晶子鑑賞 / 平野万里
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武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。まだバスなどのない時分で、境から歩いて
のない時分で、境から歩いて行つたのである。深大寺は余程古い寺でもあり、その環境もよかつた。当時は人も行か
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街角で落合ふ約束だつた人がどうしても見えない、その内に雪が降り出し
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ない。しかし寒いのは旅の女許りではない、この甲州の寒さでは、水晶さへ鉱区の穴の中で痩せ細ることだらう。
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十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は
磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の
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大正七年秋十一月九州に遊んだ折の作。清正は武人でありながら算数に明るく土木建物に長じ
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これは松戸の園芸学校の花畑を歌つたものである。季節は虞美人草の咲く初夏のこと
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五月の若葉時の足柄は好天必ずしも続かず雨や霧の日も多い。その霧の足柄山を
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霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。しかし秋も
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昭和八年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。白山は加賀の白山で、白山は雪が積
年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。白山は加賀の白山で、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山
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来た。山荘だからよかつたものの、このうしろの天城山へでも飛んだのだつたらどうだらうといふ即事のユウモアであるが、このユウモア
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仁和寺の築地のもとの青蓬生ふやと君の問ひ給ふかな
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伊豆伊東に近い大室山の麓にこの頃一碧湖といはれてゐる吉田の大池がある。その丘陵上
伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。島谷さんの抛書山荘から歩いて行ける。この歌の
に寐た。私も少し若かつたら窗から見える筈の大室山の頂きに対して或は心の丈を訴へたり不満を洩らしたりしたかも
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有馬での作。何々坊といふのは有馬の湯の宿特有の名でその
有馬での作。何々坊といふのは有馬の湯の宿特有の名でその広大な構へと相俟つてこの温泉の
てこの温泉の古い歴史と伝統とを誇示してゐる。有馬には桜が多くその散り方の壮観が思はれるが、それが坊名を
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大阪の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏
空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙もここから見れ
と空を掩ふ様な大阪の煤煙もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。その煙霞といつた
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九月陸前青根に遊んだ時の作。青根の奥深く、蔵王の麓でもあらうか峨々といふ恐ろしく熱い山の温泉のあることを聞いて
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岡崎の大極殿の屋根渡る朝烏見て茄子を摘む家
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柏峠は伊東から大仁へ越える峠で作者が、良人と共にいく度か通つた所で
は出来なかつた。私は作者の晩年、機縁熟して伊東に小菴を結び尚文亭と名づけ、日夕海を見て暮すことが出来る
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その帰途、紅丸が明石の門にかかつた時雪が降り出した。よい時によい雪が降り出し
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白山に天の雪あり医王山次ぎて戸室も酣の秋
、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山これも冬景色に近い、次が前の戸室だが、ここは今秋酣で
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たものださうである。この歌は昭和六年二月筑波山へ登り霞が浦を渡つて鹿島へ参詣された時の歌。「桃浦」は
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であるから私はどこ迄も聖護院にして置きたい。聖護院でなければ調子が出ない。この歌の眼目は鴨川に臨む青楼らしい家の
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渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐて之もその一つである。それらは
となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の歌である。芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつ
である。芒と葦の中を水勢稍急に美しく流れる玉川であつた。夏の日も暮れて薄月がさしてゐる。岸には男
、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうに
それを斯ういふ形で表現したわけだ。あの辺から玉川へかけては昔の武蔵野の俤が残つてゐて野馬でも遊んで
このきりぎりすも昼鳴く虫※で、今でも玉川の土堤へ行けばこの光景が見られる。しかし見てもなかなか歌へる光景で
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下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。こんな歌
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昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが
昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが、それが見事
昔の大阪、水の大阪、その大阪の春の情調を表現しようといふ試みであらうが、それが見事に成功し
が、そこへは沢山の川が流れ込んで消えてしまふ。大阪を流れる春の水の心持は流沙へ流れ込む水のそれに似てゐるやうに
居る理由もここに存するのである。水の縦横に流れる大阪の生態は作者の喜ぶものの一つであつたと見え、晩年こんな作も
清きにも由らず濁れることにまた由らず恋しき大阪の水
大阪に道修町といふ薬屋許りの町がある。この間夫君と時を同じくして
大阪の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏
六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んで
六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な
金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した
年寄許りの席で老妓の昔話を聞いたことがある。大阪の話である。一つは滑らかな大阪弁がさうさせたのでもあつ
八年八月高野山の夏期大学の講義を終へた夫妻は大阪へ出て然る人の饗宴に列した、南地宗右衛門町の富田屋らしい。教坊の
ある。涼しい結界即ちいとも神聖な山から降りて来て暑い大阪の夏の夕に出会はした。しかもその夕たるや教坊楽とべに
一つであつたらしい。この歌は大正九年五月大阪に行かれた時蘆辺踊りか何かを見て作つた歌。田簑の島
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湯が島に行かれたが、その道で 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の橋を越ゆれば伊豆寒くなる と詠まれ、又著い
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ゐるが、他の三方は皆山で、特に東方は上信越の山々が屏風を重ねたやうに屹立して居る。成るほどさう云はれて
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赤倉へ遊んだ時の作。落日をその背面に収めた妙高山の紫の影が山肌の草にしみ入る様を正叙したものであるが、光景は
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。聖護院でなければ調子が出ない。この歌の眼目は鴨川に臨む青楼らしい家の春の朝の情調を伝へるにある。その為には
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東山青蓮院のあたりより桃色の日の歩み来るかな
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十二年の夏伊豆の下田での作。夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな光景を
ばめでたかるべし ありし日の蓮台寺まで帰る身となりて下田を行くよしもがな などがある。
それが先生の最後の旅行になつてしまつた其の件、下田から白浜へ来て作られた歌の一つ。びちやびちや打ち寄せる静かな
の湯とは蓮台寺温泉の事でもあらうか。今夜は下田へ行つて泊らうと宿を出て、理髪屋の前で下りの馬車を
蓮台寺から下田へ来ての感想であるが、「海といふ低き世界」は今では
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亡き人の札幌と云ふ心にて降りし駅とも人に知らるな
この亡き人は有島武郎さんのことで有島さんは札幌出でもあり、又ここの大きな耕地を相続されたのを小作人に
して処分されたこともある。そこで亡き人の札幌となる。武郎さんと晶子さんとは暫時ではあつたが心と心と
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去つた時は決して帰ることは無いのである。この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人
皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に
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松前や筑紫や室の混り唄帆を織る磯に春雨ぞ降る
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畔の精進ホテルに山の秋を尋ねた時の作。富士山麓の十月は相当寒い。旅の女は炉辺が放れられない。しかし寒いのは
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忘れ、心静かに木高い杉並辺には今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。上から見る
大きくなつたことは如何だ。それとも知らず君は武蔵野の地下深きこと八尺の臥床に今なほ眠つてゐるといふので、
十二月の冬の月が武蔵野の葉を落した裸木と家根とを白く冷くしかし美しく照してゐる、それ
茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の
武蔵野は百鳥栖めり雑木の林に続く茅草の原
この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿も
君が行く天路に入らぬものなれば長きかひなし武蔵野の路
