興津弥五右衛門の遺書 / 森鴎外
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縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。当時田辺城には松向寺殿三斎忠興公御立籠り遊ばされおり候ところ、神君上杉景勝を
を伝え、景一はまた赤松家の物頭井門亀右衛門と謀り、田辺城の妙庵丸櫓へ矢文を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に
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成り候。妙解院殿の御代に至り、寛永十四年冬島原攻の御供いたし、翌十五年二月二十七日兼田弥一右衛門とともに、御
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和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老達に候。
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言資慶卿、裏松宰相資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老
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御父子とも御心安く相成りおり候。田辺攻の時、関東に御出遊ばされ候三斎公は、景一が外戚の従弟たる森三右衛門を
よく城内に入り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。この歳赤松家滅亡せられ候により、景一は森の
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二十三歳にて切腹し、小姓磯部長五郎介錯いたし候。小野は丹後国にて祖父今安太郎左衛門の代に召し出されしものなるが、父田中甚左衛門御旨に
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。慶長五年七月赤松殿石田三成に荷担いたされ、丹波国なる小野木縫殿介とともに丹後国田辺城を攻められ候。当時田辺城に
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家の者どもとかく異志を存する由相聞え、ついに筑前国へ罷越し候。某へは三斎公御名忠興の興の字を賜わり、沖津
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。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時と名告った。元和元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時
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、天正九年千石を給わり候。十三年四月赤松殿阿波国を併せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代
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たので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊勢国亀山に往って、本多下総守俊次に仕えた。次いで坂下、関、亀山三
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て、本多下総守俊次に仕えた。次いで坂下、関、亀山三箇所の奉行にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の
いる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利
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候につけ、いかにも羨ましく技癢に堪えず候えども、江戸詰御留守居の御用残りおり、他人には始末相成りがたく、空しく月日の
永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利と黒田右衛門佐光之とが同日に江戸を
帰る時、細川越中守綱利と黒田右衛門佐光之とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之は一日だけ先
の駅で光之を乗り越した。綱利は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人
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資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老達に候。
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(例)十一(十七)年駿河国
は興津右兵衛景通と申候。永正十一(十七)年駿河国興津に生れ、今川治部大輔殿に仕え、同国清見が関に住居いたし候。
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て、切腹いたし候。介錯は磯田十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城の時功ありて、
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。壮年に及びて弥五右衛門景一と名告り、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたしおり候。さてその縁故をもって赤松
した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。
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大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都興福寺の長老達に候。
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赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国へ参り、慶長六年御当家に召抱えられ候。元和五年御当代光尚公
、幼名才助と申候。七歳の時父につきて豊前国小倉へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召しいだされ候。元和
弥五右衛門景吉と名告り、三斎公の御供いたし候て、豊前国興津に参り候。
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候人々は烏丸大納言資慶卿、裏松宰相資清卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺並びに南都
之允殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も臨場せられ候。倅才右衛門も参るべく候。介錯は
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成り候。しかれば子孫のため事の顛末書き残しおきたく、京都なる弟又次郎宅において筆を取り候。
は泰勝院殿幽斎藤孝公御留守遊ばされ候。景一は京都赤松殿邸にありし時、烏丸光広卿と相識に相成りおり候。
源左衛門秀信、吉田兼庵相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺中高桐院に御納骨いたし候。御生前において
により、去年正月十一日泰勝院専誉御遺骨を京都へ護送いたし候。御供には長岡河内景則、加来作左衛門家次、山田三右衛門、
の事心配致すまじき旨仰せられ、御歌を下され、又京都へ参らば、万事古橋小左衛門と相談して執り行えと懇に仰せられ候。
仮屋の周囲には京都の老若男女が堵の如くに集って見物した。落首の中に「比類
して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子に
。光之は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎右衛門が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所
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ところその伽羅に本木と末木との二つありて、はるばる仙台より差下され候伊達権中納言殿の役人ぜひとも本木の方を取らんと
へ持ち帰り候。伊達家の役人は是非なく末木を買い取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に参らせ、さて御願い申候
十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城において御薨去なされ候。かの末木の香は
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品買い求め候様仰含められ、相役横田清兵衛と両人にて、長崎へ出向き候。幸なる事には異なる伽羅の大木渡来いたしおり候。
寛永元年五月安南船長崎に到着候時、三斎公は御薙髪遊ばされ候てより三年目
を蒙りしは言うも更なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助下され
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院殿は甲冑刀剣弓鎗の類を陳ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上
との事なり、さて約束せられし当日に相成り、蒲生殿参られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓鎗の類を陳ねて
相違は某若輩ながら心得居る、泰勝院殿の御代に、蒲生殿申され候は、細川家には結構なる御道具あまた有之由なれば
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の時は、御当代の御使として田中左兵衛殿品川まで見送られ候。