栗山大膳 / 森鴎外

栗山大膳のword cloud

地名一覧

博多

地名をクリックすると地図が表示されます

どちらも十太夫に連係した事件であつた。一つは博多の町人が浮世又兵衞の屏風を持つてゐるのを、十太夫が所望し

福岡城

地名をクリックすると地図が表示されます

黒崎の城は之房が預つた。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である。本丸

邸から早打が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭、諸侍が集まつて評議をした。評議が

平戸

地名をクリックすると地図が表示されます

て十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。

増上寺

地名をクリックすると地図が表示されます

亡くなつたのは正月二十四日で、二十六日の夜増上寺への野邊送があり、二月二十二日に勅使が立ち二十六日に遺物

兵庫

地名をクリックすると地図が表示されます

往來を禁ぜられる類である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女を呼んだこともある

九州

地名をクリックすると地図が表示されます

そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に

島原

地名をクリックすると地図が表示されます

是より先、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇教徒の群に加

有馬

地名をクリックすると地図が表示されます

跡へ來て、錠を打ち破つて孝高を連れ出し、有馬に往つて湯治をさせて、やうやう足腰の立つやうにした。

江戸

地名をクリックすると地図が表示されます

が、忠之の袂に縋つて、それは餘り輕々しい、江戸へ聞こえても如何である、利章をば我々が受け合つてどうにも處置しよう

。慶長十四年に藤堂佐渡守高虎が率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和元年大阪落城の後、

とく、二男犬萬、三男萬吉の三人を添へて江戸に置くことにした。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しよに

た。保科氏は現に當主のよめ久松氏と一しよに江戸にゐる。これもどうにかして徳川氏に対して他意のないことを

通が無事に日田の竹中に屆いて、竹中から江戸の徳川家へ進達せられた事と察せられる。原來利章程の家の功臣

も、微かに意識せられてゐたが、此訴が江戸へ往つたとすると、利章は最早どうしても殺すことのならぬ男

があつた。十九年の冬の陣には、長政が江戸を守り、十三歳の忠之が傷寒のまだなほらぬのに、押して福岡から

つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から利安が下つて留守をした。元和元年の夏の陣には、長政

