新潮記 / 山本周五郎
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いる。柿崎兄妹を此処まで導いたのもそのゆかりだ。宇和島藩に匿まわれた菊池為三郎がなければ、兵馬はおそらく脱藩の覚悟まではつかなかっ
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遺骨の一片を拾って、かれらは山麓からこの箱根へ来た。そして塔ノ沢にあるこの温泉宿へ草鞋をぬいでから今日でもう
、きっとそうでしょう、貴女がたのあとを跟けまわして、この箱根で網を張っていたのかも知れませんよ」
「箱根で湯治などという芸当のできる柄じゃあるまい、それとも誰かのとりまき
「箱根のその宿に、三日おりました、折あしく雨にもなり、その三
の書肆の方、妓の方たちとお伴れになって箱根を立ってまいりました」
しそうもないことに気づいたのである。いつぞや箱根の宿でかの女は、――わたくし、あの方を憎みました、人間
答えて、なにやら面映ゆげに眼を伏せた。いつか箱根の宿で告白した言葉を思いだしたのか、それとも単純にその場
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つもりで、ある雨の夜ひそかに脱出した。すると鳥坂峠へかかったところで三名の追手に追いつめられた。
「いま思えば、そのとき鳥坂峠で斬り死をしたほうが、兄のためには仕合せでございました」藤尾
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「木曽へは大さんがいってくれるかね」
だった、わたしも狙うなら彦根だと思う、それには木曽の駒場にもう手金がうってあるし、銃砲の鋳工所も校川さんの
「それでわたしは木曽へゆくんだが、木曽から大阪の店へまわって尾州領の鋳工所と
「それでわたしは木曽へゆくんだが、木曽から大阪の店へまわって尾州領の鋳工所というのを見て、大和
「太橋の大助が木曽へ商用にまわるそうで、幸いですから私も同行しようと思います」
「いいえ、木曽から先はどうなるか未定です、私にはまたという折もありません
は秀之進の眼をつよくみつめながら云った、「太橋と木曽から大阪へゆくというが、おまえはみんなと事を倶にするつもりはない
「此処の若旦那が木曽から大阪へいらしったこともご存じのようすで、なんでもあとから探索を
「この辺できまりをつけるほうがよくはないか、木曽へはいるまで跟けられては迷惑だ」
「ときに……木曽のほうはどうした」
「誰がでたらめを云いますか、木曽から大阪まで、宿でも道でも到るところで調べられどおしでしたぜ
の探索がにわかに厳しくなったので、心を残しながら木曽へ立ってしまったのであった。
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のある人物だということを思いだした。若狭の人で梅田なにがし……高松の左近さまの屋形で会ったのかも知れぬ。たしか慷慨
「若狭の人で梅田……」大助はすぐに思い当った、「源次郎と仰しゃる方ではございません
は黙っていた。黙っているよりしかたがなかった。梅田は若狭の人だという。はじめて東湖を訪れたとき来ていた客で
梅田はずいぶん諸国をあるき知名の士を数多く知っていた。かれが口をひらく
左近頼該にも会ったという。しかし誰も彼も梅田には気にいらぬようだ。みんな口ばかりで、実行力のない、御都合主義の
「若狭の梅田、……」
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「お武家では三条とか甘露寺などという伝法があるそうでげすな、里神楽や下座鳴物の笛
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伴林高斎(光平)はのちに十津川の挙兵に参画し、敗戦して刑殺された。摂津に生れ僧籍にあっ
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が頻りに出た。話題の内容まではわからないが「蝦夷」だの「エトロフ」だの「魯西亜」だのという名がときおり聞えるところ
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、宇和島へ多田慎之助という剣法修業の浪士が来た。浜松の浪人だと名乗っていたが、実は水戸藩士、菊池為三郎だった
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よるのではなく時代が決定したと仰しゃる、それは水戸藩が新しい時代に立ち高松が旧態にある、そういう意味だと思いますが、
のですか、そしてそれは先生おひとりのお考えですか水戸藩ぜんたいの思潮ですか」
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いう印象を与える。かれは早水秀之進といい、讃岐の国高松藩の郷士の子であった。
とは雲壌の差だ、拙者ももう去る、貴公はたしか高松藩だと思ったが」
「高松藩の事情の複雑さは」と東湖は雷鳴に構わず云った、「それを
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十津川の挙兵に参画し、敗戦して刑殺された。摂津に生れ僧籍にあったが、還俗して大和斑鳩に住み、国学を論じ勤王
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「わたくしは伊予のくに吉田藩の生れでございます」
「伊予、するとおなじ四国だったのですね」
たまま気の毒そうに訊いた、「こちらさまのお国は伊予ではございませんでしょうか」
伊予の者ではないかと帳場へ訊きに来た、ゆうべの男たちに相違
さしつかえございません、梅八ともうひとり、ふしぎな縁で伊予の吉田藩士のむすめを預かっておりますが、勤王の士でございました
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なので府中藩の目付の手はとどかない。かれは北浦の岸に臨んだ静かな宿を選んで草鞋をぬぎ、食事が済むとすぐ
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客のあっという声で、梅八がふりかえるより早く、萩の茂みからとびだした三人の武士はものも云わずに踏みこんで来た。
「切手御門か、萩の御門、この二ついずれかと申すことでございます」
御門の前まで来た。そこからはさらに南にある萩の門の出入りも見える。かれは道を隔てた槻の木の林の中
