生い立ちの記 / 小山清
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私は数え年の二つのとき、父母に伴われて大阪へ行った。大正の始であった。
患ったためだという。父は十三四の頃初めて大阪へ行き、はじめ五世野沢吉兵衛の手解をうけ、その後当時越路太夫と云った
学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、兄と
大阪のどこに私の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪
の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪の家には、父母と私と祖父の姉にあたる人(この人のこと
を、家ではひとつは祖母と区別するために、大阪おばあさんと呼んでいた)と、それから私の子守のしづやが
がいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。
女の子のことを少しも覚えていない。私達は夜汽車で大阪を立ったようである。夜の道を俥を連ねて停車場へ行った。
れた覚えがある。「おこうや」という云い廻しには大阪訛が雑っているかも知れない。私は大阪から帰った当座、しばらくは
には大阪訛が雑っているかも知れない。私は大阪から帰った当座、しばらくはその訛がとれず、兄からよく笑われたそう
に祖父の弟にあたる人の一家が住んでいた。大阪おばあさんにしろ、またその弟の人にしろ、共に祖父が呼び寄せた
。」これは上方の歌であろう。私の父は長く大阪に義太夫の修業に行っていたから、家内の者もこの歌を知って
の姉にあたる人が寝起きしていた。父がはじめて大阪へ修業に行ったのは十三四の頃であったが、この人が
この人のことを、一つは祖母と区別するため、大阪お祖母さんと呼んでいた。この部屋には炉が切ってあって、
。二階は父の稽古場であった。この階段から、大阪お祖母さんは二度落ちて、そのつど虫の息になった。一度は回復し
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していた。家では河鹿を飼っていた。湯河原かどこかで捕獲したものであった。夏になると、金網の中
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が掲げてあったのを覚えている。私の家は吉原遊廓のはずれの俗に水道尻という処にあったのだが、検査場(吉原
の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく
私の家は吉原遊廓のはずれにあった。家の裏手には木柵が囲らしてあって、台所口
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早く暇を取ったようである。兄と私はその頃根岸にあった幼稚園に通った。私の家から廓外へ出るには、検査
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私が四年生のときに死んだが、祖父の死後、樺太のおじいさんという人が尋ねてきたことがあり、子供の私達も
その人を家に迎えたりしていたのである。樺太のおじいさんのもとからは、折にふれて海産物の小包が送られて
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人」「虎の面」などという西洋の活劇物や水戸黄門漫遊記などの類であった。えつやは西洋人の名前を読み
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いう処にあった。みきや長屋は、芝の新網、下谷の万年町ほどではないが、界隈に聞えた貧乏長屋であった。母
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て行った。父は時々、学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間
者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。兄は私より二つ年上
それから私の子守のしづやがいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家に
私の家は懇意にしていたようで、その後東京へ帰ってからも、その家のうわさがよく出た。瀬多屋の主人
そう云って私がしづやにせがんだということを、東京に帰ってきてから、よく母などから聞かされたものである。私
同じ年頃の女の子がいて、私と仲よしで、私が東京へ帰ることを聞かされて泣いたそうである。後になっても、
た年に、父は文楽座を退いて、私達一家は東京へ帰った。鮨屋の娘で同じ年頃の女の子がいて、私と仲よし
東京に帰ってきてからも、しづやはしばらく私の家にいた。
た時分、ポスターなどに見かける女の人の絵姿で、「東京の叔母さん。」と母のことを教えられた、子供の頃のその
見られた。この母の甥に当る人は、その後東京へ出てきて、母の死後、家に尋ねて来たことがあっ
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のおはぐろ溝の際にあった、ふだん私の家で浅草方面へ行く場合に使用させてもらっている小林と云う仕舞屋の土間を
遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。
の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓の
ひとりとじ籠っていた。部屋の窓から外を見ると、浅草公園の十二階や上野の山が見えた。窓の際には、丈
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かの狭い露地を通りぬけると、そこはもう根岸で幼稚園は鶯谷へ出る途中のやっちゃ場(青物市場)の近くにあった。しづやに附
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花やという女中が上野の山に逃げ、母と兄は向島に逃げ、祖母と父は吉原の池の際に居残って命拾いをした
の小屋掛けをして、祖母と母がいた。一家は向島の親戚の家に避難しているのだった。なにもかもが灰燼
向島の親戚の家に当分厄介になることになった。父は盲目なの
震災で焼け出されて、向島の親戚の家に厄介になっていた頃、母は毎日のように
たのであろう。また、こんな歌も聞かされた。「向島花ざかり。だんごの横ぐし、うで卵。姐さん、一寸おいで。おっと呑ん
。私はその蟹と亀とを、そのとき避難した向島の親戚の家に持って行って、そこの池の縁に置いた。
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一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野の山に逃げ、母と兄は向島に逃げ、祖母と父は吉原の
上野の山には、避難民がいっぱい群らがっていた。私達はその晩そこに
部屋の窓から外を見ると、浅草公園の十二階や上野の山が見えた。窓の際には、丈高い公孫樹があって、
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あくる日、田端の方にある、花やの親戚の家に行った。震災の様子を偵察
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隣りは蔵前の六畳間で、ここはいわば母と私の部屋であった。夜
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にじっとして待っていることが出来なかった。私は隅田川を通う蒸気船の発着所まで出向いて、そこにあるベンチに腰かけて、母