花も刀も / 山本周五郎
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「どうだ伊勢、上村」と、彼は二人を見た。
伊勢も上村も眩しそうに眼を伏せた。かれらには、確信がなかっ
なり、総試合にも二回出ている。二十一歳の伊勢は一度、今年はじめて出るのは野口重四郎だけであった。そして、上村も伊勢
はじめて出るのは野口重四郎だけであった。そして、上村も伊勢も、中位までこぎつけるのが精いっぱいだったし、本邸や中屋敷の者で、ずばぬけ
が、経験にとらわれてはいけない、上村は二度、伊勢は一度、それぞれ総試合の場を踏んでいる、しかし、いまの二人は去年
は朝になるかもしれない」もし帰りがおくれたら、伊勢と上村で稽古をみるように、そう云って、その足で下屋敷を出
、どうしても稽古をつける気になれない。それで伊勢と上村に代理を頼み、住居へ引込んで横になった。
「伊勢がそこまで勝ちぬいたのは、剣の道によるのではなく技の
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た天下の難事をよそに、妾宅で歓をつくしたり、堂島で相場を争ったりするばかりだが、これを取締るべき役人が、かれらに
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(自分で)盃を取り、その妓――松山という源氏名の妓と、活溌に饒舌りだした。松山もよく飲み、よく饒舌った
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、その他の日は隠居が教えている。お豊も本所にいたじぶん、気まぐれにしばらく稽古所へかよった。
せ、ようやく金杉にいることがわかり、三平を遣って「本所へ戻るように」とすすめた。二度、三度。番頭の松造まで三平
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ゆくのがいいとすすめた。河内屋の隠居はすぐに「草津へ行こう」と云いだしたが、お豊は頑強に拒んだ。
「だって、草津へゆけばあぶないと思ったんですよ」と、お豊は深喜を見た
「え、ええ、草津がよ」
なり、深喜に給仕しながら、自分も飯を喰べた。草津で病気も治すし、躯もきれいになって来る、とお豊は云った
集中せず、ともすると木剣を構えたまま、――草津へ旅立ってゆく、お豊や、幸助の姿をそっと眼の裏に描いて
お豊が草津へ立ってからまもなく、秋田平八が道場へ訪ねて来て思いもよら
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「もうちっと向うの、箪笥町の裏店ですが、いかがですかな、夜の明けるまで休んでおいでになり
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仕え、彼の祖父は尾張家の家臣であって、さらに大坂城代付きの与力に転じた。いわば、徳川恩顧の士であるのに、そのうえ
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で彼は才分のあることを認められ、十八歳で江戸へ出て来たのであった。
江戸へ来てまる四年。ここで三席になることができれば、(彼
でかたちだけの支度はしてやれるだろう。こう思うと、江戸へ来てから四年間の辛労も、あたたかく彼をあやすかのように思えた
が百文するんだから、女房、子のある者は江戸じゃあ食えねえ、田舎のある者はみんな田舎へ帰っちまうさ」
で来たのですか、と平八が訊くと、商用で江戸へ来る知人があって、その人といっしょに来た、とかやは答え
、残った田地で、田舎なら三人は食ってゆける。江戸は諸式が高いから、いまの自分の扶持では、とうてい満足な生活はさ
「家族を江戸へ呼ぶというのは、妹が云いだしたのか」
同じ村にいる父の碁敵だそうで年は六十歳。江戸に五日滞在して、国へ帰る。かやもそのとき同行する約束である
とき同行する約束であるが、そのまえに、秋田平八が江戸見物の案内をするということで、旅籠町の『山源』へ戻ったの
――秋田さまに、楽しく江戸見物をさせてもらった。
があったら私に云って来るようにと、このまえ江戸から帰るときに念を押しておいたんだ」
や不作が続き、その地方には餓死者も出たし、江戸でさえ(甚だしい米価の騰貴で)饑餓に迫られる者が多くなった。
旦那が湯治にゆけっていうんだけど、どうせ死ぬものなら江戸で死にたいって、医者もずいぶん云うんだけども、どうしてもきかない
意外だが次妹のつやまでが来て、いまでも江戸にいるというのに、自分にはなにも知らされていないとは、
他人の手に渡され、妹たちや、母までが、江戸へ出て来てしまう。