に気づいたとみえ、秀之進の動作をみつめながら、じりじりと萩の門のほうへ位置を移しはじめた。
」と答えるのが聞え、同時に七人の者はどっと萩の門のほうへ崩れだした。
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た。およねは中洲のさる料亭のまな娘だという。また本所あたりの担ぎ八百屋の子だともいう。西国辺の大名のおとし胤だと
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「実はね」くっくっと八十吉は喉で笑った、「土浦で少し遣いすぎて旅費が無くなったんですよ、それだもんで江戸へ帰ろう
それはすぐにわかった。土浦で使いすぎたというのも嘘である。みんな口から出まかせだ。それは
が違ってくる」秀之進はしずかに遮った、「あいつは土浦の向うから跟けて来た、ようすをみるとおれを斬るつもりらしい」
か口早に囁くと、「大助さん、あんたはこの舟で土浦へ戻って呉れたまえ」
「あの連中に土浦まで戻って貰うのさ、あんたは江戸へ帰って呉れ、これからは独りの
土浦から素性の知れぬ者に跟けられていた。その緊張がとけて、久しぶり
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、あれは早水秀之進、わたしは太橋大助といいます、江戸から水戸へこころざしてゆく途中なのです」
いたが、実際には無役だったので、かれは江戸へのぼって昌平黌へ入学することを願い出た。しかし平素のかれの熱烈な
落着き場所を思いつきました」大助はふりかえって云った、「江戸へまいりましょう、こんな事にはもってこいの男をいまみつけて来ました
て長子頼該を高松へ移した。――病弱だから江戸にいては悪かろう。という理由だったが、まえから疎んじていたの
藤尾を伴れて江戸へ出た彼は、校川家を訪ねて秀之進が既に水戸へ立ったこと
「おとつい江戸から出て来たんですが」大助の頭にも警戒すべしという感じ
遣いすぎて旅費が無くなったんですよ、それだもんで江戸へ帰ろうか、旅費をとりよせようかと迷っていたわけなんだ、なんの
「但し、ふたたび江戸へは帰れないつもりでね」
「つまり、……要点を云えば、江戸へつれて来て知り合いの女の家へ預けたのさ、知り合いの女と
「あの連中に土浦まで戻って貰うのさ、あんたは江戸へ帰って呉れ、これからは独りのほうが安全だ、たのむよ」
は、府中でうまくまいたあの男のことだった。江戸からずっと跟けて来た。滝川内膳ふくしんの者だという。そして明らかに
、十年もまえだったか、もう少しまえかな、江戸へ出府なすったときに、校川氏の案内で水戸へおわたりになった
御野心もあるように思われる、いや邪推ではない、江戸のさるたしかな筋から聞いているのだ、これはいかん、これはここ
とおり単純ではありません、讃岐守さまと左近さま、江戸と国許、ひと口に申してもこの二つの流れがあります、そして」
斉昭はながくはいなかった。「近く江戸へ出るかも知れぬ」そう云うのが聞えて間もなく、別の供
から、まるでから梅雨をとりかえしでもするかのように、江戸の空は陰暗な雲に掩われ、小雨の降ったりやんだりする不順な天候
「水戸の早水さんから手紙が来ました、早水さんは江戸で校川さまに会ってゆかれたのですが、そのときのお話に
「まったく、高松も江戸も、われわれはなにもかも太橋さんだったからな」
四五日まえ、かれは江戸の店をやっている兄の助次郎にうちあけられて、太橋の財政が思い
てきたことを知った。太橋家は高松でも江戸でも、勤王攘夷の志士たちにできる限りの援助をしていた。……
…大助もうすうす感づかないではなかった。高松の父も江戸の兄も、なに大丈夫だ、心配するなと云ってはいたが、どこ
とは没交渉で、剣を習い学問をした。儒学は江戸の昌平黌で古賀同庵につき、蘭学は讃岐で伊藤宗介に手ほどきをうけ
出がけに大助はそう云い残していった。秀之進の手紙に近々江戸へ帰ると書いてあったからである。
いた。そのあいだに運ばれて来た洗い鯉や、江戸には珍しい胡桃豆腐や、焼鮒や、鳥の酒煎りなと、多くはつまに凝っ
秀之進が江戸へ戻ったのは六月七日のことだった。かれは皀莢小路の家
」通助は寒笑を顎で示して、「こいつは江戸に置くと危険です、といって斬るほどのこともなく、貴女のお草履
でも婦人は関手形が必要だったのである。殊に江戸から出る場合は厳しかったが、高松藩は幕府の重職だったし、そういう
「困った、この手紙では江戸へ帰ってもしようがないし、といってほかにどうしたらいいか…
どうにでもいい、さっぱりと解決をつけたいんです、江戸からずっとそう考えながら此処まで来ました」
が呼びかけたとき反射的に自分を護ろうとした、……江戸へ帰りたまえ」
可能にすることが……われわれの唯一の生きる道だ、江戸へ帰りたまえ、腫物は根から剔抉しなければ治りゃしないぞ」
秀之進には今はじめてわかる。江戸から此処へ来るまで、執拗にあとをつけて来たかれ、斬るつもりなら機会
決意はわかったろう、……解決は二つある、此処から江戸へ戻るか、それとも」
十日ほど前に江戸から帰って来た大助は、使用人たちの先に立って、しきりに浜と
江戸を出るときのもくろみはすべて手違いになった。尾州家の売買停止令で、
もっておいでなさる、おれはその地固めをするつもりだ、江戸へも、またもういちど水戸へもゆきたい、身にかなうことならなんで
出てみまして、それからどこへでもまいります、江戸にも、水戸へはぜひもういちどまいりたいのです、お耳に達して
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「早水さん、ぜんたい富士山はどこへ行っちまったのかね」というのが精々だった。
娘を捨てていっていい道理はない、だって、こんな富士山へ登るような気まぐれをする暇があったんだからな。
月はじめのよく晴れた日で、すでに雪を冠った富士山が、蒼穹をぬいてかっきりと聳えたっているのがみえた。兵馬はおおと
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ようすをふり払って校川家を辞した。……すると小石川御門を出て三町あまり来たとき、うしろから「秀之進」と呼びながら
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がゆきとどいている。あけてある北側の窓からは、なるほど筑波の翠巒が一望で、宿の主人の心くばりのこまかさがよく感じられた。
のほうは(藤田小四郎、つまり後に天狗党を興して筑波の義挙を決行した)眼の大きな、ひきむすんだ口許のいかにも意思の強
