雷門以北 / 久保田万太郎
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の、学校で毎日顔をみ合わせる友だちは、南は並木、駒形、材木町、茶屋町(まえにいったように、すこしのところで、わたしの
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は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、時おりわたしのめぐりあう人たち、めぐり逢えばすなわちあいさつぐらいする人
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―改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部
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高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても誰ももうそれを信じない
た。「仲見世」のもつ横町のすべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、いま角に「音羽」という安料理屋のある横町、
「奥の常盤」と呼んだのは、それ以外、「雷門の常盤」だの「中の常盤」だのというおなじ店のいろ/\
する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもったにすぎなかった。――と、たま/
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ことを知っているほどのものでも、ときにこの「成田山」の存在をわすれるのをわたしはつねに残念におもっている。――これ
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へはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから吾妻橋のそばの「東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」「恵比寿
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かげに、手堅い、つつましい、謙遜な、いえばおのずからそれが江戸まえのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとを
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どこにも見出すことが出来なかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなし恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の
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活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だ
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屋根の両方のはじにくッついた鯛のかたちをみながら弁天山の裾をまわり、いまは酒やになった米やの角を馬道の往来
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た。「煎豆」があり、「紅梅焼」があり「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関連する
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たとえばもとの煉瓦づくりの時分九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺
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。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしで
田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい
すべてわたしの子供の時分には……すくなくともまだわたしの田原町にいた時分にはだれもそう呼んでいたのである。――
学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえ
町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、
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……浅草で、お前の、最も親愛な、最も馴染のふかいところはどこだときか
のである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。―
感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびをいさましくそこに物語っている。―
ば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」の土中ふかくひそんだ根幹である……
ある――下総屋と舟和を、もし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままで
をかまわずそこまでかよわせられた――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古い
で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」の
……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろ/\小川学校だの青雲学校だのと
た店である。――その時分、浅草には、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも
をはじめて教えてくれた店である。――その時分、浅草には、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外西洋料理屋らしい西洋
それが江戸まえのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれ
」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅」があった。…
、吉右衛門だの、小伝次だの、宗之助だの、当時浅草座出勤少年俳優の写真をわたしは買込んだことだろう。そのまえを通れば
。わたしの足はおのずと早くなった。――そのころ、浅草学校、いまのようにまだ味噌屋の「万久」の通りに門をもっ
達するものありといふ。』と明治四十三年に出た「浅草繁昌記」という本の「仲見世」を説明したくだりに書いてある
両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に
、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の
にくろい塀をめぐらした「万梅」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥、長持、長火鉢のたぐいから笊、み
ある。……わたしにいわせれば、畢竟それは「新しい浅草」の膚浅な「殉情主義」の発露に外ならない……
……金竜山浅草餅の、震災後、いさましい進出をみせたのが、商売にならないかし
浅草学校(一)
浅草学校(二)
「古い浅草」と「新しい浅草」(一)
「古い浅草」と「新しい浅草」(一)
な感じが、その政治家だの学者だの官吏だのの浅草の土地に従来あんまりいなかったというだけはほんとうである。すくなくも、
に至りて特に甚だしく、下町もまた漸く浸蝕せられ、たゞ浅草区のみは、比較的にかゝる田舎漢に征服せらるゝことの少きをみる
せば、浅草区をおきてこれなきなり』と前記「浅草繁盛記」の著者はいっている。その著者のそういうのは、官吏
れたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり』と前記「浅草繁盛記」の著者はいっ
。思ふにかゝる江戸趣味及び江戸ッ児気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、
その住所を定むるもの少し。今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、幾人の博士、文士、はた官吏
『蓋し浅草区は、世のいはゆる政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の
ある。これは悉く焼け野原になった。第三にみえる浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前――その外
には三通りの観念を与える言葉である。第一に浅草といいさえすれば僕の目の前に現われるのは大きな丹塗の伽藍で
」のある随筆の中でこういっている。『……浅草という言葉は少くとも僕には三通りの観念を与える言葉である。
「古い浅草」と「新しい浅草」(二)
「古い浅草」と「新しい浅草」(二)
小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……
…「池のまわりの見世物小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……
に密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てらさた。……「池のまわりの見世物小屋」こそいま
の廓に近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」
の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。――改めてわたしはいうだろう、花川戸、
かたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。――改めて
とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、
浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来
「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」と
「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「
ある。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえ
になったのである。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめ
が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化した
が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一ト
が、前のものは――その逆に「古い浅草」は……
「古い浅草」と「新しい浅草」(三)
「古い浅草」と「新しい浅草」(三)
」の著者がいくらそういっても、いまのその「新しい浅草」の帰趨するところはけだしそれ以上である。薩摩琵琶浪花節よりもっと「露骨
旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す』と「浅草繁盛記」の著者がいくらそういっても、いまのその「新しい浅草」
とをもたない店々である。――つまりそれが「新しい浅草」の精神である……
、それだけがたのみのその「金田」にして「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう……
を消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街
わたしは「大通り」を忘れた。――が、「新しい浅草」のそも/\の出現は「横町」と「露地」との反逆
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のがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二、三年
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もっていなかった。――が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」もうちよせ
東橋亭」、雷門の近くにあった「山広亭」「恵比寿亭」そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかっ
」のいま「聚楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦づくりの建物と
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、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこ
いまの木村屋のところが「写真屋」だったのである。東京名所だの役者の写真だのをうる店だったのである。――
並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市により建設せられたるものなり。仲見世各商店は一棟を数戸
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にしみた。――その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた
がいる。――がこれらの諸氏は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、時おりわたしの
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もいろんな人がいる。――がこれらの諸氏は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、
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浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前――その外どこでも差支ない。ただ雨上りの瓦屋根だの火のともら
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ぬけに、そのまま遠く、折からの曇った空の下に千住のガスタンクのはる/″\うち霞んでみえるむなしさをわたしたちは何とみ
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わたしは忍ぶのである……(七月十四日夜、日暮里にて)
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金竜山瓦町」とのみ手間をかけないでいっている)隅田川に沿ったそうした古い町々が、そこに、二、三町乃至五
、そこを離れた北のほうの窓から、遠くまた、隅田川の水にちかい空を、しら/″\とのぞむことの出来たのを
、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町