樅ノ木は残った 04 第四部 / 山本周五郎
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駕籠へ乗ると、六郎兵衛はそう命じた、「芝の宇田川町だ、その辺へいったら酒の飲めるところへ着けてくれ」
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にはいった。二人は叡山、三人は高野、二人は永平寺という割当てで、玄知は叡山へゆくことになったのである。
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おくみが新らしい銚子を持ってはいって来たとき、甲斐は静かに飲んでいた。
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は扇子で陽をよけながら、寅ノ門をぬけて、大手門のほうへゆっくりと歩いていった。
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は「地境論」の経過を述べたものであった。安芸の領地の遠田郡涌谷は、伊達式部の領地である登米郡寺池と接してい
二カ所、登米郡赤生津と遠田郡小里村の件は、安芸の譲歩によって落着したが、式部はそれで味を占めたように
起こした。そこにはもとから式部領の飛地があり、安芸の領地と接していたが、式部はその領境を侵して、十町歩
町歩あまりを若生半右衛門という藩士に与えた。そこで安芸は式部に抗議をし、式部は逆に安芸の不当を鳴らした。この争い
。そこで安芸は式部に抗議をし、式部は逆に安芸の不当を鳴らした。この争いは四年余日にわたるもので、現在では
書いていた。境論を預かった山崎平太左衛門は、安芸の親族で外従弟に当る。式部が紛争を山崎に預けたのは、山崎
預けたのは、山崎が郡奉行だということより、安芸の親族であるという点に眼をつけたからで、結果の利不利に
ものである。式部が「一門」を楯にとるなら、安芸にも「一家」の面目があるし、ここでまた屈伏することは、かれ
だが時間がない。出府して来る涌谷の安芸には、途中で会えるように使者を出した、「老中評定だけは避けなけれ
だが会えなかったらどうするか、このまま安芸が意地をとおし、老中評定にもってゆくとしたら、なにか幕府を牽制
安芸の手紙は簡単なものであった――。そこもとの意中はよくわかるが、
電光が閃き、雷が鳴りはためいているようなおもいだった。安芸は彼の頼みを拒絶した。安芸はもう昔の安芸ではない。幕府
なおもいだった。安芸は彼の頼みを拒絶した。安芸はもう昔の安芸ではない。幕府にとって、伊達家は籃中の魚
安芸は彼の頼みを拒絶した。安芸はもう昔の安芸ではない。幕府にとって、伊達家は籃中の魚であり、どうじたばた
つ、六十万石安泰のためではないか。あのころの安芸にはわかっていた。だが、いまの安芸はもうそれを理解しようと
安芸が立ちあがったのは境論がきっかけであった。寺池の伊達式部が、無法
「貴方ともある人が」と甲斐は眼をつむり、安芸その人に呼びかけるように、口の中でそっと呟いた、「――毒害の
について、世間の評が甲斐に不利であること。安芸と甲斐とが対立していて、老中はじめ大名諸侯までが、安芸の立場
とが対立していて、老中はじめ大名諸侯までが、安芸の立場を擁護し、甲斐を一ノ関の与党として、非難していること
麻布屋敷では、安芸の住居の玄関さきで、祝いの盃がようやく終り、安芸が立ちあがった。供
安芸の住居の玄関さきで、祝いの盃がようやく終り、安芸が立ちあがった。供をする者たちは列をなしてつくばい、留守の者は
てつくばい、留守の者は式台からそのうしろに平伏した。安芸は振返って、式台にいる亘理蔵人を見、千葉三郎兵衛を見た。千葉は
てい、三郎兵衛は式台へ額をすりつけるように平伏した。安芸は向き直って、しっかりと歩きだした。
八時。伊達安芸の駕籠は八代洲河岸に着いた。安芸は陪臣であるが、老年と病弱を名目に、江戸へ着くとすぐ「市
と古内志摩はまだみえないそうで、小関は世評どおり「安芸と甲斐が不和」であると信じたのだろう、べつの座敷へ案内した