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「伊予、するとおなじ四国だったのですね」
ても、藤尾をそれと確認してのことでなく、四国の者で男女づれというところに眼をつけたのだと思われる。おそらく
「四国の讃岐の者です」
に身分も姓名もちゃんと名乗った、それなのに貴公は四国の讃岐だというだけで、身分も名も答えていない、武士と武士
、実はおじさんは藤田先生にお眼にかかりたくて四国という遠い国からたずねて来たんだ、今日上市へ宿をとったばかり
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その本ならお預かりしてあるよ」梅八のきせるから薩摩のいい香りがひろがった、「但しこの家から持出すのはお断わりだからね
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、日ざしが強いのでそれも長くは続かない。――府中で休めばよかった、こう思って大助が後ろへ振返ったとき、いま通り過ぎて
府中は後に石岡と改称した土地で、領主は松平頼縄、二万石の城下町
「府中の古城趾を見たいのだがどう行ったらいいのか」
府中はむかし常陸の国府のあったところで、平大掾氏の居館の趾が遺っ
話しぶりで府中からの追手でないことはわかったが、これでは暫く騒ぐなと思うと
ないことをたしかめた。同時に胸へひらめいたのは、府中でうまくまいたあの男のことだった。江戸からずっと跟けて来た。
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八合目と思える岩屋へたどり着いたのは、あたりが微かに白み初める頃だった。
答えようにも舌が動かなかったのである。秀之進は岩屋の入口へ下りていって、吹きつけた雪の凍りついている重い引戸をあけた
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兄妹は長浜から船で備前へ渡り、大阪までいってそこからさらに船で尾張の宮へあがった。……兵馬の健康は
に富士へ登ろうといいだしました、実はそのまえ、大阪におりましたときから、兄はおりおり討手が跟けていると申しましたが
がおこった。すると頼該の素行がにわかに変り、大阪から俳優歌妓をよび寄せてみずから役者の真似をしたり、演劇遊楽に耽ったりし
「だいたい大阪の倉にはいった時分だと思いますが、高松へ積み出してよろしいかどうか
た、それについてわたくしに、木曽駒の買付けと、大阪の倉にある銅鉄の積み出しを、さしずしだいにとり計らうようとの御命令で
「さあそれは、……なんでも木曽から大阪のお店へまわる用があるとかで二三日うちに出立なさるということでし
「木曽から大阪の店へ……」
坐り直して云った、「先日みえて木曽駒の買付けと、大阪の倉にはいっている銅鉄の積み出しを申付けられたんだ、幕府が水府
「それでわたしは木曽へゆくんだが、木曽から大阪の店へまわって尾州領の鋳工所というのを見て、大和のようす
の眼をつよくみつめながら云った、「太橋と木曽から大阪へゆくというが、おまえはみんなと事を倶にするつもりはないのか
「此処の若旦那が木曽から大阪へいらしったこともご存じのようすで、なんでもあとから探索をつけて
「大阪の奉行から追捕がまいるようでは、それもおぼつかのう存じまするが」
……秀は太橋の店を知っておる筈だ、大阪と堺の店へ余から舟の支度を命じて置こう、亀阜荘の御用
昏れがたに大阪から船がはいり、その荷揚げが夜をこめておこなわれたし、一部は店
「誰がでたらめを云いますか、木曽から大阪まで、宿でも道でも到るところで調べられどおしでしたぜ、いったい
で調べられどおしでしたぜ、いったいあなたはどうやって大阪へ出たんです、いやそれよりも、あれから五人やったという話
そのままで話を変え、天竜を下って、わざと東海道を大阪まで出た道次を語った。尾州領へはいらなかったこと、宮から鳥羽へ
はいらなかったこと、宮から鳥羽へ渡り、船でじかに大阪へはいったことが、幕府の追捕の手を巧みにのがれる結果となったの
関係がにわかに幕吏の注目を惹いて、太橋屋の大阪の倉庫さえ、いつ捜査にふみ込まれるかわからぬ状態となった。それで積込ん
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秀は太橋の店を知っておる筈だ、大阪と堺の店へ余から舟の支度を命じて置こう、亀阜荘の御用舟なれ
するように、低いこえでそっとそう呟くのだった、「堺で荷積みのときおれは見ていた、そしていざとなれば沖人足などと
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はいんなさい」相手はこう云って歩きだした、「窓から筑波山が見える、なかなかいい眺めだよ」
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柿崎兵馬は十歳のときから宇和島の明倫館にはいって学んでいた。宇和島は吉田の本藩に当る。ときの藩主伊達
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讃岐のくに高松城の南西にあたる宮脇村の亀阜荘では、その朝はやくから表門をひらき
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へ出る、地理をよく調べておいたとみえ、そこから霞ヶ浦の船着き場へまっすぐにゆき、――玉造まで、といって舟を雇うと、
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「と、……木母寺のしもでしたか」
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高島城下で朝を待ち、それからわざとゆっくり道をつづけて塩尻までいった。そして塩尻で三日待ったが秀之進は来ないし、そのうえ
、それからわざとゆっくり道をつづけて塩尻までいった。そして塩尻で三日待ったが秀之進は来ないし、そのうえ「高島城下の付近で
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日本橋横山町の皀莢小路というのは、両国広小路の盛り場にも近く、表通りは問屋、商舗、旅館などが軒をつらねて、
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「校川さんの案では彦根城を乗っ取ることだった、わたしも狙うなら彦根だと思う、それには木曽
「あれは……彦根城攻略の旗挙げに加わる所存だと思います」
