護持院原の敵討 / 森鴎外
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国では先ず大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた
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参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便があっ
二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座おくひ町の摂津国屋である。然るに九郎右衛門
日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。
そのうち大阪に咳逆が流行して、木賃宿も咳をする人だらけになった。三
大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせて
九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕籠の立場、
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になった。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では先ず大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日
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松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人がある。そこへは紀伊国熊野浦長島外町の漁師定右衛門と云うものが毎日魚を送ってよこす。その縁
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舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願
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を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国に
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も、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、
、鞆に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁姫路に立ち寄った。
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に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に
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して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。
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舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と
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て、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三
を一日、南工宿を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に
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人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。
主従三人の中に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡った
尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国
も知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。
て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼に対して、稍不満らしい気色を
して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空しく過ぎたのである。
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出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなって
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国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金部屋には、いつも侍が二人ずつ
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病で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿
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。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の
足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。
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舟は豊後国佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、
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を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙ること
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伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日
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を宮に出て、佐屋を経て伊勢国に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。
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福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。
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は、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて
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受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母が勤めていたので、そこ
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は火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物
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熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日
へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。
を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八
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三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に
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で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日、福山に二日いた。それ
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九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっ
宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと
どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云え
為遂げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
高崎では踪跡が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町の政
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たのであろう。奥羽その外の凶歉のために、江戸は物価の騰貴した年なので、心得違のものが出来たので
深い人なので、すぐに九郎右衛門の願を聞き届けた。江戸ではまだ敵討の願を出したばかりで、上からそんな沙汰もないうちに
。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの
、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお
、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないよう
ことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所さえ極めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るの
。この男は近江国浅井郡の産で、少い時に江戸に出て、諸家に仲間奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに
心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信不通になったので、二男定助一人をたよりにして
、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂が、松坂から定右衛門の
の三つの苦艱を嘗め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤はなくなっているのである。
云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい
ば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所へ出たと云うことは
外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか
いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
木賃宿の亭主が来た。今家主の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って
ない。九郎右衛門や宇平からは便が絶々になるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子達の心細さは言おう様が
別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせ
大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせて遣った手紙である。
九郎右衛門は是非なく甥の事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金と衣類腰の物と
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上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、
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は金山に一日いて、木曽路を太田に出た。尾張国では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て
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佐賀関に着いた。鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三
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痛を起して、杖を衝いて歩くようになった。筑後国では久留米を五日尋ねた。筑前国では先ず大宰府天満宮に参詣し
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ために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便が
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で定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山に登らせることにした。二人が剃髪した亀蔵を三浦坂まで送って
も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、
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て、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日
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を敷いて寝た。飛騨国では高山に二日、美濃国では金山に一日いて、木曽路を太田に出た。尾張国では
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九郎右衛門を一旦姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津に着いた。そして
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(例)播磨国
播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角
云う事を聞いた。それから西宮、兵庫を経て、播磨国に入り、明石から本国姫路に出て、魚町の旅宿に三日いた。
渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下平の町の稲田屋に
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平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国浅井郡の産で、少い時に江戸に出て、諸家に仲間奉公をし
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人を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁見物に出た人が押し合
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手狭で、介抱が行き届くまいと言うので、浜町添邸の神戸某方で、三右衛門を引き取るように沙汰せられた。これは山本家の
神戸方で三右衛門は二十七日の寅の刻に絶命した。
の遍立寺に葬られた。葬を出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、
火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人出も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った
に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている
九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期に世話になった礼に往った。西北の風
大部分焼けたが、幸に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重々世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり
のである。九郎右衛門、文吉は本多某に、りよは神戸に預られた。
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。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙ることが甚しくて、
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、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入っ
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。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山へ参詣した。信濃国では、上諏訪
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高崎では踪跡が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町の政淳寺に山本家の先祖の墓
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までは立ち寄らぬのである。それから備前国に入り、岡山を経て、下山から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ
に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁姫路に立ち寄った。
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から西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑を侵して
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棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。
話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町の一向宗の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ
すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上筑後町の一向宗の寺に、勧善寺
で肥前国温泉嶽の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた
渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞い
で肥前国島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見た
長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟引地町の紙屋と
一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が
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聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代を一日、南工宿を
阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国島原に渡った。
鶴崎を経て、肥後国に入り、阿蘇山の阿蘇神宮、熊本の清正公へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して
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は先ず大宰府天満宮に参詣して祈願を籠め、博多、福岡に二日いて、豊前国小倉から舟に乗って九州を離れた。
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礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖を衝いて歩く
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を三日捜して、舟で安芸国宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国に入り、尾の道、鞆に十七日
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と云って通用門を出たと云うことである。亀蔵は神田久右衛門町代地の仲間口入宿富士屋治三郎が入れた男で、二十歳になる。
強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年の大火である。未の
いたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋の戸の締っている外でしゃがんで
られた。次に呼び出されていた、亀蔵の口入人神田久右衛門町代地富士屋治三郎、同五人組、亀蔵の下請宿若狭屋亀吉が口書を
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の住いは手狭で、介抱が行き届くまいと言うので、浜町添邸の神戸某方で、三右衛門を引き取るように沙汰せられた。これは
出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見
には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末期に世話になった礼に往った。西北
亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。
浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸に酒井家の添邸
に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ
一重」と菓子一折とを賜った。同じ日に浜町の後室から「縞縮緬一反」、故酒井忠質室専寿院から「
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二十八日に三右衛門の遺骸は、山本家の菩提所浅草堂前の遍立寺に葬られた。葬を出す前に、神戸方
井亀之進の奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守忠方の娘である。
初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今まで歇んで
日寅の刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺に往って、草鞋のままで三右衛門の墓に参った。
遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言っ
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佐久間町二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋
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酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真と三奉行とに届済の上で、二月二十六日附
庄野慈父右衛門から酒井家目附へ、酒井家から用番大久保加賀守忠真へ届けた。
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奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国高崎をさして往くのである。
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三峯山に登っては、三峯権現に祈願を籠めた。八王子を経て、甲斐国に入って、郡内、甲府を二日に廻っ
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未亡人は余り忙しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際の高家衆大沢右京大夫基昭が奥に使われることになった。
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風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井亀之進の奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草
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道中なんの障もなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。
十二日寅の刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺に往って、草鞋のままで
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を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵前を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼
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それから苗字を深中と名告って、酒井家の下邸巣鴨の山番を勤めた。
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に大名小路の松平伯耆守宗発の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。