。君の辿られる天路へ之が通ずるものならこの長い長い武蔵野の路もその甲斐があるのだがと、この一些事さへ立派な歌材
移り住む寂しとしたる武蔵野に一人ある日となりにけるかな
つた時代のことであるから肯かれる。その寂しい思ひ出のある武蔵野に一人取り残されたのである。
を見に行つたことがある。その頃の草茫々たる武蔵野を大風の吹きまくつて居た光景がこの歌を読むとどうやら現はれて
武蔵野の風の涼しき夜とならん登場したり文三と月と
したわけだ。あの辺から玉川へかけては昔の武蔵野の俤が残つてゐて野馬でも遊んでゐさうな心持がして
武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。まだ
生えてゐるつまらない青蓬が私の心を惹く、大方武蔵野のそれを思ひ出させるからであらう。
霧島にあれど子等ある武蔵野の家を忘れず都を忘る
来る。大石橋から営口へかけた沙地では時折例の武蔵野の逃げ水の様な現象が見られる、理由はよく分らないと人のいふの
武蔵野にある久保田氏の都築園といふのに遊んだ時の作。その中
あるが別に皮肉ではない。さうして反つてよく武蔵野の晩秋の光景があらはれてゐる。
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第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。低くて手が
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正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも
近年「紙銭を焼く」といふ歌集を出してゐる。琉球の郷土色が濃厚に出て居て珍しい集である。
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寺崎廣業氏の山荘を禅寺にしたらしく信州渋の上林にある。小さくとも寺であるから主家を御堂と呼び、その上の空に山々の
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の声諸行無常の響ありといふ、平家の書き出しから進んで道成寺の文句となり、甚だ耳に親しくなつてゐる鐘声にこもる四句の偈中
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妙高は良人と共に幾度か遊んだ処であるから感懐も深いものがあつたらう
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丹後与謝の大江山辺の景色。ここからは下に橋立浜の絶景も見える。両者を見較べて
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言はない。この歌に似た趣きのものが、嘗て上林温泉に遊ばれた時のにもある。曰く 上林み寺の禅尼放胆に物
同じ行赤倉を出て渋の奥にある上林温泉へ廻つたが環境がもの足りなかつたのでも少し奥へ這入りたか
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美くしき秋の木の葉の心地して島の浮べる伊予の海かな
この場合にはそれは何であらうか。作者はこの日伊予と阿波との国境を目指して車を駆つた。そんな経験はめつたにない
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大正十二年七月夫妻は富士五湖に遊んだ。精進ホテルはあつたが外人の為に出来てゐたので
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能登の和倉温泉での作。この歌の中には実際櫓の音がして
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た他の例に 百斤の桜の花の溜りたる伊豆のホテルの車寄せかな といふのがある。熱海ホテルでの歌である
十二年の夏伊豆の下田での作。夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな
之も伊豆の吉田の大池の畔でよんだ作。月も這入つた様だし風が
大島が雪積み伊豆に霰降り涙の氷る未曾有の天気
は極めて難しいわざで先づ成功は望めない。平生暖かい筈の伊豆に一日寒波が襲来し、椿の大島に雪が積り、伊豆山には霰
富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の
で 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の橋を越ゆれば伊豆寒くなる と詠まれ、又著いては 湯が島の落合の橋勢子
は作者の最も親しい友人の一人有賀精君の本拠で、伊豆の吉田の抛書山荘と共に何囘となく行かれ、ここでも沢山の
伊豆の大島の様なのどかな風光を描出する歌。椿と、少女と、水
六十三の誕生日が祝はれた。即ち 浅ましや南の伊豆に寿し君が六十三春かこれ といふのがそれであるが、この行
ラヂオの録音以外には聴いた事がない。このほととぎすは伊豆の吉田のそれで私の隠宅尚文亭で毎年聞くものと同じものらしく、少しく
伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。島谷さんの抛書山荘から歩いて
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箱根の湯本で之もお弟子の鈴木松代さんの経営する吉池の奥の別棟に
二つ前のそれと同じ時湯本で早春の箱根に雲の往来する姿を朝夕眺めつつ、或時は雲にして山に
箱根風朝寒しとはなけれども生薑の味す川より吹くは
箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。山の愁は
松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁
少し宜しいと云つて下さい。言伝はそれ丈です。之も箱根の歌。
たこれからの私のあるべきやうは。それは唯この箱根の藤の花の、時過ぎては乾くやうに日々少しづつ衰へて行けば
文 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。その中の一通にひどく昔を思ひ出さ
大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。この時の宿は塔の沢ではないかと思つて
の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つ
に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へ
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姥捨の長楽寺での作。寺を正抒しては 秋風が稲田の階を登りくる