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いう印象を与える。かれは早水秀之進といい、讃岐の国高松藩の郷士の子であった。
片ほうの背丈の低い若者は、おなじ高松の豪商、太橋市三郎の二男で大助という。年は秀之進より一つ
た、「生国と名を名乗りましょう、二人とも讃岐のくに高松の者で、あれは早水秀之進、わたしは太橋大助といいます、江戸
上屋敷へ着いて校川宗兵衛の宅をおとずれた。くにの高松とは違って家臣たちの家はみなせせこましく、門を並べ垣を接して
かれは五歳の秋に讃岐の高松へ移り、そこの郷士早水市左衛門の養子として育てられた。市左衛門は
甲辰の事は由来その根が深く広い、本枝(水戸と高松)のあいだを調停するためには、除かなければならぬ障碍がたくさんに
一緒でなければならぬというわけではないのですが高松から一緒に出て来て、水戸まで同道する約束なんです、あれは
を向けた、「宿帳にしたためたとおりだよ、讃岐の高松の者だ、どうしてそんなことを訊くのかね」
と申すものですから、どうもたいへん失礼を申しました、高松でいらっしゃるんでございますね」
持っておることと思われまするが、四月二十七日に高松を発足、東下つかまつったとござります」
と思う、離れているからそう思うのではない、去年高松へ帰ったときはできるかぎりの暇をつくって会った、夜をこめて
を高松へ養子にやるのである。こうして水戸と高松とは、実に濃い血のつながりと、本枝不離の密接な関係をもち
高松の頼豊の子だった。そして同時に自分の子を高松へ養子にやるのである。こうして水戸と高松とは、実に
、これが綱条である。綱条の跡を継いだのも高松の頼豊の子だった。そして同時に自分の子を高松へ養子にやる
を継いだことに非常な慚愧を感じ自分の嗣子には高松の松平を継がせ、水戸家三代には兄の子を迎えた、これ
た、長男の頼重は父の跡を継がないで別に高松へ松平家を創立したのである。光圀は二男たる自分が家を
をとるというのは妙であるが、これは水戸と高松との微妙な関係による。すなわち水戸の二代光圀は頼房の二男で
は水戸から頼恕を入れるとしばらくして長子頼該を高松へ移した。――病弱だから江戸にいては悪かろう。という理由
おこった。しかし頼該自身がまことに唯々諾々として高松へ移ったので、家臣たちの反対は騒動に及ばずして歇んだ
いう気性で、家中の嘱望を集めていたから、この高松移居にはかなりはげしい反対運動がおこった。しかし頼該自身がまことに唯々
結果として、本枝の濃い血のつながりにある水戸と高松とのあいだに不和を招来することになったのである。頼胤と斉昭
を自分は譴責する立場になった。兄としては高松のすべてをあげて水戸家に尽瘁したいであろうに、自分は枝藩
ちがいない。父の偏愛によって兄は長子でありながら高松に一生ひかげの生活をしなければならぬ身の上だ。それに反して三男
それにもかかわらず、頼胤の心を苦しめたものは、高松にいる兄の立場だった、兄の左近頼該は無二の水戸贔屓で
が兄の身辺に険しくなりだしている。月に一回ずつ高松から来る上申書には、必ず左近頼該についての不評が記されて
、いや兄と自分のみにとどまればよい、それが水戸と高松、ひいてはもっと大きな問題にも発展する惧れがある。
名を買ったのではない、高松家臣として、高松藩のためにおのれの名を捨てても是なりと信ずるところを行なって
利害のために嬖臣の名を買ったのではない、高松家臣として、高松藩のためにおのれの名を捨てても是なり
寅寿はべつにありがたそうなようすもなくそう云った、「高松のほうへでも送って頂きましょうか、その方がさらに安全でござろうから
、いまも結さまのおはなしで、よき折もあらば高松へ移したらということであった、さいわい来月には当お上が参覲の
「来月お国入りの供へまぎれこまして高松へ送るつもりだ、それまでそこもとの家へたのみたい、拙者は覘いの的
という風に微笑した、「わたくしはまた新島がとつぜん高松へ出立し、寅寿どのが御来訪と聞きまして、なにか大事でも
の先触れと申しひろめてあるし、役目を果したらそのまま高松へゆく手筈だから」内膳はそういいながら、しかしふと宙へ眼をはしら
にちがいない、八十吉は滝川内膳の家士である。滝川は高松藩の佐幕派の頭首で、左近頼該に対し常に圧迫的な態度
その態度のしんけんさには心を惹かれた。……高松でも、左近頼該の周囲には、志士論客が集まって来て絶え
「御門前を騒がしまして申訳ございません、わたくしは讃岐高松からまいった者でございます、失礼ながら藤田先生でございましょうか」
いうのは、やはり水戸という土地がらだからであろう、高松とはずいぶん違う。
高松というより、おのれの育った環境と比べて、なにかしら楽に呼吸の
ということを思いだした。若狭の人で梅田なにがし……高松の左近さまの屋形で会ったのかも知れぬ。たしか慷慨家とし
れることを予期していた。数年このかたの水戸と高松との関係を思えば当然である。けれどもまたそこにかれが東湖を
「甲辰の事に関して水戸藩士の一部が高松侯に忿懣をいだいているのは事実です、けれどもそんなことはとるに
東湖は説明しようという風にこう云った、「水戸と高松とは義公以来もっとも血の濃い親藩であった、しかも両藩のつながりは人間関係
ふり返って考えても、義公が御世継ぎを高松へ送り、高松から水府三代を迎えられた英断は美しいものですよ、それ以来の三
「いくたびふり返って考えても、義公が御世継ぎを高松へ送り、高松から水府三代を迎えられた英断は美しいものですよ、
もない時代が来たのです、甲辰の事が水戸と高松を阻隔したのは人間感情を時代が決定した証拠なので、
新しい理念のもとに新生面を拓く時期だとすると、別して高松が旧態にあると考えられません、同時に水戸が新時代に立って
決定したと仰しゃる、それは水戸藩が新しい時代に立ち高松が旧態にある、そういう意味だと思いますが、……いま先生の
に参画しているのは事実ではありませんか、高松が甲辰の事に当って老公の反対側に立たざるを得なかった事情
れたような感じだった、「しかしまあいい、それより高松のことでも聞こう、亀阜荘さまはこの頃すっかり日蓮宗に凝っておいで
あり、いちどは老公の上京に当って、左近さまも高松からわざわざお上りになり、京の館で親しく語られたこともある」
「われら如き者も、高松にこの君ありと思ってずいぶん心強かったものだ、それが、人間はやはり
ことのあったためしはない。宿へ帰ったかれは、高松の左近頼該にあてて水戸到着の模様を書き送った。そしてその末尾に
一部を受け持っている関係からよく知っていた。計画は高松の左近さま側近にも連絡があり、志士の一部とも提携の約が出来
「だいたい大阪の倉にはいった時分だと思いますが、高松へ積み出してよろしいかどうか伺うつもりでおりました」
「高松へ送るのはよす、近日のうちに藩侯がお国入りだし、亀
源次郎と仰しゃる方ではございませんか、その方なれば高松へもいらしったことがある筈です、わたくしはまだお会い申しており
前に、太橋家の別宅があるであろう、そこへ高松藩の者が出入りをする筈だ、存じておるか」
五人の知名人が話題にのぼらぬことはなかった。高松へもゆき左近頼該にも会ったという。しかし誰も彼も梅田
とは雲壌の差だ、拙者ももう去る、貴公はたしか高松藩だと思ったが」
「いや郷士でも構わん、高松の江戸屋敷にはなかなか骨のある人物がおるぞ、これには是非と
壮烈をたのしむ士というのを聞いたとき、秀之進は高松で会った多くの志士論客を思いだした。
を去って大きく纒まらなくてはならぬと思います、高松はそれを望んでいるのです」
一理ある、だが早水さん、その話はあんたのもので高松全藩のものじゃない、そうだろう」
使者としてのあんたの価値を指すのではない、高松の考え方がどこにあるかを云うのだ、もし本当に和解を計ること
「お言葉ですが、高松の事情はご存じのとおり単純ではありません、讃岐守さまと左近さま
ない、左近さまの望むのはそれだけれども、老公と高松とを離反せしめた事情を考えれば、いま両家の合流を計ることは
だ、「本枝和解よりも先決問題ではないのか、高松には限らぬ、どこの藩でも事情は同じことだ、新しい時代の
たまたまそういう時期に起こった、最も水戸の盾となるべき高松が、却って検非違使となって水戸に臨んだ、そこから本枝離反が生じた
などは末の問題だという意味もそこにある、水戸高松の離反、各藩における新旧二派の拮抗相剋、それはそれ自身ひと
「高松藩の事情の複雑さは」と東湖は雷鳴に構わず云った、「
別宅へ、しきりに集まって来る客があった。あるじが高松へ帰って留守のときでも、毎月欠かさずそこで興行される俳諧の
正之進という人々、このなかで松崎平馬は五日まえに高松から出府して来た者だった。
五人の客は高松藩で、大河千吉郎、柳通助、松崎平馬、明石逸平、六角正之進という
平馬はそう云った、「かれはふしぎな刀法をつかう、高松ではよく他国から来る者を相手にしたが、ひけをとったの
がでるたびに、暴挙だと仰せられているくらいだ、高松を出て来るまでそんなはなしはなかったよ」
それは校川さま御自身でもそう仰しゃっていました、高松とはもちろん、江戸屋敷のかたがたとも別行動のようでございます」
たか讃岐へ来たことがある、激烈な論客で、高松とは意見が合わず、大いに憤罵して去った、かれならそういう事
の剃りあとの青々とした顎をぎゅっと噛み合せた、「高松の模様がだんだん歯痒くなる、いちどでかけていって活を入れて来よう
云った、「それは殿さま御帰藩の供として高松へおつれ申すことです、そしてその留守のあいだに、校川さまの計画
)どのにたのめばどうにかなる、それがいい、ともかく高松へ送ってしまうことだ」
「まったく、高松も江戸も、われわれはなにもかも太橋さんだったからな」
である。……大助もうすうす感づかないではなかった。高松の父も江戸の兄も、なに大丈夫だ、心配するなと云っては
ほか手詰ってきたことを知った。太橋家は高松でも江戸でも、勤王攘夷の志士たちにできる限りの援助をしてい
「高松藩邸におる……」
とも結城寅寿の命数はきまっている、……鈴木国老や高松侯になにやら哀訴しているそうだが、溺れる者の藁にすぎぬ
いま国老鈴木石見守を動かし、また滝川内膳と握って、高松藩の力を自分の薬籠中のものにしようとしている。そのため
思う、そこでこんどの御帰国を幸い、校川さんに高松へいって貰うように手配をしたんだ」
気運はだいぶ動きだしている、松崎さんの話によると高松のようすも僅かなあいだに変ったらしい、江戸藩邸でもかなり燃えたって来
「いま大さんは、松崎の話に高松のようすも僅かなあいだに変ったと云ったろう、その意味は単純じゃない
はない、それが避くべからざる事実だということは、高松の気運が亀阜荘さまと別に動きだしたことでわかる筈だ、
を変えた、「……そうすると早水さんはこのまま高松へ帰りますか」
待っていましょうし今宵は戻ってやすみたいと存じます、高松へはいつおたちでございますか」
つけてやったというのは間違いないな、そしてそれは高松家中の者か、それとも水戸か」
たのである。殊に江戸から出る場合は厳しかったが、高松藩は幕府の重職だったし、そういう用意は出来ているとみえ、
「名は存じませんのですけれど、高松藩の方と水戸家の方とがいっしょだと伺いました」
でなにか考えるためだったということに気づいた、「高松にひとところ落ち着き場所がある、問題なのはゆき着くまでだが……さしあたり大
いいと、秀之進はてきぱき独りできめてしまった。……高松に落ち着き場所がある、それはいったい何処だろうか、ちょっと考えると亀阜荘
讃岐のくに高松城の南西にあたる宮脇村の亀阜荘では、その朝はやくから表門
「供のなかに紛れこんで高松へ来たのは、水戸どのの家臣だ、というよりも結城寅寿ふ
、ここまで出かけて来なければならなかったのは、ひとえに高松藩が二人を隠匿したためである。礼を述べるどころか、逆に
なにも云わなかったけれど、その口うらから察すると、すぐに高松へは帰れぬ要務に就いたらしい、だから久木直二郎の「貸」が
「名だかい左近さまの法華講釈も、高松みやげに拝聴して帰りたいと思いますが、天下多事のおりから、それ
倉敷代官さし添いにて、木阪町奉行よりの使者がまいり、高松郷士早水秀之進に対する追捕の旨を申し達しました」
たくない男だ、こんな事で殺すには惜しい人間だ、高松へ戻れるであろうか」
塩屋町から通町へかけては高松城下の問屋町ともいうべく、多くの老舗が軒を並べていた。
は自分の寝床の枕許に坐って、煙草盆をひき寄せた。高松のこの家にいるときだけかれは煙草を喫うのである。
で大助とうち合せをしたうえ、こんどの船でようやく高松へ帰ったのだった。
、それから太橋屋と連絡をとると、大助はすでに高松へ帰ったあとで、四五日すれば荷船が出るという、秀之進はさらに
。それで積込んであった銑鉄、鉛の類を、急遽高松へ移すことになったのだ。
「高松だって安全ではないさ」秀之進は睡けを催したらしく、小さく欠伸
そのほうはもう大海の潮の味を覚えて来た、高松の濠の水には棲みつけぬであろう、出てゆくがよい、京
徳大寺大納言家は高松と姻親のかかわりにあり、これまで左近と堂上諸家とのあいだを、しばしば
て、彼はそうだと頷いた、「己はこれから高松を出てゆくよ、済まないがお屋形へそう申上げて呉れないか」
云わないが、わたしは今お聞きのとおり今宵のうちに高松を出てゆかなければならない、いつ帰れるかも、いや、生きて再び
