椙原品 / 森鴎外
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に住んでゐた。然るに遠田郡の北境小里村と、登米郡赤生津村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲
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の四子陸奥守満快の八世の孫飯島三郎広忠が出雲の三沢を領して、其曾孫が三沢六郎為長と名告つた。為長の
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と、登米郡赤生津村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五
式部が領分の飛地と、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で
起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、
年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤つて、十一年に死
が、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へること
と同じく、原来権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政に反抗したのである。
渡辺等の秕政に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾することを主とし、領分の
、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以である。渡辺は伊達宮内少輔に預けられて絶食して
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忠宗の跡を継いだ。踰えて三年二月朔に小石川の堀浚を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事
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小石川の堀浚を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋即ち今の万世橋から牛込土橋までの
。守範は赤松氏の亡びた時に浪人になつて江戸に出て、明暦三年の大火に怪我をして死んださうである。
女であつたと云ふ所から考へても、守範は江戸の浪人でゐて、妻を娶つたものと思はれる。守範には二人
た。安芸はこれを憤つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女
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以て、七月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝浜の屋敷から品川に遷つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程
を命ぜられて、芝浜の屋敷から品川に遷つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程であつたさうである。次いで八月
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、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境小里村と、登米郡赤生津村とに地境の争があつた。安芸は此時地
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然らば奥州話にある仏眼寺の墓の主は何人かと云ふに、これは綱宗の
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が阿波で一万石を食んでゐて、関が原の役に大阪に与し、戦場を逃れて人に殺された時を謂つたものであらうか
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子陸奥守満快の八世の孫飯島三郎広忠が出雲の三沢を領して、其曾孫が三沢六郎為長と名告つた。為長の十世
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綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷
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ので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これ
は奥州話と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の工藤平助と云ふ人の女で、只野伊賀と云ふ人の妻になつ
高尾を身受して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町の仏眼寺にある、其子孫が
ば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町
綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれる筈がない。
。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居して以来、仙台へは往かずに、天和三年に四十四歳で剃髪して嘉心と
朔に小石川の堀浚を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋即ち今の万世橋から牛込
三股で斬つたと云ふ俗説を反駁する積で、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を彼地に残したと書いたのだ
歿した時尼になつて、浄休院と呼ばれ、仙台に往つて享保元年に七十八歳で死んだ。
に受けて、綱宗は穉い亀千代の身の上を気遣ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、
の屋敷に遷つてから、これを端緒として、所謂仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷
と、鳥羽に疑はしい節がないでもないが、後に仙台で扶持を受けて優遇せられてゐたことを思へば罪の有無が
膳部の周囲を立ち廻つてゐたとかのために、仙台へ遣つて大条玄蕃に預けられた。鳥羽は道円に舟で饗応せ
で、秕政の眼目は濫賞濫罰にあつたらしい。仙台にゐて之を行つた首脳は渡辺金兵衛で、寛文三年頃から目附
に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父にして亀千代の後見の一人たる
次に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父
私は去年五月五日に、仙台新寺小路孝勝寺にある初子の墓に詣でた。世間の人の浅岡の
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私が大礼に参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某
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した。此間に紀伊の兄清長は流浪して、因幡鳥取に往つてゐて、朽木宣綱の女の腹に初子が出来た。
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、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説
の娼妓高尾を身受して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町の仏眼寺にある、其
文子の説によれば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡く
がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上
年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾
薫と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月まで
て、三股で斬つたと云ふ俗説を反駁する積で、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を彼地に残したと書いた
文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股で斬つたと云ふ俗説を
である。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。
※はぬやうである。それゆゑ私は、単に品が高尾でないと云ふ事実、即ち疾うの昔に大槻さんが遺憾なく立証して
もう十歳になつてゐた。丁度綱宗の漁色事件に高尾が無いやうに、此置毒事件にも終始俗説の浅岡に相当する女
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は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居して以来、仙台へは往かずに、天和三年に
月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝浜の屋敷から品川に遷つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程であつた
綱宗は籠居のために意気を挫かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子板四百余枚を嵌めさせた
品は一体どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、
られる。それは万治三年に綱宗が罪を獲て、品川の屋敷に遷つた時、品は附いて往つて、綱宗に請うて
てはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせ
な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、
綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に遷つてから、これを端緒として、所謂仙台騒動が発展
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の屋敷から品川に遷つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子
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に出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来の間に、
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られた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたので
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内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつ
土橋までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は
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から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布白金台に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜
二度目の置毒事件は寛文八年に白金台の屋敷で起つた。亀千代が浜屋敷で火事に逢つて移つて来てから