抒しては 秋風が稲田の階を登りくる姥捨山の長楽寺かな となるのであるが、それだけでは情景があらはれない。そこ
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少し許り改訂を試みたい。即ち軍に関係したものや満洲開拓の分などは削りたい。さうすると巻尾の歌はこの歌になるで
柳絮が舞ひ、雲雀が縫ふ様に飛んでゆく。満洲らしいのびのびした光景である。日本ではそんな低い所を雲雀は飛ばない。
所を雲雀は飛ばない。日本なら燕であるべき所が満洲では雲雀なのであるが、雲雀に突かれるとは面白い。
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天草の西高浜の白き磯江蘇省より秋風ぞ吹く
を見てゐると快い初秋風が吹いて来る。対岸の江蘇省から吹いてゐるのだから、潮の匂ひの中には懐しい支那文化の匂
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秋水戸に遊んだ時の作。今の公園、昔の水戸城内の建物の名を二つ並べただけのことだが、その並べ方が
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馬遣れば山梨えごの白花も黄昏時は甘き香ぞする
さすがに甘い匂ひが感ぜられるといふのではなからうか。山梨えごの花なるものを知らないからはつきりは分らない。
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足る如く春吹く芽をば見歩きぬ高井戸村の植米と我
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同じ時鞍馬山に遊んだ作の一つ。貫主僧正が御弟子さんなので屡※遊ば
鞍馬山での歌。そこに義經を祭る義経堂がある。その前で祈つてゐる女
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てしまふのであるが、冬も進んで今朝は特に寒く叡山に薄雪が見える、恋人に寒い目をさせまいと暖かい朝粥を食べさせて
出来ないであらう。兼常博士に教はつたことだが、叡山に何とか懴法会の行はれる日は粥接待といふ行事があるさうで
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景色である。終日山を行つて終日山を見ず、萩を折り芒を採つてどこまでも行きたい様な心持を作者に起させた
なつかしき萩の山辺の白雲をおしろい取りて思ふ人かな
雫する好文亭の萩の花清香閣の秋風の音
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北海の唯ならぬかな漲るといふこと信濃川ばかりかは
千里の海を飛ぶ鴎ではあるが大きくとも尚狭い、信濃川を侮るけしきなく、羽づくろひをして力一杯に飛んで居る。これは同時
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寺泊馬市すてふ海を越え佐渡に渡さん駒はあらぬか
いふので表がざわめいてゐる。一躍して海を越え佐渡に渡すことの出来るやうな駿馬が多くの中には一頭位居ないであらう
駿馬が多くの中には一頭位居ないであらうか。佐渡には旧友渡邊湖畔さんが蹲つて居られるが、私が突然行つて
として洵に申し分のない出来だ。真野の山陵は佐渡に残された順徳院のそれである。作者は二囘佐渡に遊びその度
大海に縹の色の風の満ち佐渡長々と横たはるかな
佐渡といへば或るものは金山を思ふであらう。近頃の人ならおけさを思ふで
あらう。近頃の人ならおけさを思ふであらう。作者はしかし佐渡へ渡らんとして第一に思つたのは順徳院の御上であつた
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次第に囘復し翌年の夏には起き上ることが出来、やがて上野原の依水荘へ出養生に行かれるまでになつた。精神力も著しく囘復し、
之はまだ健康体であつた十四年の正月、上野原の依水荘での作。窓から冬枯の川原が広広と見渡され、千鳥が
た、又遠過ぎることになつてしまつた。移動は上野原が最大限であつた。その事を私は今でも残念に思つてゐる。
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穂芒や琵琶の運河を我は行く前は粟田の裏山にして
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としてやがてクラシツクとなるであらう。さうして神楽や催馬楽の場合に亜がう。
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たのである。又その時の歌に わが友と浅間の坂に行き逢ふも恋しき秋に似たることかな といふのも
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粟津より石山寺に入る路の白き月夜となりにけるかな
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て鹿島へ参詣された時の歌。「桃浦」は土浦の前の入江の名であらう。さて船へ乗らうとするとその待つて
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は致し方がないが、まあ意味はどうでも宜しい。赤石岳と船大工の取り合せが面白いので私は之を愛誦する。
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十和田湖の有名な和井内姫鱒孵化場の光景である。あの清冷氷の様な十和田湖
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で、今更鑑賞もをかしい位のものだが、いへば堺の生家を思ひ出した歌で海は静かな大伴の高師の海である。
ことだらうと思ふが、或は商号かも知れない。兎に角堺の町の商家に違ひない。互に近所同志で、同じ年頃の娘があつ
堺の駿河屋の土蔵の中で更科日記か何か取り出して読んでゐる町娘の
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阿修羅在大海辺と云ふことも思ふ長者が崎の雨かな
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本によつては聖護院が方広寺になつてゐる。五条辺に聞こえるものとしてはその方がよい理由で
音を打ち消さうとしていよいよ強く降り出す光景である。方広寺の環境がよく偲ばれる歌だ。この時は又 奥山の白銀の気が
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誰にでもよいから試みに須磨にて桜の咲くのを見て詠めるといふ前書の歌を作らせたらどうで
