水 附渡船 / 永井荷風
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条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋敷々々の下水も
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鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋めつくされた。
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まつた感興を起させる。一例を挙ぐれば中州と箱崎町の出端との間に深く突入つてゐる堀割は此れを箱崎町の永久橋
の出端との間に深く突入つてゐる堀割は此れを箱崎町の永久橋または菖蒲河岸の女橋から眺めやるに水は恰も入江の如く無数
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芝浦の月見も高輪の二十六夜待も既になき世の語草である。南品の
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忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池で
江戸城の濠は蓋し水の美の冠たるもの。然し此の事は叙述の筆を
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は元より下水に過ぎない。紫の一本にも芝の宇田川を説く条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の
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、漸と息をついた事があつた。その頃には東京府々立の中学校が築地にあつたのでその辺の船宿では釣船の外に
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が故に、私は永代橋の鉄橋をば却てかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新しい河口
述べたやうに永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋に於け
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に泛ぶ牡蠣舟や苔取の小舟も今は唯強ひて江戸の昔を追回しやうとする人の眼にのみ聊かの風趣を覚えさせるばかりで
見ゆれども水上はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合つて川をなすものが少くなかつた。下水
中に残された池の中の最後のものである。江戸の名所に数へられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺
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然し渡場は未だ悉く東京市中から其の跡を絶つた訳ではない。両国橋を間にして其の
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の落合つて川をなすものが少くなかつた。下水の落合つて川となつた流れは道に沿ひ坂の麓を廻り流れ流れて行く
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河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華
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唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに留めて置く。
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の宇田川を説く条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋
の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故宇田川橋にては少しの川のやう
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の光景を組織する。既ち小石川柳町の小流の如き、本郷なる本妙寺坂下の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かゝる
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二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は
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逢初川、橋場総泉寺の裏手から真崎へ出る溝川を思川、また小石川金剛寺坂下の下水を人参川と呼ぶ類である。江戸時代に
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数へられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋め
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浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋めつくされた。それによつて私は将来不忍池も
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の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育のホドソン、倫敦のテヱムスに対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市
威厳と品格とを帯させるものである。巴里にも倫敦にもあんな大きな、そしてあのやうに香しい蓮の花の咲く池は見られまい
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蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに留めて置く。
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竹屋の渡しがあり、橋場には橋場の渡しがある。本所の竪川、深川の小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場が
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の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは
の如き、本郷なる本妙寺坂下の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かゝる溝川流るゝ裏町は大雨の降る折と云へば必ず
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くは尋ねられぬ程になつた処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日に於てはまだ/\工業の侵略が緩慢に過ぎてゐる。本所小梅
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や網の娯楽をも与へなくなつた。今日の隅田川は巴里に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育のホドソン
の出来ぬ威厳と品格とを帯させるものである。巴里にも倫敦にもあんな大きな、そしてあのやうに香しい蓮の花の咲く池
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五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を
王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川
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の桟橋から猪牙船に乗つて山谷に通ひ柳島に遊び深川に戯れたやうな風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与へ
神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は
現象のあまりに甚しく混雑してゐる今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残
を中心にして一個所に落合つて来る処、若しくは深川の扇橋の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処で
運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いづこに於ても隅田川の両岸に対するより
あり、橋場には橋場の渡しがある。本所の竪川、深川の小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場が幾個所も
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つまらない景色をなすに過ぎない。しかし其れにも係らず東京市中の散歩に於て、今日猶比較的興味あるものは矢張水流れ船
対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品川の入海と共に、さして美しくもなく
時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。然るに東京の今日市内の水流は単に運輸の為めのみとなり、全く伝来の審美的
に、水は江戸時代より継続して今日に於ても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となつてゐる。陸路運輸の便を欠い
今試に東京の市街と水との審美的関係を考ふるに、水は江戸時代より継続し
名所の中に数へられたものが多かつたが、東京になつてから全く世人に忘れられ所在の地さへ大抵は不明となつた
東京の水を論ずるに当つてまづ此を区別して見るに、第一は
船と円ツこい達磨船を曳動す曳船の往来する外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海である。潮の引く
東京市は此の如く海と河と堀と溝と、仔細に観察し来れ
我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化は寧ろ驚くの外はない。
、漸と息をついた事があつた。その頃には東京府々立の中学校が築地にあつたのでその辺の船宿では釣船の
其の沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮
、鷺の森の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場を間違へたり市中
ない。江戸時代とまた其の以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭の幽谷を見るやう
特殊な感情を与へたものかも知れない。然し今日の東京になつては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟で
流をなす溝川の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々可笑しい程事実と相違した美しい名がつけられてある
以上河流と運河の外猶東京の水の美に関しては処々の下水が落合つて次第に川の如き
に関して最後に渡船の事を一言したい。渡船は東京の都市が漸次整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得る
然し渡場は未だ悉く東京市中から其の跡を絶つた訳ではない。両国橋を間にし
中渡船なる古雅の趣を保存してゐる処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船
ものであらう。渡船は自動車や電車に乗つて馳せ廻る東京市民の公生涯とは多くの関係を持たない。然し渡船は時間の消費
で造つた渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董の一つである。古樹と寺院と城壁と
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も想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品川の入海と共に、さして美しくもなく大きくもなく又さほどに繁華でも
に当つてまづ此を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は
れてゐるやうな爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅してしまつたに
ては実用にも装飾にも何にもならぬ此の無用なる品川湾の眺望は、彼の八ツ山の沖に並んで泛ぶ此も無用なる御
はできない。今日まで吾々が年久しく見馴れて来た品川の海は僅に房州通の蒸汽船と円ツこい達磨船を曳動す曳船
たる水とを有する頗変化に富んだ都会である。まづ品川の入海を眺めんにここは目下猶築港の大工事中であれば、将来如何なる
