渋江抽斎 / 森鴎外

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地名一覧

青山

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勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国臼杵の稲葉家で、当時の主公久通に麻布

佐久間町

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講師になった。躋寿館は明和二年に多紀玉池が佐久間町の天文台址に立てた医学校で、寛政三年に幕府の管轄に移され

から東へ、お玉が池、松枝町、弁慶橋、元柳原町、佐久間町、四間町、大和町、豊島町という順序に、町名が注してある。そして和泉

いうのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、北の方河岸に寄った所にある。允成がこの店

今戸

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があるそうである。勝久の初て招かれたのは今戸の別邸で、当日は立三味線が勝秀、外に脇二人、立唄が

名古屋県

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から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日

吉野

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それがどうも口に出憎いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないように

豊後国

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て連れて往った。その邸は青山だというから、豊後国臼杵の稲葉家で、当時の主公久通に麻布土器町の下屋敷へ招かれ

弘前藩

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弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これ

谷中

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わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は容易く見附けられ

奥州

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勝重は去って肥前の大村家に仕え、三男辰盛は奥州の津軽家に仕え、四男勝郷は兵学者となった。大村には勝重の往く

九州

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に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師隠元を黄檗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江戸

奔った。父楊庵は金を安積氏に還し、人を九州に遣って子を連れ戻した。良三はまだ残の金を持っていたの

堺町

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れていた、まだ二十歳の安が、宿に下って堺町の中村座へ芝居を看に往った。この時宗右衛門は安を見初めて、芝居

本郷

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。俊治の子は鎰之助、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込動坂町にいる昌吉さんである。高足の一人小此木辰太郎は、明治九

浜松城

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、後また幾ならずして元城内五十七番地に移った。浜松城は本井上河内守正直の城である。明治元年に徳川家が新にこの地

岩木川

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、菊、京の二人の妹があった。この京が岩木川の種を宿して生んだのが小錦八十吉である。

ワシントン

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治したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。恐くは『洋

浜松

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業を卒え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。

保は母五百を奉じて浜松に著いて、初め暫くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿

支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併せられたのである。しかし保の職は故の

この年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息を気遣っていたが、脩

て、大いにその健康を害せんを惧れ、急に命じて浜松に来らしめた。しかし五百は独り脩の身体のためにのみ憂えたので

て居宅を索めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町十二番地の家を借りて、母と

五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著いた。この時保と脩と

陸は母と保との浜松へ往った後も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。

であった畑中藤次郎を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。

保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人

この年また藤村義苗さんが浜松から来て渋江氏に寓した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を

なお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた※きたので

至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それ

られ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁新聞記者

札幌

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た。十月八日に開拓使御用掛を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。

この年矢島優は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日

していた。そこへ優が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっている

小泉町

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本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。

相模国

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石塚重兵衛の祖先は相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町

枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう幾

大阪

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安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に往き、西堀江隆平橋の畔に住んだ。この時独美は四十四歳で

独美が厳島から大阪に遷った頃妾があって、一男二女を生んだ。男は名を

相伝に止め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫めていうには、一人の能く救う所には

照葉狂言は嘉永の頃大阪の蕩子四、五人が創意したものである。大抵能楽の間の狂言

伊勢国

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殿様附と定まり、同時に奥方祐筆を兼ねた。殿様は伊勢国安濃郡津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂和泉守高猷である。官位は従四位侍従

越前国

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て、父の称を襲いでいた。妻児玉氏は越前国敦賀の城主酒井右京亮忠※の家来某の女であった。二百石八

薩摩

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て褒めたそうである。野村は初め宗七と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田県知事から転じて埼玉県知事

江戸城

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命ぜられた。年始、八朔、五節句、月並の礼に江戸城に往くことになったのである。十一月六日に神田紺屋町鉄物問屋山内

次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。

丹後

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この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。就中丹後の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに

する。就中丹後の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の安寿姫で、己

新に江戸から徙った家々に沙汰があった。もし丹後、南部等の生のものが紛れ入っているなら、厳重に取り糺して国境の

土佐国

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が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であった。即ち五百と祖先を同じう

本所

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に往くことになっていたからである。道純は本所御台所町に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬという

していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫

大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。

、巷説に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固

本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せ

なく、馳せて隠居信順を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の第宅が破損したので

を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛

矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋平野屋の女柳を娶った。

ある。文一郎は七年前の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋平野屋の女柳を娶って、男子を一人もうけてい

渋江氏の一行は本所二つ目橋の畔から高瀬舟に乗って、竪川を漕がせ、中川より利根

月七日に東京に着いた。行李を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾

この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所

並に村田氏から帰った水木の三人と倶に、本所横網町の鈴木方に行李を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎と

