにいちど、……そのときは深川のほうにいたんだけれど、兄が五人の侍と喧嘩をし
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綱宗はすぐに品川の下屋敷へ移った。
まえの日に、藩主が幕府から逼塞を命ぜられて、品川の下屋敷へ移った。しぜん門札の更新ということもあり得るので、
「彼はまだ品川へゆくようすはないか」
「品川へは必ず供をしろ」
たちは、たいへんですのね」と宇乃が云った、「品川のお下屋敷まではずいぶん遠いのでございましょう」
そして雨のあがった午後、綱宗に伺候するため、甲斐は品川の下屋敷へいった。
大町備前が品川の家老に選ばれたのは、綱宗がこちらへ移った直後であり、
「品川の下屋敷には、大町備前が家老として詰めておる、おれは後見役
、いちど住職と方丈へゆき、そこでしばらく話した。品川の下屋敷から、綱宗夫人の使いがあり、伝来の香木で持仏を彫らせ
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――あの女は日本橋石町の、雁屋信助という海産物問屋の妹で、八年ほどまえから、
まもなく数寄屋で酒宴がひらかれた。日本橋から雁屋信助と、その妻のきわがよばれて来た。男芸者が
へ来て、おみやと何か話しだした。お久米は日本橋のほうの、回船問屋をしている老人のかこい者で、おみやの話し
―雁屋が原田家の回米を受持つことになり、信助は日本橋石町の家へ、甲斐を招待した。そのとき給仕に出たおくみは
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意外なくらい近く、その山門が見えた。来るときには御成門から入ったので、いちどまぢかに眺めたのである。いまは高い
御成門を出ると馬場があり、そのさきは武家屋敷がつづいている。真向から
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、上野に近いほうにあった。和泉橋を渡って、神田明神社の脇の坂をあがり、林大学頭家の馬場(そこには
、ひところは男達として暴れまわった。数年まえ、神田明神の祭礼のときに、五人づれの侍たちと喧嘩になり、危うく
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その家は湯島台の、上野に近いほうにあった。和泉橋を渡って、神田明神社の脇の
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が、そのまえ、ちょうど部屋に灯をいれているとき、銀座の鳩古堂から、手代の助二郎が筆を届けて来た。
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だろう、周防どのは総奉行で、三日にいちどずつ吉祥寺の支配小屋へ泊られるのだ」
「吉祥寺橋だ」と甲斐は提灯を消しながら云った。政右衛門は黙って頷き、
おおかた伐られていたが、そこにある橋は、まだ吉祥寺橋と呼ばれていた。
十七八町。お茶の水を越しておりると、まもなく吉祥寺の前へ出る。その寺はすでに駒込へ移ることになっており、境内
を詰めておられた。酒井侯の言葉は、先夜、吉祥寺橋の普請小屋において、茂庭周防の語ったことと符を合わせるもの
川の筋違橋から、西へ遡のぼり、お茶の水の堀、吉祥寺橋、小石川橋を経て、牛込御門、土橋に至るあいだ。それまで
検分のあと、吉祥寺橋の小屋場で、一刻ほど話しあった。――会談が終って、出ようと
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と、まもなく吉祥寺の前へ出る。その寺はすでに駒込へ移ることになっており、境内の木などもおおかた伐られていた
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普請小屋まで十七八町。お茶の水を越しておりると、まもなく吉祥寺の前へ出る。その寺はすでに
神田川の筋違橋から、西へ遡のぼり、お茶の水の堀、吉祥寺橋、小石川橋を経て、牛込御門、土橋に至る
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。元和五年に福島正則が除封されてから、蒲生氏、加藤氏、田中氏はじめ、除封削封された諸侯は十指
――蒲生浪人 野中又五郎。
又五郎は三十二歳、自分でなのるところによると、蒲生家の浪人で、妻の名はさわ、九歳になる娘はお市
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午前の十時ころ、――仲町の通りは、浅草寺へ参詣する人で、かなり賑わっていた。おみやは知った人は
から出て来たおみやは冬空に高く棟を張った、浅草寺の本壁の屋根や、五重塔を眺めるようすで、すばやく道の左右に
二人は半刻ちかく歩いた。新八には、浅草御門をぬけたことだけはわかったが、それからさきは、どの町
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神田川の筋違橋から、西へ遡のぼり、お茶の水の堀、吉祥寺橋、小石川橋