をした。元和元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は

保科氏が徳、犬萬、萬吉の三人を連れて江戸に往つたのは大阪落城の直後である。

に譲つた年である。秀忠親子は上洛する時、江戸から長政を先發させた。五十三歳になる長政は、忠之を連れて上り

遲れ、又早目に退出するのである。領國から江戸への使者、豐後にをる徳川家の目附への使者なども、前々より

成り立って慌ただしく改められる事である。最甚しい一例は、江戸への使者を、初に森正左衞門に命じ、次いで月瀬右馬允に改め、又

では旅人までが往來を禁ぜられる類である。忠之が江戸からの歸に兵庫の宿で、世上の聞えをも憚らずに、傀儡女を

。家康の命日、孝高の命日にも精進をせず、江戸から歸つても、孝高、長政の靈屋に詣でぬやうになつた。

を造らせた。又十太夫の組下に附けると云つて、江戸へ屆けずに足輕三百人を募つた。諫書に擧げてあつた驕奢

寛永九年になつて、前將軍秀忠が亡くなり、忠之は江戸で葬儀に列して領國へ歸つた。利章が出勤するとか、せぬ

があり、三月十一日に忠之は暇を賜はつて江戸を立つた。忠之が領國に著いた四月は、隣國肥後に大

で稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國遠賀郡山鹿

なつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭以下數十人が待ち受け

江戸では十一月十七日に、忠之が老中に呼ばれて西の丸へ出

そのうち九州から竹中采女正が利章を連れて江戸に著した。そこで二月二十四日に、土井利勝の邸で利章と十太夫

平十郎景尚に渡して云つた。此度右衞門佐も自分も江戸に召されるからは、黒田家の浮沈に及ぶ事がないには限らぬ、

限らぬ、さやうの場合には此書附を持つて江戸に出て、土井、井伊、酒井三閣老の中へ差し出されいと云つた。

忠之の江戸へ召された頃、利章は日田の竹中が役宅に身を寄せて、

寄せて、評定の始まる前に、竹中に連れられて江戸へ出た。

は承應元年三月一日に六十二歳で亡くなつた。江戸で徳川家光が亡くなつて、家綱が嗣いだ年の翌年である。利章の

筑前

地名をクリックすると地図が表示されます

は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に加はつた。保科氏が徳、犬萬

。それは貴殿の考が至らぬのである。自分は筑前にゐた時、左右良の城主で二萬五千石を領してゐた。

中津川

地名をクリックすると地図が表示されます

城内へ人質に取られぬ内に、母と妻とを中津川へ連れて逃げてくれ。まだ亂の起らぬのに、早まつて落ちさせ

舟は友信が保護の下に、首尾よく四日目に中津川へ著いた。重昌は水路を和泉國境へ出て、そこから更に乘船

陸路を播磨の室まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察し

まで行つて、そこから乘船して中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を

助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に泊まつたので、如水

は手足のやうに自由に使はれる侍が欲しい。丁度先年中津川で召し抱へられた足輕頭倉八長四郎の子に、十太夫と云ふ怜悧な若者が

高野山

地名をクリックすると地図が表示されます

は正虎を立ち會はせて、十太夫に剃髮して高野山に登ることを勸めた。十太夫は恐れ入つて領承した。

、寛永十四年に島原の亂が起つた時、十太夫は高野山を拔け出て耶蘇教徒の群に加つたが、原城の落ちた時亂軍

神奈川

地名をクリックすると地図が表示されます

卷き、素槍一本持たせて、夜子の刻に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上

大阪

地名をクリックすると地図が表示されます

に置くことにしたのを始として、元和元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父長政が、夫人保科氏に長女とく

三成が佐和山城から出て來て、身方の諸大名を大阪へ集めた。利安等は四十八歳になつた孝高の妻櫛橋氏と、十六

中津川へ歸つた。中津川からは、隠居孝高入道如水が、大阪の模樣を察して、兩夫人を迎へるために母里與三兵衞に舟

に舟を廻させたが、間に合はなかつた。大阪天滿の邸には四宮市兵衞が殘つて、豐臣方の奉行等に對し

頭清正の夫人を、梶原助兵衞が連れて、同じく大阪を拔け出し、これも中津川へ著いて、妻の兄梶原八郎太夫の家に

十九年から元和元年に掛けて、大阪に豐臣氏の亂があつた。十九年の冬の陣には、長政

夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に加はつた。

翌五年に忠之は、參府の度毎に大阪と領國との間を航行するためだと云つて、寶玉丸と云ふ大船

福岡

地名をクリックすると地図が表示されます

(例)福岡の城主黒田右衞門佐忠之

寛永九年六月十五日に、筑前國福岡の城主黒田右衞門佐忠之の出した見廻役が、博多辻の堂町

黒崎の城は之房が預つた。七年十一月に福岡城の東の丸で、長政の嫡男忠之が生れた。小字萬徳である

てゐた福崎に城を築いた。これが今の筑紫郡福岡である。此時一しよに築かれた端城六箇所の内で、上座

元年の夏の陣には、長政は江戸から、忠之は福岡から大阪へ出向いた。利安は筑前に殘つて、利章は忠之の手に

福岡から上つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から利安が下つて留守をした。元和元年の夏の陣