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は早水秀之進、わたしは太橋大助といいます、江戸から水戸へこころざしてゆく途中なのです」
はない、このとおりのからだですから……そして、水戸へいかれるとすると、おそらく東湖先生をおたずねなさるのでしょうね」
刀を置き、にわかに眼を輝かしながら坐り直した、「ああ水戸、拙者にもあこがれの地です、だがもう行ける望みはない、このとおり
「水戸へ、水戸へおいでか」兄のほうは妹の言葉も耳にいらぬようすで
「水戸へ、水戸へおいでか」兄のほうは妹の言葉も耳にいら
妄言だとお思いになるでしょうが、それはあなたがまだ水戸を知らず東湖先生の精神を知っていないからです」
ん、これからの日本の動きの原動力は水戸にある、水戸の原動力を燃やすものは東湖先生です、こう云うとおそらくあなたは妄言だと
てはいけません、これからの日本の動きの原動力は水戸にある、水戸の原動力を燃やすものは東湖先生です、こう云うとおそらくあなた
ときの左近さまの眼光が思いだされた。宗兵衛に会って水戸への手掛りを付けて貰えという申付けの裏に、実父に会わせる
、こんど亀阜荘さま(左近頼該)のお申付けで水戸へくだることになりました、こなたに手掛りをつけて貰えという仰せで
「水戸へくだる御用向きは」
が、甲辰の事は由来その根が深く広い、本枝(水戸と高松)のあいだを調停するためには、除かなければならぬ障碍が
はとらせません、どうか此処までおはこび下さるよう、水戸の魁介だと申して下さい」
「それで、水戸へゆくと、藤田どのには、わしからもよろしくと伝言をたのむ」
介と名乗る男は怒鳴りつけるように云った、「かれらは水戸に押籠めになっていたのですが、二十日ほど前に脱走し
られた。これを甲辰の藩難というが、寅寿は水戸家の執政でありながら老中大奥と結んで暗に斉昭隠居の事を企んだ
の問答を聞いた……結城寅寿というのは水戸家の老臣である。弘化元年、藩主斉昭が幕府の譴責にあって隠居
、水戸家内諍の根づよさをまざまざと見た。かれが水戸へゆく要務もその事に係わっている、係わっているというよりもその
だな。秀之進はすぐ眼前に聞いた問答によって、水戸家内諍の根づよさをまざまざと見た。かれが水戸へゆく要務もその
ではないのですが高松から一緒に出て来て、水戸まで同道する約束なんです、あれはひどく世慣れのしない男で、本当
た。浜松の浪人だと名乗っていたが、実は水戸藩士、菊池為三郎だったのである。
の人で、明倫館には京学派、敬義派のほか水戸の学統をうけた金子魚州を入れ、隠然として尊王精神の培養
に感奮した。……回天の原動力は水戸にある。水戸へいって藤田彪に会い、尊王論を倒幕にまで持ってゆかなければ
不羈な能動性に感奮した。……回天の原動力は水戸にある。水戸へいって藤田彪に会い、尊王論を倒幕にまで持っ
菊池為三郎の知遇を得て、攘夷の急務を知り、また水戸志士の熱烈不羈な能動性に感奮した。……回天の原動力は水戸
斉昭のこと、藤田彪のこと、諸国の志士たちがいかに水戸を中軸として動いているかということ。……それが兵馬を
まではつかなかったであろう。為三郎を知り、その口から水戸の情勢を聞いた。斉昭のこと、藤田彪のこと、諸国の志士たち
の目をみるような思いがした。かれが秀之進と水戸へ行くのも「甲辰の事」にかかわっている。柿崎兄妹を此処まで
「なに、国もとから水戸へ使者が立ったと」
「一夜だけでたち去りましたがおそらくそのまま水戸へくだったものと存ぜられます」
ませんけれども、その使者とは、亀阜荘さまより水戸への使者でござりますか」
、その後もおりおりそのほう共と往来するようすであるが、水戸と当家とのあいだがらがとかく不調のおりから、それはふたしなみな仕方で
隠居はかれが水戸家を思う忠節のためと存じまする、水戸家百年の安泰を謀るがために」
「おそれながら、結城の隠居はかれが水戸家を思う忠節のためと存じまする、水戸家百年の安泰を謀るが
の子を高松へ養子にやるのである。こうして水戸と高松とは、実に濃い血のつながりと、本枝不離の密接な関係
慚愧を感じ自分の嗣子には高松の松平を継がせ、水戸家三代には兄の子を迎えた、これが綱条である。綱条の
、これは水戸と高松との微妙な関係による。すなわち水戸の二代光圀は頼房の二男であった、長男の頼重は父の跡
から養子をとるというのは妙であるが、これは水戸と高松との微妙な関係による。すなわち水戸の二代光圀は頼房の
…長子頼該が七歳のとき、父の頼儀は水戸家から嗣を迎えた。嗣子があるのに他家から養子をとるという
頼儀は水戸から頼恕を入れるとしばらくして長子頼該を高松へ移した。―
たといえよう。……斉昭隠退の原因については、水戸家の内部にも由って来たるものがあった。同時に幕府それ自身
転換を断行していた。その大きなあらわれの一つが水戸斉昭の隠居謹慎である。ごく大雑把に云うと、攘夷論の強硬派である斉昭
のとき兄たちを超えて松平家の世子となった。つまり水戸家からはいった頼恕の子として正式に頼儀の世孫
ていた。すなわち父頼恕はまえにも記したとおり水戸家から養嗣子としてはいったもので、斉昭は頼恕の実の
。その結果として、本枝の濃い血のつながりにある水戸と高松とのあいだに不和を招来することになったのである。頼胤
播磨守の二家とともに「後見」という名で水戸家の内政関渉の役に就いた。その結果として、本枝の
枢機に参画した。したがって斉昭隠退の事件にはまったく水戸家と対立することになり、また幕命によって松平大学、松平播磨守
にいる頼胤には、みずからかたく信ずるところがあった。たとえ水戸が御三家の一であろうと、斉昭が自分の叔父に当るひとであろうと
になった。兄としては高松のすべてをあげて水戸家に尽瘁したいであろうに、自分は枝藩二家と共に、
、中央にあって幕府の重職についている。兄は水戸家の伝統たる勤王の大道をまもろうとするのに自分はその地位からも
いる兄の立場だった、兄の左近頼該は無二の水戸贔屓で、斉昭にはしんそこから傾倒していた。ひそかに幾回か
よく了察し、その苦衷に同情して、おのれも一時は水戸と断つに到ったほどである。……左近はこうしてつねに弟
、いましばらくはなにもして頂きたくない、さもないと水戸家の内争にまきこまれる、兄上は兄上だけの御生活をして
として」頼胤はふとそう呟いた、「兄上が水戸へ密使を遣わされたのはどういうお心であろうか、いましばらくはなに
該についての不評が記されている。その上に水戸家となにか関わりをもつようなことになれば、又しても兄
であろう、いや兄と自分のみにとどまればよい、それが水戸と高松、ひいてはもっと大きな問題にも発展する惧れがある。
