伊沢蘭軒 / 森鴎外

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地名一覧

真性寺 阿弥陀寺 甲斐国 吉野 法隆寺 入谷村 大安寺 伊賀国 横浜 浜松 相模国 房総 御嶽山 川崎 日光山 薩摩 京都町奉行 江戸城 信濃国 島原 石田町 六本松 東北地方 富久町 吉野山 近江国 帝国図書館 園城寺 永代寺 柳川 太宰府天満宮 桑名 備中国 湯島三組町 岡崎城 備後国 因幡国 伊勢 高崎城 日光東照宮 岡崎 天橋立 蝦夷 石見国 味野村 伊豆 中尊寺 浅間山 和田峠 神奈川 根岸 三原城 比叡山 菊川 甲州 九州 墨田 碓氷峠 筑前 相国寺 松前城 大阪 道灌山 摂津 伊勢国 唐津城 豊前国 笠間 丹後 土佐国 本所 鳥居坂 出羽国 草津 摂津国 上野国 白川郡 梅田 箱根 厳島 葛飾郡 淀川 石浜村 駿河台 京極 隅田 対馬 輪王寺 伊勢寺 志摩国 湯島 隅田村 加賀 追分 安那郡 鎌倉 神田淡路町 今川小路 天満宮 難波 亀山 観音寺 本郷 四谷 加古川 紀州藩 氷川神社 丹波 小瀬川 越前国 妙高山 岡崎市 越前 竹生島 斑鳩 三島町 赤城 阿部神社 塩釜 北海道 王子 名古屋 富岡 三沢 尾道 伊賀 越後国 清水寺 嵐山 播磨国 周防国 青山 肥前国 増上寺 須磨 笠置山 豊後国 大江山 石清水八幡宮 奥州 東京府 倉敷 大井川 川越 美濃国 三条 方広寺 ボストン 石亀村 小石川 立山 道頓堀 駿府 大坂城 金刀比羅宮 秩父 霞が関 陸奥国 渋谷村 土佐堀 下野国 埼玉郡 関東 湯島天満宮 関西 伊予国 須磨寺 江戸 武蔵国 富士川 牛込 仁和寺 本庄 下総国 諏訪湖 両国 十条 谷中墓地 上野公園 京都 広島 長崎 福島 山形 金沢 福岡 宇都宮 水戸 福井 仙台 秋田 岡山 松山 佐賀 高松 下谷 奈良 富山 新潟 鳥取 徳島 熊本 大津 那覇 青森 静岡 和歌山 長野 深川 浅草 大久保 越谷 豊洲 日比谷 目黒 小川町 上野 向島 神田 お茶の水 麹町 住吉 国分寺 御茶の水 小諸 巣鴨 品川 東京 日本橋 駒込 池袋 目白 大崎 大塚 鶯谷 大宮 渋谷 銀座 蔵前 浜町 原宿 上野広小路 月島 赤羽 浦賀 永代橋 京橋 両国橋 神田川
真性寺

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北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣の立てられたのは、此より

阿弥陀寺

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眼にありて甚近がごとし。漁家千戸道路狭し。阿弥陀寺に詣る。寺僧先導して観しむ。安徳帝の陵上に廟を造て帝

甲斐国

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の裔で、いさはの名は倭名抄に見えてゐる甲斐国石禾に本づいてゐるらしい。

吉野

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此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身

吉野の遊の成立を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文

わたくしは苗木を吉野より齎し帰つた風流の旧主人の其氏をだに伝へず、又已に長じた

法隆寺

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「(二十八日)発郡山。到法隆寺。宿当麻寺前民家。」

入谷村

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夏に入つて四月十三日の詩会が入谷村旭升亭に催された。宿題は「山中首夏」で、蘭軒は五

蘭軒は此年丙戌の五月十三日に重て入谷村の旭升亭に会した。宿題は「夏菊」で、※斎詩集には

大安寺

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「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に※斎云。

伊賀国

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ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日

横浜

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にて遂に下泉殆当惑罷在候。(中略。)御従弟、横浜住居之おとし殿及旧門下之仁にも(中略)御為知申上候事に

浜松

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農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲

相模国

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武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守忠真であつた。或はおもふに当時の吏は例と

名を「官大夫と改、武家奉公の望有て、相模国何某といふ剣術名誉之人をたより、弟子となつて兵法免許をも受たれ

、三歳の子養真約之の四人を率て相模国に赴いた。

と改称してゐた。又其全家が十二月中相模国「余綾郡山下村百姓仙次郎方」に寓してゐた。是は良子刀自

より母及妹を送り来る。」仙次郎は磐の曾て寓した相模国山下村農家の主人であらう。春、安の二女は塩田の家に著いた

房総

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其後幾ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。

御嶽山

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二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪巓を覆ふ。轎夫いふ。御嶽山上に塩ありと。

。御嶽山近く見ゆ。白雪巓を覆ふ。轎夫いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅

川崎

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待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平

た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の

此旅は頗緩慢なる旅であつた。第一日は川崎泊、第二日は戸塚泊等で、日程六七里を例としたさう

大殿様より一同へ御酒御肴被成下。当所かまや川崎や両所に而開宴。」大殿は四代前の正寧である。

日光山

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事の記すべきものがあつた。其一は榛軒が日光山に遊んだこと、其二は正宗院が八十の賀をしたこと、其

日光山の遊は榛軒詩存に七絶五首が見えてゐる。榛軒は是

事の記すべきものがあつたと云つて、榛軒の日光山の遊、正宗院の八十の賀、梅の誕生を挙げた。梅は榛

薩摩

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真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を

で、此に住んで土地の売買をした。杉田は薩摩の人ださうであつた。其次が今の桑原荘吉さんだと云ふ。

京都町奉行

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」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守忠告が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、世の知る

江戸城

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なり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、

た本白銀町四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に

信濃国

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の頼光より出で、乙葉氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構

島原

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。釧雲泉、名は就、字は仲孚、肥前国島原の人である。竹田が称して吾国の黄大癡だと云つた。

石田町

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候はば御見せ可被下候。見せよと申参候。石田町の内へ移居のよし、隠者もさびしきものと見え候。書状御届奉願上

六本松

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。(宰府辺にいたるまで往々有り。)駅を離れて六本松の捷径を取り小礫川に傍て行く。右の方に巍然たるものは法

東北地方

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、ウルミフオリアで、樺木属の木である。西は九州より東北地方までも広く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれば一種の臭気

富久町

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三十日徳の妻かねが四十一歳にして牛込区富久町の家に歿した。

吉野山

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家に猶一事の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と

初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏

近江国

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、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡

京都では山陽が後妻を娶つた。小石元瑞の養女、近江国仁正寺の人某氏の女里恵である。後藤松陰は脩して梨影と書した

帝国図書館

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の輯録した所の材料には、「右蘭軒略伝一部帝国図書館依嘱に応じ謹写し納む。大正四年四月八日」と云ふ奥書が

園城寺

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推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎

永代寺

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五月十八日に富岡永代寺に詣でた記がある。永代寺には成田山不動尊の開帳があつた。武江年表に拠るに開帳は三月二十

柳川

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多羅嶽、南に温泉嶽(又雲仙と書)東南に柳川の諸山、東に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前

太宰府天満宮

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の像が安置してあつたと云つた。菅公像は太宰府天満宮の飛梅を材として刻したもの、又加藤肥州像は熊本より勧請

桑名

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関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしで

二日到桑名駅。※時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は

佐藤子文と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に於て霞亭と会した。

発し、宮駅に宿し、二十八日に宮駅を発し、桑名に宿したことを知つてゐる。それは柏軒自筆の「神道録」の

備中国

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晨出都邸」の絶句である。十一月五日に備中国の境に入つて、「入境」の作がある。此篇と前後相呼応

関藤藤陰は備中国吉浜の社家関藤左京政信の第四子で、六歳の時医師石川順介直経に養は

湯島三組町

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彰君に有之候。松田君は令息道一君と共に湯島三組町の家に住し居られ候。道一君は久しく外務書記官にして、政務

岡崎城

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貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成を申し受け、さて毫釐も徴求せずに

備後国

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来り住した地である。素正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡三原の西なる頼兼村から隣

は朽木三助と云ふ人の書牘を得た。朽木氏は備後国深安郡加茂村粟根の人で、書は今年丁巳一月十三日の裁する

因幡国

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て牧に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平縫殿頭定常で、実は池田筑前守政重

軒の嗣となるべき棠軒淳良が、四月十四日に因幡国鳥取の城主松平因幡守斉訓の医官田中淳昌の子として生れた

伊勢

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、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せ

に更めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂「驥※日記」を著した人である。

茶山は秋に※つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた

「伊勢之川崎良佐、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやく

は山口覚大夫、号凹巷で、著者校者並に伊勢の人である。

霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥

霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢

てゐて、それが春游であつた。遊び畢つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなく

此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬

閏二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君

往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来た

霞亭は梅陽軒にある間、伊勢の友三人に訪はれた。宇清蔚、冢不騫、尾間生で

夕至。」凹巷は佐藤子文と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に

月七日に吉野の遊より帰つて六田に至り、伊勢の諸友と袂を分かつた。

三月に榛軒が古文孝経を伊勢の宮崎文庫に納めた。徳さんは其領券を蔵してゐる。「謹領

高崎城

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一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊甚平坦にして、野川清浅

日光東照宮

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記事がある。「此年(嘉永二年)九月、日光東照宮其他の修繕工事総奉行を命ぜらる。翌年(三年)三月、勝手

岡崎

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を申し受け、さて毫釐も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済

陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄

ある。和多田の名は門人録に見えて、下に「岡崎」と註してある。

次にわたくしは二十七日に柏軒が岡崎を発し、宮駅に宿し、二十八日に宮駅を発し、桑名に宿した

あるからである。「二月廿七日。大樹公発岡崎。随行宿于宮駅。詣熱田大神宮八剣宮。廿八日。発宮駅

天橋立

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四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中河良佐と池希白とは、途上角鹿津に

蝦夷

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て、又これを復したことを謂ふ。幕府が章広に蝦夷の地を還付したのは前年辛巳の十二月七日であつた。

石見国

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である。棠軒は阿部正方の軍にあつて、進んで石見国邑智郡粕淵に至つた。時に六月十三日であつた。正方は此より

味野村

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車に而布袋村迄、夫より歩行、午後一時頃味野村へ著。」

伊豆

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答へた。去害は市河三陽さんの考証に拠るに、伊豆の三島の人山本井蛙の子である。井蛙、名は義質、字

は惟恭、字は仲礼、小字は浪江、長じて伊豆と称した。巌山、千別舎の号がある。讚岐国那珂郡櫛

中尊寺

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更登高館墟。長吁歎文治。(中略。)唯余中尊寺。遺構纔未※。北対琵琶城。衣川長渺瀰。吹雪一関風。

、文治の故蹟を高館に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川を隔てて琵琶の柵の址を尋ね、一の関に

浅間山

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不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※。」

和田峠

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月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬(あぢさゐ)蘭草花

神奈川

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へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空く※橋を

根岸

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の母は蘭学者前野良沢憙の女である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は

三原城

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あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州

。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里

比叡山

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「八日。比叡山へ登る。良三を伴うて宅を出。(中略。)亥時頃旅宿へ

菊川

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三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文

甲州

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「同二年江戸に帰り、同八月甲州に入、弟子三十六人従ふ。」瑞英の声望は破竹の勢を以て

。十月二日舅死するに依て、同八日甲州に至る。十月廿九日帰于江戸。」三男桓三郎の生れたのは、参

九州

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春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能

年豊太閣島津義久を討伐せしときしたがひて九州に下りし紀行なり。其文中に宰府は天神の住給ひし所と聞及し

此日暑不甚。行程六里半許。」わたくしは九州に居ること三年、又其前後に北支那に従征して、高麗烏の

。一里日見峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩

である。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも

で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。

には及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。

学名ベツラ、ウルミフオリアで、樺木属の木である。西は九州より東北地方までも広く散布せる深山の落葉木で、皮を傷くれば

墨田

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今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何と問ぬ。二人そもよかるべしと、三人して

碓氷峠

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「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻屈曲して山腹岩角を行く

、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里許。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子

。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽

筑前

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の方に巍然たるものは法満山なり。古歌に詠ずる所筑前第一の高山なり。古名竈山といふ。寺院廿五房ありともいへり。

に久留米の山、西南間川上山、北に阿弥嶽、筑前の千振山等四面に崔嵬繚繞して雲間に秀突せり。二里牛津駅。

、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都

御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは

。」第三の藝頼は安藝の頼春水、筑亀は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその

た。竹田器甫は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。

。遙雷はなりたれども老聾きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり

別故郷人」と云つて送つた。冢尾の二人は筑前の亀井南溟の塾に往く途次におとづれた。「声名他日当如此

相国寺

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京都の相国寺に維明といふ僧がゐて、墨梅を画くことを善くした。名

松前城

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戸の記にかう云つてある。「官軍海陸より並び進んで松前城に迫る。榎本子の兵退き、折戸に拠る。官軍の別隊山道より折戸

大阪

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九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝せり。余は寺町

第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪

慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼

道灌山

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或日榛軒は混外を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛

摂津

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讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、

伊勢国

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番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでし

即ち蘭軒の外舅である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国薦野の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒

中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上に住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対し

、名は履信である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、

むがために、奥州に赴いた。偶韓凹巷が伊勢国から来て此行を偕にした。山陽は「学成、一藩侯欲

矣」と云つてある。涌蓮、名は達空、伊勢国一身田の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集

唐津城

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云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、※騎隊裏の「虎頭」となつて、筆を載せて

豊前国

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となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守治之の夫人に仕へてゐた幾勢に推薦せられ

笠間

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蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁※は父祖以来医を以て水戸

丹後

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巷並に田伯養、孫孟綽の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰えて帰つた。竹里に還つたのは

土佐国

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雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為つてゐる。其文はかう

本所

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て置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉夕陽村舎の主人

像には皆来歴がある。関帝の原像は本所五百羅漢寺の門にあつた。榛軒は彫工運長と云ふものに命じ

の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた

三人中の一人であつたと云ふ。他の二人は本所三目の上屋敷にゐた井上栄三の母と穉子とであつた。栄三の

はこれを勿堂に聴いた。当時道夫は父と共に本所三目の松平家中屋敷に住み、勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたの

勿堂は鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、

に往つた。又東京を発する前不争斎正寧が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月

狩谷氏移居の事を附記したい。一説に狩谷矩之が本所横川の津軽邸より上野広小路に移つたのは、明治五六年であつたと云ふ

鳥居坂

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」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥して言つたのであらう。令兄は信美であらう。蘭軒

二大区十五小区麻布南日窪町医師伊沢信崇方」即所謂鳥居坂の宗家である。当時信崇は年三十四であつた。

十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵つた。

出羽国

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の妻は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋

祖父は小林玄端、父は玄瑞であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田秀三の家を継ぎ、楊庵と

草津

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翌年、天明三年に妻を娶つた。近江国栗太郡草津の人宇野杢右衛門の姉秀と云ふものであつた。婚姻をしたのは

摂津国

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中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれ

祖先は源の頼光より出で、乙葉氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に

上野国

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交を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王の座所とへ

柳井柳仙、久留米の平川良衛、棚倉の石川良宅、上野国高林の松本文粋、新発田の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其他猶

白川郡

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たが、偶寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵であることを知つた。一安は榛軒の

榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵の家来である。此人は榛門の最古参

梅田

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。此時安藤が梅田雲浜の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話とし

箱根

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里日見峠なり。険路にして天下の跋渉家九州の箱根と名く。山を下るとき撫院を迎ふるもの満路、余が輩にいたり

。(これは三両余の入用と申すこと。)しかし箱根もすみ、池鯉鮒も翌日発足いたす位になりし由、不幸中之幸なるべし。

誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守

厳島

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詩。「厳島。棹子占風告艤船。張帆数里忽飛然。廻廊曲院蒼波

に」あつた。富田の浦から見える島々の中に、厳島といふ島もあつたと、貞世は記してゐる。

葛飾郡

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ゐる。高敏の妻、※斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。

淀川

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八幡の山平瀉の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅の深き処、浅瀬の船底石に摩る処、深淵の