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を覚えて居る。しかしこの歌を読むとやはり当時のあの赤城の宿らしい感じがする。客など殆どなくその代りに霧が来て室を
に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの産業になつてゐた。その大沼
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ものだが、それに具体性を与へて印象を深めるために高野山の得度式を持ち出したわけであらう。音楽的にも相当の効果をあげてゐる
高野山のムゼウムの覚束ない照明をそしり、鳥羽院の皇后が難阿含経を手写し、
暗くて字体の鑑賞も出来ないと訴へるのである。高野山では親王院に宿られ沢山歌をよまれてゐるが余りよいのはない
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君に文書かんと借りしみ吉野の竹林院の大硯かな
伊予路より秋の夕暮踏みに来ぬ阿波の吉野の川上の橋
昭和三年の晩春吉野に遊び後醍醐帝の延元陵に参られた時如意輪堂の僧でもあらうか
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は時の作用で悲しみも大分薄らいで居られたが、軽井沢へ著いて歩いて見るとまた急に昔が思はれて、私は今かう
咢堂先生を嘗て莫哀山荘に御尋ねした時軽井沢では梅雨期にはほととぎすが喧しい位啼くといふ御話であつた。私
軽井沢には何度か行かれたが、之は昭和五年頃の作である。
はしてもこの高さには至り得ない。これも軽井沢での作。
軽井沢の奥の三笠山邑の光景で、昼なほ暗い程繁り合つた雑木林の心
尾崎咢堂先生の軽井沢の莫哀山荘は夫妻が吟行の途次必ず立ち寄る処で、私も一度御伴をし
を書いてゐるので一寸思ひ出して見る。それはある夕方軽井沢の莫哀山荘に尾崎先生を御尋ねしたその帰りに沓掛駅まで歩いて来た
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しない。僅に二種の小さい灯を比較するだけで越後平野を見渡す妙高の夜景をぼんやりではあるが描出してゐる。
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京の衆に初音まゐろと家毎に鶯飼ひぬ愛宕の郡
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比叡の嶺に薄雪すると粥くれぬ錦織るなる美くしき人
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これはロンドンの動物園で子供達が象や駱駝に乗つて遊んでゐるのを見て作
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千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成し
之は富士見町の家の書斎の光景、離れの様に突き出した狭い書斎に夫妻は机を
素人としては雅致なしとしない幾枚かを作り富士見町の壁に懸けてゐたことがある。それも作者が造形芸術家として
これは富士見町の崖下の家の実景で、秋の終りともなれば崖上の木の葉、
海が寄せてでも来たやうな心持になつた。富士見町の家の直ぐ上に金春の舞台があつて鼓の音はそこから常に
火を思ひ、フランチエスカの出場となるので、斯うなれば富士見町の崖下に捨去られた一本のストオヴも大したものである。
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梅花の日清和源氏の白旗を立てざるも無き鎌倉府かな
抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府の字の如きも之を使ひこなし得る人もう一人あらうとも思は
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十一年の仲秋岩代に遊び猪苗代湖に泊して詠んだ歌の一つ。猪苗代は緯度からい
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恋人同志の小葛藤である。「壬生狂言」は京の壬生寺の行事となつてゐる一種の黙劇で決して物を云はない。即ちおこつて
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これは寂光院に入られた建禮門院の上である。後白河法皇の大原御幸は卯月二十
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久能の日本平で晴れ渡つた早春の富士山を見て真正面から堂々と詠出した作。私はそこへ登つたことは
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禅院は鎌倉の円覚寺を斥し、それは作者が好んで訪れ、又故寛先生の
歌で、この海もまた作者に最も親しい海である。鎌倉の海を思ふと直ちに私の口から出て来る歌がある。それは
直ちに私の口から出て来る歌がある。それは 鎌倉の由井が浜辺の松も聞け君と我とは相思ふ人 といふ歌
の日といふほどの意味で忌日を斥し、その日鎌倉を行くに梅咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉
咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉らしく抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府
て 天地にものの変などありしごと梅連りて咲ける鎌倉 とも又 鎌倉の梅の中道腰輿など許されたらばをかしからまし とも
の変などありしごと梅連りて咲ける鎌倉 とも又 鎌倉の梅の中道腰輿など許されたらばをかしからまし ともある。お寺
などの作がある。同夜は海浜ホテルに泊られ 鎌倉の梅の中より鐘起る春の夕となりにけるかな の作が
一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、 この磯の一つの烏百羽
昭和十年作者夫妻は鎌倉の海浜ホテルで最後の正月を過ごされた。一日鶴が岡八幡に参詣して
初春に乗る鎌倉の馬車遅し今年の月日これに似よかし
とかドロシユケとかいふのであらう簡易な馬車が不思議に鎌倉にだけ残つてゐて見物人を便した、夫妻も正月気分で物好に
その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれ
鎌倉の様な処へ出養生に行つてゐる少女の歌である。逢へるだら
鎌倉の様な海浜の夏の逢引で、少し待たされた男の言ひ分で面白い
事もなく鎌倉を経て逗子に著き斯くぞつぶやく「昔は昔」
