細木香以 / 森鴎外
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崖の上は向岡から王子に連る丘陵である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野
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を藪下の道と云う。そして所謂藪下の人家は、当時根津の社に近く、この道の東側のみを占めていた。これに反して
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諸人に関しても、わたくしは二三の報を得た。尾道の古怪庵加藤氏は云う。「香以伝に香以の友晋永機を出し、
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の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く
、更に北へ曲る角が西教寺と云う寺である。西教寺の門前を過ぎて右に桐の花の咲く寄宿舎の横手を見つつ行けば
墓石が、道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀と
好く存じていますが、只今留守でございます。なんなら西教寺とこちらとの間に花屋が住っていますから、聞いて御覧なさいまし。
西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その
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た。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。
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は安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉を廻った紀行の草稿であったらしい。
香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙
芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写し
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。法諡は繁誉宝寿徳昌善士である。墓は願行寺先塋の中にある。竜池の師、静廬もこの年八十三歳で歿し
た。法諡は白誉雲外竜池善士と云う。また願行寺に葬られた。手代等は若檀那子之助の前途を気遣って、大坂町に
瞑目した。年四十九。法諡は梅余香以居士。願行寺なる父祖の塋域に葬られた。遺稿の中に。
が並んでいて、また一つ寺がある。これが願行寺である。
願行寺は門が露次の奥に南向に附いていて、道を隔てて寄宿舎
道行人の目に触れていた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。
いた。今は西教寺も願行寺も修築せられ、願行寺の生垣は一変して堅固な石塀となった。ただ空に聳えて鬱蒼たる
わたくしはある日香以が一家の墓を訪おうと思って、願行寺の門を入った。門内の杉の木立の中に、紺飛白の浴衣を著
西教寺と願行寺との間の町家は皆新築の小さい店になっている。その間に挟ま
「願行寺にある摂津国屋の墓を知っているでしょうね」と、わたくしは問うた
わたくしはその後願行寺の住職を訪おうともせずにいて、遂に香以の裔の事を詳
わたくしはまた香以伝に願行寺の香以の墓に詣る老女のあることを書いた。そしてその老女が新原元三郎
はえいが墓参の事を言うついでに附記したい。それは願行寺の樒売の翁媼の事である。えいの事をわたくしの問うたこの
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にした七代目団十郎は、この年六月二十二日に江戸を追放せられ、竜池の親しい友為永春水はこの年七月十三日に牢死
自刃した後、権十郎の実父七代目団十郎の寿海老人が江戸に還っていたので、香以はこれをも贔屓にした。この父子
いた。そこへ一隻の舟が著いて、中から江戸の相撲が大勢出た。香以が物めずらしさに顔を見ると、小結以上
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本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が
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と云ったことを知った。香以は相摸国高座郡藤沢の清浄光寺の遊行上人から、許多の阿弥号を受けて、自ら寿阿弥と称し、次
その交の奈何を詳にしない。しかし後に子之助は清浄光寺から寿阿弥号を受けて、間接に真志屋の阿弥号を襲いだので
香以は途次藤沢の清浄光寺に詣で、更に九つの阿弥号を遊行上人から受けて人に与えた
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ばこれは安政六年の夏に、香以が三十八歳で江の島、鎌倉を廻った紀行の草稿であったらしい。
香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、
芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写した美麗
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団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道に似た小径がある。これを藪下の道と云う。
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芥川氏の所蔵に香以の父竜池が鎌倉、江の島、神奈川を歴遊した紀行一巻がある。上木し得るまでに浄写した美麗な巻
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松平少将家の三家がその主なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
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本郷の追分を第一高等学校の木柵に沿うて東へ折れ、更に北へ曲る角が西教寺
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がめずらしく形を現したのは、梅暦の千藤である。千葉の藤兵衛である。
あった。親戚某が世話をして、香以は下総国千葉郡寒川の白旗八幡前に退隠した。寒川は漁村である。文字を識っ
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た。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
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三家がその主なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。
香以はこの年江の島、鎌倉、金沢を巡覧した。同行したものは為山、等栽、永機、竺仙等
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晏川、月岡芳年、柴田是真、鳥居清満、辻花雪、福島隣春、四方梅彦がある。傭書家には宮城玄魚がある。
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を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜万字
名題役者を茶屋に呼んで杯を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川で
竜池が遊ぶ時の取巻は深川の遊民であった。桜川由次郎、鳥羽屋小三次、十寸見和十、
いた時に迎えて、もう子供が二人ある。里方は深川木場の遠州屋太右衛門である。しかし女房も岳父もただ手を束ねて
ある日香以は松本交山を深川富が岡八幡宮の境内に訪うて、交山が松竹を一双の
文久元年の夏深川に仮宅のある時であった。香以は旧交を温ねて玄魚、魯文
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この津藤セニョオルは新橋山城町の酒屋の主人であった。その居る処から山城河岸の檀那と呼ば
芳年、梅年、紫玉、竺仙等を駆り集め、香以を新橋の料理屋に招いた。香以は「倒されたる大いなるもの」として、
に告げた。花山は援を茶弘に求めた。茶弘は新橋界隈に幅を利かせていた侠客で、花山が親分として戴い
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た。しかし伊兵衛は卑吝では無かった。某年に芝泉岳寺で赤穂四十七士の年忌が営まれた時、棉服の老人が墓に
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相手は山本の勘八と云う老妓であった。吉原では久喜万字屋の明石と云うお職であった。
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。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う老妓であった
、船宿に出入し、芸者に馴染が出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に
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を取らせた。妓楼は深川、吉原を始とし、品川へも内藤新宿へも往った。深川での相手は山本の勘八と云う
のわたくしの家の楼上から、浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆の見えるのは、この方角である。
に出入し、芸者に馴染が出来、次で内藤新宿、品川の妓楼に遊んだ。
に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳で
妓楼は主に品川の島崎湊屋、土蔵相摸で、引手茶屋は大野屋万治方であった。
作者岩井紫玉、同座附茶屋の主人武田屋馬平、品川の幇間富本登名太夫、同熨斗太夫、桜川善二坊、その他俳諧師牧
うとした。六月中旬の事である。子之助が品川の湊屋にいると、竜池は四手を飛ばして大野屋に来た。そして子之助
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は当時存命していたわたくしの父である。父は千住で医業をしていたが、それを廃めてわたくしと同居しようとおもっ
を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住の家は徳川将軍が鷹野に出る時、小休所にしたと云う岡田
父は千住の大きい家を畳んで、崖の上の小家に越して来た。千住
大籬に事え、忠実を以て称せられていた。その千住の親里に帰ったのは、年二十を踰えた後である。
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ている。彼小家の前に立って望めば、右手に上野の山の端が見え、この端と向岡との間が豁然として開け
である。そして崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している。彼小家の前に立って望めば、右手
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、小倉是阿弥の家に集まって仏事を営み、それから駒込願行寺の香以が墓に詣でた。この法要の場所は即ち崖の上
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往った。香以を得意の檀那としていた駕籠屋は銀座の横町にある方角と云う家で、郵便のない当時の文使に毎日二人
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香以が浅草日輪寺で遊行上人に謁し、阿弥号許多を貰い受けたのもこの頃の事
は暇を遣り、妻ふさと倅慶次郎とを連れて、浅草馬道の猿寺境内に移った。蕭条たる草の庵の門には梅阿弥の
あるいは此の如き誤をなしたかも知れない。そこで浅草の文淵堂主人に問い合せた。文淵堂の答書はこうである。「香以
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しかし寒川と日本橋との間をば魚介を運ぶ舟が往来する。それに託して河竹新七、
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人生の評価は千殊万別である。父が北千住に居った時、家に一婢があった。肥白にして愛想
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は永機そっくりであった。この永機は明治初年の頃に向島の三囲社内の其角堂に住み、後芝円山辺に家を移して没した。