石浜村

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は蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷※斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府

駿河台

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に伝ふる所を以てすれば、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋の畔に訪うた。これは諸書

有誰聴取濯纓心。」学宮対岸の家は即ち駿河台紅梅坂大田姫稲荷前の家であらう。南畝は小石川小日向金剛寺坂から此に移

来江都也。住市中。後厭其煩囂。卜居駿河台。屋後築小楼。楼下陳酒尊。楼上貯痘疹書。(中略。)

云つてある。恐くは下町であつただらう。次で駿河台に遷つた。即ち年々武鑑に記された住所である。その地面を柳原

、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑に見えてゐる。野間玄琢は「野間安節、寄合

瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞せられた。

閲することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水

駿河台の池田瑞仙の邸を辞し去つた京水瑞英には帰るべき家が無かつ

当時霧渓は養父錦橋の職禄を襲ぎ、駿河台より柳原岩井町の賜邸に遷り、名位を占め、恩栄を荷つ

京極

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余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又

隅田

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に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺、縦に横に歩みぬ

対馬

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南宮大湫に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八

なるものは掛川の宮崎健斎、上田の小島順貞、対馬の塩田良三、弘前の小野道悦、福山の内田養三、斎木文礼、岡西養玄

輪王寺

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ために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭忠道の屋敷の宴席

伊勢寺

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経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其

に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。

志摩国

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の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、

利助さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死

に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭

湯島

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を害して、山陽は聖堂の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の

云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身を※いたこと

※斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三

湯島の狩谷の店には懐之、字は少卿が津軽屋三右衛門の称を襲い

八月は十三日に雨が降つた。蘭軒は友と湯島の酒楼に会し、韻を分つて詩を賦した。「八月十三日雨

が文化十四年に四十三歳で浅草の常関書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之に譲つたことは、上に云つた如くで

が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた※斎の子懐之と同庚であつた。

である。津軽家用達として世に聞えてゐた湯島の店には、当主懐之が三十二歳になつてゐた筈である。

湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即通番頭が

ので、遂に留めて妾としたと言ふ。想ふに湯島の店は※斎の董督に待つあること鮮少でなかつただらう。

喪つた後久しからずして下谷徒町に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主

銀細工人で幕府の用達をしてゐた。家は湯島にあつた。中井は嘗て治を榛軒に請うて其病が※えた

が廃めるから一しよに廃めるが好い」と云つて、先づ自ら湯島の天満宮に祈誓して酒を断つた。貞白は大いに慙ぢてこれに

俊は「童一人」を率て轎に乗り、湯島の狩谷懐之方へ避難したさうである。按ずるに柏軒と妾春と

氏俊が、安政乙卯の地震の時、中橋の家より湯島なる兄懐之の家へ避難した記を抄し、因に俊が遺文

てゐたのに、従之は昔望之の住んだ湯島を距ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐた

隅田村

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余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ

加賀

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詩と三月の詩との間に「送金子正蔵帰省加賀」の七律がある。加賀の金子正蔵の事は他に所見が無い。

間に「送金子正蔵帰省加賀」の七律がある。加賀の金子正蔵の事は他に所見が無い。「征馬驕春立柳辺。暫時此

「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」

追分

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禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋。夜いまだあけざる故尋不得。)

大野邑に進む。榎本の軍夜七重浜を襲ふ。官軍追分に退く。」(節録。)

安那郡

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卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那郡に属す。(古昔穴国穴済穴海和武尊悪神を殺戮するの地なり

鎌倉

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「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行

聞え、興定中太医に補せられた。我源平の末、鎌倉の初に当る。其書を儒門事親と名づけたのは、「惟

店に投宿す。終夜濤声。不得眠。」一行は既に鎌倉に入つたのである。枝柄天神は荏柄天神に作るべきである。前日

で虐遇すること甚しかつた。※は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。

神田淡路町

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渋江氏は此事を語つて、成斎は「今の神田淡路町にあつた阿部侯上屋敷内自宅の二階三室を教場として」ゐた

今川小路

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二十一年磐が下総国佐倉に徙つた。東京今川小路の家より佐倉新町芝本久兵衛方に移つたのである。是は佐倉に

天満宮

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と見える。詩は題して置かなかつたが、亀井戸の天満宮に詣でた。本所の五百羅漢をも訪うたのである。結では黄葉

へり。五里飯塚駅。伊勢屋藤次郎の家に休す。此駅天満宮及納祖八幡の祠あり。此日祇園祭事ありて大幟をたつ。「

から一しよに廃めるが好い」と云つて、先づ自ら湯島の天満宮に祈誓して酒を断つた。貞白は大いに慙ぢてこれに倣つた。

語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟

難波

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平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」

亀山

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。※時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は佐藤子文と二

観音寺

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輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は

尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐる

「十一日。陰。三沢玄閑一周忌に付観音寺仏参。」此玄閑は恐くは順民の父、礼介の祖父であらう。

礼介の祖父であらう。戊辰十二月十一日に歿して、観音寺に葬られたと見える。

十四日。晴。津山忠琢病死之旨為知来。夕観音寺葬送見立行。」棠軒の女長の婿となるべき碧山の生父である

の墓誌に、「年七十七、以疾卒、葬吉津村観音寺、寔明治六年五月十三日」と云つてある。按ずるに歿日は

本郷

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分家伊沢の初世信階は本郷に徙つた後、安永六年十一月十一日に一子辞安を挙げた

墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書して

の尾藤が官舎を走り出て、湯島の通を北へ、本郷の伊沢へ駆け込んだのであらう。山陽が伊沢の門で脱いだのが、

わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の

れた。尋で本氏に復し、黌職を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃

かに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたので

隆升軒信階は此年五月二十八日を以て本郷の家に歿した。其妻に後るゝこと半年であつた。寿を得る

がために参詣を思ひ留まり、夫も昼四時前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だ

は一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。

嗜んだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反

茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証に充つべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期

。父は「岡了節法眼、奥御医師三百五十石、本郷大根畑」、子は「岡了允法眼、父了節」と記してある。

榛軒は書斎と客間とに插花を絶やさなかつた。本郷の花総と云ふものが隔日に截花を持つて来たのである。

四谷

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の誤記であらう。曰多々良敬徳。父を玄達と云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字

加古川

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魚味美なり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡り阿弥陀宿村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て

紀州藩

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なるものは宋板外台秘要に出でてゐる。枳園は紀州藩の医官竹田某の蔵する所の宋板外台中屠蘇の方を載する一頁

年中に樵山は青山に徙つたであらう。万延元年紀州藩に仕へた時は、樵山は四十歳であつた。紀州藩は猶中納言

に仕へた時は、樵山は四十歳であつた。紀州藩は猶中納言茂承の世であつた。元治元年に将軍家茂に謁した時は

氷川神社

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中歿す。)酒半升を買ひ、掛茶屋にて飲む。氷川神社を拝す。信濃蕎麦索麪を先人先兄真迹前に供し、宴を開く。」

丹波

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、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は

小瀬川

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黒河、小瀬川及岩国山の下に貞世の道ゆきぶりが引いてある。岩国山の歌

ばやあらしてふいは国山をけふはこえぬと。」小瀬川一名大竹川の所に所謂国史は続日本紀である。

越前国

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越前国福井の城主松平越前守慶永は匙医半井仲庵をして正弘の病を

「六日。晴。於同所大野侯御人数乗組。」越前国大野郡大野の城主土井利恒の兵が上船したのである。

妙高山

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お三婆殺しと横田川巡礼殺しとを出し、地雷也は妙高山と地獄谷とを出し、それにお軽勘平の道行を出して、此道行に落を

岡崎市

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安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成を申し受け、さて毫釐も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷

越前

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持参。」謐子は糸魚川の松平日向守直春の女、越前の松平越前守慶永の養女で、正桓の夫人寿子は其出である。

竹生島

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雨色を見れども、雨足過行て比良山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢といふべし。湖に

斑鳩

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第二十四日。「十三日早朝発す。斑鳩に到て休。斑鳩寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城

三島町

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元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿して、生徒は皆平洲

赤城

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の蘭軒文集に見えてゐる張秋琴がある。次に程赤城があり、胡兆新があると、歴世略伝に見えてゐる。又わたくしが嘗て

阿部神社

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年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。

塩釜

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「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。

北海道

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箱館表出兵被為蒙仰。」是は榎本武揚等が北海道に向つた故である。武揚は是より先幕府の軍艦奉行であつたの

て品川湾を脱出し、途次館山、寒沢に泊し、北海道を占領せむと欲して先づ室蘭附近に向つたのである。「世上誰

王子

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王子の金輪寺を敲けば、寺僧混外は出でて未だ還らなかつた。「

近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を買つて帰り、又帰途に白山の砂場で蕎麦を喫するを例

名古屋

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延享中に淡淵は年四十に垂として芋生から名古屋に遷つた。此時又一人の壮者が来て従学した。これは

明倫堂の釈奠である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた

が疔を生じて重態に陥つた時、松田氏は名古屋の裁判所長になつてゐたが、書を寄せて治を洋方医に

青森迄出張。」一戸の記に拠れば、是日名古屋、津軽、松前の諸藩兵が土方歳三、古屋作左衛門等の兵と戦つた。

富岡

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して筆を閣いたものである。次年丙辰に富岡に遊んだ記も亦さうである。これに反して小説二篇は完璧で

三沢

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「五日。(十月。)晴。三沢へ行。お長縁談の返事。」「廿一日。晴。吉辰に付

へ縁談之願戸長へ差出す。」「十八日。晴。三沢へ行。」「二十日。時晴時雨。長女鉄漿染。三沢老母賓たり。

尾道

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菅茶山は嘗て蘭軒の姉幾勢に尾道の女画史豊が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべし

」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が

日市へ迎へ、神辺に伴ひ帰つて饗応し、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じ

使番格、周迪は奥医師であつた。書中に又「尾道に順迪の墓を※す」と云ふことがある。順迪とは誰

伊賀

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ば姑く置く。文台、名は元、字は子長、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷の文とが

霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日を経

霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨

北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二

越後国

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ことになつた。夫人名は亀子、後幸子と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女で、当時二十一歳であつた。治之は

から、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田鵬斎である。文河

幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女、黒田筑前守治之の室である。治之

と云つた。所謂木芙蓉の子である。仲彜は越後国茨曾根の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷

清水寺

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。烟影紛※せり。嫗堂経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿

嵐山

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客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある

播磨国

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唯助、一号は木王園である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井雅楽頭忠知の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の

※りた事を言つた。翌四年には瑞仙が播磨国に遊歴した。留守は十八歳の長女千代と六歳の祐二とであつ

周防国

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を渡る。周防の国界なり。国史に大竹川を分て周防国とすとあるは此川をいふ歟。川を渡るところ木柱一株をたつ。

て公認せられた痘科の医である。本生田氏、周防国玖珂郡通津浦の人である。明の遺民戴笠、字は曼公が国を去つ

」と云ふ文である。是に由つて観れば、周防国から出た池田氏兄弟は、兄は大坂にあつて技術を以てし、

青山

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られ、わたくしの移住は沙汰止になつた。当時わたくしは青山の水野邸にゐたが、後土地家屋を買つて遷つた。それ

ゐたのである。さて弘化四年中に樵山は青山に徙つたであらう。万延元年紀州藩に仕へた時は、樵山は四十

肥前国

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あつた。釧雲泉、名は就、字は仲孚、肥前国島原の人である。竹田が称して吾国の黄大癡だと云つた

日に五十五歳を以て終つた。当時雲潭を肥前国に召致してゐたのは大村上総介純昌である。

、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原主殿頭長昌に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川

増上寺

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て意楽院貞芳と云ふ。江戸で将軍家茂の遺骸を増上寺に葬つた月である。次で十二月五日に慶喜が将軍を拝した

須磨

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此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今

陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は

帝御旅館某が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩

笠置山

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「廿七日登笠置山。下木津川。宿于郡山。」

豊後国

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である。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵信方がゐた。休庵は信

休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貴の侍医であつた。平生歌道を好んで、

大江山

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綽の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただら

石清水八幡宮

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発駕も御延に相成候御容子、来る十一日石清水八幡宮に行幸有之、公方様御供奉被遊候。右相済候はゞ中旬頃

中三日を隔てて十一日には、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸せさせ給ひ、将軍家茂は供奉しまゐらする筈であつた。わたくしの

奥州

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した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶韓凹巷が伊勢国から来て此行を偕にし

我」に連ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨

、八島の戦が敗れた時、宗盛の子を抱いて奥州に逃れたと伝へられてゐる。其裔自敬が始て三春に於て医

東京府

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呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之であるが、其

倉敷

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が、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と名けたが、堂と云はずして館と云つた

大井川

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三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「

ば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな

だ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花

。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流芹川が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷を望み見る。「櫟谷寒

である。「今廿三日藤枝宿立、巳時頃大井川無滞一統相済候。目出度存候。斎主、立賢、敬順、安策

川越

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女梅を生んだ。既にして婢の父は武蔵国川越の人中村太十の次男某を養つて子とし、梅の母を以

ゐは浅草永住町蓮光寺の住職に嫁し、松は川越在今市の中村某に養はれた。

此家は今川越にある安部大蔵さんが目撃して記憶してゐる。安部氏の園田宗義さん

美濃国

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。然るに未だ幾ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂蕉

三条

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断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線と蝙蝠の形とが明に認められたからである。

方広寺

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掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経

ボストン

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ある。時に磐四十二、矩之四十八、国四十七。信平はボストンに遊学してゐた。年三十。

石亀村

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「廿五日。風雪。石亀村に於て大操練御覧有之。」

小石川

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木村文河と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の如きどぶでは無かつただらう

日觴」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内杏所甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつ

「かくてある程に、小石川の火燃えひろごりぬれば、こゝまで焼て来もやせむとて、人々立ちさわぎ

の養子矩之、矩之の子三市で、三市さんは現に小石川区宮下町に住んでゐる。然るに安政中より維新に至るまでの間に

立山

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賜はり、延宝元年に新庁が造られた。これより立山を東役所、森崎を西役所と云ふ。曲淵は此立山庁邸に入つた

の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられて

に還り、陸※軒南部草寿の後を襲いで、立山の学職に補せられた。元成より兼命元欽を経て兼般元仲

頼春風は蘭軒を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、

道頓堀

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。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」

駿府

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日を隔てて、未だ喪を発せられざるに、棠軒が駿府に赴く命を拝した。正弘の喪は二十七日に至つて始めて発せられた

略にかう云つてある。「丁巳六月十九日隼人様駿府御加番御供在番被仰付。」隼人とは誰か。わたくしは浜野氏に

蘭軒歿後第二十九年である。棠軒が九月二十四日に駿府より江戸に帰著した。事は棠軒公私略に見えてゐる。

大坂城

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見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町の河岸に著く。撫院は為川辰吉の

。是より先将軍家茂は六月に上京し、次で大坂城に入つたのである。以上は公私略の記する所に拠る。今煩を

旋し、七月二十三日に福山に還つた。将軍家茂の大坂城に薨じた後三日である。棠軒公私略にかう云つてある。「六

金刀比羅宮

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晴。昼九つ時頃讚州多度津湊へ著船。金刀比羅宮参拝。夜五つ時頃人車に而帰船。」

秩父

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がある。是が昔弓を作つた材で、今も秩父ではあづさと称してゐる。漢名は無い。」

霞が関

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浅野家の屋敷は当時霞が関を上邸、永田馬場を中邸、赤阪青山及築地を下邸としてゐ

山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎を下つて霞が関へ往つた。山陽は空轎に附いて永田馬場へ往つた。次で杏

陸奥国

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塢の時代であつた。菊塢は北平と呼ばれて陸奥国の産であつた。人に道号を求めて帰空と命ぜられ、其文字

は、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守章広が陸奥国伊達郡梁川の城主になつてゐて、波響は章広に従つて梁川に往

なかつたが、偶寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵であることを知つた。一安は榛

石川は榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守康爵の家来である。此人は榛門の

渋谷村

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渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上に榛軒が此人を

土佐堀

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は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す

下野国

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年閏八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦が下野国宇都宮より徙されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩

夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣

信治の叔母安が六十五歳にして歿した。安は下野国の茶商須藤辨吉の妻であつた。

埼玉郡

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後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡を四時軒自性如春居士

関東

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襲いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に

慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永

。蓮藕を食せしむ。味尤妙なり。しかれども関東の柔滑と自異なり。神功皇后廟あり。頗荘麗なり。左に武内宿禰

湯島天満宮

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楼題長谷川雪旦画松魚。」松琴楼は料理店松金で、湯島天満宮境内、今の岩崎氏控邸の辺にあつた。此楼に上つて

関西

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村井氏があつて、見朴琴山の橋梓相承けて関西に鳴つたが、多紀氏の該博に視れば、尚一籌を輸してゐた

伊予国

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の大木の考証がある。樟の木の最大なるものは伊予国越智郡大三島にあると云ふのである。「樟の大樹いよの大三島にあるもの

へて、医師谷村玄※の治療を受けた。谷村は伊予国大洲の城主加藤遠江守泰済の家来であつた。或はおもふに谷村は蘭軒が

須磨寺

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たりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。上野山福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨

江戸

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に解した。「其の言ふ所は、此たび杏坪が江戸に上れる次、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて

の言によりて推量するに、蓋備後辺の人の江戸に住みて、藝藩邸には至密の関係ありし者なるべし」と云つ

をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水の匱しきを憂へ、忠行に諮つた。忠行乃ち仁治中

名は長達、字は伯盈である。其家世江戸に住した。先手与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。

寛延三年に淡淵が四十二歳を以て先づ江戸に入つた。その芝三島町に起した家塾が則ち叢桂社である。翌年

ある。翌年は宝暦元年で、平洲が二十四歳を以て江戸に入り、同じく三島町に寓した。二年に淡淵が四十四歳で歿し

帰した。明和四年に大湫が四十歳を以て江戸に入り、榑正町に寓した。大湫は未だ居を卜せざる時、平洲

貞皎、号を知らない。士明は字である。江戸の人で、蘭軒と親しかつた。

伝ふる所を以てすれば、山陽が修行のために江戸に往くことを、浅野家に許されたのは、正月二十一日であつた

山陽が江戸に着いたのは四月十一日である。山陽の曾孫古梅さんが枕屏風の

を見出したと云ふ日記に、「十一日、自川崎入江戸、息大木戸、(中略)大人則至本邸、(中略)使襄随空轎而入

山陽が江戸に著いた時、杏坪は轎を下つて霞が関へ往つた。山陽は空

は翌年寛政十年四月中に、杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に

つたと云ふ。世の伝ふる所を以てすれば、江戸に於ける山陽の動静は此の如きに過ぎない。

の口碑には一の異聞が伝へられてゐる。山陽は江戸にある間に伊沢氏に寓し、又狩谷※斎の家にも寓したと

ので、其交が殊に深かつた。それゆゑ山陽は江戸に来たとき、本郷真砂町の伊沢の家で草鞋を脱いだ。其頃伊沢

は、六年前に幕府に召し出されて、伏見両替町から江戸へ引き越し、「以其足不良、特給官舎於昌平黌内」と云ふこと

寛政九年の四月より十年の四月に至るまで江戸にゐて、それから杏坪等と共に、木曾路を南へ帰つた

である。又お曾能さんの父榛軒も山陽が江戸を去つてから六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸に

から六年の後、文化元年に生れた。しかし山陽が江戸にゐた時二十七八歳であつた蘭軒の姉幾勢は、お曾能

山陽が江戸にあつての生活は、恐くは世の伝ふる所の如く平穏ではなかつ

神辺の茶山が塾にあつて風波を起した山陽は、江戸の二洲が塾にあつても亦風波を起したものと見える。風波を起し

早く挙げてゐる。唯思軒は山陽の奔つたのを、江戸を奔つたことゝ解してゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので

てゐる。しかしこれは尾藤の家を去つたので、江戸を去つたのでは無かつたであらう。

伝ふる所の寛政十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙

寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽の江戸に於ける後半期の居所を以て、尾藤塾にあらずとする証拠になりは

定斎である。定斎は寛政十年三月廿二日に江戸に入る筈で、山陽は其前夜に此書を裁した。十日程

た。十日程もこれあるべしとは、山陽が猶江戸に淹留すべき期日であらう。寛政十年の三月は陰暦の大であつ

の大であつたから、山陽は四月三日頃に江戸を立つべき予定をしてゐたのである。山陽の発程は此予定

予定より早くなつたか遅くなつたかわからない。山陽の江戸を発した日は記載せられてをらぬからである。

姑く前人の断定した如くに、山陽は江戸にある間、始終聖堂の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家

独りわたくしの思索は敢て別路を行く。山陽が江戸にあつた時、初め二洲の家にゐたことは世の云ふ所の如く

すねて往かずにゐたのではなからうか。そして「江戸を立つまでには暇がありさうだから、例の昌平辺の先生の所

寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを

正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書し

に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶

犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋で本氏に復し、

茶山は其後九月中江戸にゐて、十月十三日に帰途に上つた。帰るに先つて諸家

つて、精里は其楼を復原と名づけた。茶山は江戸にゐた間、梅雨を中に挾んで、曇勝な日にのみ逢つて

十月十三日に茶山は阿部正精に扈随して江戸を発した。「朝従熊軾発城東。海旭添輝儀仗雄。十月

無惜。幸織満村黄葉来。」蘭軒は前年茶山の江戸にゐた間、始終附いて歩いて少酌の相手をしたと見える。

上様、おさよどのへ宜奉願上候、(中略)江戸は今年気候不順に御坐候よし、御病気いかゞ御案じ申候。」

蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。

方ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店の老婦語れり

柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝せり。余は

茶山が当時の身分は、前に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に

の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍に

。是より先春水は浅野家の世子侍読として屡江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て

往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守斉賢である。備後守重晟

嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年

と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を

、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始

、春水春風杏坪の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の

。(余童子のとき匠人金次といふもの長府侯江戸の邸第補修のとき長府二の宮舞台のはふのごとくなれと好の

。九州地方大樟尤多しといへども此ごときは未見。江戸を発して已来道中第一の大木なり。三里薗木駅(一に彼杵と

は世胤、字は君冑である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に五十五歳を以て

十七日には月前に詩を賦して江戸の友人に寄せた。「八月十七夜、対月寄懐木駿卿柴担

十一月二十二日に江戸で蘭軒の母が歿した。隆升軒信階の妻伊沢氏曾能で

星池である。医にして書を善くした。江戸の人秦星池は胡の書法を伝へて名を成したのだと云ふ

仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔を江戸に見たのである。

を知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である。しかしわたくしは此年八月

ある。しかしわたくしは此年八月十九日に蘭軒がまだ江戸にゐなかつたことを知つてゐる。それは後に云ふ所の留守

当日は「至つて快晴」と明和誌に云つてある。江戸の住民はいふもさらなり、近在の人も競つて祭の練物を看に

士明は植村氏、名は貞皎、通称は彦一、江戸の人である。駿卿は木村定良、子善は頼遷で、並に

が記してない。蘭軒は文化三年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたの

を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後であつたらしい。さうして

であつたらしい。さうして見れば蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が

に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だ

山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其

庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人

の一首の詩を見て、堀江允と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞

は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。

当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つ

あつた。然るに此年文化十年七月下旬に偶江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた

ひ閙敷とも、折節寸札御返事は奉希候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎

立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼る外に途が無かつたのである

茶山は頼杏坪が江戸に往来しなくなつたり、倉成竜渚が死んだり、尾藤二洲が引退したり

死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと

を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさ

杏坪が江戸に往反しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行にせられたの

入つて古義堂を敲き、後世子昌暢の侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。寛政八年藩校進脩館の興る

次に「茶山菅先生之在江戸、一日犬冢印南、今川槐庵、及恬、同陪先生、為墨水

と錯り認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日

茶山が江戸に抵る比には、蘭軒の疝積も稍おこたつてゐた。「扶病歩

次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢

にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずし

此冬山本去害と云ふものが江戸を立つて小田原に往つた。蘭軒のこれを送つた五律がある。尋

文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作

に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。

花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「

云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない

茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に

、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚

の中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あら

菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中

大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵るまでの旅況が細叙してあつた筈である。

帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりになればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと

茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺の留守居に置いたことは、黄葉

、茶山は謝辞を反復して悃※を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。

。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽

に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中

小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたり

於ける諸友聚談の状をおもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月

「伊勢之川崎良佐、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ

茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸

。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ

よい」と云つた江戸である。茶山は端なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐と、猶江戸を畏れつゝ往反

に馴れて移住してもよいと云ふ河崎良佐と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱む老を歎く自己とを比較して見た。そして

を読んで、わたくしは頼竹里が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、※居して徒に授けたことを知る。頃日わたくしに

如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺にある今年とを較べたの

もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。

上り、八年に徳川家斉の聘を受け、九年に江戸に入つた。

牴牾は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎に其齢に一歳を加へて人に告げた

曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。

にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣は両地

茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当

江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五

京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは

は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十

無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。

梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の

のは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年で

詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼の祖筵は

に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼の祖筵は其月日を載せぬが、「水

神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に

に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。

とすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑

しなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て

は梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。

わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又略その江戸に来去した月日を推度した。わたくしは猶此に梅泉の画を

時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。

だらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷※斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田より至るを

後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数己を訪ふことを報じた。敬助は

雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。

年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此

文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺に

九日は江戸の気候が稍暖であつたものか。蘭軒の「草堂小集」には

年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。

文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつ

圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、

此年文政三年の夏、鈴木宜山に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも

なつた。按ずるに成美は出仕を命ぜられた後に、江戸へ修業に来て文政三年の夏福山に還り、四年に表医師を

の旅を記さうとおもふ。※斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日で

日数を同じ道中に費したものとすると、※斎の江戸を発した日も、略推知することが出来る。暦を閲するに文政四年

二十二日を得る。※斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。

※斎の江戸より京都に至る間、月日の詳にすべきものが只二つある。其

。籬頭猶※琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花

十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。

を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。

。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれ

。文政四年四十二歳で福山に仕へ、直ちに召されて江戸に至つた。此年辛巳の春杪夏初には、狩谷※斎が子を

の春杪夏初には、狩谷※斎が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥を将て江戸に入つたのである。

が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥を将て江戸に入つたのである。

北条霞亭は此年文政四年に家を挙げて江戸に徙つた。わたくしの推測する所に従へば、春杪夏初の頃で

掃除をしたに過ぎぬとも云はれよう。しかし霞亭が江戸に来たのは、夏の初より後れなかつたものとすると、その家

多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二

与へた書であつたがために、霞亭が※斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。

、霞亭が※斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。

つづき出来候覧」と半信半疑の語をなしてゐる。江戸にある知人で覚束ない生活をしてゐたものと察せられる。第四の銅脈

留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※斎

作の前にある。八月十二日に※斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前

文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕に至つて霽れた。蘭軒は例に依つて詩

わたくしはこれを符合と看るのである。想ふに磐谷は江戸にある間、五山と交つた如くに、又蘭軒とも交つたのであらう

甲子の歳に茶山は江戸に来て、柴野栗山の家で波響と再会した。それは雷雨の

詩の云ふ所はかうである。茶山は甲子の歳に江戸に来て、波響と一たび柴野栗山の家に会し、再び犬冢印南

甲戌の歳に茶山が再び江戸に来た時には、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守章広が

下候賜もあり。宜奉願上候。下地といへば江戸にては蕎麦の汁などを申候。備後にては由来をいふ。笑申候

謙甫と同人なることは明である。茶山が甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。

名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を

、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつ

敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山

の語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬

北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒

で敬は神辺の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、

敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた

駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候は

江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶亡霞亭のために処理すべき事

霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、

年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と

及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷も

霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。

霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、

春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国に入り、路を転じて東に向つたとき、十月

江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩

北条霞亭は北遊より江戸に還つて、韓凹巷の西帰を品川に送つたが、其後幾

西帰を品川に送つたが、其後幾ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つ

。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。浪迹又何之。(中略)房山与相海。孤往愁可知。(中略

名は達空、伊勢国一身田の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集を遺して終つた。

牧は当時江戸にゐた。松平冠山が何事をか茶山に託したので、茶山はこれ

」売冰は何の国の風俗であらうか。当時の江戸に冰を売るものがあつたか、どうかは不詳である。明治年間幾多

詩一首とである。後詩の引を見るに、江戸の中秋は無月であつた。菅茶山の集を閲すれば、先づ十三夜に

年の秋に至り、八月十五日の夜、蘭軒が江戸に於て無月に遭ひ、菅茶山が神辺に於て良夜に会したこと

十七日は北条霞亭の一週年忌である。江戸では蘭軒が柴山某等と共に墓に詣でた。事はわたくしの将

旅であつたこととなる。又蘭軒は前年見送つて江戸を立たせた孤に物を贈つたこととなる。

第六は侯の儒臣鈴木宜山である。蘭軒は江戸に於て妙妙奇談の発刊せらるるに会ひ、一部を茶山に送致し

十二月」の北条霞亭の序がある。辛巳は霞亭の江戸に入つた年である。わたくしは前に辛巳五月二十六日に茶山が霞亭

に此年の北条霞亭一週忌の事を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺

墓畔の宿草に馳せた。わたくしは既に甲戌に茶山の江戸に入つたことを言つて、其留守居の霞亭なりしことに及んだ。

霞亭を説くこと一たびである。次に辛巳に霞亭の江戸に入つたことを言つた。霞亭を説くこと二たびである。次に癸未

柬に本づいて、霞亭が此年の春杪夏初に江戸に入つたものとした。

は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越

所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、

今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎祖筵の五日は辛巳七月

矛盾を免れる。そして八月九日は必ずしも霞亭一家の江戸に著いた日とはせられない。木犀舎祖筵の月は猶疑を

の字であらう。門人録に「多多良敬徳、後文達、江戸」と記してある。

乙酉中秋。霖後月殊佳。数日前湯正平至自江戸。説蠣崎公子在病蓐。因賦寄問。且告近況。兼呈花亭月堂

知らぬが、新に神辺に来て、蠣崎波響の江戸に病んでゐることを告げた。波響五十五歳の時である。茶山は

茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状を思ひ遣つた。「不知東関外。得

小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。

姪女敬の病であつた。敬は二年前に江戸に於て夫北条霞亭を喪ひ、幼女とらを率て神辺に帰り、前年

さんを煩はして、後に補入しようとおもふ。当時江戸にめされてゐた訳司中の学者はその何人なるを知らない。「

文政九年の元日は江戸が雪の日であつた。蘭軒の詩に「丙戌元日作、此日雪

云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字を辨夫と云つたのが此人であらう。

蕭然。春風先自融人意。方道今朝草樹妍。」江戸は冬以来暖であつたと見える。菅茶山は備後にあつて、此歳

一、牧黙庵の「直卿」である。黙庵は当時江戸にゐた。そして書を茶山に寄せて丙戌以後蘭軒が頻に詩会

と云つてある。此語は先断片の三月二十二日江戸発の書に答へたものなることを承認した上で、其前に伊沢

の病の※ゆべきを説いてこれを慰め、その再び江戸に来て業を畢へむことを勧めてゐる。「椿堂元健強。

、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じたものである。わたくしは前に蘭軒の長崎

に長崎に往く途次、神辺を過つた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父信階に報じた書は即是である。書を裁

を知るに苦んだ頼竹里である。竹里は蘭軒の江戸を発するとき、遠くこれを板橋に送つた。わたくしは富士川游さんの言を

楊庵は十七歳の時江戸に来て、此寺に寄宿し、名医を尋ねて師事しようとして、

に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田朴斎は「白蛇峰歌」を作

福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて

榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩、津山宗伯であつた。留守

屋吉蔵の家に投じた夜に作つたものである。江戸より伴ひ来つた僕弥助に暇を遣つて帰省せしめたことが書いて

妹長と云ひ、狩谷※斎と云ひ、皆榛軒が江戸を発する前に病んでゐたのであらう。

立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからである。しかし劇の沿革も亦わたくしの詳にせ

十九日には江戸で柏軒が劇を看て、これを兄に報じた。「木挽町の芝居見物

七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵は江戸と、三人「三処」に分れてゐたのである。門田朴斎