暫く別居して鎌倉に住んだことがあつた。あの時はひどかつた。今日は事もなく
あつた。あの時はひどかつた。今日は事もなく鎌倉を通り過ぎて逗子に著いた。それが少し変にも思はれる。そこで昔
これは鎌倉の海岸で作者が見賭した一静物を歌つたものではあるが、実
を捕へてしきりに話をしてゐた。その時鎌倉の方から一台の自動車が来て腰越へ向つて去つた。それを見
大町の辻読経をば二階にて聞く鎌倉の夕月夜かな
あつて、自分の借りてゐる二階まで聞こえて来る。鎌倉は爽やかな初夏の夕月夜だ。それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月
は爽やかな初夏の夕月夜だ。それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月の光のやうにさしてゐる。
同じく鎌倉での作。海に出る白塗の門が固く閉ざされてゐる。死なうと
見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然と
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鵠沼の松の敷波ながめつつ我は師走の鶯を聞く
は今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。上から見ると海の波の様にも見えると
あらう。何時の初冬であらうか、私も御いつしよに鵠沼に行つて皆で歌を詠んだことがあるが、この歌を読むと寝
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な神経が暫時の不調和をも許さなかつたからである。阿蘇の大草原に放牧されてゐる牛の群の争ひを知らずに生きて
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何という変り方だ。実際その前年も故人と共に塩原に遊んで、君の初夏我の初夏を経過してゐる位だから感慨も
の小僧誰も知つてゐる短いお経である。しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響き
これも塩原の朝の小景。散り際の一重の深山桜が峰々にあちこち残つてゐる
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筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し諏訪蓼科は立縞の雨
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いかにで切る。鹿島の事触れとは、正月の行事の一つ、鹿島大明神の神話と称し神主姿
は昭和六年二月筑波山へ登り霞が浦を渡つて鹿島へ参詣された時の歌。「桃浦」は土浦の前の入江の名
さあ乗るべきか止めるべきか、せめてこれから詣らうとする鹿島の神の事触れでもあれば心が極るのに、その前触れもなく困つてしまふと
に、その前触れもなく困つてしまふといふのである。鹿島の事触れなどいふ古い行事を知つて居てその場所に生かして使はれた
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人の少い北海道を旅しつづけ今帰らうとしてホテルから見れば連絡船に美しき灯が這
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長岡の東山をば忘れめや雪の積むとも世は変るとも
雪の長岡へ来て故人と共に遊んだ往年の秋を思ひ出し、雪景色とはなつたが
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霧島も霧の如くに時流れ昔の夢となりぬべきかな
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してゐてこの歌の通りであつたらしく幾許もなくマルセイユから乗船してまた一人で帰朝されたのであつた。
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澁川玄耳さんが山東省へ行つたきり遂に帰つて来ない。しきりに蘭を蒐集して閑を遣る
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でなく美術をさへ解して居た様で、その作る所名古屋城にしても熊本城にしても立派な美術品である。高く自ら標榜する光悦
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哀らしい弟分としか映らなかつた。今でも啄木を思ふと両国の明星座の楽屋で鶯笛を吹いた可哀らしい啄木が浮んで来る。この歌で白玉
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禅院のそとの高松水色に霙けぶりて海遠く鳴る
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伽藍過ぎ宮を通りて鹿吹きぬ伶人めきし奈良の秋風
し」となつてゐて擬人とまで行つて居らず、奈良を吹く秋風が伽藍の中でも、お宮の中でも伶人らしく振舞
がなくはない。 白銀の目貫の太刀を下げ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ といふ歌がそれであるが、
擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。
さんの抛書山荘から歩いて行ける。この歌の舞台で、奈良の三笠の山を大きくし粗野にした景色である。終日山を行つ
私の信ずる処では、直ちに万葉でいへばその初期即ち奈良朝以前の健全な調べに亜ぐものと思つてゐる。この歌の如きは
すれば、最も調べの高かつたのは藤原期までで、奈良朝となつては最早下り坂である。古今集以下「調べ」などいふほど
上の春風かをる の春風であり、 伶人めきし奈良の秋風 であり 花草の満地に白と紫の陣立てゝこし秋の
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歌で、時代が帰らぬやうに斯んな歌も今の京都では出来ないであらう。兼常博士に教はつたことだが、叡山に
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台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神
松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁
下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに
讃岐路のあやの松山白峰に君ましませばあやにかしこし
保元物語に 浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞ泣く といふ御歌がありその頂を白峰といふらしい