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幹太郎はその夜はじめて、金杉の家に泊った。
金杉に仮住居のあることは届けたが、お豊や幸坊のことには
それに、金杉の家のことを誰がさぐりだしたのか、仮住居として届けては
は屹と頼母の顔をみつめながら、云った、「理由は金杉の家のことですか」
――もし、金杉の家から移転するようなら、おちついた先を白川久三郎まで知らせてもらいたい
云った。長の幸助といえば幸坊に違いない、金杉で別れたまま、四年以上も音沙汰がなかった。
深喜が千葉道場へはいったあとで、金杉を訪ねて差配に聞いたのだそうである。深喜は小箪笥から菓子を
ていた。――半年あまりも根気よく捜させ、ようやく金杉にいることがわかり、三平を遣って「本所へ戻るように」とすすめた
「それはね、お豊さんのねえさんが、金杉でまたぐれだしたからなんだよ」と、幸助が云った。
「では、金杉を出てからずっと、おまえもその河内屋の世話になっていたのだね
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をして「平手さんのおじさん」と話をそらし、増上寺の山内の欅へ登って、雀の卵を取ったことや、金杉橋の
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「深川の佐賀町だよ」
佐賀町の家は、大川端から中ノ橋の袂を回ったところで片隣りに『
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師範の淵辺十左衛門は常陸の出で、笠間の近くに家があり、妻子はそっちに住んでいた。この道場では
「先生が笠間へ帰省したら、自分もすぐ山源へゆく、そこでよく相談をしよう」
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だった、秋田平八という男に会ったのだが、仙台藩の品川屋敷で師範を捜している、扶持はごく少ないが、いまいる正師範
仙台藩を出たことはよかった。あのままでいたら生活は安穏かもしれない
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道場からあがり、汗みずくの稽古着をぬいでいると、秋田平八が来て「おめでとう」と云った。
秋田平八が「おめでとう」と云い、そこにいる内門人たちが祝いを述べた
飲みだした。幹太郎は飲まないので、隣りに坐った秋田平八と話しながら、彼に酌をしたり、肴を摘んだりしてい
少年が去ると秋田平八が振向いた。幹太郎は少年の伝言を告げた。
を送りだすとまもなく、幹太郎は師範から呼ばれた。秋田平八は微笑しながら、立とうとする幹太郎に頷いた。
「平手、どうしたんだ」と、秋田平八が呼びかけた。
秋田平八は口をあいた。
「平手、おれの部屋へゆこう」と、秋田平八が追って来た。
四五枚の着替えと、書物が二十冊ばかりだが――秋田は怒っているだろうな。あんなに云ってくれたのに、おれは『
旅籠町の『山源』へゆけば、秋田平八に会えるだろう。彼に預かってもらった荷物もある。荷物といって
。それが残された唯一の道だが、こんな状態で秋田平八に会いたくはない。
二人を抱えた以上、そうするよりしかたがない。秋田に心配させるのは悪いが、事情がこうなっては、やむを得
秋田平八に預けた物がある。それを取って来るまでこの二人を置いて
いると、うしろから名を呼ばれた。振返ってみると秋田平八であった。
幹太郎は云った、「今日はもと道場で友達だった、秋田平八という男に会ったのだが、仙台藩の品川屋敷で師範を
淵辺道場の秋田平八のところへ女の客が訪ねて来た。
「私がおたずねの秋田平八です」と彼は坐って云った。
「兄もよく秋田さまのことを手紙に書いてくれました」と、かやが柔らかい声で
「ですから、秋田さまのことは詳しく存じていましたし、おめにかかったとき、
秋田平八は駕籠から出て、駄賃を払い、いそぎ足に、下屋敷のほうへいっ
と、秋田平八は歯噛みをした。
「秋田のいったとおりだ」と、彼はすわりながら云った。
ない、という事情を、かやはよく了解した。おそらく秋田平八から云い含められたのであろう、土地や家屋敷まで借財のために取ら
かやもそのとき同行する約束であるが、そのまえに、秋田平八が江戸見物の案内をするということで、旅籠町の『山源』
――秋田ならいい。
――秋田さまに、楽しく江戸見物をさせてもらった。
がさがったから、幹太郎は『山源』へいって、秋田平八に使いを出した。
いるし、おれの話も信じてくれた、おれには秋田平八がいるし柴田さんという人もいる、千葉先生もおれの腕を
彼は、翌日すぐに旅籠町の『山源』へゆき、秋田平八に使いをだした。