「魁介であろう、耕雲斎の二男で水戸でも評判の男だ」寅寿はそこで用談にかかった、「今宵まいっ
する。もちろんそういう評判をする者は反対派であった。水戸家の伝統を追う勤王派の者か、でなければ左近頼該を推輓
よくわかっていた。頼胤は今いかなる意味においても水戸家と関わりをもちたくないようすである。それも察しがつく。けれども
「申上げます、先刻より御門口へ水戸さま御家臣と申して四五人の若侍が押しかけておりまするが」
「水戸家お咎人が駆けこんだ筈、ひきわたせとやら喚きたてておりますが」
に内膳は局口から動くことができなかった。万一にも水戸藩士に発見されれば、寅寿の身の危険は直ちにその累を主家
「水戸家の者に気づかれたようすはないか」
「水戸家の咎人を両名匿まったと申す、あの件ですか」
来たのである。こんどの出府では秀之進と一緒に水戸までゆくこと、もしできたら藤田東湖に会うこと、この二つが彼に
へ出た彼は、校川家を訪ねて秀之進が既に水戸へ立ったことを知り、旅塵を洗う暇もなく跡を追って来
態度をとっている。――そうだ、新島は秀之進の水戸入りを遮るために跟けて来た、それに違いない。
にも柿崎兵馬が甲辰の難で宇和島に庇護された水戸藩士菊池為三郎と関わりがあったという点には、かなり興味を惹か
「遠慮には及びません、こちらはごらんのとおり水戸っぽの荒くれです、一宿の縁の記念につきあって下さい、みんな坐れ」号令
「水戸っぽ」と名乗るのを聞いて秀之進はその四人にはじめて興味をもちだした
「水戸の御藩士ですか」
「きさまはわれわれを侮辱した、水戸武士は侮辱にあまんずる者ではない、あらためて挨拶をする、抜け」
――なるほど、あれが水戸っぽというものか。
の上に立ち、ぶつかるべきものへぶつかっている。――水戸にはこの時代の大きな要がある。よく耳にしていたそういう
約四里である。かれは明くる日はやく出立し、まっすぐに水戸の城下へ向っていった。
にどうどうと濤のとどろきを聞いて明かした。そこから水戸までは約四里である。かれは明くる日はやく出立し、まっすぐに水戸の
水戸上市の田口屋という宿に草鞋をぬいだ秀之進は、夕食のあとで
秀之進は久木直二郎との立合いを思い出した。「水戸っぽう」という言葉もあたまへうかんだ。つい今しがたの、小四郎少年の自分
――水戸というところは荒っぽいな、そう思った。――だがこいつは、本当
、自分が頼該の使者だからであろう。頼該と水戸とを接近させまいとする、内膳の執拗な意志によるのだ。
のしかたが武家のなかで許されるというのは、やはり水戸という土地がらだからであろう、高松とはずいぶん違う。
拒絶されることを予期していた。数年このかたの水戸と高松との関係を思えば当然である。けれどもまたそこにかれが
「甲辰の事に関して水戸藩士の一部が高松侯に忿懣をいだいているのは事実です、けれど
ね」東湖は説明しようという風にこう云った、「水戸と高松とは義公以来もっとも血の濃い親藩であった、しかも両藩のつながり
どうしようもない時代が来たのです、甲辰の事が水戸と高松を阻隔したのは人間感情を時代が決定した証拠なの
、別して高松が旧態にあると考えられません、同時に水戸が新時代に立っているということも不明瞭になってくると思います
よるのではなく時代が決定したと仰しゃる、それは水戸藩が新しい時代に立ち高松が旧態にある、そういう意味だと思います
「しかし水戸が幕府の枢機に参画しているのは事実ではありませんか、
、江戸へ出府なすったときに、校川氏の案内で水戸へおわたりになったことがある、老公の知遇を求められてだ、
宿へ帰ったかれは、高松の左近頼該にあてて水戸到着の模様を書き送った。そしてその末尾にかれはこうしたためた。――
「そればかりではない、いまさら水戸へ使者を出して、本枝周旋をあそばすような、手ぬるい思召しではどうに
「いま水戸へ行っておるが、戻ったら拙者がいっしょに尾張へ行く約束だ、なん
に「三当」と書きだしてある。三当とは水戸に通ずる韻だった。
田口屋へ移って来ている。東湖を介してなにか水戸家に斡旋していてそれがうまくいかぬとみえ、秀之進をつかまえて
にそういう開国説をなす者があることに驚いた。水戸といえばいま攘夷論の本陣として誰知らぬ者もない。そこに
ひきさがりはしないのだ、と云った。秀之進はそのとき水戸藩士の中にそういう開国説をなす者があることに驚いた。
、この二派がつねに相剋し摩擦しつつあるのが水戸の情勢だった。したがって藩士の中に開国論を唱える者があった
しかしそれは驚くべきことではなかった。水戸には以前から二つの要素がある。政治的には佐幕と勤王、学問的
ところに何があるものか、拙者も此処へ来るまでは水戸にぞ日本を動かす原動力があると思っていた、しかし聞くと見ると
のですか、そしてそれは先生おひとりのお考えですか水戸藩ぜんたいの思潮ですか」
ぬ、悲憤慷慨の士の多くはそういう壮挙を計って水戸へ来る、その意気は大いによろしい、けれども眼先だけの実行を急いで
だ、その時の到らぬ前には断じて不可だ、水戸は義公このかた勤王でかためたお家柄ではあるが、その名のゆえに
、幕府における讃岐守さまの地盤と、老公を戴く水戸の勢力とが一つになることは、新世代への政治にかなり強い軸
この二つはいま日本じゅう到るところで拮抗している、水戸だってその例から洩れはしないのだ、うちあけて云えば……、
最も水戸の盾となるべき高松が、却って検非違使となって水戸に臨んだ、そこから本枝離反が生じた、しかしそれは表面の事実に
だ、甲辰の事はたまたまそういう時期に起こった、最も水戸の盾となるべき高松が、却って検非違使となって水戸に臨んだ、そこ
和解などは末の問題だという意味もそこにある、水戸高松の離反、各藩における新旧二派の拮抗相剋、それはそれ自身
「知らなかった、やはり水戸との和解を計り、本枝協力へもってゆくのがなによりの策だ
です、そしてその言葉通り和解のことはおぼつかない、早水さんの水戸からの手紙にそう書いてありました」
と大助は部屋の隅にある机をかえり見た、「水戸の早水さんから手紙が来ました、早水さんは江戸で校川さまに
「そして本枝和解の道をひらくことです、水戸との提携が成功すれば、校川さまの事を急ぐ気持も一応は
の武士はものも云わずに踏みこんで来た。……水戸の藩士、武田魁介、金沢次郎太夫、山田鉄二郎らであった。
の対立であった。寅寿は奸臣と呼ばれながら、なお水戸家のために身命を捨てる決意に欠けてはいない。かれはいま国老
水戸家の千年をのみ固執する寅寿の肚と、水戸家を抛っても王政復古の大なる策運をうちたてようとする斉昭、ならびに
水戸家の千年をのみ固執する寅寿の肚と、水戸家を抛っても
に、皀莢小路と訊けばわかると書いてあげたでしょう、水戸からの手紙で四五日まえから部屋をあけて待っていたのに、
