大塩平八郎 / 森鴎外

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地名一覧

安土町

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筋までを西界、内本町、太郎左衛門町、西入町、豊後町、安土町、魚屋町を南界、大川、土佐堀川を北界として、一面の

内平野町

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は高麗橋を渡り、瀬田の一手は今橋を渡つて、内平野町の米店に向ふことにした。

二丁目の角から、内骨屋町筋を南に折れ、それから内平野町へ出て、再び西へ曲らうとした。

の敵を打ち退けたので、堀は会所を出て、内平野町で跡部に逢つた。そして二人相談した上、堀は跡部の手にゐ

摂津

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に主家へ注進した文書である。松平遠江守とは摂津尼崎の城主松平忠栄の事であらう。

大阪

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任ぜられて、七月に到着したのだから、まだ大阪には半年しかをらぬが、兎に角一日の長があるので、堀は

引き廻して貰ふと云ふ風になつてゐる。町奉行になつて大阪に来たものは、初入式と云つて、前からゐる町奉行と一しよに三

とはしない。又牢に入れてくれるなと云ふ。大阪の牢屋から生きて還るものゝ少いのは公然の秘密だから、病体でなく

大阪の東町奉行所は城の京橋口の外、京橋通と谷町との角屋敷

きのふ暁七つ時に、小者多助、雇人弥助を連れて大阪を立つた。そして後十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が

の米を京都に輸ることをも拒んで、細民が大阪へ小買に出ると、捕縛するのは何事だ。己は王道の大体を

看してはをられぬ。己は諸役人や富豪が大阪のために謀つてくれようとも信ぜぬ。己はとう/\誅伐と脅迫とに

驚いて逃げ帰り、父と一しよに西の宮へ奔り、又懼れて大阪へ引き返ししなに、両刀を海に投げ込んだ。

前後して大和路へ奔つた平八郎父子には出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。

けふの騒動が始て大阪の城代土井の耳に入つたのは、東町奉行跡部が玉造口定番遠藤

を出離れると、平八郎が突然云つた。「さあ、これから大阪に帰るのだ。」

求めて走るやうに引き返して行く。傍から見れば、その大阪へ帰らうとする念は、一種の不可抗力のやうに平八郎の上に加はつてゐる

られた。大岡紀伊守忠愛の預つてゐた平山助次郎、大阪から護送して来た吉見九郎右衛門、同英太郎、河合八十次郎、大井正一郎、安田

て、七月十六日から取調が始まつた。次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられ

の新小説に出した同題の記事を読んだ。そして古い大阪の地図や、「大阪城志」を参考して、伝へられた事実を時間と

討ちて弓を賜はる。伊豆塚本に采地を授けらる。大阪陣の時、越後柏崎の城を守る。後尾張侯に仕へ、嫡子をし

。名古屋白壁町の大塩氏は其後なり。波右衛門の末子大阪に入り、町奉行組与力となる。天満橋筋長柄町東入四軒屋敷に住す。

庄司義左衛門、堀井儀三郎入門す。庄司は二十七歳。水野軍記大阪木屋町に歿す。

ひ、展墓す。頼襄序を作りて送る。十一月大阪に帰る。是年松本隣太夫、茨田軍次、白井儀次郎入門す。松本

、二人の死骸は二十二日に発見せられた。そこで大阪下寺町、河内田井中村、同恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見る

恩地村の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日

が二十日の朝から二十四日の暮までの間に、大阪、田井中、恩地の間を往反したことは、殆疑を容れない。又下寺町

試みに大阪、田井中、恩地の線を、甚しい方向の変換と行程の延長とを避けて

大阪は全国の生産物の融通分配を行つてゐる土地なので、どの地方に凶

斗二升、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をし

前から、自治団体として幾分の発展を遂げてゐた大阪に、平八郎の手腕を揮はせる余地があつたら、暴動は起らなかつただら

合五勺になつた。此年の五月十二日に大阪で米屋こはしと云ふことが始まつた。貧民が群をなして米店を

の飢饉になつても、天保七年五月十二日に大阪の貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も

に於いても、天保に於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。

於いても、米屋こはしは大阪から始まつた。平八郎が大阪の人であるのは、決して偶然ではない。

曾我岩蔵 大塩若党 大阪にて捕はる

川崎

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ありながら、思の外にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺、摂津国町、又二郎町、越後町、旅籠町、南が大川

富士山

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空虚聚語、孝経彙註の刻本が次第に完成し、剳記を富士山の石室に蔵し、又足代権太夫弘訓の勧によつて、宮崎、林崎の

坦に寄せ、手書して志を言ふ。七月十七日富士山に登り、剳記を石室に蔵す。八月足代弘訓の勧により、剳記を

名古屋

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番代を命ぜらる。格之助妾橋本みねを納る。九月平八郎名古屋の宗家を訪ひ、展墓す。頼襄序を作りて送る。十一月大阪

岡崎

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にして、波右衛門と云ふ。今川氏滅びて後、岡崎の徳川家康に仕ふ。小田原役に足立勘平を討ちて弓を賜はる。伊豆

天王寺

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甲斐守景山が、各与力同心を率ゐて繰り込んだ。又天王寺方面には岸和田から来た二番手千四百余人が陣を張つた。

天満

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東は材木蔵から西は堂島の米市場までの間、天満の青物市場、天満宮、総会所等を含んでゐる。北組が二百五十町、

に集めてゐた。そのうち五つ頃になると、天満に火の手が上がつたので、急いで役宅から近い大番所へ出た。

朝五つ時に天満から始まつた火事は、大塩の同勢が到る処に大筒を打ち掛け火を放つた

余り無い日でありながら、思の外にひろがつた。天満は東が川崎、西が知源寺、摂津国町、又二郎町、越後町、旅籠町

堂島

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より更に北方に当る地域で、東は材木蔵から西は堂島の米市場までの間、天満の青物市場、天満宮、総会所等を含ん

梅田

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梅田の挽かせて行く大筒を、坂本が見付けた時、平八郎はまだ淡路町二

踏み込んだ。そして北裏の東平野町へ抜けた。坂本等が梅田を打ち倒してから、四辻に出るまで、大ぶ時が立つたので、この上下

河内

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。後に庄司は天王寺村で夜を明かして、平野郷から河内、大和を経て、自分と前後して大和路へ奔つた平八郎父子には

なら我々も是非共御先途を見届けます」と云つて、河内から大和路へ奔ることを父子に勧めた。四人の影は平野郷方角へ

ゐる。東大番頭は三河新城の菅沼織部正定忠、西大番頭は河内狭山の北条遠江守氏春である。以上は幕府の旗下で、定番の下

ゐる四人があつた。これは夜の明けぬ間に河内へ越さうとして、身も心も疲れ果て、最早一歩も進むこと

四人は翌二十日に河内の界に入つて、食を求める外には人家に立ち寄らぬやうに心掛け、

東照宮

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平八郎の書斎で、中斎と名づけてある。それから奥、東照宮の境内の方へ向いた部屋々々が家内のものの居所で、食事の

は、宇津木の最期を見届けるや否や、塀に沿うて東照宮の境内へ抜ける非常口に駆け附けた。そして錠前を文鎮で開けて、こつそり大

よ/\勢揃をすることになつた。場所は兼て東照宮の境内を使ふことにしてある。そこへ出る時人々は始て非常口

のが一つ。谷町の代官池田岩之丞に天満の東照宮、建国寺方面の防備を托したのが二つ。平八郎の母の兄、

思案橋

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、天神橋筋を少し南へ抜けて、豊後町を西へ思案橋に出た。跡部は混乱の渦中に巻き込まれてとう/\落馬した。

思案橋を渡つて、瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生の外

淡路町

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八、高麗橋、平野橋、淡路町

、平野橋の西詰から少し南へよぢれて、今淡路町を西へ退く所である。

北の淡路町を大塩の同勢が一歩先に西へ退くと、それと併行した

進む。南北に通じた町を交叉する毎に、坂本は淡路町の方角を見ながら進む。一丁目筋と鍛冶屋町筋との交叉点では、

が、敵がもう打たなくなつたので、用心しつゝ淡路町の四辻に出た。西の方を見れば、もう大塩の同勢は見え

死んだものは、黒羽織の大筒方の外には、淡路町の北側に雑人が一人倒れてゐるだけである。大筒方は大筒の側に

な拵の大小を帯びてゐる。高麗橋、平野橋、淡路町の三度の衝突で、大塩方の死者は士分一人、雑人二人に過ぎない

跡部が淡路町の辻にゐた所へ、堀が来合せた。堀は御祓筋の会所で

では十三四人になつてしまふ。そのうち瓦町と淡路町との間で鉄砲を打ち合ふのを見て、やう/\堺筋を北

跡部は堀と一しよに淡路町を西へ踏み出して見たが、もう敵らしいものの影も見えない。そこ

至る。鴻池等を襲ふ。跡部の兵と平野橋、淡路町に闘ふ。二十日夜兵火息む。二十四日夕平八郎父子油懸町美吉屋五郎兵衛

安田図書 伊勢山田外宮御師 淡路町附近にて捕はる

奥州

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奥州       28

九州

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門人中学力の優れた方である。此宇津木が一昨年九州に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町の医師

赤坂

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同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた米商富人の家が千七百戸に及んだ

高槻

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た時は、城内の士卒の外に、尼崎、岸和田、高槻、淀などから繰り出した兵が到着してゐる。

は岸和田から来た岡部内膳正長和の一番手二百余人、高槻の永井飛騨守直与の手、其外淀の手が備へてゐる。

ある。此門は定番遠藤が守つてゐる。これに高槻の手が加はり、後には郡山の三番手も同じ所に附けられた

内本町

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東界、上大みそ筋から下難波橋筋までを西界、内本町、太郎左衛門町、西入町、豊後町、安土町、魚屋町を南界、大川、土佐

西横堀川

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跡に残つた人々は土佐堀川から西横堀川に這入つて、新築地に上陸した。平八郎、格之助、瀬田、渡辺、

江戸

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のであつた。迎方とは新任の奉行を迎へに江戸に往つて、町与力同心の総代として祝詞を述べ、引き続いて其奉行

土地に置くのも心許ないと思つたのである。そこで江戸で勘定奉行になつてゐる前任西町奉行矢部駿河守定謙に当てた私信を書い

私信を書いて、平山にそれを持たせて、急に江戸へ立たせたのである。平山はきのふ暁七つ時に、小者多助、

立つた。そして後十二日目の二月二十九日に、江戸の矢部が邸に着いた。

出来て、前には腫物に障るやうにして平山を江戸へ立たせて置きながら、今は目前の瀬田、小泉に手を着けようとする

取止になつたには、仔細がなうてはならぬ。江戸へ立つた平山の所為だ。」

遣つてゐる為事が気に食はぬ。幕命によつて江戸へ米を廻漕するのは好い。併し些しの米を京都に輸ること

で自首し、父柏岡と高橋とも自首し、西村は江戸で願人坊主になつて、時疫で死に、植松は京都で捕はれた。

大塩平八郎が陰謀事件の評定は、六月七日に江戸の評定所に命ぜられた。大岡紀伊守忠愛の預つてゐた平山助次郎、大阪

ね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を

利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽、江戸で西村を弟子にした橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬

た西村、人に殺された格之助、小泉を除き、彼江戸へ廻された大井迄悉く牢死したので、磔柱には塩詰の死骸

ゐる。平八郎はそれを憤つた。それから幕府の命令で江戸に米を回漕して、京都へ遣らない。それをも不公平だと思つた

、京都へ遣らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極僅少であるから、

年の春は寒気が強く、気候が不順になつて、江戸で白米が小売百文に付五合になつた。文政頃百文に付

騰貴である。四年には出羽の洪水のために、江戸で白米が一両に付四斗、百文に付四合とまでなつた。卸値

二石であつたのである。五年になつても江戸で最高価格が前年と同じであつた。七年には五月から寒くなつて

寒くなつて雨が続き、秋洪水があつて、白米が江戸で一両に付一斗二升、百文に付二合とまでなつた。

、百文に付二合とまでなつた。大阪では江戸程の騰貴を見なかつたらしいが、当時大阪総年寄をしてゐた

八年の初になつても依然としてゐた。江戸で白米が百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の

勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五升俵として換算すれば、一両に付三斗

天明の飢饉と云ふのがあつた。天明七年には江戸で白米が一両に付一斗二升、小売百文に付三合五勺

米店を破壊したのである。同月二十日には江戸でも米屋こはしが起つた。赤坂から端緒を発して、破壊せられた

貧民が米屋と富家とを襲撃し、同月十八日には江戸の貧民も同じ暴動をした。此等の貧民の頭の中には、

西村利三郎 河内志紀郡弓削村百姓 江戸にて願人となり病死す

塩詰にした屍首を磔柱、獄門台に懸けた。江戸で願人坊主になつて死んだ西村丈は、浅草遍照院に葬つた死骸が

天照皇大神宮

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は救民と書いた四半の旗である。次に中に天照皇大神宮、右に湯武両聖王、左に八幡大菩薩と書いた旗、五七の桐

天満宮

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西は堂島の米市場までの間、天満の青物市場、天満宮、総会所等を含んでゐる。北組が二百五十町、南組が二百六十一町、天満

でございます。あくる朝父は弟の謹之助を連れて、天満宮へ参ると云つて出ましたが、それ切どちらへ参つたか、帰りませ

、夫婦町の四辻から綿屋町を南へ折れた。それから天満宮の側を通つて、天神橋に掛かつた。向うを見れば、もう天神橋

伊勢

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美吉屋五郎兵衛、同つね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛

河内国

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、暇乞をした。後に白井は杉山を連れて、河内国渋川郡大蓮寺村の伯父の家に往き、鋏を借りて杉山と倶に

二十二日の事であつた。社のあつた所は河内国志紀郡田井中村である。

の三箇所を貫いて線を引いて見ると、大阪から河内国を横断して、大和国に入る道筋になる。平八郎が二十日の朝から

八幡大菩薩

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中に天照皇大神宮、右に湯武両聖王、左に八幡大菩薩と書いた旗、五七の桐に二つ引の旗を立てゝ行く。次

天満橋

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東照宮附近の与力町に出て、夕七つ時には天満橋筋長柄町を東に入る北側の、迎方東組与力朝岡助之丞が屋敷で休息

長崎

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に遊歴して、連れて来た孫弟子がある。これは長崎西築町の医師岡田道玄の子で、名を良之進と云ふ。宇津木に連れ

京都

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心血を灑いだ詩文稿が借してある。君は京都へ往つてそれを受け取つて、彦根にゐる兄下総の邸へ往

自撰した。それを今書いて君に遣る。それから京都東本願寺家の粟津陸奥之助と云ふものに、己の心血を灑いだ

、こつそり大塩の屋敷を出た。岡田は二十日に京都に立ち寄つて二十一日には彦根へ着いた。

へ米を廻漕するのは好い。併し些しの米を京都に輸ることをも拒んで、細民が大阪へ小買に出ると、

のである。後に彼等が縛に就いたのは京都であつたが、それは二人の妾が弓太郎を残しては死なれぬ

は江戸で願人坊主になつて、時疫で死に、植松は京都で捕はれた。

に上りて大溝より坂本に至り、風波に逢ふ。秋頼襄京都に病む。平八郎往いて訪へば既に亡し。是年宮脇いくを養ひて

三年壬辰 平八郎四十歳。四月頼襄京都より至り、古本大学刮目に序せんことを約す。六月大学刮目に自序す

比すれば、京都の米の需要は極僅少であるから、京都への米の運送を絶たなくても好ささうなものである。全国の

不公平だと思つた。江戸の米の需要に比すれば、京都の米の需要は極僅少であるから、京都への米の運送を絶た

。それから幕府の命令で江戸に米を回漕して、京都へ遣らない。それをも不公平だと思つた。江戸の米の需要に

百俵百十五両、小売百文に付二合五勺、京都の小売相場も同じだと云ふ記載がある。江戸の卸値は二斗五

大井正一郎 玉造口与力倅 京都にて捕はる

橋本忠兵衛 摂津東成郡般若寺村庄屋 京都にて捕はる

植松周次 瀬田若党 京都にて捕はる

作兵衛 天満北木幡町大工 京都にて捕はる

橋本氏ゆう 実は曾根崎新地茶屋町大黒屋和市娘ひろ 京都にて捕はる

奈良

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出逢はず、大阪へ様子を見に帰る気になつて、奈良まで引き返して捕はれた。

義左衛門 河内丹北郡東瓜破村助右衛門実子、東組同心養子 奈良にて捕はる

金沢

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定番二人のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江

仙台

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五郎兵衛、同つね、其外西村利三郎を連れて伊勢から仙台に往き、江戸で利三郎が病死するまで世話をした黄檗の僧剛嶽