かと推する。榛軒は前年二月の末に福山より江戸に帰つた。その福山にあつた時、留守に勇がゐたことは、

後梅は継父、生母、異父妹二人と偕に江戸に来た。想ふに梅の外祖父母たる大坂の商賈夫妻は既に歿してゐ

梅の一家は江戸にあつて生計に窮し、梅は木挽町の藝妓となつた。

往つたのである。宝素は秋九月三日に江戸を発し、十二月十八日に江戸へ還つた。

秋九月三日に江戸を発し、十二月十八日に江戸へ還つた。

主人は蘭軒父子と同嗜なる医家で、壬辰の歳に江戸の城外より市中に移り住んだものと見える。

山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主聿庵元協と、広島にある達堂鉉とに与へた書

里恵は次年癸巳の春聿庵の江戸より来るのを待つてゐる。聿庵は二弟の中一人を安藝へ率て

否。迎歳吾猶在此家。」門田朴斎は江戸にあつて儲君阿部正弘の侍読をしてゐたが、遠く思を水西荘

二年と云ふに契はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は

に拠るに、「寛政八丙辰十二月廿六日」に江戸の召命を受け、翌年入府した。行状には入府の時を「丁巳正月

仮親として嫁したのである。寛政丁巳に錦橋が江戸に入つた時、夫は六十二、妻は三十三であつた。錦橋が文化丙子

」に住んだ。京都では「東洞院」に寓した。江戸の居処は墓誌に杉本仲温が書してゐる。仲温は自己と錦橋と

盈尊。有書插架則足矣。其他無所求。」江戸に来て先づ行李を卸した家は「市中」と云つてある。恐く

錦橋は誰を識り誰に交つたか。その江戸に於る交際は書上と墓誌とに徴して知ることが出来る。書上に拠る

八年は瑞仙が江戸の召命を受けた年である。痘科を以て立たうと志した平生の

に、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高二百俵を受けたのは三

池田瑞仙は自己が寛政九年正月十三日に江戸に著き、妻沢が八月六日に、養子杏春が十一月四日に

せぬが、京水の自記に拠るに、父瑞仙が江戸に於て実子として届け出でた時であつたらしい。即ち入府後であつ

歳若くは十一歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り、沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙六十二

瑞仙が六十二歳を以て江戸に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾

の記にはかう云つてある。「寛政九年善郷江戸に至るの故を以て、帯刀免許の命を蒙り、町年寄を兼ること

猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二

入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月

寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、

「同二年江戸に帰り、同八月甲州に入、弟子三十六人従ふ。」瑞英の声望

「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして

二十六歳にして、妻常と長男雄太郎とを率て江戸に還つた。此文の「再」の字の上には、或は「同

に依て、同八日甲州に至る。十月廿九日帰于江戸。」三男桓三郎の生れたのは、参正池田家譜に拠るに、「

だ。瑞英は八日に石和へ往つて、二十九日に江戸に還つた。妻常は定て同行したことであらう。

失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官

夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女

にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つたのであらう。

、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女の手にわたつたことを言つた。

森氏では枳園が此年禄を失つて江戸を去つた。枳園は祖母、母、妻勝、三歳の子養真約

ある。枳園は相模国に逃れた後、時々微行して江戸に入り、伊沢氏若くは渋江氏に舎つた。祖母の死んだ時は、

舎つた。祖母の死んだ時は、遺骨を奉じて江戸に来り、榛軒を訪うて由を告げた。榛軒は金を貽つて

当時尚相模国に住んでゐた。推するに微行して江戸に入り、榛軒の案内者として此に来てゐるのであらう。「

あつた。浦と安とは二女の名である。初め江戸を発した日に、「日野屋に立寄る」の文があつた。「日野屋両

の文があつた。「日野屋両老人、浦安二女」は江戸の尾張町の日野屋の家族であらう。「主人平治」は松坂屋寿平治である。

紀行は此に終る。わたくしは榛軒と其家族との江戸に還つた日を知らない。

と云ふ。蘭軒門人録に「清川玄道、初安索、江戸」(安は玄、索は策か)とあり、榛軒門人録に「

什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて長崎より江戸に至る舟は覆没した。

時、榛軒が渋江抽斎等と共に助力し、遂に江戸に還ることを得しめたことは上に見えてゐる。

森枳園は毎年友人及弟子を率て江戸の近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を

門田朴斎の江戸より福山に帰つたのも亦此年である。四月に丸山の阿部邸

に落成した学校である。福山にある同名の藩学は江戸に遅るゝこと一年、甲寅の歳に落成した。

である。隠居は出羽守信順である。渡辺は弘前人の江戸にあつて此地震に死した三人中の一人であつたと云ふ。他

母の弟太田兵三郎は小此木伴七、鵜川庄三と共に江戸の阿部邸にあつて勘定奉行を勤めてゐた。

江戸の唖科柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖、名は

九月二十一日に棠軒は阿部正純に扈随して江戸を発した。公私略に「九月廿一日御発駕御供いたし候」

第二十九年である。棠軒が九月二十四日に駿府より江戸に帰著した。事は棠軒公私略に見えてゐる。

前年攘夷を策して幕吏の逮ぶ所となり、此年江戸に斬せられた。「身臨湯※家無信。夢破鯨濤剣有声

して福山に赴くことを命ぜられ、八月五日に江戸を発した。棠軒公私略に「五月九日御帰城御供在番被仰付

、棠軒は其病状を将軍徳川家茂に報ぜむがために江戸に遣さるることとなつた。四月二十一日に命を受け、翌二十二

五月十五日に棠軒は江戸に着いた。尋で二十二日に正教の室溝口氏の命を受け、

柏軒が将軍に随つて江戸を発するに先つて、次に起つた一問題は、門人中誰が柏軒

「平生江戸にあつては、先生には学殖ある友人もあり、声望ある病家もある。縦

柏軒が将軍徳川家茂に扈随して江戸を発し、東海道を西上したのは二月十三日であつた。此旅

を伏見へ遣つて、竹内立賢に会談せしめ、江戸の近況を知つたことは、次に引くべき書牘に見えてゐる。

是は前月二十二日に江戸を発して福山に向ふ棠軒と会見せむがために、六日に伏見に

なつた。当時治療に任じた医家五人が連署して江戸に送つた報告書を此に抄出する。十五日後。「小腹御硬満、

影顕長谷」は柏軒の墓が京都の宗仙寺と江戸の長谷寺とにあるを謂つたものである。

柏軒の墓は京都の宗仙寺に建てられ、後又江戸に建てられた。法語の「形蔵宗仙、影顕長谷」は既に云つた

柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事

柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐

てゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れ

入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六

にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母

東洞派の医学を修め、天保七年二十二歳にして江戸に開業し、文久元年四十七歳にして将軍家茂に謁し、慶応二年五十二

慶応二年五十二歳にして家茂の侍医となつた。江戸にあつては初め本康宗円に識られ、宗円これを多紀※庭、小島宝

尽きない。「癸亥の年に将軍家茂に扈随して江戸を発した医官数人中、行伴の最多かつたのは柏軒先生である

「伊沢氏を去つた後、わたくしは江戸にあつて医を業としてゐた。幾もなく王政維新の時が

端、父は玄瑞であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田秀三の家を継ぎ、楊庵と改称した

佐藤某の子で、郷にあつては自敬に学び、江戸にあつては経を太田錦城に受け、医を初代楊庵に問うた。秀三

二十四日に棠軒は正方に扈随して福山を発し、江戸に向つた。公私略に、「十二月十四日御参府御供在番被仰付

年である。正月二十二日に棠軒は阿部正方に随つて江戸に著いた。二月十八日に棠軒の女乃夫が福山にあつて痘瘡

に生れた。五月十一日に棠軒は正方に随つて江戸を発し、閏五月八日に福山に著いた。六月七日に岡西

早世した。法諡して意楽院貞芳と云ふ。江戸で将軍家茂の遺骸を増上寺に葬つた月である。次で十二月五

、二十三日に棠軒は手島七兵衛と共に福山を発して江戸に急行した。将軍慶喜の政務を朝廷に奉還した翌月である。十二

朔に二人は丸山邸に著いた。次で五日に江戸を発し、二十六日に福山に帰著した。公私略の文はかうである

月廿一日に棠軒の子紋次郎が生れた。父の江戸より帰る途上にある時生れたのである。

ある。蘭軒の詩を贈つた成美伯好の子で、当時江戸にあつたものと推せられる。棠軒は其留守宅を訪うたのである。

氏午後当邸を出立帰藩之事。」枳園が方纔江戸を発したのである。

武蔵国

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称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡を四時軒自性

見えてゐる。高敏の妻、※斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女であつた。これも亦同じ備忘録に見えて

堂、名は惟直、字は正甫、正助と称した。武蔵国児玉郡の人で、父雉岡の後を襲ぎ、田安家に仕へた。当

帰つて女梅を生んだ。既にして婢の父は武蔵国川越の人中村太十の次男某を養つて子とし、梅の母を

富士川

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輩謹守之。文化十五年戊寅人日、伊沢信恬記。」富士川本には此下に、「文政十一年三月念九日鼓常時謹写」と

牛込

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甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。此書を裁する前年壬午「九日独酌」の

八月三十日徳の妻かねが四十一歳にして牛込区富久町の家に歿した。

仁和寺

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然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、

本庄

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当時父伊勢守正倫が詰衆、正精は詰並で、本庄とは同僚であつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄

あつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄の子を治して功があつたので、棕軒も亦其子のために

下総国

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。父養庵は井上筑後守正滝の医官である。井上は下総国高岡の城主である。門人録に純を「順」に作つてあるが

諏訪湖

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。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉※浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接

両国

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き、八年閏二月八日に神辺を去つて、十五日に大坂西区両国町の篠崎小竹方に著き、数日の後小竹の紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃

迹なり。今に土中より麻皺の古瓦いづるといへり。江濃両国境を経一里柏原駅。一里半醒井駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程

年の武鑑には雉子橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田

人々中吉田快庵「法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、両国若松町、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑

特に記すべき事が少い。已むことなくんば夏季榛軒等が両国に遊んだ話がある。是は昔の柏、今の曾能子刀自が三歳の時の事として記憶

院法印、父安長、奥御医師、二百俵高、御役料二百俵、両国元矢の倉」、「多紀安琢、父楽真院、御医師方子息」と記してある。安長は

は十六であつた。それが女芝居の座頭をしてゐた。原来両国に小屋掛の芝居が二つあつて、てりばと称へられてゐた。其一つは女芝居で

云ふ事は大抵此男に頼んで辨ずるのであつた。矢場辰は両国米沢町の鈴木亭と云ふ寄席の主人である。此寄席は昼場に松林伯円の講釈を

十条

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事紛冗。西遷東移。舟車運漕。桜槧多亡失。今所拾摘二十条。僅々存九※之余香爾。明治甲戌第十月。枳園森立之。(印二。曰立之。曰

谷中墓地

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廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真

上野公園

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「二、あかめがしはは普通に梓としてある。上野公園入口の左側土堤の前、人力車の集る処に列植してある。マルロツス

京都

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「手紙は山陽が方に纔に茶山の塾を去りて京都に帷を下せる時書かれたる者」だと云つてあるに過ぎぬから

紹介状を得て大坂を立ち、二十日頃に小石元瑞を京都に訪ひ、元瑞の世話で新町に家塾を開いた。思軒は茶山の

杏坪をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた

上れる次、君側の人に請うて山陽の事を執りなし、京都より帰りて再び之を茶山の塾に托せむと欲する計画ありとか伝聞

が三十二歳、弟子が十三歳であつた。弥六は後京都にあつて南宮氏と称し、名は岳、字は喬卿、号は

山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に

蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある

する所の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本小原氏、京都より長崎に徙つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる

して医を業としてゐたが、万治元年に京都に徙り、伊勢大神宮に詣でて髪を束ねた。霊蘭に五子四女

を須たぬであらう。磨光韻鏡等の著者で、京都の了蓮寺、大坂の伝光寺に住してゐた。字は豁然、蓮

た。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河(岡崎)

たのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定

遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再

に訪うた。次で山陽は帷を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は

小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷を新町に下して、京都に土著し

で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後世子昌暢の侍読となつて江戸に来り

全愈するに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た

。「累霑位禄愧逢衣。霜鬢明朝忽古稀。」京都では山陽が後妻を娶つた。小石元瑞の養女、近江国仁正寺の人

梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。

菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では

は彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井乙男さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏

り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川家斉の聘を受け、九年に江戸に入つ

茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討

江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣は両地

江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「

、その作為する所の一である。儒門事親は京都の伊良子氏が元板を蔵してゐた。経籍訪古志補遺に「太

の奥に入り、前の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都産の女中二人と偕に、常に夫人の詠歌の相手に召された

て暇を乞ふことを欲せなかつた。そこで彼京都産の女中二人と共に剃髪して黒田家に留まり、瑤津院の

此年の夏の初には、狩谷※斎が京都に往つてゐた。これは※斎が初度の西遊では無い。しかし

年、九年、文政二年の三度、※斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である

にも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵を旋したこととなる。己卯には※斎の神辺に往つた

。※斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。

十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつ

※斎の江戸より京都に至る間、月日の詳にすべきものが只二つある。其一

※斎は京都に着いて、福井榕亭を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、

狩谷※斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。

日向暑、倍起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都総而静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨少にて、僅

句に由つて確保せられる。※斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが

四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。

霞亭の東徙の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を

六月七日である。※斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の

京都の相国寺に維明といふ僧がゐて、墨梅を画くことを善く

して三十巻とし、題して元板飜刻と云ひ、京都に於て刊行した。

は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川

霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又長孺、仲彜、

要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟彦が的屋

北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上

霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟彦は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、

霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は

た。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に

林崎院長は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上に引いた詩句を

霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷は「依然旧書院、長謂君在茲、

行、字は潭明、通称は儀平、肥後の人で京都に居つた。樵歌には「祝」が「※」又「※

春初の比、父適斎の命に因つて、京都の市中に移つた。此市中の家が歳寒堂である。

。霞亭が市中生活の末期には、歳寒堂は京都市街の西部にあつた。

歳寒堂は京都の何町にあつたか。わたくしは今これを知らない。しかし浜野氏

、一事の月日を詳にすべきものだに無い。霞亭が京都を去つて備後に赴いたのは、其生涯の大事である。そして此

と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟

叔父春風が歿した。辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪の別であつた。山陽は展墓の

頼山陽は茶山の病革なるを聞いて、京都より馳せ至つた。しかし葬儀にだに会ふことを得なかつた。「

に庚寅の歳には、団十郎は早く大坂を立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからで

あつて将に七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵は江戸と、三人「三処」に分れてゐたので

女を娶つて一女を生ませた。此女が長じて京都の典薬頭某の婢となつた。口碑には「朝廷のお薬あげ

称するは、其外祖母の氏である。其生父は京都の典薬頭某の嫡子であつた筈である。

だ。お前が男子であつたなら、これを持たせて京都のお邸へ還すべきであつた。女子であつたので、お前は

に嫁した後年を経て、夫の友小島春庵が京都へ往つた。春庵は志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。

小島春庵が将に京都に往かむとする時、志保に何物を齎し帰るべきかを問うた。

春庵は重て問うた。「そんなら京都にお出なさつた時、一番お好であつたものは何でした

春庵は年を踰ゆるに及ばずして京都より還つた。そして丸山の伊沢の家を訪うた。背後には大いなる水盤

小島宝素は日光准后宮舜仁法親王に扈随して京都に往つたのである。宝素は秋九月三日に江戸を発し

、其嗣子の子を生んだと云ふことであつた。京都の典薬頭の家は唯一の錦小路家あるのみである。志保の生年を

蘭軒の嫡子榛軒の妻志保の母は、京都の典薬頭の家に仕へてゐて、其嗣子の子を生んだと

山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の

山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復、八歳の醇

」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守忠告が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、

