寿阿弥の手紙 / 森鴎外

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地名一覧

西神田

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亥の下刻鎭まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片

雲嶺

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初め萩野由之さんに質して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を

江戸城

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軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、

八丁堀

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である。又笑翁とも號した。文晁門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人

丹後

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及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札を佩びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の

按ずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金

説に見えてゐる。或はおもふに道聽塗説の越後は丹後の誤か。

谷中

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さんに聞いた。家に歸つてから、手近い書に就いて谷中の寺を※したが、長運寺の名は容易く見附けられなかつ

水戸城

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水戸家の初代威公頼房は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年に薨じた。二代義公光圀は元祿三年に

。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公治紀が家督し

と書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は參河の人

東海道

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は駿河國島田驛の素封家で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用と

願行寺

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わたくしの閲した系譜に載せて無い。増田氏は世駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られ

わたくしは曾て面を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩の日わたくしに細木香以の墓ををし

有馬

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つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に隨つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年丙戌二月三日の條に、

江戸

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柏木如亭及五山と交つた。書は子昂を宗とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又畫をも學んで、崋山門下の

號は相摸國高座郡藤澤の清淨光寺から出すもので、江戸では淺草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町の菓子

次に「清右衞門樣先はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候」云々と云ふ一節がある

でない。清右衞門は名を公綽と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬

へ旅稼に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるの

「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。

年で、拙堂は藤堂高猷に扈隨して津から江戸に赴いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かと

御厚情蒙り難有由時々申出候」と云つてあるから、江戸から神樂の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。

であらう。或は想ふに、永井氏は諸侯の抱醫師若くは江戸の町醫ではなからうか。

如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿樣の胤を舍して下げ

又兵衞と稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さん

本郷

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なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野榮泉だの、藤村だの、船橋屋織江だの

伊勢神宮

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川田甕江の門人で、明治三十三年に靜岡縣周智郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの舊知

桐生

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全文を載せる。「畫人武清上州桐生に遊候時、桐生の何某申候には、數年玉池へ詩を直してもらひに遣

小石川

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「あゝ。さうですか。ではあの小石川のお墓にまゐるお婆あさんをお尋なさいますのですね。」

島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。

牛込

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同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸體の文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れ

「あります。壽阿彌の方へは牛込の藁店からお婆あさんが命日毎に參られます。谷の音の方

加賀

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は、「客歳」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼に出たと見える。天民の收入は、江戸に居

分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當る

天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り

途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通りにて、其夜

品川町

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稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に

岩淵町

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周智郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市岩淵町に住んでゐる。わたくしの舊知内田魯庵さんは棠園さんの妻の姪夫

大阪

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「客歳」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つて

中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家藏屋敷の役人等が周旋して大賈

それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家藏屋敷の役人等が周旋して大賈の書を請ふものが

秋田

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書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫義厚の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人

水戸

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等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の用達商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。

、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷

したい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜ

、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者

最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達であつたと云ふ

連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これは稍暗黒なる一

ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又剃髮して壽阿彌となり

云ふのみを以て解釋し盡されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は

何故に生涯富人ではなかつたらしい壽阿彌が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、單に彼海

水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家の一の用達に對する處置としては、或は稍厚きに過ぎた

それゆゑ壽阿彌は再び火事に遭つて、重ねて救を水戸家に仰ぐことを憚かつたのである。これは水戸家の一の

、壽阿彌が火事に遭つて丸燒になつた時、水戸家は十分の保護を加へたらしい。それゆゑ壽阿彌は再び火事に遭

の如きものであつたらしい。「なんでも卑しい女に水戸樣のお手が附いて下げられたことがあるのださうでございます

があつて流布せられてゐた。それは壽阿彌は水戸侯の落胤ださうだと云ふのであつた。此巷説は保さんも

海録に據れば、眞志屋は數代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。隨つて落胤問題も壽阿彌の祖先