いちど秋田に相談したうえで、千葉道場を訪ねてみよう。そしてその結果によっ
秋田平八とは、月に二度くらいずつ会った。淵辺道場はうまくゆかなく
お豊が草津へ立ってからまもなく、秋田平八が道場へ訪ねて来て思いもよらない告白をした。
秋田平八は、おちつかないようすで、坐ってからも話がはずまず、深喜の
秋田平八はいい人間だし、深喜はいろいろ世話になっている。しかし、彼
彼が道場を持つようになったら、秋田に経理をやってもらうつもりだった。しかし、いまそれを云ったところで
「秋田には、ずいぶん世話になっている、その点では、いまでも有難い
たのだ、秋田は事情があったと云っている、秋田には相談したのだろう、他人には相談をしたのに、どう
「なぜ、ひとこと話してくれなかったのだ、秋田は事情があったと云っている、秋田には相談したのだろう、
と呟いた。招待試合から始まり、秋田平八の告白を聞き、そして、ここまで卑劣な穴へ落ちこんだ。彼は
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刀法の型』をみっちり教えられた。十二歳になると仙台城下へ出て、鈴木道之進という師範についたが、そこで彼は
だった、秋田平八という男に会ったのだが、仙台藩の品川屋敷で師範を捜している、扶持はごく少ないが、いまいる
仙台屋敷は門限が厳しいのと、お豊にせがまれて、盃に三つ
仙台藩を出たことはよかった。あのままでいたら生活は安穏かも
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伊達家には北辰一刀流の千葉周作が出稽古をしているが、本邸と品川とに、常雇いの師範
少しまえに本邸から移って来た男で、本邸では千葉周作に仕込まれたそうだがね、おかげで北辰一刀流の手を見た
ある。年に一度きまってやるらしいが、本邸のほうは千葉周作が指導している、そこでおれの念流と、北辰一刀流とを
「千葉周作とやるつもりか」
ときは、臨席するそうだが、そんなことより、おれは千葉周作に舌を巻かせてみたいんだよ」
は気づかなかったが、気がつくと同時に、それが千葉周作だということを直覚した。
千葉周作と聞いて、伊勢万作もはっとし、まわりこみながら、すばやくそっちを見、
で、決していまが初めてではないのだが、やはり「千葉周作にみせてやろう」という無意識の衝動に駆られたらしい。くそっと
さがった。しかし、いまの一手で満足したものか、千葉周作(と思える人物)は、こちらへ軽く目礼をし白川久三郎を伴れて
「やっぱり千葉先生です」と、弥兵衛が道具を外しながら、近よって来て云った。
のそばへ来るなり「野口が捉まった」と云った。千葉周作の話かと思ったので、幹太郎はちょっと訝しそうな眼をし
「お勝手向の都合で、本邸のほうから千葉先生門下の上位者を、師範として呼ぶことになったのだ」
「千葉先生が、そこもとの稽古を見て、非凡な質だと褒めておられ
――千葉先生が非凡だと云われたそうではないか。
には秋田平八がいるし柴田さんという人もいる、千葉先生もおれの腕を認めてくれたというじゃないか、そうだ、
彼は千葉周作を尊敬してはいたが、なに負けるものかという意地もあっ
、斎藤弥九郎、伊庭軍兵衛、大石進などもいる。なにも千葉周作には限らない。
自分の稽古を見られたこと、秋の総試合で千葉の北辰一刀流と、自分のあみだした技とを、ぶっつけてみようと思った
いちど秋田に相談したうえで、千葉道場を訪ねてみよう。そしてその結果によっては、入門してみっちり修行
し、幹太郎の話を終りまで聞くと、表情をやわらげ、千葉道場を訪ねることにも賛成した。
翌日、幹太郎は神田お玉ヶ池の千葉道場へゆき、周作に面会を求めた。
名を通じると、千葉定吉という人(周作の弟だという)が出て、接待へ招じ
千葉道場での彼の立場は、やや別格であった。
千葉周作は、そのとき四十五歳。岐蘇太郎、栄次郎という二人の男子が
と、千葉道場の人たちは云いあっていた。ここへやって来たら『道場
はいない。口でこそなにも云わないが、すでに、千葉道場を呑んでかかっていることは明らかであった。
だが、千葉周作があらわれて「それまで」ととめた。ちょっとまえに戻って二人の
は、必ず周作の許しを得なければならない。それが千葉道場の規則である。にもかかわらず、周作の留守にその禁をやぶっ
自分は自分の道をゆこう。千葉周作には彼の道があるし、自分には自分の道がある。
その席には、上座下座の差別がなく、千葉栄次郎を中心にするかたちで、門下の上位者が十七人ほど並ぶ。――
井上八郎が「二人ともよせ」と云った。千葉栄次郎は黙って酒を飲んでいた。塚田、稲垣、大羽たちは、
たのだともいうし、他の説では、「千葉先生の推挙で水戸家へ抱えられたのだ」ともいわれた。