同じとき伊達遠州邸では、接待の一と間で安芸と甲斐とが話していた。襖を明け放ち、人は遠ざけてあるが、
安芸は遠くを見るような眼つきをし、静かに頷いて云った、「うん、
「まず、まず、ます」と安芸は嘆賞するように、眼を細めて甲斐を見た、「それは一番槍
「この機を※してはならない」と安芸は続けた、「酒井侯に対立する勢力があって、そのため評定が中途半端
午前十一時ころ、安芸をはじめ柴田外記、甲斐、古内志摩の四人は、蜂谷六左衛門の案内で、
している。公儀の秘事をあばいたという理由で、安芸、外記、甲斐、志摩らを、この邸内で討ち取ろうというのだ。
の人びとが到着するとまもなく評定がひらかれ、まず安芸が呼ばれて出た。
甲斐はめがおでそうたずねた。安芸はそれに答えるように、ゆっくりと二度、頷いてみせた。まもなく
四半刻ほどすると表て座敷へさがった。そこでまた安芸が呼ばれたのであるが、安芸は立ってゆくまえに、甲斐から外記
た。そこでまた安芸が呼ばれたのであるが、安芸は立ってゆくまえに、甲斐から外記、外記から志摩へと、順に顔
そして安芸は立ちあがり、甲斐の眼をひたとみつめてから、静かに出ていった。
はさてこそという顔で、左右から甲斐を見まもった。安芸の言葉はあまりに突然であり、また、事情を知らない者には漠然と
た甲斐の態度などが、詳しいゆくたてはわからないながら、いま安芸の云ったことの意味を、慥かに裏付けていると信じられた。
表て座敷では、安芸が大書院からさがって来、代って古内志摩が呼びだされた。柴田外記は
て来、代って古内志摩が呼びだされた。柴田外記は安芸に、なにか問いかけようとしたが、安芸はそれを拒むように、片手の
。柴田外記は安芸に、なにか問いかけようとしたが、安芸はそれを拒むように、片手の指先をそっと振り、こんどもまた、障子の
外の縁通りへいって坐った。外記の耳に、安芸の荒い呼吸が聞えた。走って来たあとのような、深くて荒いその
たあとのような、深くて荒いその呼吸は、そのまま安芸の強い昂奮をあらわしているようであった。
、大老酒井侯にはかかわりの深い品であるが」と安芸は続けた、「老中諸侯において御披見が願いたいと云った、こんど
て座敷へはいったが、はいるとたんに、みんな抜刀し、安芸、甲斐、外記を斬った。
甲斐は安芸のそばへ這い寄っていた。安芸は片手で頸を押え、片手を前に
安芸は甲斐を見た。
安芸の眼がかっとみひらかれた。甲斐は自分の眼に、ある限りの思いを
甲斐は自分の眼に、ある限りの思いをこめて、安芸の眼をみつめた。
た二人のうち一人は玄関へ知らせにゆき、一人は安芸と甲斐を看視していた。これで四人だぞ、と一人が云っ
このあいだに、安芸は手を伸ばし、その手で、倒れかかるように甲斐の肩をつかんだ。
「そやつの刃傷です」と安芸の云うのが聞えた、「御当家の衆におちどはない、甲斐めの
「安芸、――甲斐も聞け」と大和守は云った、「よく聞け、伊達家
糺してみたが、古内志摩はなにも云わなかった、安芸も甲斐も外記も、六左衛門まで死んでしまったし、古内志摩は生き残った唯一
あるが、これも刃傷の場にはいなかったため、安芸から聞いた言葉のほかには、なにも知らないというばかりであった。
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の者二名、足軽三名と共に、陸前のくに栗原郡の岩ヶ崎にある、古内家の館に向かって江戸を立った。
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を向け、閖上で川を渡ると、浜道を北上して松島へ出、さらに、馬を替えながら道をいそいで、その日の夜半すぎに
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くに栗原郡の岩ヶ崎にある、古内家の館に向かって江戸を立った。
安部主膳(小姓組)の二人で、四月五日に江戸を立ち、十三日に到着した。そうして、四月二十二日、仙台
甲斐はつよく主張した。江戸でも、両後見を中心に、在府の老臣が幾たびか評議をひらいた
