桑中喜語 / 永井荷風
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処の烟草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半玉に出てゐたりしがその後のわけは知らず去年帰つて
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の脛をかじりゐたり。門を出でて坂を下れば富士見町の妓家軒先に御神燈をぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提灯
のに。つうえいぢやないか。と忝き忠告。富士見町の妓風二十年前既にかくの如く開けたものなり。そも富士見町の妓
風二十年前既にかくの如く開けたものなり。そも富士見町の妓家待合いつの頃より開け始めしにや。維新以前九段の坂上
や。維新以前九段の坂上は馬場なりしといふ。富士見町は武家屋敷のみにして怪し気なる女師匠は麹町三丁目辺町家の間
細見記』には府下一般芸者之部といふ条に、富士見町の部、小春、小ぎく、小とく、小すず、長吉の五名を出せる
の初めてこの地に遊びし頃妓家既に二、三十軒を富士見町に算し、十五、六軒を三番町に数へ得たり。待合の富士見町
、六軒を三番町に数へ得たり。待合の富士見町にあるもの菊の家、梅月、寿鶴(後に相模家)、常磐木、
初めて芸者の帯解く姿を見たりしは既に記せし如く富士見町の寿鶴といふ待合にして、勘定何もかも一切にて金参円
のものはなかりし。以て一般を推すべし。さて僕も富士見町ばかりでは所詮山の手の土臭く井戸の蛙の譏もうしろめたしと思へる折から、
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なかりしものなればここには記さず。およそ明治の末年東京市内にありし私窩子の風俗、名家の文章にその跡を留めたるもの
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忽客足絶えほどなく家も取壊しになりしと聞けり。秋葉神社のほとりには有馬温泉とよぶ連込みの茶屋大正五、六年頃まであり
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渡り、桜のわくら葉散りかかる墨堤を歩みて百花園に休み木母寺の植半に至りて酒を酌みつつ句会を催したり。木母寺の植半
の植半に至りて酒を酌みつつ句会を催したり。木母寺の植半は旅宿をかねたる酒楼にてその頃は芸者を連れし泊込みの客
会社のこれを買ひ取りて倶楽部とやらになせしより木母寺の境内再び紅裙のひらめくを見ず、梅若冢の柳を見ても黄昏一
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市中の私窩子を訪ね歩むに、本所立川の入口相生町の埋立地に二階建の家五、六軒ありて夜は公然と御神燈
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道ならぬ栄耀をなす女らを人々皆後指さして、琉球や朝鮮の毒を受けたら最後骨がらみになると言ひはやしき。二七不動に
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妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根津、入谷、芝愛宕下、小石川柳町、早稲田鶴巻町辺、いづれも話には聞きたれど、これ
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もの絶えやらずといふ。猫入らずは即むかしの石見銀山なり。明治三年猿若町のおきぬといふ女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せ
女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せし事ありてより、石見銀山の名久しく人の口にいひ伝へられしが世は変りてその名もまた
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ける。当時東京市中の私窩子を訪ね歩むに、本所立川の入口相生町の埋立地に二階建の家五、六軒ありて夜
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年以後妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根津、入谷、芝愛宕下、小石川柳町、早稲田鶴巻町辺、いづれも話には聞きたれど
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通暁せざるべからざるなり。下情に通暁せんにはその眼光水戸黄門の如くなるにあらざれば、その経歴遠山左衛門尉に比すべきものなく
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、更に近処の烟草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半玉に出てゐたりしがその後のわけは知ら
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二箇処いづれも大正五年以後妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根津、入谷、芝愛宕下、小石川柳町、早稲田鶴巻町辺、いづれ
、八軒ありしが暫時にして取払ひとなる。下谷池の端、湯嶋天神境内、また京橋築地あたりの小待合の中には、いづ
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ほしき由申出でたれば持たせつかはしたる事あり。東京の女にもかかる例あれば参考のため記し置くなり。その後売女の
して明に所在の地を示さず。明治十八年『東京流行細見記』には府下一般芸者之部といふ条に、富士見町の部
のみなりとぞ。明治十六年酔多道士の著せし『東京妓情』には麹町の名を掲るのみにして明に所在の
なかりしものなればここには記さず。およそ明治の末年東京市内にありし私窩子の風俗、名家の文章にその跡を留め
卑しむことあたかも新橋芸者の烏森を見下すにぞ似たりける。当時東京市中の私窩子を訪ね歩むに、本所立川の入口相生町の埋立地
東京新繁昌記 六巻 明治七年四月出板服部誠一著
東京妓情 三巻 明治十六年十月出板酔多道士著
東京粋書 初編 明治十四年五月出板野崎城雄著
東京遊覧記 一巻 明治廿一年十月出板竹外居士原田真一著
東京流行細見記 明治十八年七月出版
東京芸妓評判録 初編 明治三十七年出板著者不詳
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の角袖に伝へてどしどし市中の白首を召捕りけり。以後浜町蠣殻町辺には白首の優物跡を絶ち、芝神明境内、柳原郡代屋敷
に、浜町は女二円にて事済みなり。かくの如く浜町のあそびは芸者買の半分にも足らざるほどにしてしかも振られると
時より翌朝まで玉だけでも十二本の規則なるに、浜町は女二円にて事済みなり。かくの如く浜町のあそびは芸者買の
名ばかりの芸者にて長襦袢は胴抜のメレンスなり。然るに浜町の白首、俗に高等とよびしもの衣裳容貌山の手の芸者に劣らざるもの
なくかの琉球屋敷へ出入の女なりしぞ奇遇なる。浜町の景況この女のはなしにて聞知るところ尠からず。次の如し。
て明治四十一年の頃、僕友達に案内せられて、浜町二丁目五徳庵といふ鳥料理の近くなる小待合に上りし時、上り花持
ことを描きたり。四十三、四年頃にいたりて正宗白鳥浜町の私窩子を描き、小栗風葉は鶴巻町辺の酌婦の事を小説に