その夜の暴論が千葉周作の耳にはいって、破門されたのだともいうし、他
深喜が千葉道場へはいったあとで、金杉を訪ねて差配に聞いたのだそうで
があるものか。知ってますよ、三羽烏に四天王、千葉道場ではその七人が柱石だって、世間では云ってますわ、
ような時間もなし、金もありやしない。あら、千葉道場の四天王でもですか。ばかな、四天王なんていうものがある
――井上さんが、伊達家の招待試合に、千葉道場の代表として出る。
がそうであった。道場の門人だけを教えるのは、千葉栄次郎と深喜くらいである。
――千葉先生もそうだ。
千葉道場の掟は厳格だが、みんな道場の外では適当にやっている
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いうし、他の説では、「千葉先生の推挙で水戸家へ抱えられたのだ」ともいわれた。
いうこともなかったし、六月になると海保帆平が水戸家にいることもわかって、深喜はようやく安心した。
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「深川の佐賀町だよ」
佐賀町の家は、大川端から中ノ橋の袂を回ったところで片隣り
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いた」と云った。そうして今年の二月、下谷の黒門町で、小さくはあるが中通りの表に店を借り、小間物屋を
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松山という源氏名の妓と、活溌に饒舌りだした。松山もよく飲み、よく饒舌った。肥えた躯つきとは反対に、しゃがれ
女は勝手に(自分で)盃を取り、その妓――松山という源氏名の妓と、活溌に饒舌りだした。松山もよく飲み、
仲どんが去ると、松山の友達だといって、妓を二人呼び、彼女たちにも飲んだり、
あたしたちが、邪魔をしたようだが、松山の花魁はうぶで、初会のお客には、すぐには馴染めない。それ
「あんた怒ったの」と、松山が云い、その肥えた躯で深喜に凭れかかろうとした。深喜は躯を
「ああ縁起くそが悪い」と、松山は乱暴に云った、「口あけからけちがついちまった、あたし奢るから
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「深川の佐賀町だよ」
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「神田の旅籠町におれの知った家がある、そこへいっていないか」
まったく一銭もないので、神田の旅籠町まで歩きとおした。
神田にこころやすい家がある、そこで待っていて下さい、と平八が云った
翌日、幹太郎は神田お玉ヶ池の千葉道場へゆき、周作に面会を求めた。
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らしい。こまかな弱い降りで、人どおりの絶えた、暗い麹町の往来を、ひっそりと濡らしていた。
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見やりながら「困りましたね」と眉をしかめ、今日は日本橋のほうの旦那がたの寄合があるので、どの座敷も塞がっている、
あること。年は二十五歳で、名はあさ、実家は日本橋通り二丁目にある海産物問屋、渡島屋八郎兵衛という、藩の御用商人で
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幹太郎は夜の十時を過ぎてから亀戸へ戻った。
もいたし、てっぽう安っていう、いつか平手さんが亀戸でやっつけた、あにきとかさ」
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秋田平八という男に会ったのだが、仙台藩の品川屋敷で師範を捜している、扶持はごく少ないが、いまいる正師範が
、本邸と品川とに、常雇いの師範が置いてある。品川下屋敷には、佐藤市郎兵衛というのがいるが、もう年が六十七歳で
一刀流の千葉周作が出稽古をしているが、本邸と品川とに、常雇いの師範が置いてある。品川下屋敷には、佐藤市郎兵衛と
「とにかく」と、彼は云った、「下屋敷は品川のさきで遠すぎますから、私がいって平手に話すことにしましょう
そこへかやを預けてから、平八はまた駕籠をひろって品川へ向った。
伊達家の下屋敷は、品川の宿を出はずれた荏原郡大井村にある。その門前へ近づいたとき、
品川屋敷の道場は十日と二十五日が稽古休みであった。
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向島の『島屋』という茶屋で一度、この家で一度、お豊はまるで