樅ノ木は残った 02 第二部 / 山本周五郎
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と六郎兵衛が云った、「では申上げるが、私は駿河台下に刀法道場をもつ、柿崎六郎兵衛という者で、一ノ関侯とはかねて
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おみやは燗鍋の酒を銚子に移して、新八に盃を持たせようとした。新八は拒んだが、
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お中※のお供でいった、いいところがあるの、長命寺というお寺のそばよ」
だとか、「こちらが牛の御前で、そのうしろが長命寺」だなどと新八に教えた。
おみやが案内したのは、牛の御前の社から長命寺へゆく途中で、藁葺き屋根の、古い農家ふうの家であった。暗くて
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彼は正月十一日に江戸から帰ると、すぐに山へあがって以来、ずっと小屋にこもったままで、七
二月に江戸で、本邸の移転があったことも、甲斐は山の小屋で聞いた。
また、江戸で茂庭周防が、首席国老を辞任したことを、五月二日に聞い
数日して、江戸の茂庭周防から手紙が届いた。――六月中旬に、亀千代さまの髪置き
だ」と周防はつづけた、「しかもつい最近、私が江戸を立つときに、大学は留物境目について、一ノ関と右京さまに強硬
「そのときは江戸へ出て、幕府老中に訴えるつもりでいるらしい」
「江戸から宇乃と申す少女がまいりました」
「江戸から、――」と甲斐は振返った。
「いよいよ江戸へ出て、老中に訴えるつもりらしい、そのまえに会って、おれの存意を
ぬと答えた、おそらく湯気を出して怒っておるだろう、江戸で岩沼(田村右京)がふんばってくれれば面白くなる」
とき、甲斐は彼に一つの使命を与えた。かつて江戸の屋敷で彼が自刃しようとしたとき、ひそかに予告しておいたもの
新左衛門が去ってからは、甲斐は手紙を書いた。江戸の堀内惣左衛門に宛てた、かなり長い手紙だったが、書き終って封をする
手紙を渡し、「明日これを持って、辻村といっしょに江戸へ戻れ」と云った。
「江戸へ戻りましたら、私を鬼役(藩主の食膳の毒見をする役)に
去った。片倉隼人はそれを送って去り、塩沢丹三郎は江戸へ戻るために山をくだった。
「まもなく江戸へのぼる」と甲斐が云った、「なにか云いたいことがあったら、遠慮
「此処にいても、江戸へいってもだ、わかるか」
「ええ、いま病気だから、五月か六月に江戸へ出て来て、御家老になるということですわ」
家の庫に入るべき米を、自分の米として江戸へ送り、悪米をもってこれに代えたうえ、足軽、小者らの扶持
領内の米大豆は、諸侍、商人らによって自由に江戸へ送らせていたのを、布令を発して他領に出すことを停止し
し、しぜん相場の下るのを待って、自分が買占めて江戸へ送ったこと、これなどは要の条目と存じます。
移送を禁じ、相場の下るのを待って買占めたうえ、江戸へ送って不当の利を得た、という件はもっとも大事な点だ、
ほかに対象はない。ただ良人を求める欲望の激しさと江戸にいる良人への疑惑と嫉妬とで、日も夜もなく悩み苦しんだ。―
と試みた。さしあげたのはそれで、評判がよければ江戸で売り広めようと思ったのであるが、混ぜものをした味噌は貯蔵がきかず
のことも然り、仙台では国目付に訴状を出し、江戸では老中へ訴えて来る、家中の事を家中で処理しようとせず、
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三月二十九日に、将軍家綱が、小石川の堀普請を上覧されたことも、四月二日に、普請奉行以下
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妻の律は志田郡松山にいた。松山の館では、茂庭佐月が病臥ちゅうなので、
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ことも、四月二日に、普請奉行以下十五人が江戸城へ召され、将軍から慰労のことばと拝領物があったことも、やはり甲斐
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でも見て見ぬふりをするものだ、しかし彼は湯島に隠宅のあることを隠そうともしないし、またそれを非難する者も
またそれを非難する者もない、相当なねじけ者までが湯島を訪ねて、馳走になったり泊ったりすることさえある」
着替えをしていると、湯島から使いの者が来た。出府してから、まだいちども湯島へいっ
の者が来た。出府してから、まだいちども湯島へいっていない、「いつ来てくれるか」というおくみの催促であっ
雅楽頭は四十歳になり、三年まえ湯島の家であったときよりは、さらに肥えてみえた。風邪ぎみだという
なもてなしを受けた。酒井侯とは、まえにいちど湯島の家で会ったことがある。これは帰国したときに話したから、
盃をくれる」と云いさま、私に盃を投げつけた。湯島のときも、盃を投げそうにしたが、ついに実演してしまったわけ
第一の権力者になられたということだ。事実、湯島で会ったときより、はるかに恰幅も大きくひとがらに威も付いた。老中第
「いとまが三日できた、湯島へまいろう」
湯島の家も三年ぶりである。供は村山喜兵衛、矢崎舎人、塩沢丹三郎の
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で出奔しよう、というさそいの文であった。――赤坂の氷川神社の近くに、お久米の叔母がいる。家は参詣客のため
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ことに気づき、するどい悔恨と苦痛におそわれた。そして、愛宕山の下で塩沢丹三郎に追いつかれ、彼と相対して立ったとき、その悔恨と
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て、二万石加増されたとき、その領地の中へ衣川を残らず取入れた。それでは水利を独占することになるので、「
、しきりに一ノ関と張合っている、と周防が云った。衣川の境界の件、金山の件。また一ノ関はいま、隣接している本藩領
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――それがこの夏のはじめに、遠田郡小里村と、登米郡赤生津村とのあいだで、地境のあらそいが始まり、ひどくもめて
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式部らの一門、一家が挨拶をし、次に国老の奥山大学、大条兵庫、古内主膳。続いて宿老の原田甲斐、遠藤又七郎。それ
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所領にあるものは領主に帰属するのが当然である、金山に限って特に規定があれば格別、さもなければ、問題にするほうが不審
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「金華山も見えない」と甲斐は云った、「九月だというのに、こんな
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しよう、というさそいの文であった。――赤坂の氷川神社の近くに、お久米の叔母がいる。家は参詣客のための茶屋で
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のだ」と雅楽頭が云った、「先日また殿中で柳川(立花忠茂)に督促されたが、もういいかげんに承知してはどう
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白石川の流れが見え、はるかに遠く、雪をかぶった蔵王の峰が、早朝の日光をうつして、青みを帯びた銀色にかがやいてい
周防はややしばらく、眼をほそめて、遠い蔵王を眺めやった。
蔵王へ登る途中に、青根の温泉がある。藩侯の宿所「不老閣」には
さして、透明な碧色にぼかされた山なみの上に、蔵王の雪が鴇色に輝いていた。朝見たときの青ずんだ銀白の峰
周防が立停り、甲斐もその脇に立停った。二人は蔵王を眺めやった。蔵王は西側が金色に輝き、その半面が黒ずんだ紫色に昏れ
甲斐もその脇に立停った。二人は蔵王を眺めやった。蔵王は西側が金色に輝き、その半面が黒ずんだ紫色に昏れていた。紫色
それは、蔵王の峰からでも呼びかけるように遠く、静かに低い声であった。
が見えた。そのとき西北のほうに、青麻山と、蔵王の雪が鮮やかに眺められた。だが、それはほんの僅かなあいだのこと
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――松山(茂庭)どの白石(片倉)どのに、ながながの普請ほねおりであった、
――次に、松山どのが厩橋(酒井忠清)さまに辞任の意をもらされました。
「松山が辞職、あの周防がか」
――いずれ両後見より改めて願い出ると、松山どのは申され、厩橋さまは聞きおくと答えられました。
だし、なにか対抗手段を謀っていると思った、松山の気性からすれば、あの密訴を黙ってみのがす筈はない」
「松山は奥山大学の密訴の件を知っている筈だ、たしかに彼の耳
することは、大学に対して旗を巻くことになる、松山の気性でそんなことができるとは思えない」
「辞意がたしかなら仔細がある、そうだ、松山の辞任にはなにか理由があるぞ」
――原田どのの内室が松山へゆき、そのまま六十日あまり滞在しているとのことです。
――松山で佐月(茂庭周防の父)どのが病気をされ、その看護にゆく
は甲斐が帰国するとすぐのことで、律はそのまま松山にとめられていた。律はしきりに手紙をよこして、帰りたいから
妻の律は志田郡松山にいた。松山の館では、茂庭佐月が病臥ちゅうなので、看護のためにゆか
妻の律は志田郡松山にいた。松山の館では、茂庭佐月が病臥ちゅうなので、
「わたくし松山へは帰れませんわ」
いるから注意をするように」と云い、なお、できるだけ早く松山へ知らせて、迎えの者をよこすようにたのめ、と云った。
「松山の留守の者からの知らせによると、世間では律が不義をし
「松山と会って話すのも、たぶんこれが最後になるだろう」と甲斐は云っ
「松山は知っている筈だ」と彼は云った、「私は人の弔問
――まだ傷養生をしているそうで、松山(茂庭家)の葬儀には、家老の片倉隼人がまいりました。
――それは、松山の人びとも不審し、立腹しているようでございました。
――それがわかったものですから、松山ではいっそう穏やかならぬようすでした。
「松山でも知っているか」
た、なぜ困難であり微妙であるかという仔細は、松山どのからもあらましうかがっているのです」
をついて云った、「七十郎は早合点な男だし、松山と私とはそりが合わない、二人ともなにか思い違いをしている
また、これは失礼な申しようかもしれませんが、松山どのは貴方ともっとも親しく誰よりも貴方を理解しておられる、これは
自分は松山で茂庭周防どのから、およその事情を聞いている。貴方が一ノ関の帷幄
になって往き来もしないし、これまでの奥さまは松山から来た方だったけれど、その方を離別して、こんど津田玄蕃と
さまや兵部さまの味方だということでしょう、涌谷さまや松山さまとは、不仲になって往き来もしないし、これまでの奥さま
「松山というのは茂庭周防のことだな」と六郎兵衛が訊いた。
だ。甲斐は肚の底の知れない男だ、涌谷や松山と不仲になったのも、妻の離別も、一ノ関のすすめで国老に
が例をあげます」と七十郎は云った、「貴方は松山ともはなれ、涌谷とも疎隔された、所労と称して船岡にこもり
「貴方は佐月どのの葬儀にも松山へゆかれなかったし、青根の宿では私の義兄(伊東新左衛門)
そう信じていた、私の確信が崩れかけたとき、松山は貴方と盟約のあることをうちあけ、どこまでも信じているべきだと
「私ばかりではない、松山もそう信じていた、私の確信が崩れかけたとき、松山は貴方
「松山との盟約はどうなるんです」
「松山がそれを云ったのか」
「松山がだ、もしその盟約が事実だとしたら、ほかへはもれないよう
をつぐみ、それから、さぐるように云った、「貴方は松山を非難するんですか」
いたようなものではないかもしれない。涌谷も松山も、雅楽頭と一ノ関との姻戚関係をにらんでいた。すなわち、兵部
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「仙台でもか」
「仙台へは出ないのか」
――国目付衆が下向すれば、仙台へ出なければならぬでしょうが、まだ帰国して以来ずっと船岡にこもった
「国目付が到着すれば、涌谷も仙台へ出ずばなるまい、そのとき眼を掠められないようにしろと云え
着く予定だということを聞いたので、そのまえに仙台へ出るため、十七日に山をおりたのであった。
たことや、幕府の国目付が、五月二十五日ころ仙台に着く予定だということを聞いたので、そのまえに仙台へ出る
「明日、仙台へまいります」
周防も帰ると思いますが、そうでなければ、帰るまで仙台で待つつもりでいます」
五月十八日、甲斐は船岡を立って仙台へいった。
仙台では、矢崎忠三郎と松原十内とが、甲斐の身のまわりの世話を
「仙台にいるがいい」
「仙台から使者がありまして」と喜兵衛が云った、「古内主膳さまが亡くなら
「仙台にいるということだ」と甲斐が答えた。
「古内へは隼人がゆくように、葬儀の済むまで仙台にいるように、と云ってくれ」
と「子供」に縛られたっきりで、一生に一度、仙台の城下を見ることもできずに終ってしまう者が多い、それでも
仙台に滞在されるそうで、相談したいことがあるから仙台へ来られたい、との口上でございます」
「この月下旬まで仙台に滞在されるそうで、相談したいことがあるから仙台へ来られたい
」と訊いたら、新左衛門は、さきごろ上方から帰って、いま仙台にいる、と答えた。彼は京から長崎までゆき、そこに五十日
鳥羽とかいう人と、三沢頼母という人、それから仙台の本丸城代、この人の名は忘れましたわ、この三人がどう
――仙台へ通じましょうか。