調子の高いこと、前の歌にも劣らない。あやの松山は崇徳院の流され給ふた所、又山陵の存在地でもあつた
大正十四年九月津軽板柳の大農松山銕次郎氏の宅で同地の獅子舞を見て作られた歌の一つ
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てしまふ。それを切り出して氷室に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの
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正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも
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これは新潟港の所見である。護岸工事の傾斜したコンクリイトの板石に秋の潮
大正十三年八月新潟での作。日本第一の信濃川の河口を鴎が飛んでゐる。千里
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不朽のものとならう。外国語に翻訳されたら例へば巴里のハイカイといふ如き形を取つて世界的の短詩となるであらう。
巴里の夫の所へ遣る文を書いてゐるとばらばらと少し鈍い音の時雨
は女の髪の色のまちまちなことであるが、特に巴里では黒髪の割合が多い。この歌では半々になつてゐるが、
あらう、これはさういふ時代に出来た歌である。初めて巴里で斯ういふ飲み方のあることを知つて面白く思つたに違ひない。その
作者夫妻の巴里に遊んだのは欧洲大戦以前の爛熟時代で、私は之を知らない
巴里滞在中の夫妻は和田垣謙三博士に連れられ同博士入魂のピニヨン夫人といふ
その頃の巴里の夜は世界の歓楽境を現出し、カルチエ・ラテン辺の小カフェエで
今私が巴里で斯うして居ることは、三千里外に母と子とを引離して居る
表情沢山な歯並みの美しい巴里女は、一面耽美主義者でもある作者の大に気に入つたらしくこの
芸は長く命は短しといふが、芸術の都巴里を天国とすれば、私の場合には子を思ふ人間性即ち短い命の
、夕風がしめやかに旅の心を吹いたのであらう。巴里に居たのは大正元年でこの歌の出来たのは十三年である
辺にあつたやうで、そこへは夏の日の長い巴里では夕食後に行つても尚明るく、夕風がしめやかに旅の心を
フランスを思ひ出した歌の一つ。夫妻の巴里の宿は近代画を収めて居るリユクサンブル博物館の辺にあつたやうで、
顧の歌ではなく、四十になつた作者が夢に巴里に遊び、例の河岸の石垣の上に店を出した古本屋を覗き込む歌
作者は巴里滞在中、油絵の手ほどきを受け、帰朝後も暫く写生を続け、素人と
認められたことはどれ位嬉しいことか知れなかつた。巴里行の場合なども、偶※満洲から出て来た私が一日夫人
年の後作者が思ひ出して作つた歌である。私は巴里を去つて既に二十五年になる。何にも思ひ出せないわけだ。
巴里のことは今ではすつかり忘却の霧の中に這入つてしまつたの
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武蔵の金沢に遊んだ時、夕暮に小高い丘に登つて海を見た景色、私
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霧島温泉のある山の台からはその中に桜島の浮く鹿児島湾の東の水面が遥に展望される。しかしそれはそれとして
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秋水戸に遊んだ時の作。今の公園、昔の水戸城内の建物の名を二つ並べただけのことだが、その並べ
大正八年頃の秋水戸に遊んだ時の作。今の公園、昔の水戸城内の建物の
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光悦が金を塗りたる城と見ゆ銀杏めでたき熊本の城
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に相違ない。隅田川もその一つであつて、一時は浜町辺の病院にゐる幻覚をつづけ 大君の都の中の大川にほとりし
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いふものかあまり本に出て居ない。與謝野家がまだ渋谷の丘の下の家にゐた頃四五人集つて歌をよむこと
渋谷時代の作。「海棠の苗」とは盆栽にする様な小さい木の
な向日葵の詩があり、作者にこの歌がある。実際渋谷の家も千駄谷の家も表は向日葵で輝いてゐた、蒲原有明先生
、かういふ歌をよむと、明治三十七八年頃渋谷の御宅で先生の源氏の講義を聞いてゐる学校の生徒達を思ひ出す
渋谷時代によく行かれたのであらうが玉川の歌が相当作られてゐ
もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国
恐らく昔の渋谷の奥の方ででも見た実景を単に写生したものであらうが
多分二百十日の頃だと思ふが寛先生に連れられて渋谷の新詩社を出て玉川街道を駒沢辺まで野分の光景を見に行つ
た話でもしませうといふ心持である。江南君は渋谷時代からの古いお弟子で少しエキセントリツクな人物だから「登場」することに
これも昔の渋谷辺の心持で、産屋の前に数本の白菊が咲いてゐる。それ
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花見れば大宮の辺の恋しきと源氏に書ける須磨桜咲く
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新々訳源氏物語が完成してその饗宴が上野の精養軒で開かれた。可なりの盛会であつた、その直後に伊香保吟行
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作。空気の澄んだ天城山麓で見る東海の星は、東京などより大きくも見え色も美しい。それを丁度そこに咲いてゐた花
のごと といふ如きもので、これは六十の賀が東京会館で催された時の作の一つである。即ち梅花の日は
昔の東京なら駄菓子屋といふやうなものであらう。干杏干胡桃何れも山の
のほとりにその昔一軒の山の宿があつた。東京の暑気に堪へぬ高村光太郎君が夏中好んで滞在してゐた。
てゐて之もその一つである。それらはしかし東京の郊外となり終つた今の玉川でない、昔の野趣豊かな玉川の
、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを 東京の吹雪の報の至れども君が住む世の事にも非ず
君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを
百羽ほど君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来
