安井夫人 / 森鴎外

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地名一覧

増上寺

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にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心

江戸城

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佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。また二箇月目に徳川将軍に謁見して、用人席に

日向国

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仲平の父は日向国宮崎郡清武村に二段八畝ほどの宅地があって、そこに三棟

番町

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、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜないという

ないということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。

牛込

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またつぎの年に、仲平は麻布長坂裏通りに移った。牛込から古家を持って来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに

松島

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建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行をした。浅葱織色木綿の打裂羽織に裁附袴

江戸

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いたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中一年おいて、四十のとき帰国してから、

つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈が伸び

は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈が伸びてからは、二人とも毎朝書物を懐中

その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀※庵の門下に籍をおいて、昌平黌に入った

仲平はまだ江戸にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国

それが落成すると、六十一になる父滄洲翁と、去年江戸から藩主の供をして帰った、二十九になる仲平さんとが、父子とも

江戸がえり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだろう」と評判

滄洲翁は江戸までも修業に出た苦労人である。倅仲平が学問修行も一通り出来て、

いう娘で、これは父が定府を勤めていて、江戸の女を妻に持って生ませたのである。江戸風の化粧をし

江戸の女を妻に持って生ませたのである。江戸風の化粧をして、江戸詞をつかって、母に踊りをしこまれて

仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨を

は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った翌年である。

仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平

つぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所がきまったら、お佐代

まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩

江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた

山房の※額を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字仮屋の虎斑竹を根こじにして来たから

幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼

加茂

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という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂に代地をもらった。

大阪

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さきだって、体の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹の塾に通っていたときに死んだので

十両を父の手から受け取って清武村を立った。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に着いて、長屋の一間を借りて自炊をして

死んだのである。仲平は訃音を得て、すぐに大阪を立って帰った。

。書物は借りて覧て、書き抜いては返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて

千葉

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千葉で自殺した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。

を教えているうちに、持ち前の肝積のために、千葉で自殺した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺に

になったが、後日安東益斎と名のって、東金、千葉の二箇所で医業をして、かたわら漢学を教えているうちに、持ち前

水戸

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四十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。五十五のときペルリが浦賀に来たために、

下谷

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住いは六十五のとき下谷徒士町に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町

小川町

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お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家を買った。値段はわずか十両

麹町

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焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜないということを書いて二階

、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端の家を買って移った。策士雲井龍雄と

代々木

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仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈を彦根藩で出版してくれた

浦賀

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浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が

て、水戸景山公に知られた。五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論をした。この年藩政が気