「ええ、あります」とふじこは頷いた、「江戸からお帰りになると、山の猟小屋へいらっしゃるでしょう、そうするといつも友達
「いや、これはまだ江戸だ」
「一ノ関は猜疑心の強い人だ、仙台、江戸はもちろん、館にいても非常に用心がきびしい、まあ聞いてくれ」と
六月下旬に江戸から帰った甲斐は、五日ばかりこの館に泊っただけで、すぐに仙台
まで火熱をとおすには、榾火のかげんにこつがある。江戸に育った女性たちは、一般に川魚を好まない。宇乃の母も好まなかっ
なかった。黒川郡吉岡、六千石の館主であり、かつては江戸で筆頭国老を勤めたこともあるが、いまはただ因業な、小金持の
「江戸から使者があって、祝いの酒を始めたところだ、一つ遣わそう、寄れ
――仙台で江戸の新妻隼人からの手紙を受取りました。
「国老では寺池をなだめて、国目付が江戸へ帰るまで騒がぬように、と云ったそうだ」
へも同様に使者を遣ったそうだが、国目付が江戸へ帰ったとすれば、国老でもなんとか手を打たなければなるまい
であり、主水は六歳のときから十三年のあいだ、江戸の証人屋敷で育ったのであった。寛文六年の冬、父の周防
出ることは計算されているのである。玄叔が江戸の藩邸に寄宿していたことは、周囲の者も知っていたで
「長沼と申しますと、江戸の聞番(幕府や他の諸侯との公的取次をする役)に善兵衛と
「江戸へゆくがいい」と甲斐は云った、「涌谷さまへは私が申し訳を
「涌谷さまへは私が申し訳をする、ここからまっすぐに江戸へ出て、湯島の家へゆくがいい、私は来年の秋には出府
ことで役目をはたした、それで充分だ、明日ここから江戸へゆけ、そして自分の身を立てるくふうをするがいい、わかったか」
浴びてくつろいだら、三人でゆっくり話すがいい、私は江戸へ出てから会うことにしよう」
いるような、こもった響きをもっていた、「こんど江戸へいらっしゃるときに、お供をしていってはいけませんでしょうか」
、私はいつもおまえといっしょにいる、こちらにいても江戸へいっても、私はいつも宇乃といっしょだ、――覚えているね」
兵衛は毒どくしく云った、「それよりも、みやのやつが江戸にいるかどうか、知っているなら正直に云ってもらおう」
七皇子で、まだ花町宮といわれていたとき、江戸へ下向され、綱宗も使者をもって御機嫌奉伺をした。宮は明暦
を寄せていた。自分は危ないとみて、舎人を江戸へやったが、自分の疑惧は当ったのである。山崎の妻は涌谷
、飯淵三郎右衛門、大河内三郎右衛門ら五人が申し合わせ、国目付が江戸へ帰任する途中、伊達桑折の宿で面会を求めて、訴状を呈出した
「いま申したとおり、国許でも江戸でも、船岡どのを非難する声が強い」と志摩は続けて云った、
江戸へ着いたのはいつだ、と甲斐が訊いた。昨夜おそく品川へ着きまし
にいる亘理蔵人を見、千葉三郎兵衛を見た。千葉は江戸における家老で、まえの夜この麻布へ来たものであった。―
。安芸は陪臣であるが、老年と病弱を名目に、江戸へ着くとすぐ「市中乗物の許し」を得ていた。八代洲河岸
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云った、「ただいまから数えて十年ほどまえの夏、小石川でさる大名の堀普請がございました。そのとき普請奉行を勤めていまし
「私はそれを久世侯に申しました、小石川の普請小屋からひそかに松山(故茂庭周防)を呼びだしたこと、六十万石分割
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し、ここでもし伊達家改易に成功すれば、加賀、薩摩にも手を付ける事に違いない、少なくとも、二大雄藩の頭を押える
おそらく一顧も与えはしないだろう、密契をもちだすには、薩摩と加賀を味方につけなければならない、それにはまだ時日が必要だ」
薩摩と加賀が味方につくかどうか。加賀へはいちど手掛りをつけてみ
避けられないと思う。これに抵抗するみちは、加賀、薩摩の二藩を味方に付けることであるが、どちらにもまだ手掛りさえついて
だ、「仙台六十万石の取潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」甲斐はそこで叫ぶように囁いた、
