向嶋 / 永井荷風

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地名一覧

吉野山

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を賞したものは枚挙するに遑がない。しかし京師および吉野山の花よりも優っていると言ったものは恐らく松崎慊堂のみであろう。慊堂

長命寺

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村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それから安政元年に至って更に二百株を補植し

新に建立せられたのもその頃のことである。長命寺門前の地を新に言問ヶ岡と称してここに言問団子を売る店の

を記述して『朝野新聞』に掲げた。大沼枕山が長命寺の門外に墨水観花の碑を建てたのも思うにまたこの時分であろう

隅田村

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植えた。それから凡三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島須崎小梅三村の堤に植え

吾妻橋

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一、雨に名所の春も悲しき闇の中を街燈遠く吾妻橋まで花がくれに連なれるが見えたる。

浅草寺

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を過らぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今なお詩興

破られて飛び立つ羽音も物たるげなり。待乳山の森浅草寺の塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり

隅田

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に白鬚梅若の辺まで咲きに咲きたり。側は漂渺たる隅田の川水青うして白帆に風を孕み波に眠れる都鳥の艪楫に夢

筑波

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を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。

弘福寺

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先生を喪ってから、毎年の忌辰にその墓を拝すべく弘福寺の墳苑に赴くので、一年に一回向島の堤を過らぬこと

江戸

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隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている。その拠るところは『

『墨水四時雑詠』を刊布した。雲如は江戸の商家に生れたが初文章を長野豊山に学び、後に詩を梁川

中に数えられた柏木如亭に酷似している。如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓

比して遥に劣れるが如き思をなすのみである。江戸旧文化の支那模倣は当代の西洋模倣に比較して、誰か優劣なしと

木母寺

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補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。しかしこの時

一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテ窮ル。曲曲回顧スレバ花幔地ヲ蔽ヒ恍トシテ路ナキカト

水戸

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て殆その跡を留めていなかった。枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置場になってい

た。それは明治七年其角堂永機の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟って始て果されたのである。以後向島

長野

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た。雲如は江戸の商家に生れたが初文章を長野豊山に学び、後に詩を梁川星巌に学び、家産を蕩尽した

向島

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(例)向島

向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない。しかしわたくしは大正壬戌の年

ようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草花川戸の岸もやがて公園になされるとかいう事である

復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に関しては、少くとも一年一回来り見るところから、やや

状況を知らしむるものである。明治三十一年の頃には向島の地はなお全く幽雅の趣を失わず、依然として都人観花の

にして記事もまた忠実なること、能く古今にわたって向島の状況を知らしむるものである。明治三十一年の頃には向島の地

増植とを俟って始て果されたのである。以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植を

時代を以て江戸文芸再興の期となしたが、今向島桜花のことを陳るに及んで更にまたその感がある。

明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は尠く

浅草

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を過らぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今

世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草花川戸の岸もやがて公園になされるとかいう事である。思うに紐育

破られて飛び立つ羽音も物たるげなり。待乳山の森浅草寺の塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の

日比谷

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洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人は日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにもまた見るに

東京

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それより三年の後明治三十四年平出鏗二郎氏が『東京風俗志』三巻を著した時にも著者は向嶋桜花の状を叙し

中に風俗画報社の明治三十一年に刊行した『新撰東京名所図会』なるものがあるが、この書はその考証の洽博にし

てこれが例証となしている。風俗画報社の『新撰東京名所図会』もまた『江戸繁昌記』を引きこれを補うに加藤善庵が

た。これらのことはいずれも風俗画報社の『新撰東京名所図会』に説かれている。

古今の名家に比して遜色なきが如くなるに反して、東京市中に立てる銅像の製作西洋の市街に見る彫刻に比して遥に劣れ

千住

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今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬の河口から千住に至るあたりの沮洳の地にさえ既に蒹葭蘆荻を見ることが少くなった

隅田川

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ものが、ここに経営せられるのではなかろうか。とにかく隅田川両岸の光景は遠からずして全く一変し、徃昔の風致は遂に前代の

大に進捗したようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草花川戸の岸もやがて公園になされるとか

隅田川に関する既徃の文献は幸にして甚豊富である。しかし疎懶

そもそも享保のむかし服部南郭が一夜月明に隅田川を下り「金竜山畔江月浮」の名吟を世に残してより、明治

隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている。

林述斎が隅田川の風景を愛して橋場の辺に別墅を築きこれを鴎※と命名し

たる楊柳と萋々たる蒹葭とのあるがためであろう。往時隅田川の沿岸に柳と蘆との多く繁茂していたことは今日の江戸

遼豕の嗤を招ぐに過ぎないであろう。しかしわたくしは隅田川の蒹葭を説いて適レニエーの詩に思及ぶや、その詩中の景物

露の蕭蕭と音する響を聞いて楽んだ。当時隅田川上流の蒹葭と楊柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、

という絶句がある。然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬の河口から千住に至るあたりの沮洳の地にさえ

ねば見られぬようになった。中川の両岸も既に隅田川と同じく一帯に工場の地となり小松川の辺は殊に繁華な市街となっ

江戸払となってから諸方に流浪し、十三年の後隅田川のほとりなる知人某氏の別荘に始めておちつく事を得た時、日々見る

わたくしの言わむと欲する所は、隅田川の水流は既に溝涜の汚水に等しきものとなったが、それにも

両国橋

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の町』と題する拙稾に明治三十年の頃には両国橋の下流本所御船倉の岸に浮洲があって蘆荻のなお繁茂してい