かく品川の景色の見捨てられてしまつたのに反して、荷船の帆柱と工場の
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価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代の吾々には昔
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の審美的価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代の吾々に
揚場の光景も亦しばし杖を留むるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と
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の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、
と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、或は浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、或は橋場
数へられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方
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川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝
に突当らうとしてゐる。私はかゝる風景の中日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側に
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北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるもの
の渡、その川下に安宅の渡が残つてゐる。月島の埋立工事が出来上ると共に、築地の海岸からは新に曳船の渡し
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繋がれてゐた時分、同級の中学生といつものやうに浅草橋の船宿から小舟を借りてこの辺を漕ぎ廻り、河中に碇泊して居る
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に引掴み、めい/\後をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走つて、漸と息をついた事があつた。その頃
沿岸の燈火と相乱れて徹宵水の上に揺き動く有様銀座街頭の燈火より遥に美麗である。
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築地の河岸の船宿から四挺艪のボオトを借りて遠く千住の方まで漕ぎ上つた帰り引汐につれて佃島の手前まで下つて来た
容易くは尋ねられぬ程になつた処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日に於てはまだ/\工業の侵略が緩慢に過ぎ
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新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、或は浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、或は橋場の
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山なぞと呼ばれてゐる。島なき場所も柳島三河島向島なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森、鷺の森の如き名称が
、築地の海岸からは新に曳船の渡しが出来た。向島には人の知る竹屋の渡しがあり、橋場には橋場の渡しがある
の棹を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲や白髯に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私
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少しく低い土地には千仭の幽谷を見るやうに地獄谷(麹町にあり)千日谷(四谷鮫ヶ橋に在り)我善坊ヶ谷(麻布に在り
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になる。麻布の古川は芝山内の裏手近く其の名も赤羽川と名付けられるやうになると、山内の樹木と五重塔の聳ゆる麓を
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あつて初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。若し上野の山より不忍池の水を奪つてしまつたなら、それは恰も両腕
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また釣や網の娯楽をも与へなくなつた。今日の隅田川は巴里に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育
のみとなり、全く伝来の審美的価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、
を欠いてゐた江戸時代にあつては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、云ふまでもなく江戸商業の生命で
して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の
は深川の小名木川辺に限らず、いづこに於ても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまつた感興を起させる。一例を
に係らず其の上下に今猶渡場が残されてある如く隅田川其の他の川筋にいつまでも昔のまゝの渡船のあらん事を希
江戸時代にあつては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、
。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は
今日の隅田川は巴里に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、
第二は隅田川中川なかがは六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、
いづこに於ても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまつた感興を起させる。
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、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の
て十字形をなす処である。本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水の或は
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如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等
第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流
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に、私は永代橋の鉄橋をば却てかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新しい河口の風景
たやうに永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋に於ける
悉く東京市中から其の跡を絶つた訳ではない。両国橋を間にして其の川上に富士見の渡、その川下に安宅の渡が
橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無に係らず其の上下に今猶渡場が残されてある如く隅田川其の
私は永代橋の鉄橋をば却てかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない。
吾妻橋両国橋等の眺望は今日この処あまりに不整頓にして永代橋に於けるが如く
東京市中から其の跡を絶つた訳ではない。両国橋を間にして其の川上に富士見の渡、
私は唯ただ両国橋の有無に係らず其の上下に今猶渡場が残されてある如く隅田川其の他の川筋にいつまでも昔のまゝの
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回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をば却てかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない
ラ・ニベルネヱズ」の一小篇を思出すのである、今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故
見ればおのづと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動する此の河口の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する
白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるものが尠く
私が十五六歳の頃であつた。永代橋の河下には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐れ
橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋に於けるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。之を例
について、其の最も興味ある部分は今述べたやうに永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処
あらう。江戸時代に遡つて之を見れば元禄九年に永代橋が懸つて、大渡しと呼ばれた大川口の渡場は江戸鹿子や江戸爵
築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及び其の風景によつて
私は永代橋を渡る時活動する此の河口の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する荷船の
今日の永代橋には最早もはや辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。
さるが故に、私は永代橋の鉄橋をば却かへつてかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思はない。
私が十五六歳の頃であつた。永代橋の河下には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の
遡つて之これを見れば元禄九年に永代橋が懸かゝつて、大渡と呼ばれた
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のあまりに甚しく混雑してゐる今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残も容易く
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が出来ない。之を例するに浅野セメント会社の工場と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、或は浅草蔵前の電燈会社と駒形
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それ故私は唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに留め
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てするに如くはない。それ故私は唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する
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第六は江戸城を取巻く幾重いくへの濠、第七は不忍池、角筈十二社の如き池である。
池には古来より不忍池の勝景ある事これも今更ら説く必要がない。
不忍池は今日市中に残された池の中うちの最後のものである。
それによつて私は将来不忍池も亦同様の運命に陥りはせぬかと危むのである。
若もし上野の山より不忍池の水を奪つてしまつたなら、それは恰も両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであらう。
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神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代の吾々には
本所の竪川、深川の小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場