戻った。徳川氏万代のために、仙台、加賀、薩摩の三雄藩は邪魔だ。北方と中部と南方に、これら雄藩が安泰に
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甲斐は志摩を見た。
甲斐は穏やかに志摩を見返した。
、安芸は立ってゆくまえに、甲斐から外記、外記から志摩へと、順に顔を見ていった。火を発するような視線で、
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なに、広くとも江戸城ほどはあるまい。玄四郎は畳廊下のほうへ引返した。奥へはむずかしい
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いつか池之端の茶屋で、滝尾から話しを聞いたことがある。名は記憶してい
があったのです、私はその男に会いました、池之端の茶屋でしたが、滝尾どのがその男を私にひきあわせたのです」
玄四郎は黙った。湯島へゆけば消息はわかる、池之端の茶屋で会ったとき、新八は湯島の家の世話になっていると云っ
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なかったが、それもほぼ片づいたので、十一日から湯島の家へ保養にゆくことにしてあった。湯島へは四十日ばかり無沙汰
から湯島の家へ保養にゆくことにしてあった。湯島へは四十日ばかり無沙汰だったし、四月の末に、新八が自作の
「あとで読んでおくがいい、私は湯島へでかける」
から仔細を聞いて、礼金でも貰おうというのなら、湯島へ来たとき呉れてやってもいい、と甲斐は思った。
湯島の家に着くと、おくみに手をひかれて、出迎えていたかよ
私が申し訳をする、ここからまっすぐに江戸へ出て、湯島の家へゆくがいい、私は来年の秋には出府するが、おまえの
「そうか」やがて甲斐は呟いた、「湯島の家の寝間だったな」
玄四郎は黙った。湯島へゆけば消息はわかる、池之端の茶屋で会ったとき、新八は湯島の家
ば消息はわかる、池之端の茶屋で会ったとき、新八は湯島の家の世話になっていると云った。いまでもそこにいるかどう
いまでもそこにいるかどうかは知らないが、もし湯島の家を出たとしても、いって訊けばどこにいるかはわかる
て出府したが、屋敷再建のために暇がなく、湯島を訪ねたのは明くる年の夏すぎであった。
せてやった。それには、本邸へはいるまえに、湯島の家でいちど泊ってもらいたい、とも書いたのであるが、はたして
湯島へ帰る駕籠の中で、甲斐は幾たびも深い溜息をついた。眼に
駕籠が湯島の家へ着いたときは、もうすっかり昏れて、町の家並には灯が
思う。――およそこういう意味の文面で、終りに、湯島へたち寄るのは危険だから、麻布の中屋敷へはいるつもりである、と書い
甲斐はその手紙をすぐ火桶にくべながら、湯島へ寄るのがどうして危険なのかと、不審に思いながら、喜兵衛を
――湯島でいちど、この屋敷でいちど。
微動もしていなかった。あのときすでに、そうだ、湯島で会ったときすでに、あいつはおれの胸の中を知っていたのだ
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「――ただいまにてもあれ、鎌倉におん大事あらば、ちぎれたりともこの具足、取って投げかけ、錆びたりと
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十三歳のとき得度受戒して玄知という名をもらい、増上寺の学堂でまなんでいた。初めはどうかと案じられたが、彼は
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日に到着した。そうして、四月二十二日、仙台城の二ノ丸で、両国目付の饗応がおこなわれた。
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であろうし、ここでもし伊達家改易に成功すれば、加賀、薩摩にも手を付ける事に違いない、少なくとも、二大雄藩の頭
も与えはしないだろう、密契をもちだすには、薩摩と加賀を味方につけなければならない、それにはまだ時日が必要だ」
薩摩と加賀が味方につくかどうか。加賀へはいちど手掛りをつけてみたが
薩摩と加賀が味方につくかどうか。加賀へはいちど手掛りをつけてみたが、話しに乗るようすはまったくなかった
予想は避けられないと思う。これに抵抗するみちは、加賀、薩摩の二藩を味方に付けることであるが、どちらにもまだ手掛りさえ
をのんだ、「仙台六十万石の取潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」甲斐はそこで叫ぶように囁い
五歩戻った。徳川氏万代のために、仙台、加賀、薩摩の三雄藩は邪魔だ。北方と中部と南方に、これら雄藩が
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いた。そのうちの二カ所、登米郡赤生津と遠田郡小里村の件は、安芸の譲歩によって落着したが、式部はそれで味
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た。宇乃は三日まえに来た。弟の虎之助が叡山へ修行にゆくというので、三月の出来事も詳しく知りたいと思い、
三人は高野、二人は永平寺という割当てで、玄知は叡山へゆくことになったのである。
――これが叡山へいったら、また僧兵でも起こすのではないかと思う。
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「しかも、それは奥山か鷺坂か、どちらかでなければ、近よることもできず、そこだという
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着した。そうして、四月二十二日、仙台城の二ノ丸で、両国目付の饗応がおこなわれた。
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日に到着した。そうして、四月二十二日、仙台城の二ノ丸で、両国目付の饗応がおこなわれた。
――その年の四月十三日、幕府の国目付が仙台へ着いた。国目付は例年のとおり、神尾若狭守(使番)安部主膳
から帰国しており、事のあった数日まえに、仙台の屋敷へ来ていた。源太郎も采女も、席次の不当には怒っ
でございます」と宿の者が廊下で云った、「仙台から里見さまと、小野のお館から使いの方が、ごいっしょにみえ
采女は小野の館で召し出しを受け、仙台に出て、茂庭主水から裁決を申し渡された。これは三月十一日
「裁決までは仙台にいたが、いまは一ノ関へ帰っている」
んだ」と七十郎が云った、「小野へ帰るには仙台を通らなければならない、知った顔に会わないためには、時刻を
うちどちらかが一ノ関と通謀している、それが給主(仙台から付けられた与力)の手を経て行われていることに間違いは
「一ノ関は猜疑心の強い人だ、仙台、江戸はもちろん、館にいても非常に用心がきびしい、まあ聞いて
ときちょうど、おれは十カ条を挙げて兵部を問罪し、仙台では連日にわたって面会を求めた、それを思いだしたのだろう、曲者
仙台城下を避けるために、二人は増田から名取川の河口へと馬を向け
鷺坂と奥山とに聞かせるため、簡単に述べ、明後日、仙台へ出るから、用意をしておくように、と云った。
、と首を振り、期日が延びているから、このまま仙台へゆく、父や兄たちには、あとで詫びるつもりである、と答えた
出雲と鷺坂靱負が控え、玄関の外には十五人、仙台へ供をしてゆく家従たちが、つくばっていた。
と七十郎は思った。たとえここを切りぬけても、すぐに仙台へ知らされるであろう、とうてい一ノ関を刺すことはできない。こう思うと七十郎
思った。すると追っかけて、七十郎と采女が捕えられて仙台へ護送された、という急報が来た。
足軽を伴れて小野へゆき、采女と七十郎を受取って、仙台へ送った、ということであった。
七十郎の無念さがわかった。そのときの知らせでは、仙台から物頭の青木弥惣左衛門が、足軽を伴れて小野へゆき、采女と七十郎
善右衛門は切腹。善右衛門の子三人は流罪、孫二人は仙台から十里外に放逐。家財は闕所ということであった。
、妻と寝屋をともにするでもなく、淡々と仙台へ去ってしまった。
は、五日ばかりこの館に泊っただけで、すぐに仙台の屋敷へ去った。館にいるあいだいちど、母の慶月院と
「これは仙台のお屋敷へお届けするのだそうですから」と宇乃はためらい顔に
ように思われた。大学は存念があって、幕府から仙台に来ている国目付へ、訴状を出すつもりである、と云ってい
からふと思いついたように云った、「おまえ鮎を届けに仙台までいっておくれか」
――申上げます、仙台より渡辺金兵衛が伺候つかまつりました。
――仙台で江戸の新妻隼人からの手紙を受取りました。
――それは仙台で聞きました。
を捨て置いては家中に争乱が起こりかねない、そのほう仙台へ戻ったら、その不所存者の名をたしかめておけ」
仙台では六町一里を小道といった。二人は虚空蔵の脇をまっすぐ
であって、いまなおそのような策謀があり、ことに仙台という由緒ある大藩に手をつける、などということがあるでしょうか」
「まえに云ったとおり、仙台六十余万石の改易だ」
」宇乃はいつものゆっくりした口ぶりで云った、「仙台へお届けしたいと仰しゃいましたら、おばあさまが、わたくしにいって
済んでからのほうがよいであろう。自分は十月に仙台へ出るつもりでいる、詳しいことはそのときじかに会って相談したい。
――ただいま仙台より大槻斎宮の急使が到着致しました。
――涌谷どのがこの正月(寛文十一年)仙台において、幕府御国目付に面会されたことは、御承知のとおりで
――柴田が仙台を立ちましたのが二十五日、それと同時に涌谷どのも、その在所
仙台で矢崎舎人が密使に来てから、涌谷としばしば書状を交換した。
はよくわかるが、自分の決心はもう変えるつもりはない。仙台で矢崎舎人に使いさせたとおり、こんどは老中評定までもってゆく、壊疽
の手が廻っているという注意があったからで、仙台へ出たときにもいっさい他家の招きには応ぜず、ひきこもったきりだっ
「仙台に滞在ちゅうも、しばしば密告する者があったと、申しておりました
「同じく九年一月、奥山大学が仙台で幕府の国目付(千本兵左衛門、水野与左衛門)に覚書を差出した、しかし
このとき仙台では、と甲斐は注を入れた。家臣の木幡源七郎と屋代五郎左衛門が
古内志摩を出府させるようにと言って来、すぐに仙台へ急使をやった」
直截で熱がこもっていた。彼は出府するまでの仙台の情勢を語り、柴田外記との密談の内容から、板倉邸での問答
それから中三日おいて、三月二十一日に、仙台から古内志摩が出府して来た。その日は陸奥守に目見をせ
大和守は唾をのんだ、「仙台六十万石の取潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることが
ゆき、五歩戻った。徳川氏万代のために、仙台、加賀、薩摩の三雄藩は邪魔だ。北方と中部と南方に、これ
が云った、「かれらの供は少なくないだろうし、仙台の人間はいざとなると手強いそうだ、玄関はおれが出て押える」
「大藩取潰しの手筈をあかしたのですから、仙台六十万石は安泰であろうと思います」
のことは引受けた、わかるか安芸、聞えたか原田、仙台、六十二万石は安泰だぞ」
知ってはおられないかもしれない、ただ一つ、仙台六十二万石が安泰であるという事実、兵部宗勝が逐われて、伊達家
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嫁して来た、甲斐の妻の伊久がいるし、また松山から帯刀宗誠に輿入れをしたさわがいる。さわはもう四歳に
「松山の主水どのがいっしょだ」と甲斐は主水を眼で招きながら云った、
分与の密約であり、一は幕府閣老の某侯が、松山を呼んでひそかにその密約を告げたことだ」
が交わされると同時に、幕府閣老の某侯がひそかに松山を呼んで、そういう密約のあることを告げたのだ」
名は云えない」と甲斐は繰り返した、「その人は松山を呼んで、酒井侯と一ノ関との密約を告げたうえ、残った三十万
「某侯が松山に伝えた忠告は、好意から出たものかもしれない」と甲斐は
きびしく監視されていた。したがって、自分が涌谷や松山と疎遠になったことも、七十郎から絶交されたことも、十左衛門が
