佐橋甚五郎 / 森鴎外
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に、朝鮮から始めての使が来た。もう家康は駿府に隠居していたので、京都に着いた使は、最初に江戸へ
着いた。家康は翌二十日の午の刻に使を駿府の城に召した。使は一応老中本多上野介正純の邸に入って、そこ
駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁に並べられた。
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めったに目くらがしは食わぬ。あれは天正十一年に浜松を逐電した時二十三歳であったから、今年は四十七になっておる。
浜松の城ができて、当時三河守と名のった家康はそれにはいって、嫡子
一週忌も過ぎた。ある日甚五郎の従兄佐橋源太夫が浜松の館に出頭して嘆願した。それは遠くもない田舎に、甚五郎が
に身軽に、小山城を脱けて出て、従兄源太夫が浜松の邸に帰った。家康は約束どおり甚五郎を召し出したが、目見えの時一言
、遠からず小田原へ二女督姫君の輿入れがあるために、浜松の館の忙がしい中で、大阪に遷った羽柴家へ祝いの使が行く
天正十一年に浜松を立ち退いた甚五郎が、はたして慶長十二年に朝鮮から喬僉知と名のって来た
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ていたので、京都に着いた使は、最初に江戸へ往けという指図を受けた。使は閏四月二十四日に江戸の本誓
という指図を受けた。使は閏四月二十四日に江戸の本誓寺に着いた。五月六日に将軍に謁見した。十四日
。五月六日に将軍に謁見した。十四日に江戸を立って、十九日に興津の清見寺に着いた。家康は翌二十日
てあった。捧げて来た朝鮮王李※の国書は江戸へ差し出した。次は上々官金僉知、朴僉知、喬僉知の三人で、
疋、蜜百斤、蜜蝋百斤の四色である。江戸の将軍家への進物十一色に比べるとはるかに略儀になっている。もとより江戸
進物十一色に比べるとはるかに略儀になっている。もとより江戸と駿府とに分けて進上するという初めからのしくみではなかったので
で、急に抜差しをしてととのえたものであろう。江戸で出した国書の別幅に十一色の目録があったが、本書とは
である。朝鮮征伐の時の俘虜の男女千三百四十余人も、江戸からの沙汰で、いっしょに舟に乗せて還された。
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た。十四日に江戸を立って、十九日に興津の清見寺に着いた。家康は翌二十日の午の刻に使を駿府の城に
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はそれにはいって、嫡子信康を自分のこれまでいた岡崎の城に住まわせた。そこで信康は岡崎二郎三郎と名のることになった
本多平八郎の鑓との力をかりて、わずかに免れて岡崎へ帰った。さて軍勢を催促して鳴海まで出ると、秀吉の使が来
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上った。京都紫野に着いたのが五月二十九日、大阪へ出たのが六月八日で、大阪で舟に乗り込んだのが六
二十九日、大阪へ出たのが六月八日で、大阪で舟に乗り込んだのが六月十一日である。朝鮮征伐の時の俘虜
の輿入れがあるために、浜松の館の忙がしい中で、大阪に遷った羽柴家へ祝いの使が行くことになった。近習の甚五郎
聞いていると、石川与七郎数正が御前に出て、大阪への使を承っている。
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様子を見に来た。徳川家康は三人を紫野の大徳寺に泊まらせておいて、翌年の春秀忠といっしょに上洛した時に目見え
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た。もう家康は駿府に隠居していたので、京都に着いた使は、最初に江戸へ往けという指図を受けた。使
一行はその日のうちに立って、藤枝まで上った。京都紫野に着いたのが五月二十九日、大阪へ出たのが六月
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官金僉知、朴僉知、喬僉知の三人で、これは長崎で造らせた白木の乗物に乗っていた。次は上官二十六人、