第二には本所の渋江氏がある。女主人は抽斎の四女陸で、長唄の師匠杵屋勝久

本所には三百石取以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあった

たる故を以て、始終「兄いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏が

弘福寺

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弘福寺の現住墨汁師は大正五年に入ってからも、捜索の手を停めず

出羽国

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なっていた。允成は天保二年六月からは、出羽国亀田の城主岩城伊予守隆喜に嫁した信順の姉もと姫に伺候し、

寧親の入国の時、途に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知って道を変え

仙台藩

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宰領して、若党二人を連れて、石橋駅に掛かると、仙台藩の哨兵線に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎を挟ん

東北地方

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わたくしは友人、就中東北地方から出た友人に逢うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬか

明治元年である。伏見、鳥羽の戦を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力が、春より秋に至る間に漸く衰滅に帰し

、既に官軍に加わっていたので、路の行手の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉く敵地である。一行の渋江、矢川

相生町

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裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此に至って始て借りられたのである。

勝久は相生町の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に

伊豆国

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、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は伊豆国韮山の某寺に寺男をしているので、妙了は韮山へ往った。

津久井郡

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、どちらも大磯と同じ中郡である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。桂川はこの川の上流である。

浦和県

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優善の友塩田良三はこの年浦和県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田椿庭の塾

この頃前に浦和県の官吏となった塩田良三が、権大属に陞って聴訟係をして

令に薦めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。

矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に唐津藩士大沢正

判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は

日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。

ある。野村は初め宗七と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、日田県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島

上野国

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になって嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋、字は柔行、

允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでいた。

岩淵町

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。時に年十六であった。中西は伊勢国度会郡山田岩淵町の人中西用亮の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の

ベルリン

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を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求め

浅草寺

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である。天※は書を以て鳴ったもので、浅草寺の施無畏の※額の如きは、人の皆知る所である。享保

は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十カ所から起った火は、三日の朝

敦賀

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父の称を襲いでいた。妻児玉氏は越前国敦賀の城主酒井右京亮忠※の家来某の女であった。二百石八人

外神田

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称をも継承した。迷庵の弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋と

に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世三右衛門を称し、此

烏森町

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の帆足謙三というものの家に起臥していた。烏森町の家には水木を遺して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の

箱根

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文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の湯本に着くと、もう遣い尽していた。そこで枳園はとりあえず按摩を

厳島

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独美が厳島から大阪に遷った頃妾があって、一男二女を生んだ。男は

北海道

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、名は尚絅が嗣いだ。春澳の子は現に北海道室蘭にいる杲一さんである。陸実が新聞『日本』に抽斎の略伝

に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この

矢島優のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用掛を拝命して、札幌に在勤

霞が関

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宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教えられた。常に宮内省には往来し

駿河台

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徳川家斉に辟されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。この年三月独美は躋寿館で痘科を講ずることになっ

た文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は

とはいうが、周防の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったの

になり、下谷徒士町に門戸を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していた

たという確証のある墓は、この書に注してある駿河台の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基で

それから二十一歳にして林述斎の門に入った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見る

高部屋村

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が挙げてある。大山は今の大山町、日向は今の高部屋村で、どちらも大磯と同じ中郡である。津久井県は今の津久井郡で相模

湯島

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斎はその号である。通称を三右衛門という。家は湯島にあった。今の一丁目である。※斎の家は津軽の用達で

というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、往来が絶えなかった。枳園はしばしば保を山下の

神田佐久間町

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六世の祖重光が伊勢国白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋といった。当時の店は弁慶橋であっ

筑前国

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信恬、通称は辞安という。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国福山

陸奥国

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六十二歳で、躋寿館の講師となっていた。また陸奥国八戸の城主南部遠江守信順と越前国鯖江の城主間部下総守詮勝とから

森田町

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十三日の昧爽に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込の事とは存じ

といって来た。そこで十造、勝助の二人が森田町へ迎えに往くことになった。

肥後国

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肩身の狭い念をした。継嗣問題とは当主順承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養おうとするに起った。順承

駅々で人に傲ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護の四子寛五郎は、津軽順承の女壻にせ

下野国

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渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、その支封であろう。宗家は渋江辰勝

それを筑山左衛門というものが借りて往った。筑山は下野国足利の名主だということであった。そして終に還さずにしまった。以上

根津

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この時根津に茗荷屋という旅店があった。その主人稲垣清蔵は鳥羽稲垣家の

下田

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には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五

帰京の途に就いた。そして航海中暴風に遭って、下田に淹留し、十二月十六日にようよう家に帰った。

下野

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渋江氏の祖先は下野の大田原家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門辰勝という。

時代から続いている渋江公業の後裔がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無は、なお講窮すべきである。

を願っていたので、快く許諾した。そこで下野の宗家を仮親にして、大田原頼母家来用人八十石渋江官左衛門次男という

須崎町

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時向島小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の家は今小梅町になっている。その後の家から土手へ

わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索したが、嶺松寺という寺はない。

鎌倉

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石塚重兵衛の祖先は相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に

五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に病臥しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月

浜町とへ留守見舞の使を遣って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷ったことを聞いた。

九月十一日は小雨の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣のため

たのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕に世を去った。年は三十八であった

れずにしまった高足弟子勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾もこれを忘れることが出来

烏森神社

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ていたが、当時の家から煙草店へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往っ

犬居村

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、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国周智郡犬居村百四十九番地に転籍した。保は病のために時々卒倒することがあった

巣鴨村

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に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町ばかりで、府

高崎

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門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでいた。

江戸

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は何かというと、それは正保二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは殆ど完全に保存せられた板本で、

侍従道三玄淵に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽越中守信政に召し抱えられて、擬作金三枚十人扶持を受けた。

は三右衛門である。六世の祖重光が伊勢国白子から江戸に出て、神田佐久間町に質店を開き、屋号を三河屋といった。当時の店

列せられていた。先祖は参河国苅屋の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし※斎は狩谷保古の代にこの

。八年に徳川家斉に辟されて、九年に江戸に入り、駿河台に住んだ。この年三月独美は躋寿館で痘科を

して町医になり、下谷徒士町に門戸を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立し

をも一つ一つ検した。日蓮宗の事だから、江戸の市人の墓が多い。知名の学者では、朝川善庵の一家の墓が

黄檗山に省しに上る途中で寂したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であっ

里正今泉氏の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔った。しかし誰にたよろうというあてもないので、うろうろしている

して見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延元年十一月二十二

阿部備中守正精に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。

相模国鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に住んだ。世粉商をしているので、

四年四月六日に、抽斎は藩主信順に随って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還ったのは、翌五年

信順に随って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に還ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前

いわゆる詰越をすることになった。例に依って翌年江戸に帰らずに、二冬を弘前で過すことになったのである。そこ

取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎

抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。徒士町の池田の家で、当主瑞長が

枳園は江戸で暫く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れ

後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうで

に落ち着いた。門人が名主をしていて、枳園を江戸の大先生として吹聴し、ここに開業の運に至ったのである。

て、翌天保十年に、抽斎は藩主信順に随って江戸に帰った。三十五歳になった年である。

さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の

抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。

した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好が生れ、その翌年また八三郎が生れた

子、対馬守一豊の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏の紋を附け、名のりに豊の

は供の中に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに先って、五百を家に還らしめたのである。

た。またこれに先つこと一年に、森枳園が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の

ようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に舎ること

枳園が此の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。故主の許に

阿部家への帰参が※って、枳園が家族を纏めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に貸家のあっ

た。善庵、名は鼎、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸

の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸の町医朝川黙翁に再嫁した。善庵の姉寿美と兄道昌とは当時

当時江戸に集っていた列藩の留守居は、宛然たるコオル・ヂプロマチックを形ってい

嗣子と私してしほを生んだ。しほは落魄して江戸に来て、木挽町の芸者になり、些の財を得て業を罷め、

徳川家光が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の女が産後に病んで死

家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとし

が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以

。町筋ごとに損害の程度は相殊っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かった。上野の大仏は首

弘前藩は須く当主順承と要路の有力者数人とを江戸に留め、隠居信順以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしと

というに、原諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍

たものは、独浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は弘前に往くことを喜ばなかった。中に

した。議善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北の地に

議善からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、悉く窮北の地に遷そうとする

譴責坐北遷」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公

二本松にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌の教授になっていた。抽斎は

でないが、栗山が五十三歳で幕府の召に応じて江戸に入った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。

というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某貴人の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がない

、俄、踊等の状をも交え取った。安政中江戸に行われて、寄場はこれがために雑沓した。照葉とは天爾波

銭屋の息子で、遊蕩のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか好いので、豊芥子の

。抽斎。」庚子は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。平伯民は平井東堂だそうである。

れたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する群には入らなかった。

最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入った後に、江戸を引き上げた弘前藩の定府の幾組かがあった。そしてその中に渋江

食客は江戸若くはその界隈に寄るべき親族を求めて去った。奴婢は、弘前に随い行く

妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって誰一人引き取ろうというものがなかった。

津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、

屋をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外今川橋の飴屋

津軽家の中屋敷に徙った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。

ていたが、弘前行の事が極まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は

ぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。

あった。その後渋江氏と親んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女ふく

鮓屋久次郎というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時墓木拱していたが、久次郎は六十六歳の翁になっ

出で、流山、柴又等を経て小山に著いた。江戸を距ること僅に二十一里の路に五日を費した。近衛家に

出羽の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半である。常の旅には此

五百らは路用の金が竭きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を

に着いた。下宿屋から街に出づれば、土地の人が江戸子々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時髻を麻糸で結い、地織木綿

、物珍らしく思われたのも怪むに足りない。殊に成善が江戸でもまだ少かった蝙蝠傘を差して出ると、看るものが堵の如くであっ

成善は経史を兼松石居に学んだ。江戸で海保竹逕の塾を辞して、弘前で石居の門を敲いたので

石居は当時既に蟄居を免されていた。医学は江戸で多紀安琢の教を受けた後、弘前では別に人に師事せ

教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田成卿の門人佐々木元俊である。元洋もまた杉田門から出た人で

暴風雨の後数日にして、新に江戸から徙った家々に沙汰があった。もし丹後、南部等の生のもの

はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。

削減を加えられる発端であった。二年前から逐次に江戸を引き上げて来た定府の人たちは、富田新町、新寺町新割町、上白銀町、下

。名を直清といって、津軽藩が文久三年に江戸に遣った海軍修行生徒七人の中で、中小姓を勤めていた。

小野富穀とその子道悦とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を費し

の一家も、この年に弘前へ徙ったが、その江戸を発する時、三男三蔵は江戸に留まった。前に小田原へ往った長男周

へ徙ったが、その江戸を発する時、三男三蔵は江戸に留まった。前に小田原へ往った長男周碩と、この三蔵とは、

抽斎の姉須磨の夫飯田良清の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になった。

文一郎は最初の妻柳が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置い

比良野貞固は江戸を引き上げる定府の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、

渋江氏が一旦弘前に徙って、その後東京と改まった江戸に再び還った時、陸は本所緑町に砂糖店を開いた。これは初め

静岡藩

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養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になった。

市川町

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の子成器は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

牛込

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報じた。わたくしは京都から帰って、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここに

今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七

この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。

下総国

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に七年四月二十六日に允成の納れた室は、下総国佐倉の城主堀田相模守正順の臣、岩田忠次の妹縫で、これが抽斎

抽斎は十九歳で、始て妻を娶った。妻は下総国佐倉の城主堀田相模守正愛家来大目附百石岩田十大夫女百合として願

。艮の子成器は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

宮城

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ある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた霞が関の三年坂上にあることを教えられた。常に宮内省

那須郡

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氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国那須郡大田原の城主たる宗家ではなく、その支封であろう。宗家は渋江辰勝の

両国

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などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国の万八楼で催したのを名残にして、今年亡人の数に入ったのである。跡は文

の衣服を著せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と邂逅した。そして佐竹の数人の芸妓に囲ま

くこれを験することを得た。或人は五百に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日

割下水にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀に住んでいた。安の女二人のうち、敬は猿若町三丁目の芝居茶屋三河

勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で名弘めの大浚を催した。浚場の間口の天幕は深川の五本松門弟中、

った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「松の栄」を作り、両国井生村楼で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった

湯島天神

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は初め湯島天沢寺前としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は麟祥院前

広島

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著者があったという人が二、三あった。しかし広島に踪跡がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶し

を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長幣原坦さんに書を遣って問うた。しかし学校にはこの

に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を

二月十四日に中佐相当陸軍一等軍医正を以て広島に終った。今の文学士小山内薫さんと画家岡田三郎助さんの妻八千代

を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが

京都

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いるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また

京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰っ

してから間もなく、わたくしは大礼に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに

独美は寛政四年に京都に出て、東洞院に住んだ。この時五十九歳であった。八年

に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。

重兵衛は文久元年に京都へ往こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に

他家に較ぶれば華やかであった。しほの母は素京都諏訪神社の禰宜飯田氏の女で、典薬頭某の家に仕えているうち

が出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月

あろう。然るに別に一の善本があった。それは京都加茂の医家岡本由顕の家から出た『医心方』巻二十二である

策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩

買わしめ、副本はこれを己が家に留めた。錦小路は京都における丹波氏の裔である。

てから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の梵鐘を以て大砲小銃を鋳造すべしという詔が発せ

角倉の本邸は飯田町黐木坂下にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、

左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本京都の両替店銭屋の息子で、遊蕩のために親に勘当せられ、江戸

柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川家茂に随って京都に上り、病を得て客死したのである。嗣子鉄三郎の徳安が

水戸

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する学派、クリチックをする学派である。この学は源を水戸の吉田篁※に発し、※斎がその後を承けて発展させた。

の家から土手へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。

て世禄三百俵を給せられていた。巷説には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説

真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であった。水戸家の賄方を勤めた家で、或時代から故あって世禄三百俵

。島の里方を河内屋半兵衛といって、真志屋と同じく水戸家の賄方を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の

の村松町の家へ年始の礼に往って酒に酔い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである

福岡

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、通称は辞安という。伊沢氏の宗家は筑前国福岡の城主黒田家の臣であるが、蘭軒はその分家で、備後国福山

長崎

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字である。明の万暦二十四年の生であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が周防国岩国に足を

深見新左衛門で、帰化明人の裔である。祖父高寿覚は長崎に来て終った。父大誦は訳官になって深見氏を称し

たが、或日師の金百両を懐にして長崎に奔った。父楊庵は金を安積氏に還し、人を九州に遣っ

、門を出でては昔の放恣なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田良三との間にも、定めて聯絡が附いていたこと

鹿児島

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いる。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事は

下谷

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を嗣ぐことが出来ないで、自立して町医になり、下谷徒士町に門戸を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と

文政六年四月二十九日の事である。まだ下谷長者町で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ八百屋

である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、下谷豊住町に住んだ。世粉商をしているので、芥子屋と人

庵の主黒田直静は上総国久留利の城主で、上屋敷は下谷広小路にあった。

寄合医師から出て父の職を襲ぎ、家は初め下谷二長町、後日本橋榑正町にあった。名は尚真である。春

は下谷練塀小路にあった。いわゆる伝経廬である。下谷は卑※の地なるにもかかわらず、庭には梧桐が栽えて

と小島成斎との門に入った。海保の塾は下谷練塀小路にあった。いわゆる伝経廬である。下谷は卑※の地

の号がある。通称は新兵衛、後久作と改めた。下谷二長町に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年

になって、良政と称し、後また東京に入って、下谷車坂町で終ったそうである。

五門は本五左衛門と称して、世禄五百七十二石を食み、下谷新橋脇に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河

秋田

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の入国の時、途に要撃しようとして、出羽国秋田領白沢宿まで出向いた。然るに寧親はこれを知って道を変え

加わっていたので、路の行手の東北地方は、秋田の一藩を除く外、悉く敵地である。一行の渋江、矢川、浅越

承昭と共に官軍方になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。

院内峠を踰えて秋田領に入った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主

新潟

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に、今一人塩田楊庵という奇人があった。素越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、宗対馬守義質の臣

て罷め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重ぜられたが

高知

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と思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守豊資の家であった。即ち五百と祖先を同じう

金沢

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が『千金要方』の宋版である。これは毎巻金沢文庫の印があって、北条顕時の旧蔵本である。米沢の城主

二年の交、道悦が松田道夫の下にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻が東京にあって投機

熊本

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狭い念をした。継嗣問題とは当主順承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養おうとするに起った。順承

人に傲ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守斉護の四子寛五郎は、津軽順承の女壻にせ

相弟子勝秀が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。

仙台

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宰領して、若党二人を連れて、石橋駅に掛かると、仙台藩の哨兵線に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎

を踰えて仙台に入るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠を踰えて米沢に入ることになった。しかしこの道筋

山形から弘前に往く順路は、小坂峠を踰えて仙台に入るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠を踰え

山形

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出羽の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の半である。常の旅

山形から弘前に往く順路は、小坂峠を踰えて仙台に入るのである。五百

静岡

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養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になった。

は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県

この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。

保は静岡安西一丁目南裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助という人で

抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡安西一丁目南裏町十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になった

に静岡高等英華学校に聘せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託を受けて、英語を生徒に授けた。

歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等英華学校に聘せられ、九月十五日にまた静岡文武館の嘱託を

年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海暁鐘新報』の主筆になった。英学校の職

逐われ、大阪東雲新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男三吉が生れ

て東海の二字を除いた。同じ月に中江兆民が静岡を過ぎて保を訪うた。兆民は前年の暮に保安条例に依って

脩は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江

脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国安倍郡豊田村曲金の素封家

保は多少の心構をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の噂が立った。さてその

て、麹町有楽町二丁目二番地竹の舎に寄寓した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、英華学校、文武館三

年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町二丁目二番地竹の舎に寄寓した。静岡

を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立の必要なきに至ったの

荏原郡品川町南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡

て、安西一丁目南裏に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長川田正澂の勧に従って、中学生のために温習の便宜を

五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、安西一丁目南裏に渋江塾を再興した。県立静岡中学

共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、旁新聞記者と

歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。

青森

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さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に著した。佐藤弥六さんは当時の同乗者の一人だそうである。

媒となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の手書が来た。その中には安済丸の故障

かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする媒

決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳に

佐賀

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水木はこの年深川佐賀町の洋品商兵庫屋藤次郎に再嫁した。二十二歳の時である。

は亀沢町の陸の許に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島優はこの頃家を畳んで三池に出張してい

松山

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て、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。

の住んでいた烏森の家からは、存生堂という松山棟庵の出張所が最も近かった。出張所には片倉某という医師が住んで

が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随になってい

片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身

は更に印東玄得をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。

は病のために時々卒倒することがあったので、松山棟庵が勧めて都会の地を去らしめたのである。

福島

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塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下駿河国安倍郡豊田村曲金の素封家海野寿作の