術ある事を聞て請邀る者あり、因て暫く京都に寓」と云つてゐる。辛亥は寛政三年で、元文生とし

錦橋は書上に「寛政二辛亥京都痘瘡大に流行、予家治痘之術ある事を聞て請邀る者

錦橋の京都に入つた年を、寛政辛亥だとすると、当時菱谷沢は二十七歳

に、大坂では「西堀江隆平橋南涯」に住んだ。京都では「東洞院」に寓した。江戸の居処は墓誌に杉本仲温が

に乗り込んで、二十二日巳刻に伏見に著き、それより京都東洞院姉小路に住むこととなつた。

、殊に家学の痘科には精通してゐたので、京都に来てからは本道と産科との師を求めた。本道の師は

同一の家を指すものと見ることが出来よう。玄俊が京都に上つた時、大坂にゐた瑞仙は四十七歳、玄俊は四十五歳

玄俊が京都に上るに先つて、其兄幾之助は大坂に来てゐた。それ

だ。過去帖の「智瑞童女」である。玄俊が京都に上つた時連れてゐたのは後妻で、千代のためには継母

京都の玄俊は独身であつたが、大坂の瑞仙は妻があつて九

玄俊は京都に来た翌年、天明三年に妻を娶つた。近江国栗太郡草津

、兄は大坂にあつて技術を以てし、弟は京都にあつて徳望を以てし、同時に地方の信任する所となつた

家に贈」と云ふ文である。瑞仙善郷は自ら京都に入らむと欲して、先づ養子祐二を弟玄俊信郷の車屋町の家

此より半年を過した後、即ち三年の秋の頃京都油小路の裏店に住むこととなつた。

二年辛亥(中略)請邀る者あり、因て暫く京都に寓」すと云ひ、二世瑞仙晋撰の行状に「後君厭浪華

田玄俊の事蹟を叙して、寛政三年に玄俊が京都車屋町に住んでゐた処へ、兄瑞仙が大坂から徙つて来て、

。書上に拠るに、幕府の命は十二月二十六日に京都所司代に由つて伝へられたのである。初め池田氏の戴氏に

受けたのは三月五日である。此時瑞仙が京都に留めて置いた家族は、独り養子祐二のみではなかつた。瑞仙に

年である。書上に拠るに、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高二

五月廿一日、私儀新規被召出候に付、京都に罷在候家内之者共、此度呼下度候段奉願候処、早速

寿慶が寛政二年に死んだ後、三年に大坂より京都に徙つた時には、京水の記に「女於千代を従え」

に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾もあらぬに死んだ。京水の記にはかう云つ

送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。

所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙

玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの

九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居

は此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春去後

と被申遺」と云つてある。推するに官蔵は京都にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つた

来歴より泝つて水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女の手にわたつ

一日京都より一枚の葉書と一封の書状とが来た。先づ葉書を読めば

事を報じた書であつた。「好天気にて休館(京都図書館の休業)なるを幸十時頃より黄檗なる錦橋の墓を探りに

水盤とに名を列してゐる四人の弟子は、皆京都奈良等の人で、中にも佐井聞庵は恐くは錦橋の三人目の

て聴許せられた日に成立した。しかし京水は京都に於て一たび絶えた文孝堂の後を襲いだものと看做すも亦

歿後第十三年である。此秋小島春庵宝素が京都に往つて、歳の暮に帰つて来た。榛軒の妻志保は

を教へる。それは関五郎が若し藤陰ならば、藤陰は京都を離れた後にも暫く此称を持続してゐたと云ふことで

什具ではなからう。長子刀自の話に、狩谷※斎が京都加茂神社の供物台を得て蘭軒に贈り、伝へて榛軒、柏軒、

あつた。即丁巳よりして五年の後、柏軒の京都に往つた前年である。推するに柏軒は壬戌に至つてお玉が池の家に

宗家では棠辺が和宮の東下を迎へまつらむがために京都に往つた。浅田栗園のこれを送つた詩がある。「家世医

した時、高足弟子の間に誰を師に附けて京都へ遣らうかと云ふ問題が起つた。中にも松田氏は深く慮る

も、救援することが難くはない。これに反して一旦京都に入つては、先生は孤立してしまふ。わたくしはこれを懼れた。」

「先生、此間も一寸申しましたが、志村を京都へお連下さるわけにはまゐりますまいか。」

しかし世事は逆覩すべからざるものである。柏軒先生は京都に客死して、わたくしの薦めた志村は僅に塩田と倶に病牀に

わたくしは京都に在る柏軒の日記を抄して、文久癸亥三月十四日に至つた

此頃京都に於ては、一旦将軍帰東の沙汰があつて、其事が又寝ん

五月十一日に家茂が京都に還り、柏軒は又随ひ帰つた。大坂往復の事は良子刀自所蔵の

七月七日に柏軒は京都の旅宿に病み臥し、自ら起たざることを揣つて身後の事を書き遺した

柏軒は癸亥の歳に将軍家茂に扈随して京都に往き、淹留中病に罹り、七月七日に自ら不起を知つて

」「形蔵宗仙、影顕長谷」は柏軒の墓が京都の宗仙寺と江戸の長谷寺とにあるを謂つたものである。

許を阿部家に請ひ、直に裁可を得た。即京都に於て柏軒の遺骸を宗仙寺に送つた日である。

長谷」は既に云つた如く此事を指すのである。京都の墓には「伊沢磐安法眼源信道之墓」と題してあるさうで

是日荼毘に付せられたことであらう。柏軒の墓は京都の宗仙寺に建てられ、後又江戸に建てられた。法語の「

九月十九日に棠軒は柏軒の後事を営み畢つて京都を発した。

。柏軒は三月四日より七月十九日に至るまで京都に生活してゐた。三月大、四月大、五月小、

の如く語つた。「わたくしは癸亥の歳に柏軒先生の京都にあつて歿したのは、死所を得たものだと云ふことを憚ら

ぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑ある毎に諸神社を歴訪したことは

柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼

あつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。

既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳入洛し、師の

孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田

済庵の子に栗園惟常が生れた。栗園は少時京都に遊び、中西深斎の家に寓して東洞派の医学を修め、天保

ことは上に見えてゐる。文久三年柏軒に随つて京都に赴き、その病を得るに及んで、同行の塩田、踵いで至つた

「途上にある間も、京都に留まつてゐる間も、わたくしは塩田と議して業務を分掌した

文久癸亥に妾春が末子孫祐を生んだ。主人の京都にある間に、お玉が池の家に生れたのであらう。

三十四」と云ふのが此竹塘で、其子琢弥は京都の宗家を継いで歿し、琢弥の兄顧也さんは現に幼姪の後見

半愈に而浴湯。亮碩子来一宿。」車駕の再び京都を発した日である。

広島

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山陽は文化六年十二月二十七日に広島を立つて、二十九日に備後国安那郡神辺の廉塾に著き、八年

より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は、山陽は再び廉塾に託せられるであらう。しかし茶山

をして浅野家の執政に説かしめ、山陽の京都より広島に帰ることを許さしめむとしてゐる。さて広島に帰つた上は

で、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿してゐたが、江戸行の事

賢の侍読となつて入府するので、山陽は附いて広島を立つた。山陽は正月以来広島城内二の屋敷にある学問所に寄宿し

杏坪と共に江戸を立つて、五月十三日に広島御多門にある杏坪の屋敷に著き、それより杉木小路の父の

十年三月廿一日に山陽が江戸で書いて、広島の父春水に寄せた手紙がある。わたくしは此手紙が、或は山陽

の尾藤の家にゐたとする。そして尾藤の家から広島へ立つたとする。さうすると此手紙も尾藤の家にあつて書い

か。これは山陽が二洲の家を去つたことは、広島へも聞えずにゐなかつたものと仮定して言ふのである。

が春水と始て相見たのは、後に蘭軒が広島に往つた時である。又茶山と交通した最も古いダアトは、文化

此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園道英の女淳を子婦に取ることを許された

産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は

山陽が広島杉木小路の家を奔つたのは九月五日である。豊田郡竹原

の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。

古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家に

此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島杉木小路の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此

庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中

鬨烟家みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次る。市に入て猿猴橋京橋を過

第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて

蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。

文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、

※斎詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶が

ことが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見し

奇遇。兄弟三人三処逢。」長春水惟完を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔を江戸

浅野家がこれを許可したのが二十一日、山陽が広島を立つたのが二十七日である。「回頭故国白雲下。寄跡夕陽黄葉

。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。

見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫とも

で、わたくしは頼竹里が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、※居して徒に授けたことを知る。頃日わたくしに無名

二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が

錦橋は宝暦十二年に広島に徙り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に

寒燈応独不成眠」と云つてゐる。梅※は広島にあつて将に七十三の春を迎へんとし、山陽は京都、聿庵

三郎醇が並んで歩いた。次が天野俊平、次が広島頼宗家の継嗣余一元協代末森三輔であつた。光林寺に於け

宮原節庵が江戸にある宗家の当主聿庵元協と、広島にある達堂鉉とに与へた書数通、関五郎が復に代つ

出でたやうに云つてある。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には

氏では此年五月朔に杏坪が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻を攤いて見た。「黄葉

塾を去り帰省、九月江戸昌平黌に遊学する前、広島に赴ける時の事と推定す」と云ふのである。仮に関五郎

到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。

の文はかうである。「同月(三月)十六日広島表御用有之、早々被差立候旨被仰渡。(中略。)翌

三月十七日に棠軒は福山を発して広島に往き、五月二十日に儲君正桓を奉じて還つた。公私略

長崎

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なつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至る

客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚

文化三年は蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば

、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を

蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で

蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行

蘭軒略伝には蘭軒は榊原主計頭に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲するに、「榊原

「文化丙寅五月十九日、長崎撫院和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公

叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方を命ぜられた。曲淵甲斐守景

小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり

を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟

である。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家

蘭軒自ら記せずして、貞世の道ゆきぶりと赤水の長崎紀行とを引いてゐる。道ゆきぶりの文にはあたとと云ふ地名

。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことがある。六月十七日安藝宮島

玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市といふことが

字は子玄、通称は源五兵衛である。著書中に長崎紀行と長崎行役日記とがある。長崎紀行に日本の三大市と

。梅渓、名は世胤、字は君冑である。長崎の人で江戸に居つた。梅渓は享和三年二月四日に

剃らざる風俗の事が追記してある。「二十年前長崎の徳見某の妻京にゆくとて神辺駅に宿す。四十許の婦人眉ある

て迎もの百有余人なり。無縁堂一の瀬八幡をすぎ長崎村桜の馬場新大工町馬町勝山町八百屋町を経て立山庁邸にい

蘭軒の長崎に著いた旅行の第四十六日は、即ち文化三年七月六日で

長崎奉行の役所は初め本博多町の寺沢志摩守広高が勤番屋敷址にあつた。

長崎紀行は此に終る。末に伊沢蘭軒の自署と印二顆とがある

の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知両鎮台。満郷人戸有余財。繁華不減三都会。都

港営、清商館、蘭商舘各一絶がある。長崎の一首と清商館の作とを此に録する。「長崎。隔歳分知

詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営、清商館、蘭商舘各一絶がある。長崎

詩集には長崎に到つた時の作として、長崎二絶、港営、清商館

少い友人のために便宜を謀つたことであらう。蘭軒が長崎にあつてこれに和した詩は、「風露清涼秋半天」云々の

を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示した。南畝は長崎の出役を命ぜられたのが二年前であるから、丁度蘭軒と交代

蘭軒が長崎に来た文化三年の九月十三日は後の月が好かつた

渓山に作る、字は霞光、丹波の人、元禄中長崎絵師兼唐絵目利に任官、其子小原勘八、名は克紹、巴山と

から、晩出の画録に従ふべきであらう。しかし長崎の人の記載に、「小原慶山、又渓山に作る、字は霞光

の鳳嶺が同僚渡辺鶴洲は本小原氏、京都より長崎に徙つた小原慶山の後だと、同じ画録に見えてゐる。しかし

。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水が長崎水品の第一と称せられてゐたと云ふことが、徳見※堂

文化四年の元旦は蘭軒が長崎の寓居で迎へた。此官舎は立山の邸内にあつて、井の水

学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。山口、倉敷の学校は同じく明倫と

長崎の明倫堂は素立山にあつたが、正徳元年中島鋳銭座址に移さ

以てしたこともあるさうである。わたくしは姑く長崎明倫堂の丁卯春の釈奠は中丁を以てしたものと定める。

た。四女は八重と云つた。元成は延宝七年に長崎に還り、陸※軒南部草寿の後を襲いで、立山の学職に

此年文化四年に蘭軒は長崎にあつて底事を做したか、わたくしはこれを詳にすること

一首が集に載せてある。蘭軒の寓舎の井水が長崎水品の第一だと云ふことは、此詩の註に見えてゐる

徳見※堂、名は昌である。「長崎宿老」と註してある。「春日徳見※堂来訪、手携都籃煮茶、

劉夢沢は長崎崇福寺の墓に山陽の撰んだ碑陰の記がある。「諱大基。

程霞生赤城、一字は相塘である。屡長崎に来去して国語を解し諺文を識つてゐた。「こりずま

多在我東方」の一絶であらう。以上の数人の長崎に来去した年月は、必ずや記載を経てゐるであらう。願はく

」長春水惟完を広島に見、仲春風惟疆を長崎に見、季杏坪惟柔を江戸に見たのである。

を立山の寓舎に訪うた。「安藝頼千齢西遊来長崎、訪余客居、喜賦。遊跡遙経千万峰。尋余客舎

淹留したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つた日も、江戸に還つた日も、並に皆不明である

蘭軒は此年何月に至るまで長崎に淹留したか、今これを知ることが出来ない。その長崎を去つ

分家伊沢の人々は下の如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒の乳母

蘭軒は長崎から還つた。其日は八月二十日より後であつた。此時

蘭軒は十五箇月以上江戸を離れてゐた。十二箇月以上長崎に留まつてゐた。此期間が余り延びなかつたことは、帰府後

年五月十九日に江戸を発し、七月六日に長崎に著いた。そしてその江戸に帰つたのは四年八月二十日後

顧思前遊。有如隔世。故云。」蘭軒の長崎行は往つた時が記してあつて、反つた時が記してない。

「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それより

あぶらや本介も同様也。久しく逢不申候。福山辺長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平と申は悼亡のいたみ御座

ながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。

を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さ

茂四郎は或は※堂若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域二箇所を歴訪したが、名字

て、直に遷に想ひ到つた。即ち※斎詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。

きけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、

等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎舌人の事跡に精しい人の教を得たい。

、名は大基、字は君美、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年

蘭軒は夏の初に長崎の劉夢沢がために、其母の六十を寿する詩を作つ

に、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時

にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」

ある。明の遺民戴笠、字は曼公が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山が笠を師

開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧※伝三世、局裏金

長崎に真野遜斎と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれた

「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か

や、わたくし家に久しく※州だねの牽牛花あり。もと長崎土宜に人がくれ候。※年前也。花大に色ふかく、陰り

ぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁

茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と

「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳。諱は俊良、字は基昌、梅泉又

かう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓不詳。諱は俊良、

が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事彭城氏の族である。游竜は彭城

梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐ

長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城

わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の

長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、

氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛

の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくては

梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸を

あつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此

然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言を伝へ

此両説は相悖らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人は来去数度に及んだ例がある。文化六年

た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化

歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為

狩谷※斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田より至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへ

支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさう

字は半圭、諸熊氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。

月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。

上に云つたが、これは文化三年十一月晦に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。

である。茶山は※斎の西遊を慫慂して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに※斎

と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきで

「去年長崎名村新八てふをのこ参候。于今滞留に候はば御次に宜

名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸

「津軽翁いかが。西遊ももはや四五年になり候へば、長崎の行被思召立候様御すすめ可被下候。去年今年はよき唐人

た訳司中の学者はその何人なるを知らない。「長崎年表」にも此事は載せてない。

に長崎の遊を勧めしめようとした。茶山の言は長崎にある新旧の清客に及び、又舌人に及んだ。清客には第四

※斎である。茶山は蘭軒をして又※斎に長崎の遊を勧めしめようとした。茶山の言は長崎にある新旧の清客

父に報じたものである。わたくしは前に蘭軒の長崎行を叙した時、未だ花天月地を見なかつたので、此

丙寅は蘭軒の長崎に往つた年である。茶山はこれを七日市へ迎へ、神辺に

て、菅茶山の書牘を引いた。蘭軒は文化丙寅に長崎に往く途次、神辺を過つた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父

して蘭軒に見えしめたことを報じてゐる。蘭軒の長崎紀行には、「茶山堂上酒肴を具、その妻及男養助歓待恰も一

に伴ひ帰り、更に送つて尾道に至つたことは、長崎紀行の詳記する所である。茶山は丙寅六月十七日尾道油屋の夜宴

、文久中に佐倉藩士木村軍次郎と云ふものが、長崎から来て住んだ。隣人が「木村と云ふ人は裸馬に乗つて

丁未の歳となるのである。前にわたくしは蘭軒の長崎紀行の全文を載せたが、榛軒の此紀行は要を摘むに止める

て此什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて長崎より江戸に至る舟は覆没した。

釈菜に用ゐるものを模したのである。川村氏は長崎の工人に命じて此什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて

後、プウチヤチイヌの露艦隊が癸丑七月十八日を以て長崎に入り、次でペリの艦隊が此年甲寅正月十日を以て再び

八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉の時

福島

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福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町で

呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間

ある。尾張家の附庸山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初

に於て唯一の西脇薪斎を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。

であつた。一戸の記に拠れば、武揚等の福島湾に迫つた日である。

艦は松前を砲撃す。榎本軍弾丸尽き、却いて福島一渡尻内幾古内等を保有す。」(節録。)香亭の

」香亭の云ふを聞くに、是日官軍が伊庭の福島の営を襲つた。伊庭は肩と腹とを傷けられた。「

山形

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。後年武鑑に用達商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾て闕けてゐたことが無い。

不鳴山更幽の句覚妙。)谷おほくありて山形甚円く仮山のごとし。下諏訪春宮に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る

。夜明て雨やむ。顧望に木曾の碓冰にも劣らぬ山形なり。六里山家駅。一商家(米家五兵衛)に休。日午なり。

松平播磨守頼説の臣である。曰小林玄端。出羽山形の人である。門人録に「後塩田楊庵、対州」と註してある

は当時継室志保になつてゐた。塩田楊庵は出羽国山形の七日町から、文政癸未に江戸に出て長泉寺に寓し、尋

良宅、上野国高林の松本文粋、新発田の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其他猶津山、忍、庄内等の子弟があつ

門に入つたのは此年丁巳であつた。出羽国山形の藩士で、当時の主君は水野左近将監忠精であつた。良※は

て此間に周旋せしめようとしたのである。志村は山形藩医である。水野泉州に謁して事を言ふことも容易であり、

た。幾もなく王政維新の時が来た。わたくしは山形へ移住すべき命を受けたが、忽ち藩主水野の家が江州に移封

小林玄端、父は玄瑞であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田秀三の家を継ぎ、楊庵と

金沢

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は今これを詳にしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家

□年鈔僧慧萼将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借

又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏

ものは明倫堂の釈奠である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋等にもあるが、長崎にも此名の学校

元槧とがある。彼は北条顕時が求め得て金沢文庫に蔵してゐたもので、北宋所刊のものたる証迹が明

、偽本のみ行はれてゐることゝなつた。それゆゑ金沢文庫の零本第一巻の貴いことは論なく、次に三十巻全備の

蘭軒は又自らその蔵する所の金沢文庫零本千金方にも跋してゐる。しかしこれを書した年月を詳

しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」

「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」

別号ださうである。「程谷駅中より左に折れ、金沢道にかかる。肩輿二を倩ひ、三里半の山路屈曲高低を経歴す

「四日。晴。養竹妻病死之由、以金沢源二郎為知来。即刻悔行。」

福岡

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、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守治之の夫人に仕へてゐた幾勢に推薦せられ

ある。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。

そしてこれをして久しく塾頭たらしめた。門人録には福岡の森隆仙の下に塾頭と註してある。渡辺と森との塾頭

宇都宮

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八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦が下野国宇都宮より徙されて、福山を領した。菅茶山集中に、「福山藩

。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。

水戸

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斎の子である。篁※は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此

」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内杏所甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつた

)越前侯(慶永)がその主なるものであつた。水戸老公は攘夷家であつたから、蘭医を薦めようとはせられなかつた

である。公の場合にも亦此議が起つた。水戸老公(斉昭)越前侯(慶永)がその主なるものであつた。水戸

天下の目を属する所となつてゐたからである。水戸老公斉昭は側用人安島弥次郎に与ふる書に、「何を申も夷狄

討つことを命ぜられ、二十五日兄慶篤の後を襲いで水戸藩主となつた。

福井

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山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、

※斎は京都に着いて、福井榕亭を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を

「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違

起すのである。兎に角※斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。

第三は福井榕亭である。名は需、字は光亨、一の字は終吉

の病を問はしめ、蘭医方を用ゐしめようとした。福井藩用人中根靱負の記にかう云つてある。「蘭家の御薬

越前国福井の城主松平越前守慶永は匙医半井仲庵をして正弘の病を

迫り居り候へば、勢州は大切の人」と云ひ、福井侯慶永も亦、「唯今彼人世を早ふせば、天下の勢も如何

てある。清心院は糸魚川藩主松平日向守直春の女、福井藩主松平越前守慶永の養女、正弘の後妻謐子で、此夫人には

仙台

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答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かと

を轎夫に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得たり。(仙台政宗の歌に、山あひの

松原あり。片山といふ山を望む。二里半武佐駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲不雨。雷

二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から

べし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」

「廿七日。晴。会津仙台侯始御処置有之候由始而入耳。」松平容保、伊達慶邦の処分

秋田

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秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此

書肆を閲す。凡三四町書肆櫛比す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり

梧堂、名は道、字は士道と註してある。秋田の人であらう。茶山集甲子の詩に「題文晁画山為石子道

。乍霰。朝四時夏島出帆。夜九時頃羽州秋田近海へ碇泊。」

「十二日。晴。朝土崎湊へ著。秋田へ一里半。」

岡山

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もつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいら

であつた。備前の中で尻海は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰

茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、

候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ

「十三日。雨。九月八日岡山奥小野崎姉君御病死之旨今日御達差出、一日之遠慮引いた

「三日。(七月。)岡山より姉君遺物到来。」前年九月八日に歿した棠軒の姉が

松山

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村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。

川を渡る。里人に岩国山をとへば此川南の松山にして今城山といふ所なりと答ふ。柱野をすぎ入山の山路に

を不許。呼坂は蓋し昔にいふところの海老坂なり。松山峠を経二里久保田駅(一名久保市)なり。二十八町花岡駅。山崎屋

内田養三、斎木文礼、岡西養玄、家守某、備中国松山の柳井柳仙、久留米の平川良衛、棚倉の石川良宅、上野国高林

佐賀

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寸五分許横五六分。味烏賊魚に似たり。佐賀侯より金三方を賜ふ。此日暑不甚。行程六里半

往々ありといへり。形状全く喜鵲と覚。一里半佐賀城下。古河新内の家に宿す。晩餐の肴にあげまきといふ貝を供す

高松

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桃李君門春定遍。此身覊絆奈難従。」南陵高松先生の下に「先生名文熈、字季績、於音韻学尤精究、

、又七律一首がある。「同前席上呈南陵高松先生、是日先生説書。久聞瓊浦旧儒宗。今日明倫堂上逢

迂斎は吉村正隆、東渓は松浦陶である。南陵は此高松文熈であらうか。

下谷

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清三郎の子が主水、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町に住してゐる。

があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念をなして引見

は嘗て懐之が怙を喪つた後久しからずして下谷徒町に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別

ある。杉本仲温は「表御番医師、後奥詰、下谷御成小路」と、武鑑に見えてゐる。渋江至公は必ずや武鑑の「

文化十二年八月に瑞英は家を下谷三枚橋「御先手組屋敷」に買つた。是は次年の記

、奥御医師、二百俵高、御役料三十人扶持、下谷長者町」と記してある。

のさま見ばやとて、後手のあかり障子あくれば、吉原下谷本所あたりの火一つらになりて、黒き烟のうちに焔立ちのぼる

柳原岩井町代地であらう。武鑑は同時に「御目見医師、下谷三枚ばし、池田瑞長」を載せてゐる。是が京水の

歳で歿した。武鑑に「寄合御医師、二百表、下谷新屋敷、池田瑞仙」と記するものが是である。新屋敷とは柳原岩井町

に「辻元為春院法印、奥御医師、三十人扶持、下谷長者町」と書してゐるのが、最後の記載である。四年以後の

、池田瑞仙」と共に、分家の「御目見医師、下谷三枚橋、池田瑞長」を載せてゐて、前年戊午以後には

奈良

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十七日には奈良へ立つた筈である。

一条を見れば、※斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還

の※斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つた

してゐる。しかし既に云つた如く、わたくしは只父子が奈良に遊んだことを知るのみである。茶山の口※によつて考へて

「南都」と書してゐるを見れば、近藤玄之も亦奈良の人かと推せられる。

とに名を列してゐる四人の弟子は、皆京都奈良等の人で、中にも佐井聞庵は恐くは錦橋の三人目の妻沢

九度肱折※毛弥進阿波礼久須利師之上登奈良末久。迦羅久邇之薬之業者習雖底日宇固加奴倭魂。」末

中略。)小田原入口にて午餐す。(中略。)夕方宮下奈良屋に投宿す。」枳園は別れて僑居に帰つたのであらう。寿蔵

陽紀行は、既に七月五日榛軒が函嶺宮下奈良屋に舎つた日に至つてゐた。榛軒は山中にあること既に

富山

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宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶※。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」

「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石港。探勝路逶※。」

荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上

新潟

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。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」

月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。

鳥取

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に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平縫殿頭定常で、実は池田筑前守政重

嗣となるべき棠軒淳良が、四月十四日に因幡国鳥取の城主松平因幡守斉訓の医官田中淳昌の子として生れた

公私略にかう云つてある。「九月廿九日、於福山鳥取表伯母君(田中喜三母)対面願之通被仰付、但日数往来之

九月に棠軒は福山より鳥取に往つた。伯母を訪うたのである。公私略にかう云つてある

是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。

宝生氏には子徴、女栄があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息孫、女幹が

。是は姫路に妹婿土方伴六正旗を訪ひ、鳥取に顕忠寺中の兄田中悌庵が墓を展したのださうである

五月八日に棠軒は「姫路鳥取行」の途に上つた。是は姫路に妹婿土方伴六正旗

「八日。(五月。)晴。今夜姫路鳥取行乗船。但安石同伴夜四つ時前四つ樋より竹忠船へ

棠軒は明治乙亥六月一日に鳥取から吉津村の家に帰つた。

徳島

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ものには讚岐の後藤漆谷、美作の茂誥大輔、徳島の僧玉澗等があつたことが集に見えてゐる。

熊本

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を材として刻したもの、又加藤肥州像は熊本より勧請し来つたものであつた。

大津

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少時医を此玄道に学んだ。清川氏の裔は今大津に居ると云ふ。

次にわたくしは三月四日に柏軒が大津を発して入京したことを知つてゐる。是は柏軒自筆の日記

「文久癸亥三月四日暁寅時、大津御旅館御発駕、(中略)三条大橋御渡、三条通より室町通へ

其日数より長頸相遅、必欲一長見候。数大津迄人遣候。必一見、既に今日当番、繰合昨夜相勤置程に

那覇

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港に著し、此月二十六日(七月二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日

し、前月十九日(一八五三年五月二十六日)に琉球那覇港に著し、此月二十六日(七月二日)に那覇港を発し

青森

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「廿六日。晴。昼八時津軽領青森湊着船。総御人数上陸。中村屋三郎宅へ宿。」

、菊屋重助宅へ落著。」油川村、一名大浜、青森に次ぐ埠頭であつた。一戸の記に拠れば、武揚等の福島

出相成。自分並藤田子同所へ出張被仰付、午刻青森出立、夕七時油川村著、菊屋重助宅へ落著。」油川村、

日に至つてゐた。福山の兵は箱館より退いて青森に至り、棠軒が属する所の一部隊は油川村に次してゐるの

「七日。陰。朝青森湊へ賊艦二艘来著、無程退帆、夜六時頃津軽

軒先生十七回忌に付、雑煮餅一統へ振舞。文礼子青森より帰途立寄一泊。」

爰許逗留中病院同宿。」箱館府知事清水谷公考、前日より青森口総督兼任。江木老人は鰐水繁太郎、五十九歳。

御肴代金一朱と三百五十四文づつ被成下。石川厚安青森行に而前後立寄一泊。江木老人爰許逗留中病院同宿。」箱館

「六日。雪。文礼子青森へ御用に而罷越、帰路一泊。」

十一日。晴。松軒子青森へ行。天富亮碩亦青森行に而立寄。」

「十一日。晴。松軒子青森へ行。天富亮碩亦青森行に而立寄。」

二年は蘭軒歿後第四十年である。棠軒は歳を青森附近油川村の陣中に迎へた。

神妙之至、尚宜敷と御口上有之候由。今朝於青森大病院、罪人解体に付、斎木藤田昨夜より罷越、今夕又一宿。」

「廿日。晴。斎木藤田青森より帰宿。石川厚安来一宿。今日病院大工棟梁越後屋新兵衛へ転陣。」

「二日。陰。夜雨。斎木子青森行一宿。広江病人相談也。」

「五日。陰。斎木氏青森へ行。当日大病院に而御進撃之砌医局用意之薬種並道具等申

従軍日記は己巳二月六日に至つてゐた。その青森附近油川村に淹留すること既に百日に垂としてゐる。

「十一日。微晴。斎木氏青森行一宿。」

小野両氏尋訪相頼、並に菓子折進物す。生口拡青森行に而前後立寄。」

「九日。陰。夕晴。文礼子青森大病院へ行。広江病人相談也。然処途中面会同道引返。厚安

重次郎へ逗留。生口子より急報来る。左の如し。軍艦青森港へ到著候に付、即刻同所へ可罷越趣。」軍艦とは北征

「廿一日。晴。青森御薬用行、夕帰寓。」御薬用は薬物を補充する謂であらう。

漸綻、時気稍覚暖。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。

「二十九日。晴。斎木石川同道青森御薬用行。」

金受取。十二字揃、天富斎木石川出立す。尤青森迄。」

「六日。晴。午後雨。午刻許青森より進撃艦八艘出帆。」

御談左之通。昨九日向地より戦状申越、只今青森表より申来。九日八字官軍音辺へ著。小戦有之、夫

「十四日。雨。朝五時残兵青森迄出張。」一戸の記に拠れば、是日名古屋、津軽、松前

「十五日。晴。諸藩出張之兵大半青森より乗船渡海之事。御薬用に而青森行。」

「廿七日。陰。朝より青森御薬用行。」

二日。陰。夜微雨。早朝油川菊重方出立。青森辰巳屋へ一旦著、大病院へ三人之病者頼行。其後往吉屋

「廿三日。晴。午後雨。午後八時青森港出帆、夜五時過箱館著船。」

静岡

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は此妹か。然らば当時徳安改磐安の一家は静岡に徙つてゐたのであらう。是より先「駿州分家」の語は

「六日。(四月。)陰。静岡分家より書状到来、去月三日井戸妙女病死之旨申来。」蘭軒

、姉国二十七、安十九、柏軒の妾春四十六(以上静岡)であつた。

此年八月十三日に静岡にある柏軒の子孫祐が九歳にして夭し、翌十四日に

静岡の伊沢氏では、此年四月に磐安が磐と改称し、

、姉国二十九、安二十一、柏軒の妾春四十八(以上静岡)であつた。

の身分は「静岡県貫属士族」で、其戸籍は「静岡第五大区百姓安右衛門方同居」であつた。俸禄は「現米十八斗

三月二日。磐が東京を発して静岡に向つた。家族を迎へ取らむがためである。当時磐の身分は

五日。磐は静岡に著いた。

の東京に寄留せむことを静岡県庁に稟請し、兼て静岡に於ける「留守心得」を指定した。東京に於ける寄留先は

静岡に於ける留守心得は「呉服町一丁目多喜後家ひさ方比留正方」である

十三日。磐は家族を率て静岡を発し、「富士郡前田村加藤要蔵方」に宿した。

和歌山

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に乗組、南新堀万屋正兵衛方へ一先落著、黄昏和歌山蒸汽明光丸へ乗組。船賃九両茶代金二百疋。」

