花を持てる女 / 堀辰雄
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て、自分の生れた頃、父が一時母と分かれて横浜かなんぞにいて他の女と同棲していたような小さなドラマがあっ
も身を入れ、由次郎という内弟子もおいて、自分で横浜のお得意先きなども始終まわっていたが、子を失くしてから、又酒
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などには、看護の人に手をひいて貰って、吾妻橋まで歩いていったという便りなどが来た。それほど快くなりかけてい
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なるだろう。そうとすると、私の生父の墓は青山か千駄ヶ谷あたりにあるのだろう。誰れにきいたらいいかしらと思って、私は
ことが出来た。その寺は高徳寺といって、やはり青山にあった。静かな裏通りの、或る路地のつきあたりに、その黒い門を見いだし
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年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるように
私はそういう母の一家の消長のなかに、江戸の古い町家のあわれな末路の一つを見いだし、何か自分の生い立ちにも
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広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことの
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大きな箪笥屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の加賀さまの奥へ仕えていた。そうして十九のときに米次郎の
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広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていた
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おさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私と
にいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。
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うちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚橋
そういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、
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円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末
正午ちかく向島のうちに着いてみると、そのあけがた脳溢血で倒れたきり、父はずっと
あったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある家に母と幼い私とをむかえた
幼い私をかかえて、ひと先ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦――それ
。なんでもおばさんの話によると、母がはじめて向島のはずれのその家に訪れてみると、なにひとつ世帯道具らしいものも
松吉はとうとうそのおようという若い師匠と、向島の片ほとりに家をもった。そして二三年同棲しているうちに、一
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ない。父方の上条家の代々の墓なのである。上野の寺侍だったという祖父、やはり若いうち宮仕えをしていたという
ある。その父武次郎は、代々請地に住んでいて、上野輪王寺宮に仕えていた寺侍であったが、維新後は隠居を
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だったものたちも入れかわり立ちかわり来た。それから母方の、田端のおばさんたちも来た。いとこたちも来た。それからまだ麻布の
それからは私は妻のほうのことは田端のおばさんに一任して、自分はなるたけ父の枕もとにいるようにし
れた。それを私に聞かせてくれたのは、田端のおばさん、すなわち私の母のいもうとの一人で、震災まえまでは私たち
て東京に出て、私だけ手みやげを持って、震災後ずっと田端の坂の下の小家におじとおばと二人きりで佗住いをして
に家を持っていたいもうと夫婦――それがいまの田端のおじさんとおばさんで――のところだった。漸っとその家に
雪の下のたいそう美しく咲いていた、田端の、おじさんとおばさんとの家で、私が六月の日の
私はいまこの稿を終えようとするとき、その田端へ往った数日後、私はまたふいと何かに誘われるような
註一 私の生父の墓のある寺のことは田端のおばさんもよく覚えていなかった。なんでも河内山宗春の墓が
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用事があって往くことになっていた妻と連れだって東京に出て、私だけ手みやげを持って、震災後ずっと田端の坂の下の
ていた事がときどき気になりながらも、なかなかひとりで東京に出て往けなかった。が、そのうち何処からか、去年の暮れごろ
ていた。そんな事のあったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果の木のある家に母
私はまたふいと何かに誘われるような気もちで、東京に出て、ひとりで請地の円通寺を訪れた、六月のうすら曇っ
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の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育て
母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先ず頼っていった
いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構えの、玄関先きに飛石などの打って
いま思うと私の生れたのは麹町平河町だというから、あれはきっと三宅坂と赤坂見附との間ぐらいの
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をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音さまへ願掛けをされて、平生嗜まれていた酒と煙草
と、そこが請地の踏切である。私は東武電車で浅草に出ようと思って、その踏切のほうに向っていった。その場末の
いかにも場末らしく薄汚い請地駅で、ながいこと浅草行の電車を待ちながら、私はそんなことを一人で考え続けていた
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たらしい。いくつも高張提灯をかかげて、花嫁の一行が神田から霊岸島をさして練ってゆくと、丁度途中にめ組の喧嘩が
である。母は茅野氏で、玉といい、これも神田の古い大きな箪笥屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の
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由次郎に添わせてやる決心をした。二人のために亀戸の近くに小さな家を見つけ、自分のところにあった世帯道具は何から
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。そうとすると、私の生父の墓は青山か千駄ヶ谷あたりにあるのだろう。誰れにきいたらいいかしらと思って、私はふと
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のは麹町平河町だというから、あれはきっと三宅坂と赤坂見附との間ぐらいの見当になるだろう。そうとすると、私の生父