て歿した。陸が十二月に本所松井町三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の居宅である。長唄の師匠と

勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで

歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八

深川

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に遷るに及んで、独り永の暇を願って、深川に米店を開いた人である。

外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。

水木はこの年深川佐賀町の洋品商兵庫屋藤次郎に再嫁した。二十二歳の時である。

脩は亀沢町の陸の許に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島優はこの頃家を畳んで三池に出張して

楼で名弘めの大浚を催した。浚場の間口の天幕は深川の五本松門弟中、後幕は魚河岸問屋今和と緑町門弟中、水引は

神田

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十六、長女が十一、二男が七つである。邸は神田弁慶橋にあった。知行は三百石である。しかし抽斎は心を潜め

四年に本所へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。

抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保さんがいう。これは母五百の話を記憶

真志屋五郎作は神田新石町の菓子商であった。水戸家の賄方を勤めた家で、

。『作者店おろし』という書に、宝田とはもと神田より出でたる名と書いてあるのを見れば、真の氏ではなかっ

弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は

になった。この年渋江氏は本所台所町に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時

塩田氏の若檀那である。中にも良三の父は神田松枝町に開業して、市人に頓才のある、見立の上手な医者と

小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場にして、弟子に

二大枝に岐れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徙されて、幸に凋れなかった木

定所、抽斎父子の遺愛の木たる※柳がある。神田の火に逢って、幹の二大枝に岐れているその一つが

本妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田豊島町の古着屋の女に生れて、真寿院の女小姓を勤めた。

年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町に住んで、琴の師匠をしている平井松野さんがこのとめ

著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は神田仲猿楽町五番地豊田春賀の許に転寓した。

明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に卜して、七月十七日に起工し、十月一日

上野

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。降って慶安中の「紋尽」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし可笑しい事には、外題に慶安と

先んじて、夙く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『江戸鑑図目録』という写本を見て知ることが

、その考証の迹を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は即ち「古武鑑」古江戸図

になって嗣いで、二世瑞仙と称した。これは上野国桐生の人村岡善左衛門常信の二男である。名は晋、字は柔

の全市に家屋土蔵の無瑕なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺

幕府の設けた救小屋は、幸橋外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。

允成の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国高崎の城主松平右京亮輝聡の家来で、本郷弓町に住んでいた

漸く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入った後に、江戸を引き上げた弘前藩の定府の幾組

東京

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少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今東京にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、飯田巽

わたくしは空しく還って、先ず郷人宮崎幸麿さんを介して、東京の墓の事に精しい武田信賢さんに問うてもらったが、武田さんは

わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを

あった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて

まで、保さんが蔵していた。然るに保さんは東京から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛に納めて、親戚

維新後静岡県の官吏になって、良政と称し、後また東京に入って、下谷車坂町で終ったそうである。

姉須磨の夫飯田良清の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した後、静岡藩に赴いて官吏になった。

森枳園はこの年七月に東京から福山に遷った。当時の藩主は文久元年に伊予守正教の後

て、許多の辛苦を甞め、この年五月にようよう東京に帰った。

その中には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を

弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも到著せぬの

優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋湊屋

たが、河野は遂にみいちゃんを娶って、優善が東京に著いた時には、今戸橋の畔に芸者屋を出していた

た。成善は等を降され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を雪ごうと思っていたからである。

てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、後に弟御さんが上京することになっても御都合が

説くに、山田の家世の本卑くなかったのと、東京勤の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。

この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中にある間に病歿した

に遺して、単身東京に往くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭って不平に堪えなかった

四年である。成善は母を弘前に遺して、単身東京に往くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一に

遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已にその人の脱藩を疑った

弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こう

成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師兼松石居に

成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを阻格すべき

富を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田須田町の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以

これを験することを得た。或人は五百に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて

東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを

大参事西館孤清である。成善は西館を訪うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは好い

成善は家禄を割いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて允された。

。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町に住んで、琴の師匠をしている平井松野さんがこの

、服部善吉、菱川太郎などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、

、住宅は本所割下水にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国薬研堀に住んでいた。安の女

善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間に死んだ源吾の家に

成善は四月七日に東京に着いた。行李を卸したのは本所二つ目の藩邸である。

成善と倶に東京に来た松本甲子蔵は、優善に薦められて、同時に十五等

当時県吏の権勢は盛なものであった。成善が東京に入った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪う

であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ず

ぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を距ること遠からぬ浦和に往って官吏をし

。県庁はこれを可とした。五百はようよう弘前から東京に来ることになった。

保はまた当路者に諮った。当路者は復五百の東京に入ることを阻止しようとはしなかった。唯保が一諸生を以て

て許さなかった。前年廃藩の詔が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた頗る革まったので、保はまた当路