長野

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氏に適き、作は山本氏に適き、久は長野氏に適いた。

。」亀児とは誰か。伴六の女久が長野氏に嫁して生んだ四子は、義雄、亀次郎、悦三郎、信吉である

深川

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有信と名告つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所

をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党の人で

有信は長左衛門のために産を傾け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷つた。今伊沢信平さん

は乳母に、榛軒を背に負うて夫と倶に深川に往くことを許した。然るに榛軒は何故か急に泣き出して

如くに語り伝へてゐる。蘭軒の長崎へ往つた留守中に深川八幡宮の祭礼があつて、榛軒の乳母の夫が近在から参詣に

来りし時、橋上の往来駢※群集の頃、真中より深川の方へよりたる所三間許を踏崩したり。次第に崩れて、

此年文化四年の深川の八幡宮の祭は八月十五日と定められてゐた。隔年に

であらう。扇橋は当時の町鑑を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。

三月)廿日より六十日の間、下総国成田山不動尊、深川永代寺に於て開帳」と云つてある。丙辰は三月小、四

浅草

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年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓石

旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。

ない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には

、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直なる道をゆきて家に帰りぬ

始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監鑑寿の中屋敷であつた。大田南畝が当時

蘭軒雑記に拠れば、所謂浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである

豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。

離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。

霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田吉顕さんに請うて阿部家

。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号※

の事であらう。※斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之に譲つたこと

妹二人も亦身の振方が附いた。るゐは浅草永住町蓮光寺の住職に嫁し、松は川越在今市の中村某

は妓を罷めて名を志保と改め、継父と偕に浅草新堀端善照寺隠居所に住んだ。

を得るかも知れない。※斎の歿したのは、浅草の常関書院に隠居してより第十九年の事である。津軽家用達

経営する力をば有せなかつたものと推する。父※斎は浅草に隠居した後も、屡湯島に往来して、懐之を庇※

なつてゐた。然るにある日長女次女は相携へて浅草の観音に詣でた。家に帰つて、長女は病臥し、遂に起たな

「同(文化)十年居を浅草誓願寺門前町に移す。」是が瑞英二十八歳の時である。

も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」

た。黒縮緬の羽織が泥土に塗れた。鶏は翌日浅草観音の境内に放つた。

て家屋を傷ふ。」半蔵門渡櫓、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所霊山寺本堂が壊れ、永代橋、大川橋が損じた

て、雷雨のみの事実なることを言つてゐる。正弘の浅草新堀端西福寺に葬られたのは、丁巳七月三日であつた

弟が貸主であつたやうである。お春さんの弟は浅草の穀屋であつた。」

寺自拝罷出。」正寧の葬である。西福寺は浅草新堀端。

大久保

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大久保主水は徳川家の世臣大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今遽に論定

女伊佐を娶つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にし

菓子師大久保主水元苗の女伊佐を娶つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世

信政は幕府の菓子師大久保主水元苗の女伊佐を娶つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣

大久保系図に拠れば、粟田関白道兼十世の孫景綱より、泰宗、時

称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門忠教は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。

以上四人の名は略一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門忠教

大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつた

此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。素大久保氏には世経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎

の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾て闕けてゐたことが無い。

屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。

信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子は信栄と云ひ、金十郎

信政の妻大久保氏伊佐は又貞光の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称

幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越古琴と墨田川に遊んだ。五岳

此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又

番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守忠真であつた。或はおもふに当時の吏は例として此

里方、菓子商大久保主水が寿筵の詩である。「大久保五岳忠宜。今歳華甲。仲冬七日。開宴会客。諸彦祝以

。其一は蘭軒の祖父信政の妻の里方、菓子商大久保主水が寿筵の詩である。「大久保五岳忠宜。今歳華甲。

西側に、雑貨商大久保増太郎と云ふ叟が住んでゐる。大久保氏は羽沢根生の人で、石経山房の址がいかなる変遷を閲したか

赤十字病院前を南に行つて西側に、雑貨商大久保増太郎と云ふ叟が住んでゐる。大久保氏は羽沢根生の人で、石経

大久保主水の店から美しい菓子を贈られたことである。大久保氏は前に云つた如く蘭軒の祖父信政の妻の里方であつた。

して後年に至るまで記憶してゐるのは、此頃大久保主水の店から美しい菓子を贈られたことである。大久保氏は前に

にして信政の妻であつた伊佐の生家、菓子商大久保主水は庚午の歳に猶店を今川橋に持続してゐて、棠軒

「十五日。晴。今川橋大久保に行。」蘭軒の父信階の養母にして信政の妻であつ

越谷

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と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡を四時軒自性如春居士

豊洲

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四年に歿したと見える。蘭軒は尋で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政

与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七

泉豊洲、名は長達、字は伯盈である。其家世江戸に住し

南の何処なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。

豊洲は中年にして与力の職を弟直道に譲り、帷を下し徒に

豊洲は南宮大湫の門人である。二十一歳にして師大湫の喪

わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯※して叢

、恐くは安永の初であらう。安永七年より以後、豊洲は転じて平洲に従遊し、平洲は女を以てこれに妻した

泉豊洲が晴雪楼に投じたのは、恐くは安永の初であらう。安永

蘭軒が豊洲の手を経て、此学統より伝へ得た所は何物であらうか。

蘭軒が泉豊洲の門下にあつた時、同窓の友には狩谷※斎、木村文河

。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。

神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡、宇

此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を

、字季父、号春泰、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を

歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑

で南宮大湫に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。

五月七日に蘭軒の師泉豊洲が歿した。年は五十二歳、身分は幕府先手与力の隠居であつた

。久しく此寺に居る老僕の言ふ所によれば、従来豊洲の墓に香華を供したものはわたくし一人ださうである。

に題した。碑陰に書したものは黒川敬之である。豊洲の墓は幸にして猶存じてゐるが、既に久しく無縁と看做され

葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺である。豊洲の墓は墓地の中央本堂に近い処にある。同門の友人樺島石梁が

豊洲は浅草新光明寺に葬られた。伊沢総宗家の墓のある寺で

名は公礼、字は世儀、通称は勇七である。豊洲が墓には「友人久留米府学明善堂教授樺島公礼銘」と署し

詩癡、又括嚢道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と

勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又括嚢道人が挙げてある。此中

出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内主税と土屋七郎とである。

日比谷

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寛政の末の武鑑に目見医師の部に載せて、「日比谷御門内今大路一所」と註してある。浅田栗園の皇朝医史には此

目黒

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の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、字は恕卿である。寛政の末の武鑑に

蘭軒が医学の師は目黒道琢、武田叔安であつたと云ふ。目黒道琢、名は某、

小川町

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、山陽は柴野栗山を駿河台に訪うた。又古賀精里を小川町雉子橋の畔に訪うた。これは諸書の皆載する所である。

と交通した最も古いダアトは、文化元年の春茶山が小川町の阿部邸に病臥してゐた時、蘭軒が菜の花を贈つた事で

。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶の上がるのを眺めてゐた。茶山の集

にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所、黒沢は雪堂で

の断案であつた。次でわたくしは文化元年二月に小川町の阿部邸に病臥してゐる茶山の許へ、蘭軒が菜の花を送つた

茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部第を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別

ゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る

、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、

なくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。

正月十九日に正精は丸山より小川町の本邸に徙つた。蘭軒は旧に依つて丸山に留まつた。

山本宗英、法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、小川町、」曲直瀬正隆は「曲直瀬養安院、寄合御医師奥詰、千九百石、神田橋

を検するに本庄近江守は「御詰並、一万石、小川町」と云つてある。時に瑞英は十七歳であつた。

並で、本庄とは同僚であつた。邸宅も亦同じ小川町にあつた。瑞英は本庄の子を治して功があつたので、

上野

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めづらしき会なりと、午の飯たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山

交を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺公澄法親王の座所

。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。

おけり。乃其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入り

崖谷みな眼下指頭にあり。東南の方ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅

と書した所以であらう。此春蘭軒は轎に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「

第二は※斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し

「廿五日宿于上野。」

此年文政八年三月十三日に蘭軒は上野不忍池に詩会を催した。※斎詩集に此時に成つた七絶

此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上なる静宜亭に催された例会の席上の作と、

四月十三日には蘭軒が又上野仙駕亭の詩会を催した。その作る所には宿題「朝起

五月十三日には詩会が上野仙駕亭に催された。蘭軒に宿題「送人遊玉函山」、

九月十三日には上野仙駕亭の詩会が催された。「秋水網舫」、「秋

此年文政十一年二月には、詩会が上野仙駕亭に催された。其日は十三日であつた。蘭軒は

。岡君有詩。恭次芳韻奉呈。」岡某は上野の北に別荘があつて、宴はそこに開かれた。蘭軒は余語

於て十三日に催された。仙歌亭は恐くは上野仙駕亭であらう。宿題は無い。席上題は「池亭観蓮」で、

せられ、其法諡は一石に併せ刻せられて、現に上野共同墓地に存する事、然るに分家の一なる京水の一族の墓は

た時、疑を存して置いた。後渋江保さんは上野図書館を訪ふ序に、わたくしのために禅刹記を閲してくれた。

徙され、その宗家に係かるものは鑑三郎に由つて上野へ遣られ、その分家と又分家とに係かるものは二世全安

は宗家の裔鑑三郎さんが錦橋霧渓一系の合墓を上野共同墓地に立てたと同時の事である。嶺松寺池田氏の諸

。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事を聞かなかつたのである。

今は錦橋霧渓一系の合墓が上野にあり、京水瑞長系と京水全安系との両系の合墓

の時で、巻子中の記載に拠るに、京水は上野三枚橋の畔の家にあつて書したのである。しかし京水

後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国上久方村医師村岡善左衛門常信倅善次郎が養子にせられた。即ち霧

柳井柳仙、久留米の平川良衛、棚倉の石川良宅、上野国高林の松本文粋、新発田の寺崎某、山形の志村玄叔等で、其

は猶参河吉田の松平伊豆守信古の給する五人扶持、上野高崎の松平右京亮輝聡の給する二人扶持、播磨姫路の酒井雅楽頭忠顕の

向島

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享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎

帰途柳橋辺で飲んだものかと推せられる。但近郊が向島でなかつたことは後に其証がある。「籬落春風黄鳥声。

に狩谷※斎に贈つた此年の春遊の詩が、向島の遊を謂ふのでなかつたことのみは、此に拠つて証せられる。

向島嶺松寺に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川

は三世池田瑞仙直温の自筆本で、池田氏の菩提所向島嶺松寺に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請う

如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼

向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさう

た一通があつて、茶山は蘭軒の子を連れて向島へ往つたことを羨んで書いてゐる。此書は或は後に引くか

三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日

二月十三日に蘭軒は岸本由豆流の向島の別荘に招かれた。其日は薄曇の日であつた。三絶句

次で十六日に蘭軒は向島に遊んだ。「三月十六日与狩谷少卿、渋江子長、森立夫

十五日には向島に月を観た。「三月既望墨水堤花下歩月」の七絶は

は客に池田京水に関する研究の経過を告げた。向島嶺松寺にあつた京水の墓は、曾て富士川游さんが往弔し

京水の孫全安即二世全安は、わたくしに向島嶺松寺にあつた池田分家の諸墓のなりゆきを告げた。わたくしは

是に於てわたくしは向島弘福寺主の言ふ所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は

錦橋は江戸駿河台の家に歿して向島嶺松寺に葬られた。然るに嶺松寺の廃絶した時、

、江戸市中は早鐘を打つとも知らずに、一行は向島に遊んだのである。

、柏軒の妻俊、狩谷懐之、小野富穀等と向島に遊んだらしい。わたくしは良子刀自の蔵する狩谷氏俊の遺稿に拠つて

かつたものであらう。前に引いた所の嘉永癸丑に向島に遊んだ記もこれに似て、真の終結に至らずして筆

※が六十八歳にして歿した。是より先※は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻が

神田

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当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、

辺に住んでゐたかを思はしめるが、さるにても神田は何故に点出せられてゐるだらうか。

を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたの

茶山は夜更けて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。

勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎に乗つて往くことを許された事で

てゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山

武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は

渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中

小林玄瑞であつた。猫を葬つた壬寅の歳には神田松坂町の流行医塩田秀三の養子になつて、子良三をもまうけて

家が無かつた。其自記に拠るに、瑞英は「神田明神下金沢町の裏店に僑居」した。前後の状況より推すに、瑞英は

「同八年帰于江戸。再神田岩井町代地に僑居す。」瑞英は文化八年二十六歳にして、妻

続抄する。文化九年には瑞英の次男盤次郎が神田岩井町代地の家に生れた。生日は「七月卅日」である。

大抵其員数は三十人許であつた。此より一行は神田明神社に参詣し、各人三十二文の玩具を買つて丸山の家に

すること莫からしめた。調合畢れば、柏軒が門人等を神田大横町の蕎麦店今宮へ率て往き、蕎麦を振舞つた。大抵其員数

鍛冶橋内の上屋敷にゐたので、道夫は本所より神田へ通つて学んだ。道夫は又同時に横網町の朝川善庵、薬研

安の宅は迂生二十歳の頃に見し所を記憶す。神田お玉が池市橋邸の東横町にて、俗に二六横町と称へし処なり。

通称を三右衛門と云ひ、融々又周二と号した。家は神田明神前にあつた。人名録の肩には「画」と記してある

之は昔望之の住んだ湯島を距ること遠からぬ神田明神前に門戸を張つて画師をしてゐたのである。語を

お茶の水

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犬塚印南、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷※斎も同行の

蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐と云ふものが来掛かつ

、松陰徐下棹郎歌」と云つてある。当時のお茶の水には多少の野趣があつたらしい。此の頷聯に「旗亭敲戸携樽至

に此夕の七律二首がある。初の作はお茶の水で月を看たことを言ひ、後の作は茶店で酒を飲んだ

蘭軒が茶山とお茶の水で月を看た後九日にして、八月二十五日に蘭軒

七月十五日に蘭軒は木村文河と倶に、お茶の水から舟に乗つて、小石川を溯つた。此等の河流も今の

ある。暖い小春日和であつた。「風光恰是小陽春。」お茶の水から舟に乗つて出た。「茗水渓頭買小船。」吾妻森で

麹町

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佳会であつただらう。精里の此邸宅は今の麹町富士見町で、陸軍軍医学校のある処である。地名かへる原を取つ

に洛南元春の墓誌がある。又武鑑を検するに、麹町の元泰、三十間堀の元春、木挽町の芸庵がある。皆同族なる

江戸の唖科柴田氏は麹町の柴田を以て宗家とする。曩祖、名は直教と云つた。直教

の言に拠るに、又元泰と称したらしい。以上が麹町の柴田系である。

住吉

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十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原住吉祠に詣り海辺の田圃を経る。村中醸家おほし。木筧曲直して

長府の二の宮にて一の宮は此より一里北に住吉の神をまつると也。大内義隆造作の古宮なりといへり。竜宮より

国分寺

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書して持来轎前に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年災にかかり

御茶の水

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八月十四日に江戸御茶の水の料理店で、大田南畝が月を看て詩を作り、蘭軒に寄せ示し

小諸

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の釈奠である。明倫堂と云ふ学校は金沢、名古屋、小諸、高鍋等にもあるが、長崎にも此名の学校があつた。

巣鴨

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月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。「巣鴨村有藝戸数十、毎戸栽菊、培養頗精、有高丈許、枝亦数尺

造菊を嘲つたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで

菊の詩は巣鴨の造菊を嘲つたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造

。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」

罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。茶山の此書は文淵堂蔵の花天月

事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣の立てられたの

を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺に於ては茶山が月下に思を墓畔

又分家とに係かるものは二世全安に由つて巣鴨へ遣られたのである。

に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てゝ「池田家累世之墓」と題した。是は宗家

所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事

又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの巣鴨に往つたのは此遷徙の後であつた。

二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの

然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、毫も得る所なくして帰つたのは何故であつ

に墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅び

三十年徳の第二女ちよが九月三十日に巣鴨の監獄役宅に生れた。徳は監獄の吏となつてゐたので

品川

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、小川町の阿部第を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思