は、何か特別な意義を有してゐるらしい。只その水戸家に奉公してゐたと云ふ女は必ずしも壽阿彌の母であつ

於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議治保でなくてはならない。

と、壽阿彌の父は明和五六年の交に於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議治保でなくては

わたくしは師岡の未亡人石に問うた。「壽阿彌さんが水戸樣の落胤だと云ふ噂があつたさうですが、若しあなたのお耳

と云ふ意であつたとか申すことでございます。その水戸樣のお胤の人は若くて亡くなりましたが、血筋は壽阿彌さん

、なんでも壽阿彌さんの先祖の事でございます。水戸樣のお屋敷へ御奉公に出てゐた女に、お上のお手

石は答へた。「水戸樣の落胤と云ふ話は、わたくしも承はつてゐます。しかしそれは

のある事ではないさうでございます。藤井紋太夫は水戸樣のお手討ちになりました。所が親戚のものは憚があつて

水戸家の初代威公頼房は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年に薨じた。二代義公光圀は元祿三

水戸家の初代威公頼房は慶長十四年に水戸城を賜はつて、寛文元年

即ち義公の世の事で、眞志屋の祖先は當時既に水戸家の用達であつた。只眞志屋の屋號が何年から附けられ

袱帛を持つて來た。河内屋も眞志屋の祖先も水戸家の用達であつた。お七の刑死せられたのは天和三年

先と云ふことは不明である。その後代々の眞志屋は水戸家の特別保護の下にある。壽阿彌の五郎作は此眞志屋の

の生んだ子は商人になつた。此商人の家は水戸家の用達で、眞志屋と號した。しかし用達になつたのと

水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて、殿樣の胤を舍して下げられた。此女

を湊合して、姑く下の如くに推測した。水戸の威公若くは義公の世に、江戸の商家の女が水戸家に仕へて

、今平八郎さんの手からわたくしの手にわたされた。水戸家の用達眞志屋十餘代の繼承次第は殆ど脱漏なくわたくしの目の前

と書してある。入國とは頼房が慶長十四年に水戸城に入つたことを指すのである。此眞志屋始祖西村氏は參河

。眞志屋文書に徴するに眞志屋の祖先は威公頼房が水戸城に入つた時に共に立つてゐる。文化二年に武公治紀が

傳信士で、寛文四年九月二十二日に歿した。水戸家は既に義公光圀の世になつてゐる。

は知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見る

であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下つて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち

を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。

眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋と云ふものがある。眞志屋の祖先が代々

。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。

縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。

は島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつた

義公の猶位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇を遣つた。

、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つ

人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる宗堯の世となつてゐた

從へば、マの字に象つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。

の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤蒼夫さん

東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公宗翰の世に

。淨賀は安永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公宗翰が明和二年に世を去つて、文公治保の世に

士である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家は舊に依つて治保の世であつた。

。前者の歿年に先つこと一年、文化二年に水戸家では武公治紀が家督相續をした。

に不明な處がある。淨本の歿した年に、水戸家では哀公齊脩が家督相續をした。

の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公齊昭の世となつた。

の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。

此最後の丹後、眞志屋の鑑札を佩びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘默

を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。

ためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を

當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。

、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。

が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、世水戸家の用達であつたことは、夙く海録の記する所である。しかし

此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく

た知識は啻にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと

に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒に弊帚集六卷があつて火災に罹り、弟敦恒

千葉

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、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻になつて出されたと云ふ、喜多村※庭の説は

福島

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谷の音の方へは、當主の關口文藏さんが福島にをられますので、代參に本所緑町の關重兵衞さんが來ら

佐賀

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比丘尼、天明七年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即是である。

長崎

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なからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎奉行を勤めてゐたが、此人は叙爵の時越後守となるべき

京都

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統次第を示したものである。宗家昌叱の裔は世京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし

深川

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深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が來て焉馬がどうの

てゐる慧光の實母を加へなくてはならない。即ち深川靈岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女、享和二年

達比丘尼、天明七年丁未八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即是である。

大塚

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かも知れぬが、その何人たるを詳にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。

「岸本※園、牛込の東更なども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅、其節御噂も申出候。」

神田

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には「夜五つ時分」としてある。火元は神田多町二丁目湯屋の二階である。これは二階と云ふだけが、

次に文政十一年二月五日の神田の火事が「本月五日」として叙してある。手紙を書く十四

小川町

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てある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片かは燒申候、(中略)

目白

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の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田、小梅村の二箇所で、此等は

駒込

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類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、

はわたくしの閲した系譜に載せて無い。増田氏は世駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺

わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等學校寄宿舍の西、

目黒

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ある錦が用ゐてある。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴に於て祐天の寂したのは、島の歿した

麹町

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ざるがために、人の廡下に倚つた。初は「麹町二本傳次方江同居」と云ふことになり、後「傳次不

たらしい。年月日を闕いた願書に、「願之上親類麹町二本傳次方江同居仕御用向無滯相勤候處、當夏中

のみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たる

品川

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稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻ぐを業とした。蒼夫さんの所有の

向島

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町に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島龜戸神社の祠官となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふ