柳橋物語 / 山本周五郎
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のかなたが気になりだした。もうどのくらい行ったろう、箱根はぶじに越したろうか、馴れない土地は水にあたり易いという、病みつくよう
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「……大丈夫よお祖父さん、高いところだからたぶん本郷でしょう、風が東へ寄っているので、火は駿河台のほうへ向いて
却ってすさまじくかなしくみせるようだ。晴れていたら駿河台から湯島、本郷から上野の丘までひと眼に見わたせるだろう、いまは舞いしきる粉雪で少し遠いところは朧
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だしの金梨地のようなこまかい火の粉が、条をなして駿河台のほうへ靡いていた、おせんは舌が硬ばり、かちかちと歯の鳴るの
本郷でしょう、風が東へ寄っているので、火は駿河台のほうへ向いているわ」
「下谷へまわるぜ」とか「ああとうとう駿河台へ飛んだ」とか「いま焼けているのは明神様じゃあないか」など
がいっぱいだった。幸太はちょっと迷った、西を見ると駿河台から延びて来た火が、向う柳原あたりまでかかっているようだ、北は
跡のありさまを却ってすさまじくかなしくみせるようだ。晴れていたら駿河台から湯島、本郷から上野の丘までひと眼に見わたせるだろう、いまは舞いしきる粉雪で少し
筋違橋、向う柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて神田を焼きさ、伝馬町から小舟町、堀留、小網町、またこっちのやつ
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堀留、小網町、またこっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたりじゃ焼け死んだり川へ
、山門は倒れてめちゃめちゃだ、追っかけて二十九日の大火に回向院はあのとおりさ、げんあらたかだてえんでいまたいそうな参詣人だそうだ。
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森田町からはいって三味線堀についてゆくのが、阿部川町へはいちばん近い道
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いった。王子権現の滝も、谷中の螢沢も、本所の牡丹屋敷も、みなそうして知ったのである。
伝馬町から小舟町、堀留、小網町、またこっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたり
、見たという者さえなかった。そのときの水は本所と深川を海のようにし、西岸も浅草通りを越して、上野の広小路
そのまえ三月の中旬ころに松造が友助から聞いて本所四つ目にある宗念寺という寺を訪ね、そこに勘十の家
したということ、友助夫婦が梶平のあと押しで、本所のほうへ小さな材木屋を始めたこと、そして浅草橋の川下に新しく橋が架け
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ていろいろな幻想があたまのなかを去来する、幼いころに浅草寺の虫干しで見た地獄絵のような、赤い怖ろしい火焔がめらめらと舌を吐くさま
「浅草寺の境内にまたゆき倒れが五人もあったってさ」
川へはいって死んだりした者の供養のためで、浅草寺からなにがし上人とかいう尊い僧が来て開眼式がおこなわれ、数日の
と、知った人にみつからないように、気をくばりながら浅草寺のほうへ歩いていった。風もないし、その季節にしては暖かい
浅草寺の境内へはいったが、さてどことなるとなかなか場所がなかった。奥山に
たように鋏を借りて指の爪を切り、これから浅草寺のおにやらいにゆくのだがなどと云って、なお暫くとりとめのない話
から俗に「おにやらい」という修正会を見に浅草寺へまわった。その帰りのことであるが、人ごみの中で和助を負った
めくってみたりする。ごく稀には幸太郎をつれて、浅草寺などへゆくこともあったが、ひと晩泊るときまって朝早く帰っていっ
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「江戸にいれば頭梁の家で幸太の下風につくか、とびだしたところで、
はいっそう蒼くなった。「……有難うおせんちゃん、おかげで江戸を立つにもはりあいがある、そしてその返辞を聞いたから云うが、実は
ぬぎ、いまその世話で或る普請場へかよっていること、江戸とは違って人情は冷たいが、詰らぬ義理やみえはりがなく、どんなに
あった。去年からひき続いての評判が、もういちど、江戸の街巷をわきたたせ、春の終るころまで瓦版や、絵入りの小冊子類がいろいろ
と穿いたかたちが緊まるのとでその年の春あたりから江戸でも少しずつ用いはじめていた。まだ流行するまでにはなっていない
があって、小田原から房州へかけてかなり被害があり、江戸でも家や土蔵が倒れたり崖が崩れたりした。深川の三十三間堂が倒壊