十三歳の忠之が傷寒のまだなほらぬのに、押して福岡から上つた。長政の下には利章がをり、福岡へは江戸から

た二人は、杉原平助が一人斬つて、一人取り逃がした。福岡呉服町で三鼎になつて話してゐた三人は、坂田加左衞門

、上使に謁見することが出來ずに引き取つた。福岡博多の町人共は兼て十太夫の專横を憎んでゐたので、寄ると

を過ぎるので、丁度下國したばかりの忠之は、福岡から迎接の使者を出した。正使は十太夫で、副使は黒田市兵衞で

怒には、嬖臣十太夫の受けた辱に報いるために、福岡博多の町人を屠つた興奮が加はつてゐたのであつた。

たやうな心持になつて、一成、内藏允を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲

邸から早打が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭、諸侍が集まつて評議をした。

上邸から早打が福岡へ立つた。それが著くと、福岡城では留守の家老、物頭、

持つてをられる」と云つて座を立つた。これは福岡で籠城の用意をしたのが物議の種にならぬやうに、家老

十四日は利章がため恐るべき日であつた。利章は福岡の邸から女房と二男吉次とを主家へ人質に出し、竹中采女正に宛て

始として、譜代の者共數十人であつた。福岡の黒田兵庫が邸に預けられた利章の妻黒田氏と二男吉次郎とに

福島

地名をクリックすると地図が表示されます

て舟の用意をさせた。併し豐臣方では福島の下、傳法川と木津川との岐れる所に、舟番を置いて

利安等は兼て福島の上流に小舟を出して、舟番所の樣子を見せて置くと、舟

熊本

地名をクリックすると地図が表示されます

に衣類を贈り、保科氏に附いて歸つた侍女菊を熊本まで附けて遣つた。

て、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は熊本へ行くのに、筑前國遠賀郡山鹿を過ぎるので、丁度下國した

つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ上使に立つて、忠廣は江戸へ召し寄せられることになつた。正勝は

へ匿名の書を持つて來たものがある。肥後國熊本の城主加藤肥後守忠廣逆心云々の文面である。正俊の舅井上新左衞門

京都

地名をクリックすると地図が表示されます

て粕屋郡名島の城に入つた。六年には一旦京都へ上つて歸つた如水と相談して、長政が當時那珂郡警固村の内

宇都宮

地名をクリックすると地図が表示されます

下野國宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へさせた。そこで稻葉丹後守正勝が熊本へ

であつた。將軍家光は日光へ參詣して、下野國宇都宮に泊つてゐるので、利勝は正俊を宇都宮へ遣つて訴へ

盛岡

地名をクリックすると地図が表示されます

を進めて、貴殿は公儀から百五十石の扶持を受け、盛岡へ下向の上は二三里の間を限り、自由に歩行せしめられると

利章が陸奧國巖手郡盛岡の城下に遷つたのは、寛永十一年三月の末であつた

利章は盛岡へ立つ時、嫡男大吉利周を連れて立つた。家來で隨從し

利章は盛岡に往つた時四十四歳で、まだ元氣盛んであつたので、妾内山

忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上某が利章の人柄を慕つて面會したい

長崎

地名をクリックすると地図が表示されます

命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に來ることになつたのである。

島原役に功を樹て、中二年置いて十八年に長崎番を命ぜられた。此時から從來平戸に來たオランダ舟が長崎に

忠之が長崎番を命ぜられた寛永十八年の冬、盛岡に遠からぬ天領の代官井上

麹町

地名をクリックすると地図が表示されます

を持つて來た男を搜索させた。十四日に麹町土橋で其男を捕へて見ると、忠廣の嫡子豐後守光正が家

永田町

地名をクリックすると地図が表示されます

四月十日に江戸永田町の室賀源七郎正俊が邸へ匿名の書を持つて來たものがある。

品川

地名をクリックすると地図が表示されます

てから、一成、内藏允が黒田家の行列を立てゝ品川口に掛かると、番所から使者が來て、阿部對馬守の申付で

子の刻に神奈川を立たせた。此一行は夜中に品川を驅け拔けて、櫻田の上邸に入つた。さて夜が明けて

、鐵砲頭以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を品川東海寺に入れやうとしてゐる。忠之は縱ひ身の破滅は兔

を連れて福岡を立つた。江戸近くなつて聞けば、品川口には旗本、鐵砲頭以下數十人が待ち受けてゐて、忠之を

大塚

地名をクリックすると地図が表示されます

岩戸口には佐谷五郎太夫、松本能登、三瀬越には大塚權兵衞、小林内匠、竹中主膳、浦上三郎兵衞、菅彌一右衞門、黒田