待つとしよう、十左がそこまでやったとすれば、仙台でも騒ぎだすに違いない、そのもようをみてからでもおそくはない
とも疎隔された、所労と称して船岡にこもり、仙台本城への勤めも怠っていた、それが一ノ関に推されると、たちまち
「どうも仙台はうるさい」と雅楽頭は云った、「仙台びとの我の強いのと倨傲にはうんざりする、平穏だという状態は
「どうも仙台はうるさい」と雅楽頭は云った、「仙台びとの我の強いのと
、六カ条のことも然り、大学非難のことも然り、仙台では国目付に訴状を出し、江戸では老中へ訴えて来る、家中
六十二万石壊滅かと、全家中は恐れ惑い、なかには仙台の城にたてこもって、斬り死にをしようなどと申す者さえございました」甲斐
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、甲斐は山の小屋で聞いた。桜田の上屋敷が、甲府綱重の本邸になるため、新たに麻布白金台に替地が与えられ、伊達家
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をあげて云った、「その医師は河野道円といい、長崎まで人をやって毒薬を手にいれた事実があります、これは単なる
て、いま仙台にいる、と答えた。彼は京から長崎までゆき、そこに五十日ほど滞在した、ということであった。
新左衛門はどこから出た話か云わなかったが、七十郎が長崎にいたとすれば、彼がさぐりだしたに相違ない。また彼は、
な。亀千代の新しい侍医が、手をまわして、ひそかに長崎で毒薬を買ったという。新左衛門はどこから出た話か云わなかった
ない男だ」と甲斐は頭を振った、「七十郎は長崎までいって、ねぼけて来たようだな」
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四月に「寛文」と改元)の正月二十日に、浅草材木町の家へ、おみやが帰って来た。五日まえ、――
用事をし、たいてい五時には、又五郎といっしょに、浅草の家へ帰るのであった。
そのことで、ゆっくり相談がしたいから、今夜にでも浅草のいつもの家へ来てもらいたい。都合が悪ければ、明日でも明後日
お久米とはもう七八回も逢っていた。浅草の茶屋町の横丁に、加賀節という小唄を教える女師匠の家がある
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「向島よ」とおみやが云った、「このあいだ、お屋敷のお中※の
。おみやと新八は真崎まで駕籠でゆき、そこから舟で向島へ渡った。土堤へ登ると、向うはいちめんの刈田で、ところどころに松林
――初めての非番で、向島へ歩きにでかけた、とその手紙には書いてあった。その帰途、
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十右衛門。大条次郎兵衛。北見彦右衛門。横田善兵衛。剣持八太夫。上野三郎左衛門。小島加右衛門。
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の上屋敷が、甲府綱重の本邸になるため、新たに麻布白金台に替地が与えられ、伊達家では愛宕下の中屋敷を本邸に直した
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から帰国することになった。というのである、そして品川の下屋敷に綱宗を訪ねたこと、それについては会ったときに話す
甲斐はそれには答えないで「品川のことをうかがおう」と云った。周防は、さっき紙入から出して置いた
ら書状を遣わし候によってまかり出で候などと備前(品川屋敷家老、大町定頼)へ申されまじく候。以上。
ついさきごろ、江戸屋敷からの手紙で知ったのだが、品川下屋敷ではお部屋さま(三沢初)が御懐妊だということだ、まこと
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そのとき両国橋は、それまでの位置より少し川下へよったところに、新らしく架け直す工事
たところで、架橋工事をしていた。それは、両国橋を新らしく架け変えているのであるが、水に浸り泥まみれになって、
そこは両国橋の上であった。少し川下によったところで、架橋工事をして
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ある人の愛妾が芝居見物だって。ええ、お部屋さまは京橋のなんとやらいう、大きな商家そだちだそうで、よく隠れて見物にゆくん
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蹴った。おみやは横ざまにはねとばされ、堤の斜面を、隅田川のほうへ転げ落ちた。