し、すぐ要ると思える物を集めて包を拵えた。江戸には火事が多いので、ふだんから心の用意はできている、荷物は
江戸には珍しく粉雪をまじえた風が、焼けて黒い骨のようになった樹立
始末に手が離せなかったのと、人の評判では江戸はたいした事がないというので、知らせのないのを無事という風に
に会っていなかった。あのときの口ぶりでは、江戸にいるかもしれないし大阪へ戻るかもしれない、どっちともきめて
だがおたかは続けた、権二郎の告げ口から庄吉が江戸へ帰って来るまでのこと、帰って来てからおせんと逢うまでのこと、
なっているような例が二三あった。だがそれが江戸というものなのだろう、一家で死んだり夜逃げをしたりするあとには、
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一つは本郷追分から谷中までひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違
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火が、向う柳原あたりまでかかっているようだ、北は湯島を焼いたのが片方は上野から片方は神田川にかけて燃え弘がって
浅草橋まであとひと跨ぎというところまで来た。湯島のほうから延びて来る火は、もう佐久間町あたりの大名屋敷を焼きはじめた
たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋、向う柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて
気がついてみると二人はみえなくなっていた。湯島の天神さまへということはうちあわせてあったので、いずれは会えると思い
いずれは会えると思い、そのまま避難者の群といっしょに湯島へいってしまったが、それが勘十夫婦との別れになったので
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は胸の切なくなるようなことさえあった。――もう大阪へ着いた頃であろう。宿はきまったかしらん。うまく稼ぎ場の口がみつかるだろう
「大阪でひょっくりぶっつかったんだ、そうしたらこれを内証で、おせんに渡して呉れ
…山崎屋はさして大きくはないがともかく三度飛脚で、大阪の取組先があり若者も五人ばかり使っていた、権二郎はその一人
読んだ。それはごく短いものだった。道中なにごともなく大阪へ着いたこと、道修町というところの建具屋へひとまず草鞋をぬぎ、いまその
駆けつけて、どんなにもちからになって呉れるだろう、だが大阪では知らせてやることもできず、知らせたところで来て貰うわけ
ああ、あの頃からもう告げ口をしていたんだ、大阪へ飛脚でゆくたびに、このひとと会って無いことをあれこれと云ったに
ときの口ぶりでは、江戸にいるかもしれないし大阪へ戻るかもしれない、どっちともきめていないという風だったが
となくおたかから聞いたことがあった。――もちろん大阪へなどゆきはしない、きっとこの土地にいるに違いない。おせんはこう確信
よくわかる、そして自分にはその疑いを解く証拠がない。大阪という遠いところにいて、飛脚屋の権二郎からたびたび忌わしい話を聞き、
を話しだしたのよ、杉田屋にいたじぶんのことから大阪へゆくようになったわけ、そのときおせんちゃんと約束をしたことも云っ
云ったわ、固く固く約束したんだって、――大阪へいってから、それこそ血の滲むような苦労をしながら、その約束ひと
た。けれどもそれは決して愛ではなかった。彼が大阪へゆくまえにおせんを柳河岸へ呼びだして、帰って来るまで待っていて
―庄吉が去ってしまってから、いやいや、もっとはっきり思いだせば大阪から彼の手紙が来てから、その手紙を読んでから初めて自分は、彼
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家や土蔵が倒れたり崖が崩れたりした。深川の三十三間堂が倒壊し、大川は一夜に四たびも潮がさしひきした。地震は二十五
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「おせんちゃん、このひとは下総の古河からみえた方でね、お常さんの実の兄さんに当るんですってよ」
三日の午後に古河から松造が来た。野菜物を千住の問屋へ送って来たのだと
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、そのときあたりは昏れかけていた。つい向うに見える両国の広小路も、川を隔てた本所の河岸も、このあいだまでは水茶屋に灯がはい
所河岸を眺めやった。煙がひどいのでよくわからないが両国広小路の向うも火のようだった。薬研堀から矢の倉へかけて、橙色のすさま
へとびあがり、同じ言を幾たびも叫びたてた。それから両国のほうと本所河岸を眺めやった。煙がひどいのでよくわからないが両国広小
勘さんは勘十といって向う両国に住んでいた。そこで煎餅屋をしていたのであるが、あの夜の火で焼けださ
いくらい明るく光り、かなり高く潮の香が匂ってくる。両国広小路のほうにはもう水茶屋が出来て、葭簾張りに色とりどりの暖簾を掛け