保が東京に遊学した後の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない

その外陸もまた夫矢川文一郎と倶に五百に附いて東京へ往くことになった。

五百は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸の夫妻並に村田氏から帰った水木

、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。

二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て湯島切通しの借家に住み、同じ月の二十七日に文部省十等

枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ

られんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平の家の学僕になっていて、それからこの学校

この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野貞固もその一人で、或日

が成功しなかった。浅越は名を隆と更めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の

矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店を開いたが成功し

五百と一しょに東京に来た陸が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖

五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の

軽んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法

せる。訛っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能がなくても重んぜられ、九州人、東北人

矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷った。周禎は霊岸島に住んで医を業とし、

を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。

しめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区松本町十二番地の家を借りて、母と弟とを

に松本町の家に著いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下に侍することを得たが、独り矢島優のみは

保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は

中学校の教員になっていた。これは職を罷めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と

青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国

保は東京に著いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三

。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の萌芽である。この頃水木は勝久の許を去って母の家

合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に入ってその業を卒え、現に某々会社の重役になって

、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。

に似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この

。準平と保とは国府にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、淵に臨んで

この時東京には政党が争い起った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政

なった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京日々新聞』の福地桜痴と論争していたので、保は島田を

保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入った。実は国府を去らんとする意があったのである

はこの年一月工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入って、仮に芝田町一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁

た。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に遣ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能く

。優は職を罷める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道の治療を受けていたが、屋内に静坐して

金沢裁判所の書記をしていると、その留守に妻が東京にあって投機のために多く金を失った。その後道悦は保が

を訪うた。兆民は前年の暮に保安条例に依って東京を逐われ、大阪東雲新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には

脩は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せ

年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の求に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これ

校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館の

渋江氏が一旦弘前に徙って、その後東京と改まった江戸に再び還った時、陸は本所緑町に砂糖店を開い

三月三日に勝三郎は病のいまだ※えざるに東京に還った。

た。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の勤ぶりに慊なかった。そして病のために気短

病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取であったので、高足弟子たる浅草森田町の勝四郎をして主

三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座頭取であったの

は終に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。

弟子勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾もこれを忘れることが出来なかった。

※所まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後に、杵勝分派の団結を維持し

呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。

渋谷

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。杵屋さんには渋江終吉という甥があって、下渋谷に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道

今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久

のために命を隕した。嗣子終吉さんは今の下渋谷の家に移った。

、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。

下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家

新橋

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の江戸分間大絵図というものを閲するに、和泉橋と新橋との間の柳原通の少し南に寄って、西から東へ、お玉が池

その氏の喜多を修して北慎言とも署した。新橋金春屋敷に住んだ屋根葺で、屋根屋三右衛門が通称である。本は芝

介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕に世を去っ

向島

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十三年九月六日に八十三歳で歿した。遺骸は向島小梅村の嶺松寺に葬られた。

子であったか、甥であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子

がある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川游さんに種々の

わたくしは幼い時向島小梅村に住んでいた。初の家は今須崎町になり、後の

、瑞仙はその側に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代

見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを記してある。素嶺松寺には戴曼公

わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を徘徊して捜索

わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年

、大槻文彦さんは如電さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の

浅草

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、壻は放蕩をして離別せられた。しかし後に浅草諏訪町の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそう

どうなったかわからない。数年前に大槻如電さんが浅草北清島町報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に詣でて、忌日に墓

である。天※は書を以て鳴ったもので、浅草寺の施無畏の※額の如きは、人の皆知る所である

は首が砕け、谷中天王寺の塔は九輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十カ所から起った火は、三日

救小屋は、幸橋外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。

は再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草常福寺にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年生

長男俊平は宗家を嗣いで、その子蕃平さんが今浅草向柳原町に住しているそうである。俊平の弟は鈕平、録

守田座附の茶屋三河屋力蔵に嫁し、次で次女銓も浅草須賀町の呉服商桝屋儀兵衛に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の

小字三吉である。五百は度々清助という若党を、浅草諏訪町の鎌倉屋へ遣って、催促して還させようとしたが、豊芥子

成善がこの頃母五百と倶に浅草永住町の覚音寺に詣でたことがある。覚音寺は五百の里方山内

の錦絵を書画兼骨董商近竹に売った。これは浅草蔵前の兎桂等で、二十枚百文位で買った絵であるが

「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草見附の所を遣って来ると、旨そうな茶飯餡掛を食べさせる店

丹下が老後の名である。貞固は月に数度浅草黒船町正覚寺の先塋に詣でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、

はかつて剞※氏某に嫁し、後未亡人となって、浅草聖天横町の基督教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。

長女おこうさんが襲いだ。おこうさんは女流画家で、浅草永住町の上田政次郎という人の許に現存している。おこうさんの

れているものは山路愛山さんである。通称は弥吉、浅草堀田原、後には鳥越に住んだ幕府の天文方山路氏の裔で

誉東成信士という。東成はその諱である。墓は浅草蔵前西福寺内真行院にある。原ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎

当時勝三郎は東京座頭取であったので、高足弟子たる浅草森田町の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は

麹町

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幼く、栄次郎六歳、安三歳、五百二歳の時、麹町の紙問屋山一の女で松平摂津守義建の屋敷に奉公したことの

坊主父子がある。父は玄喜、子は玄悦で、麹町三軒家の同じ家に住んでいた。照は玄喜の女で、玄悦

後に近藤真琴の塾に命ぜられた名である。初め麹町八丁目の鳥羽藩主稲垣対馬守長和の邸内にあったのが、中ごろ築地

ある。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町二丁目二番地竹の舎に寄寓した。静岡を去るに臨んで、

浜町

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。信順は柳島の第宅が破損したので、後に浜町の中屋敷に移った。当主順承は弘前にいて、上屋敷には家族

するものも多くなって、順承が聴納しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに怒った。信順は平素国猿を憎悪

この議に反対したものは、独浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の殆ど全体は

腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この

安政六年には、十一月二十八日に矢島優善が浜町中屋敷詰の奥通にせられた。表医者の名を以て信順の

である。成善はまだ四歳であったが、夙くも浜町中屋敷の津軽信順に近習として仕えることになった。勿論時々機嫌を

津軽家ではこの年十月十四日に、信順が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの成善は枕辺に侍し

住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。

、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遣って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷った

人に代って勝四郎を免すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった

して、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を免す

日本橋

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の職を襲ぎ、家は初め下谷二長町、後日本橋榑正町にあった。名は尚真である。春沂の後は春澳

山田脩はこの年一月工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子に

勘五郎から出て、その宗家は世喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋坂本町十八番地にあって名跡を伝えている。いわゆる植木店の家元である

高尾

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』は長島五郎作の言を録したものである。『高尾考』は惜むらくは完書をなしていない。

には『晏子春秋筆録』、『劇神仙話』、『高尾考』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の言を録した

大崎

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会には島田篁村も時々列席した。篁村は武蔵国大崎の名主島田重規の子である。名は重礼、字は敬甫、

駒込

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の子は鎰之助、鎰之助の養嗣子は、今本郷区駒込動坂町にいる昌吉さんである。高足の一人小此木辰太郎は、明治九年

蔵前

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寺は五百の里方山内氏の菩提所である。帰途二人は蔵前通を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女

錦絵を書画兼骨董商近竹に売った。これは浅草蔵前の兎桂等で、二十枚百文位で買った絵であるが、

うち、敬は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、銓は蔵前須賀町の呉服屋桝屋儀兵衛の許にいた。また専六と成善との兄

東成信士という。東成はその諱である。墓は浅草蔵前西福寺内真行院にある。原ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から

神保町

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である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏神保町に住んで、琴の師匠をしている平井松野さんがこのとめである

大宮

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四月九日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の

である。明治二年四月九日に刑法官判事から大宮県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その

新富町

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開いていた猿若町の引手茶屋は、この年十月に新富町に徙った。守田勘弥の守田座が二月に府庁の許可を

大塚

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歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身

上野広小路

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与り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤松坂屋の通番頭で、年は三十二、三であった。栄次郎

池袋

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八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺の隣で

れたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町ばかりで、府

巣鴨

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に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村池袋丸山千六百五番地に徙された。池袋停車場の西十町ばかりで

有楽町

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。保は三月三日に静岡から入京して、麹町有楽町二丁目二番地竹の舎に寄寓した。静岡を去るに臨んで、渋江

新宿

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長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は新宿の岩松というもので、養父の小字小三郎を襲ぎ、中村楼で名

田原町

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御都合宜敷様可致候。先は右申入候。」田原町とは勝四郎に亜ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎

馬喰町へ御出被成候方宜敷候様存じ候。田原町へ一寸御立寄被成候て御出被成度存じ候。さ候は

浦賀

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が、わたくしはまだ見るに及ばない。寿蔵碑には、浦賀、大磯、大山、日向、津久井県の地名が挙げてある。大山は今

老いたる祖母は浦賀で困厄の間に歿した。それでも跡に母と妻と子と

三日である。翌安政元年には正月に艦が再び浦賀に来て、六月に下田を去るまで、江戸の騒擾は名状すべから

米艦が浦賀に入ったのは、二年前の嘉永六年六月三日である

隅田川

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としたが、津軽家が聴ずに、とうとう上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言い伝えられている。津軽

京橋

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。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区水谷町九番地に住んでいて、家族は子婦大槻氏よう、孫女

庁に解傭を請うて入京し、芝愛宕下町に住んで、京橋西紺屋町秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男行晴が生れ

。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋宗十郎町の国文社に入り、校正係になった。修の四男末男さん