光景である。冬になると毎晩半鐘を聞いた昔の東京の場末の情調がよく出て居る。
へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じ
余程寂しかつたものに違ひない。何しろ荻窪の草分けで、東京へ通勤するものなどは一人も居なかつた時代のことであるから肯かれる
の内を離れ来にけん 恋しなど思はずもがな東京の灯を目に置かずあるよしもがな など云ふのがあつて余程
は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿で
東京の裏側にのみある月と覚えて淡く寒く欠けたる
空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を照らすとは言ひ得て妙といふべく、或はこれ以上の表現
も立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ
八年二月寛先生六十の賀――梅の賀が東京会館で極めて盛大に行はれた時の歌で、草紙はいふ迄もなく
後に到達した境地である。昔は秋になれば東京の空にも雁の声が聞こえたのである。
こはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京の道路と来たらお話にもなにもあつたものではなかつた。
今日の東京も滅茶滅茶にこはれてしまつたが、明治末年の雨の日の東京
が珍しいのである。荻窪の家がずつと郊外にあつて東京といふ観念から逸脱してゐることもこの歌を作らせた有力な動機
であるが、もとは全くないことで、もしそんなことを東京の真中ででもしたら皆吹き出してしまつたであらう、これはさう
なほ同じ時の歌に 恋しなど思はずもがな東京の灯を目におかずあるよしもがな といふのもある。
にいい爺さんであつた。その好々爺と連れ立つて偶※東京から普請を監督に来た夫人が植ゑられた許りのそこらの庭木を
て見ると不思議な音が聞こえてゐてそれは明かに東京の家ではなかつた。ここのこの感じが歌はれてゐるので
休みなく地震して秋の月明にあはれ燃ゆるか東京の街
あつた。さうしてさういふ正月の街も嘗てはこの東京にもあつたのである。
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がある。又他国者の珍しさが 沙に居て浅草者の宿男島に逃れて来しわけを述ぶ などとも歌はれ居り
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更科の夜明けて二百二十日なり千曲の岸に小鳥よろめく
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植木屋を入れた。来た職人は葛西寺島村の生れで堀切の菖蒲の話などをする。こんな案梅な歌であらう。行く春の
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狭霧より灘住吉の灯を求め求め難きは求めざるかな
灯が点々として見られる。あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、
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云ふのがあつて余程寂しかつたものに違ひない。何しろ荻窪の草分けで、東京へ通勤するものなどは一人も居なかつた時代のこと
作者の設計に成る荻窪の家が落成して移られた当時の歌に 身の弱く心も
老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学
桜を歌つた歌はこの作者には特に多い。荻窪の御宅には弟子達の贈つた数本の大木の染井吉野もあつて
出来る。忘不忘両者の並ぶ所が珍しいのである。荻窪の家がずつと郊外にあつて東京といふ観念から逸脱してゐることも
晶子の万有教の最も顕著な現はれの一つである。荻窪の釆花荘には直ぐ窓際に早咲きの紅梅があつて一月頃には
た。ただ往来のみあつて家のなかつた当時の辺鄙な荻窪は都人の住み得る処ではなかつた。私は当時芝三光町に居て
富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成してここに移り再び里住みの身となつた。ただ往来
昭和二年荻窪の家に移られた当時の歌で余程心細かつたものらしい。遠い昔
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暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて暮された事
夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、
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暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて
夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を
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さらさらと土間の中にも三鷹川浅く流るる島田屋の秋
を、直ぐこの境内に湧き出た許りの水量の頗る豊富な三鷹川――作者の命名ではないか――が流れてゐる光景である
武蔵野の秋を探つてよく三鷹の深大寺に行かれたことがある。まだバスなどのない時分で、
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に子のゐない私か、それとも母の居ない麹町の子供達か。心にもない日を送りたくない為に私は思ひきつて
十年間に書き溜めたのだから厖大な嵩のもので、麹町の家に置くことを危険として文化学院にあづけて置いたもので
麹町の家は崖下の低い所にあつたので、秋の暮ともなれ
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隅田川長き橋をば渡る日のありやなしやを云はず思はず
思想の動揺に堪へる気力がない、も一度直つて隅田川を渡れるか如何かそんなことさへ口へ出したり考へたりしないで置かう
必ずや多少とも深い印象の残されたものに相違ない。隅田川もその一つであつて、一時は浜町辺の病院にゐる幻覚をつづけ
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枠の中へ収めて一個の芸術に仕上げてゐる。千曲川の川原蓬が焚火の火に焦げてそれが火の子になつて飛び出す
白波を指弾くほど上げながら秋風に行く千曲川かな
も歌人の間には断じて第二人を知らない。千曲川を秋風が撫でて白波を立ててゐる。その白波の高さを指で
今日は二百二十日だ。而して急に野分だつた風が吹き出し千曲川の岸では風の中で小鳥のよろめくのが見える。この歌では