おようちゃんの三人はお嫁にいったの、お絹さんは向う両国の佃煮屋へいって、去年だかもう赤ちゃんができたわ、――みんないい人ば
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――聖堂も湯島天神も焼けちゃったからな。
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「下谷へまわるぜ」とか「ああとうとう駿河台へ飛んだ」とか「いま焼け
まだ明けない戸の向うで云った、「……火が下谷へ飛んでこっちが風下になったよ、出てごらんな大変だから」
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梁の巳之吉は火事のとき腰骨を折り、女房を伴れて水戸のほうへ引込んでしまった。が、その後は便りがないからわからないと
た口つきで云った、「――おれは去年の暮に水戸へいってきた、杉田屋の頭梁が亡くなったんでね」
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そのためか往来の人もかなりあるし、腰高障子の明るい奈良茶の店などでは、酔って唄うにぎやかな声も聞えた。――
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でも家や土蔵が倒れたり崖が崩れたりした。深川の三十三間堂が倒壊し、大川は一夜に四たびも潮がさしひきした。
またこっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたりじゃ焼け死んだり川へとびこんで
たという者さえなかった。そのときの水は本所と深川を海のようにし、西岸も浅草通りを越して、上野の広小路あたり
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実の親だったが、気性が合わないため別居し、神田のほうで研屋をしながらずっと独りで暮していた。それが茂七が
調子で云った、「おれは駒形の者だ、おふくろが神田にいるんでゆくところだが、焼けているのはお厩の渡しから
柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて神田を焼きさ、伝馬町から小舟町、堀留、小網町、またこっちのやつは大川を
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泣いているような微笑をうかべた。そしてその日午後、品川のほうにある親類の家から旅に立つ筈で、茅町の土地を去っ
から来た、不仕合せな身の上で、両親もきょうだいもなく、品川で漁師をしている遠縁の者が親元になっていた。彼は
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から片方は神田川にかけて燃え弘がっている。そして浅草のほうも火だ、つまり隅田川に向って三方から火が延びて
を出た。……大通りは人で揉み返していた、浅草のほうはいちめんの火で、もうそのあたりまできな臭い煙がいっぱいだった。
ていろいろな幻想があたまのなかを去来する、幼いころに浅草寺の虫干しで見た地獄絵のような、赤い怖ろしい火焔がめらめらと舌を
、北風になったもんで湯島から筋違橋、向う柳原、浅草は瓦町から茅町、その一方は駿河台へ延びて神田を焼きさ、伝馬町から
「浅草寺の境内にまたゆき倒れが五人もあったってさ」
川へはいって死んだりした者の供養のためで、浅草寺からなにがし上人とかいう尊い僧が来て開眼式がおこなわれ、数
の水は本所と深川を海のようにし、西岸も浅草通りを越して、上野の広小路あたりさえ道に溢れ、四日ばかりは少し
と、知った人にみつからないように、気をくばりながら浅草寺のほうへ歩いていった。風もないし、その季節にして
浅草寺の境内へはいったが、さてどことなるとなかなか場所がなかった。
たように鋏を借りて指の爪を切り、これから浅草寺のおにやらいにゆくのだがなどと云って、なお暫くとりとめの
から俗に「おにやらい」という修正会を見に浅草寺へまわった。その帰りのことであるが、人ごみの中で和助を
わかっても、おせんはさほど悲しくはなかった。庄吉は同じ浅草にいるのである、阿部川町といえば此処からひと跨ぎだし、住込み
めくってみたりする。ごく稀には幸太郎をつれて、浅草寺などへゆくこともあったが、ひと晩泊るときまって朝早く帰っ
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ているようだ、北は湯島を焼いたのが片方は上野から片方は神田川にかけて燃え弘がっている。そして浅草のほうも
かなしくみせるようだ。晴れていたら駿河台から湯島、本郷から上野の丘までひと眼に見わたせるだろう、いまは舞いしきる粉雪で少し遠いところは朧に
かを捜さなければならないような気持で、ときには上野から湯島あたりまでうろうろしたこともある。しかし大川のほうへは決してゆか
谷中までひと舐めさ、こっちはおめえ小石川から出たやつが上野へぬけてよ、北風になったもんで湯島から筋違橋、向う柳原、
を海のようにし、西岸も浅草通りを越して、上野の広小路あたりさえ道に溢れ、四日ばかりは少しも減るようすがなかった