蒲生

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自分が出ることにし、小頭の与力二人には平与力蒲生熊次郎、本多為助を当て、同心三十人は自分と同役岡との組から

掛で、十文目筒を持つて土橋へ出向いた。蒲生と同心三十人とは揃つてゐた。本多はまだ来てゐない。

不平に思つたが、それでも馬一頭を借りて蒲生を乗せて、大筒を取り寄せさせに、玉造口定番所へ遣つた。

をらぬので、四人は遠藤にことわつて、蒲生と一しよに東町奉行所へ来たのである。跡部は坂本が手の者と

口へ往つた蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、大筒の事を言上すると、遠藤は岡

が出た跡の東町奉行所へ、玉造口へ往つた蒲生が大筒を受け取つて帰つた。蒲生は遠藤の所へ乗り付けて、

て、瓦町を西へ進む坂本の跡には、本多、蒲生の外、同心山崎弥四郎、糟谷助蔵等が切れ/″\に続いた。

連れて帰り、跡部は城へ這入つた。坂本、本多、蒲生、柴田、脇並に同心等は、大手前の番場で跡部に分れて、

信濃町

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の会所に案内した。油懸町の南裏通である。信濃町では、一同が内山の出した美吉屋の家の図面を見て、

ゐると、内山の使に同心が一人来て、一同を信濃町の会所に案内した。油懸町の南裏通である。信濃町では、

浅草

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た橋本町一丁目の願人冷月、西村の死骸を葬つた浅草遍照院の所化尭周等が呼び出されて、七月十六日から取調が

た。江戸で願人坊主になつて死んだ西村丈は、浅草遍照院に葬つた死骸が腐つてゐたので、墓を毀たれた

日本橋

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す。竹上一人を除く外、皆屍なり。十月江戸日本橋に捨札を掲ぐ。

京橋

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の島町通には街を隔てて籾蔵がある。北は京橋通の河岸で、書院の庭から見れば、対岸天満組の人家が一目

大阪の東町奉行所は城の京橋口の外、京橋通と谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側にあつた。東

大阪の東町奉行所は城の京橋口の外、京橋通と谷町との角屋敷で、天満橋の南詰東側

出すことにした。集合の場所は土橋と極めた。京橋組への伝達には、当番与力脇勝太郎に書附を持たせて出し

持つて東町奉行所へ出て来い。又同文の命令を京橋組へも伝達せいと云ふのである。坂本は承知の旨を答へて

てゐた畑佐は、跡部に二度催促せられて、京橋口へ廻つて東町奉行所に往くことにして、先へ帰つたの

十一月に任命せられて、まだ到着せぬので、京橋口も遠藤が預りになつてゐるからである。広瀬は伝達の書附

治左衛門、馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達した。これは京橋口定番米津丹後守昌寿が、去年十一月に任命せられて、まだ到着

坂本の使者脇は京橋口へ往つて、同心支配広瀬治左衛門、馬場佐十郎に遠藤の命令を伝達し

そこへ京橋口を廻つて来た畑佐が落ち合つて、広瀬を引き止めて利害

て東町奉行所の門前に出た。そこには広瀬が京橋組の同心三十人に小筒を持たせて来てゐた。

「京橋組でござります」と広瀬が答へた。

休息した。部下を失つた広瀬は、暇乞をして京橋口に帰つて、同役馬場に此顛末を話して、一しよに東町奉行所

組衆四十六人、与力十騎、同心二十人がゐる。京橋組、玉造組、東西大番を通算すると、上下の人数が定番二百六十四人

着任しない京橋口定番米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる玉造口定番遠藤は近江三上の城主である。

ある。其下に居る定番二人のうち、まだ着任しない京橋口定番米倉は武蔵金沢の城主で、現に京橋口をも兼ね預かつてゐる

略同数の二番手は後にここへ参着して、京橋口に遷り、次いで跡部の要求によつて守口、吹田へ往つた。

の丸である。西の丸の北、乾の角に京橋口が開いてゐる。此口の定番の詰所は門内の東側にある。定番

京橋口定番の詰所の東隣は焔硝蔵である。焔硝蔵と艮の角の

四つ橋

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一行は暫く四つ橋の傍に立ち止まつてゐた。其時平八郎が「どこへ死所を