与君毎並竹輿行。」驥※日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。

に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、(中略、)一別茫如夢、爾来歳月移」と云つてある

江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、

北遊より江戸に還つて、韓凹巷の西帰を品川に送つたが、其後幾ならぬに江戸を去つて、相模に往き

て読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後

新聞に連載せられてゐた頃の事である。当時品川に住んでゐて、町役場に出入する一知人がわたくしに書を寄せた

一知人がわたくしに品川に池田全安と云ふ人のあることを報じた。それは池田京水

川村氏は既に什器の事を忘れてゐると、或日品川へ一の匣が漂着した。幸に封緘故の如くで、上に

で、浄瑠璃に耽つてゐた。妻は初なるものが品川の妓、後なるものが吉原の妓で子が無かつた。それゆゑ

あつたので、八月十九日軍艦数隻を率て品川湾を脱出し、途次館山、寒沢に泊し、北海道を占領せむと

「廿九日。晴。朝四時頃品川著船。鮫津川崎屋へ上陸。夫々分散。病院は脇本陣広島屋太兵衛へ

雨。午後漸晴。朝五時過大坂艦乗組、十字品川浦出帆。岡田総督御用に而、堀副督修業被願、青木氏

小舟一艘借切、品海迄乗船。夜九時前品川石泉へ著、一宿す。」

東京

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を聞いた。一は京都の藤井乙男さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允さうと

た。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶熄むことなく、金石文字は日々湮滅し

がある。門内の右方には橋本箕山の碑がある。東京の最大碑の一である。本堂前より左すれば、高く土を封じ

呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之であるが

明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋で

十年東京府が孫を医会の幹事に任じた。

以てしたるを見しこと有之候。同君最後の職は東京控訴院部長と記憶いたし候。昌谷逝き、先考も亦逝き、今や

「八日。雪。」是日車駕東京を発す。

「廿五日。晴。」東京より北航して宮古湾に入つた軍艦と武揚等の軍艦と衝突した

夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。

稍覚暖。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと云ふ義であらう。

及桜桃李椿等漸綻、時気稍覚暖。夕刻東京廻り軍艦六艘青森へ入港。」東京廻りとは東京から廻されたと

「二十八日。晴。厚安子来一宿。」車駕の再び東京に入つた日である。

。朝上陸。大病院下宿和島屋某へ著。本藩兵隊東京府迄引揚可申旨。尤明朝十字乗船之事。斎藤勘兵衛、河野乾二

石原邸に賜うた。家乗には「七月廿一日東京発、八月十八日福山著、廿四日執政を罷め、波平行安

に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前不争斎正寧が宴を本所石原邸に賜うた。家乗には

てある。藤陰舎遺稿に拠るに、藤陰は此年正月東京に往つた。又東京を発する前不争斎正寧が宴を本所石原邸に

監察、渡辺造酒丞、五十七」の母であらう。藤陰は東京より帰つた直後に病んだと見える。

邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行した。棠軒はこれを聞いて家従詰所に往き、老侯

遣候旨。右に付同家へ行。」阿部正寧が東京石原邸に於て病んだ。森枳園が問候のために東京へ急行

為入御容体書於御家従詰所拝見。養竹為御見舞東京へ早打に而被遣候旨。右に付同家へ行。」阿部正寧

。」正寧の病を瞻んがために、正桓が東京へ急行した。随行の医官は松尾立造であつた。

「廿三日。晴。大殿様為御看病東京へ御発駕被遊候に付、為御機嫌伺朝六時出勤。五

代前の不争斎正寧の病を瞻むがために、東京に淹留してゐた。「正月元日。晴。夕微雨。御留守中

「十七日。晴。御上東京より御帰藩被遊候に付、四半時平服に而出仕。松尾へ寄

の命を伝へ、棠軒をして森枳園と交代して東京に赴き、正寧に侍せしむることとなつたのである。公私略に同文

。月番意篤より通用。御隠居様御不快為御看病東京府出府被仰付。尤養竹交代、支度出来次第之旨。」河村

に付、御暇乞に出。」将に福山を発して東京に向はむとするのである。「お長三夜之御暇被下下宿

丸山邸へ御屈行、津山にて飲。」以上明治初年福山東京間の旅程を見るべきである。公私略は但発著を記して、

上に記するが如く、庚午二月二十日に棠軒は東京本所石原の阿部家別邸に著き、丸山本邸へ届けに往き、先づ津山氏

先つて寂した。時に年四十四。棠軒の碧山を東京に訪うた前年である。是が碧山の長兄である。

は「三月十九日出」であつた。福山の書信が東京に達したのは二十六日後であつた。わたくしはその余りに遅きに

「廿七日。晴。此日初而乗人力車。」東京に人力車の行はれた始であらう。

是月六日に在番を解かれ、次日二十三日に東京を発して福山に向ふこととなつてゐた。「権少村上」は

立に付暇乞に行飲。」阿部正桓が福山より東京に遷り、石川貞白が随従するのである。

日。(九月。)晴。明廿日前知事様方々様東京御引越に而御発駕被遊。石川御供に而出立に付暇乞に行

「三日。晴。前知事様御初方々様方東京為御引越午後御乗船。右に付川場迄御見送出。」正桓

(二月。)陰。夕雨。貞蔵来。貞白午刻東京より帰着之由。右に付悦行飲。」

「廿四日。晴。岡寛斎近日東京出府に付、於飯田宅別杯相催す。」寛斎の祖筵が飯田安石の

転移に付、一切相談也。」枳園の家族が将に東京に移り住まむとするのである。

「廿五日。晴。森へ行飲。同家年内東京転移に付、一切相談也。」枳園の家族が将に東京に移り住まむ

明治五年壬申二月辞福山、漫遊諸州、五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕」と云つてある。時に

吉野に遊んでより後、復福山に帰らずして、東京に入り、今家族を迎へ取らうとするのである。寿蔵碑に「

「廿一日。晴。冬至。東京森養竹より書状到来。」是より先是月五日の下に「

た。良子刀自所蔵の文書に、「明治五年七月東京第一大区十一小区東松下町三十七番地工部省七等出仕塩田真方寄留」の文

四月に磐安が磐と改称し、又七月に東京に遊学し、塩田氏に寓した。良子刀自所蔵の文書に、「明治

の母として事ふる所となつてゐる。磐は東京を発するに至るまで、「南紺屋町佐藤勘兵衛方」に寄寓してゐた

三月二日。磐が東京を発して静岡に向つた。家族を迎へ取らむがためである。当時

、兼て静岡に於ける「留守心得」を指定した。東京に於ける寄留先は「第二大区十五小区麻布南日窪町医師伊沢信崇

九日。磐は全家の東京に寄留せむことを静岡県庁に稟請し、兼て静岡に於ける「留守

十七日。磐等は藤沢を発し、東京鳥居坂の宗家に抵つた。

棠軒を訪うた事がある。寛斎は四月二十七日に東京より福山に往つた。

渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上に榛軒が

姉国三十、妹安二十二、柏軒の継室春四十九(以上東京)であつた。

。「会廃藩命下。正桓君例以華族。移住東京。而家制不定。衆以為非招先生不可。強以賓師委重。

)等へ書状出す。」藤陰は二年前の冬より東京に来てゐたのである。癸酉歳旦の詩の引に、「余

三日。(二月。)陰。午後晴。阿部近日東京出立に付、分家、清川、森、関藤(菓子料二百疋添)等へ

村田某へ数学稽古に行。」是月棠軒は書を東京にある関藤藤陰に寄せた。「廿三日。(二月。)陰

たび師を更へたのであらうか。是月の末に東京にある藤陰が書を棠軒に寄せた。其文はかうである。

二冊呈上仕候。御笑納可被下候。呉々も東京現今之光景如此かと御覧御一笑に付し候迄之心得に候。呉々

之教育には勿論不相成候へども、只々貴兄久々東京を御覧無之故、此文明開化やら何やら不相分、太平やら不太平

聞見(候事)も少なく、仍而思ひ候に、東京繁昌記なる者は馬鹿々々しき、何之役にも不相立、

差上度存候に、差向思付も無之、東京近来の模様、新版書冊之出来候事、次へ々々と中々承尽され

なかつたので果さなかつた。次で河村大造が東京より福山に往くに会して、藤陰は此書を託した。河村は己巳

た阿部正貫は、福山より東京に至り、直に又東京より福山に帰つた。藤陰はこれに復書を託せむとしたが

ある。棠軒の書を齎した阿部正貫は、福山より東京に至り、直に又東京より福山に帰つた。藤陰はこれに復書

未だ出でざる間であつた。六月の初に河村が東京を発する前に、藤陰は方に纔に二篇を贖ひ得たの

藤陰の書牘に添へて棠軒に贈つた新刊書は東京繁昌記である。藤陰は初二両編を併せ贈らうとした。然る

東京繁昌記はわたくしの架上に無い。わたくしは其初編二編が何時

藤陰は東京繁昌記を評し、旁明治初年の社会に論及して、「文明開化やら

乎。抑始有所倩。後失其人乎。」東京繁昌記は則初よりして疎拙であつた。「呉々も馬鹿馬

「七日。(六月。)晴。三富甚左衛門来。東京関藤先生より書状及開化繁昌誌二冊到来、右持参之事。」藤陰

此年磐の一家は東京にあつて寄留の所を変へた。良子刀自所蔵の文書に、「明治

此年東京にある森枳園が「蘭軒遺稿」一巻を刊行した。時に枳園は

冊が来た。「廿九日。(三月。)陰。東京森よりいろは字原考二冊到来。」いろは字原考は枳園の著す所

日録の筆を絶つた次の日、乙亥十一月十日に東京にある森枳園が書を棠軒に与へた。下にこれを節録する。

忖度せられる。外生活は早く寿蔵碑に、「五月至東京、是月廿七日補文部省十等出仕、爾後或入医学校為編

書中には又阿部正学の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来し

十一年徳が東京に入つた。時に年二十。

十二年徳が母柏を東京に迎へた。

二十一年磐が下総国佐倉に徙つた。東京今川小路の家より佐倉新町芝本久兵衛方に移つたのである。是

日本橋

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。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山

見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことで

、柏の師匠の許に通ふ供をした。後日本橋甚左衛門町の料理店百尺の女中になつて、金を貯へた。京は常磐津

沂は此年の武鑑に「寄合御医師、百表、日本橋榑正町」と記してある。瞻淇の家督相続は次年戊午三月に

文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門

書肆は銀座三丁目奎章閣山城屋政吉に候。政吉は日本橋通二丁目稲田佐兵衛の分家にて、塩谷宕陰の門人に候。維新後古本商

駒込

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柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂

に拠れば、霞亭が嚢里の家は今の本郷区駒込西片町十番地「ろ部、柳町の坂を上りたる所、中川謙次郎氏の

弟潤三郎はこれを読んで、駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。弟は第一

枳園は一に竹窓とも号したと見える。駒米里は駒込、華佗巷は片町であらう。時に枳園五十歳であつた。蘭軒医

池袋

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を立つることもある。森枳園一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が

墓も亦洞雲寺にあつたからである。洞雲寺は池袋丸山に徙されて現存してゐる。

目白

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合墓を立つることもある。森枳園一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の

た。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白の寺とは恐くは音羽洞雲寺であらう。枳園の祖父伏牛親徳の

をして遺骨を奉じて随ひ行かしめた。そして遺骨を目白の寺に葬つたさうである。目白の寺とは恐くは音羽洞雲寺

大崎

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何れの年であらうか。同じ補遺の巻一に女詩人大崎氏小窓の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つ

大塚

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上」と云つてある。冢不騫、名は寿、大塚氏、不騫は其字、信濃国奈賀郡駒場駅の人である。

冢は前に霞亭がために梅を書幌に画いた大塚寿である。

鶯谷

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。「夏日一何長」は小原鶯谷の句である。鶯谷は曾て吉原に於て蘭軒と相識になり、後不忍池清宜亭の詩

」の五律がある。「夏日一何長」は小原鶯谷の句である。鶯谷は曾て吉原に於て蘭軒と相識になり、後

大宮

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、少徴、右徴、質判あり、土形に上宮、大宮、加宮、少宮、左宮あり、金形に上商、※商、

渋谷

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。中村氏の報ずる所に拠れば、其地は「下渋谷羽根沢二百四十九番地」で、現住者は海軍の医官桑原荘吉さんである。

騎つたのであらう。木村が去つた後には下渋谷の某寺の隠居が住んだ。其次は杉田勇右衛門と云ふもので、此

岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋の誤であらう。扇橋は当時の町

渡辺樵山は十二月十八日に東京渋谷村に歿した。年五十三であつた。わたくしは上に榛軒が此

銀座

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云つてある。「寛政十年四月十五日生于江戸銀座街。幼而学於井四明翁。文政二年卜居於卅間濠。天保十四年

六月発兌と有之候。明治七年に候。書肆は銀座三丁目奎章閣山城屋政吉に候。政吉は日本橋通二丁目稲田佐兵衛の分家

蔵前

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家屋を傷ふ。」半蔵門渡櫓、築地西本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所霊山寺本堂が壊れ、永代橋、大川橋が損じた。

浜町

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浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某の年に此井の畔に

原宿

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頃日渋江保さんはわたくしのために志村氏を原宿におとづれ、柏軒在世の時の事を問うた。渋江氏は初見

と云つてある。今の志村氏の家は千駄谷村旧原宿町である。

上野広小路

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附記したい。一説に狩谷矩之が本所横川の津軽邸より上野広小路に移つたのは、明治五六年であつたと云ふ。しかし是は稍

真片仮名の雑書編成仕居候。(中略。)狩谷此節上野広小路へ御引越、是亦平安也。(中略。)喜多村安正類中を発す。

たのは、狩谷※斎の養孫矩之が本所横川より上野広小路に徙つた時期である。わたくしは上に此移居が明治五六年の交

月島

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、衆議院議員に選ばれ、鉄管事件に遭逢して引退し、月島に住んで古版本を蒐集するを楽とし、希覯の書数千巻

赤羽

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の寓を撤して赤羽に舎つた。当時狩谷矩之が赤羽にゐて東道主人をなしたのである。在桜日記、在羽日記

二十三年八月磐が佐倉の寓を撤して赤羽に舎つた。当時狩谷矩之が赤羽にゐて東道主人をなしたの

浦賀

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中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月

支配になつてゐる。尋で政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行

米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義

需あるがために其金を費し、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。

森氏で枳園が祖母を浦賀に失つたのは此年の事かとおもはれる。其祖母の遺骨の

、又これを他の費途に充て、又遺骨を奉じて浦賀に帰つた。

。棠軒が侍医の命を拝したのは、米艦隊の浦賀に入る前月である。

二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日(七月八日)である。棠軒が

月二十六日(七月二日)に那覇港を発して浦賀に向つた。その浦賀に入つたのは翌月三日(七月八日

十日を以て再び浦賀沖に来た。正弘等の浦賀に派した応接掛の中には、蘭軒等の総本家の当主、此

でペリの艦隊が此年甲寅正月十日を以て再び浦賀沖に来た。正弘等の浦賀に派した応接掛の中には、

永代橋

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た。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田

時前に本郷を出ることを得なかつた。これが永代橋の墜ちた時の事だと云ふのである。

を看に出た。「昼四時霊巌島の出し練物永代橋の東詰まで来りし時、橋上の往来駢※群集の頃、真中より深川

本願寺本堂、浅草蔵前閻魔堂、本所霊山寺本堂が壊れ、永代橋、大川橋が損じた。

「廿日。晴。朝五時石泉より乗船、永代橋迄、又同所より乗替、石原御屋敷へ四時過著船。森、

京橋

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藤屋一郎兵衛の家に次る。市に入て猿猴橋京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚

は本多隠岐守康融である。「鱸坊」は今の京橋区鈴木町である。本多家の上屋敷が南八丁堀にあつたから、※

両国橋

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が健に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。

神田川

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詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野富穀の如きは例として随従