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浅草橋まであとひと跨ぎというところまで来た。湯島のほうから延びて来る
た、「……御門は、閉った、みんな戻れ、浅草橋は渡れないぞ」
恐るべき速さで迫って来ている、東は隅田川だ、浅草橋はたった一つ残された逃げ口だったのだ。
鎮まり、次いでひじょうな忿りの呶号となって爆発した。浅草橋御門を閉められたとすれば、かれらが火からのがれる途はない
た。群衆は眼にみえないちからに押しやられて、再び浅草橋のほうへと雪崩をうって動きだした。
幸太はここの群衆の中から脱けだした。彼には浅草橋の門の閉った理由がすぐわかった。門の彼方もすでに焼けている
に曝され、頭から白く粉雪に包まれた人々が、浅草橋の北詰から茅場町あたりまで列をつくっていた。傘をさしたり合羽を
から新大橋まで、河岸に沿って新しく道が出来た。浅草橋御門からこっちでは、瓦町と茅町二丁目の表通りから大川端まで九割
があればあんなにたくさん死なずに済んだんだ、なにしろ浅草橋の御門は閉る、うしろは火で、どうしようもなく此処へ集まっちゃっ
で、本所のほうへ小さな材木屋を始めたこと、そして浅草橋の川下に新しく橋が架けられ、柳橋と名付けられたことくらいのもので
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た。それにしても余り信りがないし、こんど千住市場へ荷の契約があって出て来たのを幸い、それを済ま
松造は泊っていった。千住に舟が着けてあって、朝早くそれに乗って帰るということだっ
三日の午後に古河から松造が来た。野菜物を千住の問屋へ送って来たのだと云って、おせんにも土の付い
した物もすべて松造が心配した。荷のほうは千住の問屋に話してあるので、小僧がゆけばその日その日の物
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評判は、よく聞いた。天王町の裏にひとところ、三軒町から田原町のあたりに幾ところとか、そういう人たちの寄り場があり、表向き
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を祝ったあと、おせんは幸太郎を背負って、産土神の御蔵前八幡へおまいりをし、それから俗に「おにやらい」という修正会
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を踏みつけそうで、おせんははらはらしながら歩いていった。神田川のおち口に近い柳の樹蔭の、もううす暗くなったところに庄吉は立っ
、北は湯島を焼いたのが片方は上野から片方は神田川にかけて燃え弘がっている。そして浅草のほうも火だ、つまり隅田
た。彼はすばやくみきわめをつけ、けんめいに人波を押し分けて神田川の岸へぬけ、そのまま平右衛門町から大川端へと出て来た。
神田川の落ち口に沿った河岸の角が、かなり広く石置き場になっていた
上まであった。然も潮はひきはじめているとみえ、神田川の落ち口なのでかなり強い流れが感じられる。おせんは赤子を抱いたからだ
こんなことがあってまもなく、神田川の落ち口に地蔵堂が出来た。その付近で火に焼かれたり川へはいっ
。おせんは柳河岸へいった。地蔵堂より少し下の、神田川のおち口に近い河岸へ、――そこは、あの火事の夜、お
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隅田川は夕潮でいっぱいだった。石垣の八分めまでたぷたぷとあふれるような水
を云うな、来いというのは大川端だ、おまえなんぞは隅田川の水が柄相応だぜ、たっぷり呑ませてやるからついて来な」
燃え弘がっている。そして浅草のほうも火だ、つまり隅田川に向って三方から火が延びているのである。
いる、然も恐るべき速さで迫って来ている、東は隅田川だ、浅草橋はたった一つ残された逃げ口だったのだ。
下総猿が股のほか多くの堤が欠壊したため、隅田川の下流は三日の深夜からひじょうな洪水にみまわれたのであった
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で回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたりじゃ焼け死んだり川へとびこんで溺れたりした者がたいへんな数だって
のあとでよく道筋や地割の変更がある、そのときも両国橋から新大橋まで、河岸に沿って新しく道が出来た。浅草橋御門から
両国橋の脇から舟に乗っていったが、明日は回向院の川施餓鬼が
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こっちのやつは大川を本所に飛んで回向院あたりから深川永代橋まできれえにいかれちゃった、両国橋あたりじゃ焼け死んだり川へとびこんで溺れたり
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よく道筋や地割の変更がある、そのときも両国橋から新大橋まで、河岸に沿って新しく道が出来た。浅草橋御門からこっちでは