津下四郎左衛門 / 森鴎外
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や。吾に左袒する者は、檄の至るを待ち、叡山に来会せよ。共に回天の大策を可議者也。明治二年春王正月
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た。吉田の子巳熊は仇討に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも
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て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎良知と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。
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名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉の中瑞雲斎で、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢
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、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢した。
浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の
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中氏は昔瓜上と称し、河内の名族であつた。承応二年和泉国熊取村五門に徙つて、世郷士
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あるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を
で、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓で捕へられたために、上田の親友であつた
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が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募つたのである。四郎左衛門はすぐにこれ
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風説に従へば、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである
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を逃げた。吉田の子巳熊は仇討に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかに
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なつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
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長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二など
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なく大学を去つて、所々に流寓した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君
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は長崎の高島秋帆の弟子で、高島が嫌疑を被つて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを
た時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰は今の洋行
に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑四郎、吉田平之助と一しよに、
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翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には
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瓜上と称し、河内の名族であつた。承応二年和泉国熊取村五門に徙つて、世郷士を以て聞えてゐた。此中氏の
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客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕
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等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷つて商業を営み、資本を耗尽し、後に大阪府下南河内郡古市村
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、慶永に開国の策を献じた男である。其外大阪の城代土屋采女正寅直の用人大久保要に由つて徳川慶喜に上書し、
に遷つて商業を営み、資本を耗尽し、後に大阪府下南河内郡古市村の誉田神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫
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に、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠先生を知つてゐる。
嘉永五年に池辺啓太が熊本で和蘭の砲術を教へた時、横井は門人を遣つて伝習させた
であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰は今の洋行帰と同じである。父
として映じたのは、三月に徴士となつて熊本から入京し、制度局の判事を経て、参与に進んだ横井平四郎で
の挙動が、いかにも卑怯であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫はれた。
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時、横井は門人を遣つて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆の弟子で、高島が嫌疑を被つて江戸に召し寄せられた時
気息が漸く通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣つてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝
元年には四十六歳で、ロシアの使節に逢はうとして長崎へ往つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をし
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細川家の奉行職の子に生れたのに、父は岡山在の里正の子に生れた。伊木若狭が備中越前鎮撫総督になつた
残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹くものも
千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母で
と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を
徳川慶喜は大政を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主池田越前守茂政の家老に、伊木若狭と云ふ尊王
が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募つたのである。四郎左衛門はすぐ
かつた。しかし隊の勇ましい門出を余所に見て、独り岡山に留まるに忍びないから、若し戦闘が始まつたら、微力ながら応援いたさうと思つ
して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程もない時、能呂がふと前方を見ると、
六月に伊木は勇戦義戦の両隊を纏めて岡山に引き上げた。両隊は国富村操山の少林寺に舎営することになつた
一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助する
遣つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
かわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌
たことがある。しかし事に阻げられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属に採用せ
が出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内へ往つた。しかし人に無礼をせられて
は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。
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の家老に、伊木若狭と云ふ尊王家があつて、兼て水戸の香川敬三、因幡の河田左久馬、長門の桂小五郎等を泊らせて
つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭に上書したこともある。世間では其論策の内容を錯り
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せられて、能呂勝之進がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程もない
目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の
松山の板倉伊賀守勝静は老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢
手より出で、前海相八代氏の実兄尾藩磅※隊士松山義根を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏は
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或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕に輦轂の下に住んで、親しく政府
二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けて
で襲撃して為損じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得
四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都粟田白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐ
四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を
は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
ゐなかつたのを責めるのは無理である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事
京都で四郎左衛門の潜伏してゐた三宅典膳の家の土蔵は、其後
しかし是は必ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時所謂御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた
本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸の謀を定めてゐたと書いた。しかし是
斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄舎に死し、鼎は幽囚十年の後赦された。此間故郷熊取
がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、
有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都在の嵯峨に住せり。成程其家の裏に藪あり、酒屋ありき
当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏
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男である。其外大阪の城代土屋采女正寅直の用人大久保要に由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸
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は門人横山助之丞と下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取が附いて供をしてゐる。
前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
た。首は上野の右の腕に強く中つた。上野がたじろく隙に、四郎左衛門は逃げ伸びた。
は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中つた。上野がたじろく隙に、四郎左衛門は
附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中つた。上野
上野は足が下津より早いので、殆ど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた
上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に
四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに、下津が師匠の骸の傍へ引き返す所へ、横山も戻
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た。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたの
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親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻まれたのである。
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武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町区土手三番町四番地に住んでゐる。