夏の町 / 永井荷風
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なって大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上って犬のように川端
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ないからである。第二には、両親は逗子とか箱根とかへ家中のものを連れて行くけれど、自分はその頃から文学とか
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森の彼方に浮んでいるというような時分、試に吾妻橋の欄干に佇立み上汐に逆って河を下りて来る舟を見よ。舟は
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を委しく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。
記事から飜て向島と江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附い
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たその来歴を委しく語って、偶然にも自分をして巴里人と江戸の人との風流を比較せしめた。
champs)』と題する興味ある小品によって、近頃の巴里人が都会の直ぐ外なるセエヌ河畔の風景を愛するようになったその来歴
・ド・コックの後には画家の一団体が盛に巴里郊外の勝地を跋渉し始めた。今日では誰も知っている彼の
が、今から五、六十年前 Louis-Philippe 王政時代の巴里の市民が狭苦しい都会の城壁を越えて郊外の森陰を散歩し青草の上
人間らしく)せられた。しかしユウゴオやラマルチンはまだ一度も巴里郊外の自然をそが抒情詩の直接の題材にして歌った事はない。
よると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊びに出掛るような熱心な興味を感じて
ゾラの所論によると昔の巴里人は郊外の風景に対して今日の巴里人が日曜日といえば必ず遊び
との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里人よりももっと早くから郊外の佳景に心附いていたのだ。俳諧師
巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の青草の上
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見下したなら大概の下り船は反対にこの度は左側なる深川本所の岸に近く動いて行く。それは大川口から真面に日本橋区の岸
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費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れた自分の身には何処へも行くべき郷里がないからである
毎年の七、八月をば大概何処へも旅行せずに東京で費してしまうのが例であった。第一の理由は東京に生れ
私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れたその頃の事を回想して今に愉快でならぬの
眺め、隣の二階の三味線を簾越しに聴く心持……東京という町の生活を最も美しくさせるものは夏であろう。一帯に熱帯
美しく見られる。自分は毎年のようにこの年の夏も東京に居残りはしまいか。
光と植木や草花の色の鮮な間に眺め賞すべく、東京の町には縁日がある。カンテラの油煙に籠められた縁日の夜の
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本所の岸に近く動いて行く。それは大川口から真面に日本橋区の岸へと吹き付けて来る風を避けようがためで、されば水死人の
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浅草に沿うてその艪を操っているであろう。これは浅草の岸一帯が浅瀬になっていて上汐の流が幾分か緩である
て河を下りて来る舟を見よ。舟は大概右岸の浅草に沿うてその艪を操っているであろう。これは浅草の岸一帯が
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は石垣を築いた埋立地になってしまったので、浜町河岸には今以て昔のように毎年水練場が出来ながら、わが神伝流
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一枚になって大川筋をば汐の流に任して上流は向島下流は佃のあたりまで泳いで行き、疲れると石垣の上に這上って犬
この記事から飜て向島と江戸文学との関係を見ると、江戸の人は時代からいえば巴里
最初河水の汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、桜花の装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は
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時分にはボオトの事をバッテラという人も多かった。浅草橋の野田屋や築地の丁字屋から借舟をするにしても、バッテラ
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の料理屋の桟橋、橋場の別荘の石垣、あるいはまた小松島、鐘ヶ淵、綾瀬川なぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学
鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来
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の包を抱えたまま舟へ飛乗ってしまうのでわれわれは蔵前の水門、本所の百本杭、代地の料理屋の桟橋、橋場の別荘の
「稍とゝのふ春の景色」を探って歩き、蔵前の旦那衆は屋根舟に芸者と美酒とを載せて、「ほんに田舎もま
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生温きを喞つ下町の女たち二、三人づれで目黒の大黒屋へ遊びに行く途中であった。茂った竹藪や木立の蔭なぞ
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の桟橋、橋場の別荘の石垣、あるいはまた小松島、鐘ヶ淵、綾瀬川なぞの蘆の茂りの蔭に舟をつないで、代数や幾何学の宿題を
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新思想の襲来を受けても、恐らく江戸文学を離れて隅田川なる自然の風景に対する事は出来ないであろう。
鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は
たにしても、自分だけには現在あるがままに隅田川を見よという事は不可能である。
自然主義時代の仏蘭西文学は自分にはかえって隅田川に対する空想を豊富ならしめた傾がある。