がある」秀之進はしずかに眼をみひらいた、「おれは水戸へゆき、藤田先生に会った、亀阜荘さまから仰せ付けられた使いの
を挙げようと計った、おれが亀阜荘さまの仰せ付けで水戸へいったのも、両家の和解と提携とが目的だ、これらの
のはそれが絶対論でないところにある、そしてそれは水戸に限らず、現在諸藩のありさまが大概そうだ、機運が動きつつあると
、竹隈で聞いた色いろの説を総合し、また幕府が水戸老公を帷幄へ迎えようとする事実を考えると、そういう懸念が強く感じられる
の心が彼の観念を占めていた。けれどもこんど水戸に使いするに当って初めて父と会い、深夜の廊下で「ゆるせ」と
父に会いたい、水戸を立って来るときからそれが胸にあった、こんど会えばきっと「父
「水戸のようすを見たか」宗兵衛はこちらの挨拶を聞きながしにしてこう云っ
「水戸にはこの時代の原動力があると世間でよく云われる、老公と藤田氏
「ひと口に申上げれば、時代の原動力が水戸にあった時期は既に去っている、そういう感じです」
」宗兵衛の眼が絞るように細くなった、「それは水戸を排せというように解釈されるが、そうなのか」
痛いところを刺止められた人の表情だった。宗兵衛は水戸学派に心酔し、殆んど傾倒していたといってもよい。然し斯学
「水戸での始終を亀阜荘さまへ御復命ねがいたいのです、このたびの
天下に漲る勤王の理想はその名目を奪われてしまう、水戸老公を起用する機運が動きだしたことで、おれはその事のあり得
「御旅中をおいとい下さいまし、水戸のことも亀阜荘さまへお願い申します」
「云い忘れた、水戸家の久木直二郎という人がおまえをたずねている、なにがあったか
「水戸さまの内からです」
「誰だ、水戸家のなに者だ」
ないな、そしてそれは高松家中の者か、それとも水戸か」
「名は存じませんのですけれど、高松藩の方と水戸家の方とがいっしょだと伺いました」
「水戸家……それは妙だ」大助は眉をひそめた、「もう少し精しく
だけはみせたが、心はまるで闘志を失っている。水戸のときで腕の違いを知っているためだろうか、しかしそれで自信が
にはあなたを斬ることはできない、口惜しいけれど本当です、水戸のときはそうでもなかったんですが、今では……」
「いまのは水戸藩士だな」秀之進は刀の柄に手をかけて、「常陸びと
「供のなかに紛れこんで高松へ来たのは、水戸どのの家臣だ、というよりも結城寅寿ふくしんの者だ、姓名は
仰しゃるように計らいましょう……そして、その者共は水戸家へ渡しますのか、それとも追放するだけでございますか」
でもし二名の追放がうやむやに終るとすれば、必ず水戸家とめあいだに悶着が再発する、――この問題だけは兄の言葉どおり
云いだすからは、その事実を指摘して来たのは水戸の激派であろう。ここでもし二名の追放がうやむやに終るとすれば
に訪ねて来て、秀之進からの返辞を聞いた。「水戸への使者の目的は達せられなかった」ということであった。秀之進
さりとて老臣たちの申し条を容れれば、今とりかわしたばかりの、水戸家臣との口約を裏切ることになる。――こういうつまらぬ事の縺れ
少しも知らないのか」左近はたたみかけた、「このたび水戸への使者を申付けたのも、そのほうに会って添書をたのめと申し
ありげにて、ついによそよそしく別れてしまったのでございます、水戸からの戻りに、再び訪ねてまいりましたおり、このたびこそはと存じ
その地固めをするつもりだ、江戸へも、またもういちど水戸へもゆきたい、身にかなうことならなんでもするよ」
「たしかに」と秀之進は云った、「水戸へ使いしたおかげだよ」
明くる日から秀之進は書庫へ籠りきりでせっせと書き物をした。水戸へ使いした始終のことを、精しく記して左近頼該に呈出したい
て、それからどこへでもまいります、江戸にも、水戸へはぜひもういちどまいりたいのです、お耳に達しているかと
「そのほうすぐに栗林の不浄門へまいれ、その付近に水戸家の者がおる筈だ、その者たちに萩の門か切手門へ
水戸藩士をいずれかへ押送する、その後を追ってさらに水戸から討手が来ているのだ、ぜひともその二名を討たせなければ
、いま聞くとおり栗林荘に匿まっておった二名の水戸藩士をいずれかへ押送する、その後を追ってさらに水戸から討手が来
ほうを見やった。「瘤の源十」の知らせでもう水戸の討手の人々が来てもよい頃だと思った。雲にかくれた
「覚えて置け、あれが水戸っぽうというものだ」
「水戸っぽうというやつは礼儀を知らんのか」
で一層あんな態度が出たのだが、あの人たちは水戸でも相当知られた人物なんだ」
にはたびたび会いたくないもんだ、亀阜荘へもよく水戸人が来るけれど、あの国びとには人をみくだす悪い癖がある、おれは
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片岡休八、千葉勘助、真柳権之允の三人である。中でも片岡休八は
しまったのです、それがあまり思いがけなかったのでしょうか、千葉、真柳のお二人は逃げだしておしまいになりました」
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で来た。……水戸の藩士、武田魁介、金沢次郎太夫、山田鉄二郎らであった。
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立っていって小机を出し、大助の離室から和綴の「長崎ハルマ字書」を持って来てやった。
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甲府盆地から八岳の裾へと、めぐりめぐり登って来た道は、小淵沢の
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「京都へさ、亀阜荘さまはかねて堂上がたと御連繋をもっておいで
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嘉永五年五月はじめの或る日、駿河のくに富士郡大宮村にある浅間神社の社前から、二人の旅装の青年が富士の登山口
を買うまで大助は信じられない顔つきをしていた。大宮口の宿でもとめられたし、宮守の老人にも忠告されたが
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そしてそのことには答えずに、舟をいいつけてあるが向島へいってみる気はないかと云いだした。
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舟に乗って河岸をはなれた。季節からいえば、もう隅田川は涼み舟で賑わうじぶんなのに、雨催いといい、肌寒いほどの陽気な