一ノ関は要所へ諜者を配っている。涌谷や松山や自分の身辺は、特にきびしく監視されていた。したがって、自分
忘れてくれ、これまでどおり、十左衛門も私に近よるな、松山とも往来はしない、すべて従来のまま、私を一ノ関の与党とし
辞任することはできる筈でしょう」とおくみが云った、「松山さまもいちど、御病気という理由で国老職を辞任なすったことが
、初めから自分で承知していた筈だ、涌谷と松山(茂庭周防)とおれとで合議をしたとき、おれはこの席に
「では申しますが、私は出府するまえに松山どのと会いました、茂庭主水どのが訪ねて来られ、船岡どのが非常
ていた。しかしそれは極秘であって、涌谷と亡き松山(茂庭周防)その子主水のほかには、この原田家でも側近の
を久世侯に申しました、小石川の普請小屋からひそかに松山(故茂庭周防)を呼びだしたこと、六十万石分割の密約について忠告
「いや、涌谷さまと故松山と、三人合議のうえのことです」甲斐は忍耐づよく答えた、「
「では宇乃どのは、あれから松山(茂庭家)におられたのですか」
した。――宇乃は帯刀の妻と娘に付いて松山にゆき、そこで惣左衛門の殉死を聞き、慶月院の死を聞いた
「こなたは松山へ帰られるか」
茂庭さまでもぜひ戻って来るようにと仰しゃいますし、松山はおばあさまのお里でございますから」
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みな川町に「花菱」という奈良茶の店がある。茶漬を売る店だが、寄合のために貸す座敷
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、式台にいる亘理蔵人を見、千葉三郎兵衛を見た。千葉は江戸における家老で、まえの夜この麻布へ来たものであっ
た。安芸は振返って、式台にいる亘理蔵人を見、千葉三郎兵衛を見た。千葉は江戸における家老で、まえの夜この麻布
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いうことになった。甲斐はひそかに人を遣って、日本橋の雁屋信助を訪ねろ、と舎人に伝えたが、舎人の無罪が明白と
途方もないようなでたらめを云う。このあいだなどは乳母と日本橋(雁屋信助)へいって来て、おくみに、帰る道で火事があっ
「ばかみたような人のことですって、日本橋のおじさまがそう云ってましたわ」
「日本橋、――雁屋か」
ええ、信助おじさま」かよは振向いて云った、「日本橋のお店へ来る漁師がいて、それは葛西っていう遠いところから来るの
日本橋から雁屋信助が来たとき、甲斐は出仕していたので、信助
しなかった。尤も彼には勤めがあるし、宇乃は日本橋の雁屋に泊っていて、昼のうちしか会いに来られないから、
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「二人はいま浅草の誓願寺裏という処に住んでいて、新八さんは唄で稼げるよう
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彼は向島で初めておみやに会ったときのことを語った。おみやはそのとき、一人
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「ここは神田だ」と同じ若者が云った、「お膝元でもいちばん気の荒い土地だ
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てしまい、幼君亀千代は、側近の者に護られて、品川の下屋敷へたち退いた。
たら、黙って手を束ねてはいないでしょう、きっとまた、品川のお下屋敷のときのような」
甲斐は屹とおくみを見た、「品川の下屋敷、そんなことを誰に聞いた」
駕籠が品川の下屋敷へ着くまで、甲斐は幾たびも自分の考えを検討してみ
。昨夜おそく品川へ着きました、と喜兵衛が答えた。品川で宿を取り、今朝は未明に起きて本邸へ戻りましたところ、通用
着いたのはいつだ、と甲斐が訊いた。昨夜おそく品川へ着きました、と喜兵衛が答えた。品川で宿を取り、今朝は