。蠣殻町は浜町に比ぶれば気風ぐつと下りたりとて、浜町の方にては川向の地を卑しむことあたかも新橋芸者の烏森を見下すにぞ似
の女と区別してこれを蠣殻町といへり。蠣殻町は浜町に比ぶれば気風ぐつと下りたりとて、浜町の方にては川向の地
の間に打交りて私娼の置家また夥しくありたり。浜町の女と区別してこれを蠣殻町といへり。蠣殻町は浜町に比ぶれ
その他一切の勘定三円を出ざる事既に述べたり。浜町を抜けて明治座前の竈河岸を渡れば、芳町組合の芸者家の間
明治四十一、二年の頃、浜町二丁目十三番地俚俗不動新道といふあたりに置屋と称へて私娼を蓄
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二十五銭、女中祝儀三拾銭を以て最低とす。新橋にてもこの程度にて遊べるところ路地の小待合には随分ありたり。神楽坂富士見町
いへども近来に至つてますます甚しきは何ぞや。新橋芸者の品定にもすぐと一流二流の差別をつけるはまだしも忍ぶべし
たりとて、浜町の方にては川向の地を卑しむことあたかも新橋芸者の烏森を見下すにぞ似たりける。当時東京市中の私窩子を
あつては応来芸者と称して通人の眉を顰めたる新橋の妓、今はかへつて御客の狡猾なるに恐れをなすといふに至つ
の外交員なぞにはこの類の曲者多しといへり。されば新橋辺にて家持の芸者は色仕掛のお客と見れば用心なしあまりしげしげ呼ばるる時
新橋雑記 二巻 明治十一年十一月三十日出板松本万年著
新橋芸妓評判記 初編 明治十四年九月出板中村呉園著
新橋八景芸者節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴
浄瑠璃の例を引くにも及ぶまじ。明治四十五年の春新橋信楽新道の政中村家政代とよびし芸者、俳優中村又五郎を怨みて硫酸
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四十一、二年の頃より大正三、四年の頃まで浅草十二階下、日本橋浜町蠣殻町辺に白首夥しく巣を喰ひ芸者娼妓これがために
三年頃後藤宙外『松葉かんざし』とかいへる小説に浅草公園楊弓場のことを描きたり。四十三、四年頃にいたりて正宗白鳥浜町
通がかりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園奥山等の盛況に劣らず。山の手にては四谷津の守なる芸者家
最上の出来栄なりけり。同勢十四、五人徒歩して浅草公園を一巡し千束町一丁目松葉屋といふ諸国商人宿に入りて夕飯を食し
末おもひおもひに姿をやつして上野停車場に集り、それより浅草辺を遊び歩きて一泊することとなしぬ。九月半の事なり。
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明治三十年の頃僕麹町一番町の家に親の脛をかじりゐたり。門を出でて坂を下れ
十六年酔多道士の著せし『東京妓情』には麹町の名を掲るのみにして明に所在の地を示さず。明治
。富士見町は武家屋敷のみにして怪し気なる女師匠は麹町三丁目辺町家の間にありしのみなりとぞ。明治十六年酔多
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土地から出たとの事。二七不動の縁日、三番町や九段下の寄席にても折々顔を見合す中或日突然向よりにつこりと、笑顔
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親爺が親戚の法事に行きて留守といふを幸頻に新宿ののろけ最中、がらりと店の硝子戸引きあけざま、兄さんといふ嬌声。前なる
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裏の玉の家といふはこの道にて名高き由。銀座二丁目上方屋といふ花骨牌売る店の前の路地に菊泉とかいふ
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てよろこびしも早や昨日の夢とやいふべき。明治五年新富町の劇場舞台開きをなせし時、新柳二橋の歌妓両花道に並んで
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の土臭く井戸の蛙の譏もうしろめたしと思へる折から、神田連雀町金清楼の宴会にて、講武所駒の家の抱小みつといへるが
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一編第二編 明治十四年十二月出板桜洲散史大久保常吉著三木愛花序
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日本橋浮名歌妓 一巻 明治十七年出板山田春塘著伊東橋塘閲
しものを挙げしに過ぎざるなり。山田春塘の著『日本橋浮名歌妓』は明治十六年六月檜物町の芸妓叶家歌吉といへる
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太平楽娼妓演説 明治二十四年二月廿四日出版八幡楼高尾序川上鼠文序烏有山人筆記娼妓てこ鶴の演説
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情死と相前後して久しく世の語り草とはなれるなり。品川楼盛糸がことは当時『有喜世新聞』に『心中比翼塚』とか
しものにしてこの情死は明治十三年九月新吉原品川楼の娼妓盛糸と内務省の小吏谷豊栄が情死と相前後して
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となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎての老脚にては殆遊
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古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎての老脚にては
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なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎての老
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、亀戸天神なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎ
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二箇処に止まらず。麻布網代町、小石川白山、渋谷荒木山、亀戸天神なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、
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しもの一、二箇処に止まらず。麻布網代町、小石川白山、渋谷荒木山、亀戸天神なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町
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事になしたり。然るに当日午後の四時を期して上野停車場の待合室に集るものを見れば会長巌谷小波先生を始めとして十四
かうでもないと相談の末おもひおもひに姿をやつして上野停車場に集り、それより浅草辺を遊び歩きて一泊することとなしぬ。
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を専とする家各四、五軒づつはありけり。京橋区役所裏の玉の家といふはこの道にて名高き由。銀座二丁目
て取払ひとなる。下谷池の端、湯嶋天神境内、また京橋築地あたりの小待合の中には、いづこより連れて来るか知らねど素人