里の今昔 / 永井荷風
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汽車は、見る/\中に岡の裾を繞ツて、根岸に入ツたかと思ふと、天王寺の森に其煙も見えなくなツ
之を詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉
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次の月の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ツたお熊の
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読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の
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の森の梢には朝陽が際立ツて映ツて居る。入谷は尚ほ半分靄に包まれ、吉原田甫は一面の霜である。空に
。其名前や何かは之を詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島
上の間に行ツて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火が散見き、遠く上野の電気灯が鬼火の様に
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に降りて、畠道を行く事一二町の処に在つた浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴い
日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三四十年後の今日、これを追想すると、恍
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にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬
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江戸のむかし、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の
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られなかつた。江戸時代に楓の名所と云はれた正燈寺も亦大音寺前に在つたが、庭内の楓樹は久しき以前、既に
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「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くな
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。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」など
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日本堤は丁度取崩しの工事中であつた。堤から下りて大音寺前の方へ行く曲輪外の道も亦取広げられてゐたが、一面に
して火の見梯子の立つてゐる四辻に出る。このあたりを大音寺前と称へたのは、四辻の西南の角に大音寺といふ浄土宗の
寺前と称へたのは、四辻の西南の角に大音寺といふ浄土宗の寺があつたからである。辻を北に取れば龍泉寺の
江戸時代に楓の名所と云はれた正燈寺も亦大音寺前に在つたが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、
大音寺は昭和の今日でも、お酉様の鳥居と筋向ひになつて、
」をよんで歩き廻つた時分のことを思ひ返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立つてゐる処ではなくして
建てられたのである。(因に云ふ。竜泉寺町の大音寺も亦遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉で
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間に行ツて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火が散見き、遠く上野の電気灯が鬼火の様に見えて
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つて、各固有の面目を失はずにゐた。例へば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかつたやうに、吉原の遊里も
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、吉原の曲輪がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであつた。明治時代の吉原と其附近の町
をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。東京の町々はその場処々々によつて、各固有の面目を失はずに
「たけくらべ」や「今戸心中」のつくられた頃、東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従つて電車もなく
ねばならない。こゝに於いてわたくしは三四十年以前の東京に在つては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像
音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残つてゐた。そして
た。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京に在つては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に
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当時遊里の周囲は、浅草公園に向ふ南側千束町三丁目を除いて、その他の三方にはむかし
この処を云つたのである。裏田圃とも、また浅草田圃とも云つた。単に反歩とも云つたやうである。
取払はれた後、社殿と其周囲の森とが浅草光月町に残つてゐたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃に
次の月の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着
牛肉屋常磐の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束町二三丁目の通りである。他の一筋は
余すところは南側の浅草の方面ばかりとなつた。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あつた。その一筋は大門を出て
附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなつた。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋
を聞いたことがあつた。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他は、皆田間の畦道であつた事
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ゐる。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る/\中に岡の裾を繞ツて、根岸に
の小鳥が輪を作ツて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏が噪ぎ始めた。大鷲神社の傍の田甫の白鷺が
、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走つてゐるさまを目撃すると、曾て三十年前に
「忍ヶ岡」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷に
稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火が散見き、遠く上野の電気灯が鬼火の様に見えて居るばかりである。
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」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて
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からであつた。新比翼塚は明治十二三年のころ品川楼で情死をした遊女盛糸と内務省の小吏谷豊栄二人の追善
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ゞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく
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から三ノ輪に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走つてゐるさまを目撃すると、曾て
行ツたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用ゐる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨てゝ