申訳 / 永井荷風

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地名一覧

小石川

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「兄さんや母さんと一緒に東中野にいます。母さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。

亦極れりと謂うべきである。因にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うよう

主人と共にその自動車に乗り、道普請で凹凸の甚しい小石川の春日町から指ヶ谷町へ出て、薄暗い横町の阪上に立っている博文館へ

の手から賠償金数千円を支払うことになった。僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行ったことも結局何のやくにも立たず

尾張藩

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言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。

大阪

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新聞の記者に思いを掛けられ、其人につれられて大阪の方へ行って半年あまり遊び暮していた。別れて東京に帰ってから二三

事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪へ行っていたSさんという人が、一夕突然僕等のテーブルの傍

江戸

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手傾城※の如きは其の冠たるものであろう。京伝等江戸の戯作者の好んで為した市井風俗の観察は多く支那の艶史より学び来

博多

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結い、鼠地の絣のお召に横縦に縞のある博多の夏帯を締めていた。顔立は面長の色白く、髪の生際襟足とも

赤坂

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の中の一人がきいた事がある。するとお民は赤坂の或待合に女中をしていたことがあると答えたので僕は

松山

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この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足り

風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢となすが故である。当時

ある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を

一軒一軒、賠償金を徴発していたら、今頃は松山さんの家は朱頓の富を誇っていたに相違はない。

さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長けたること、若しかの博文館が二十年

巴里

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して特に創設という語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の

ない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のことを回想せしめ生田さんをしては伯林のむかし

銀座

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ある。ふらふらと僕の家へやって来た女は一時銀座の或カッフェーに働いていた給仕人である。本屋と女給とは職業

知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタン

も当時のことであったが、僕はプランタンの遭難以来銀座辺の酒肆には一切足を踏み入れないようにしていた。

の四辻に近い唯あるカッフェーに休んだ。それ以来僕は銀座通を通り過る時には折々この店に休んで茶を飲むことにし

僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い唯あるカッフェーに

僕は年五十に垂んとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに憩い僕の面前に紅茶を持運んで来た女給仕人を

銀座通にカッフェーの流行し始めてから殆二十年の歳月を経たことは

今銀座のカッフェーに憩い、仔細に給仕女の服装化粧を看るに、其の趣味の

僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗をたとえて、石版摺の雑誌表紙

固有の天地の造り出されるのは自然の勢である。同じ銀座通に軒を連ねて同じ営業をしていても、其店々によっ

昭和紀元の冬、銀座通に在ったカッフェーにして、殊に給仕女の※粧の人目を牽い

僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。

ノ如キハ固ヨリ言フ可キ限リニ非ザル也。銀座街ノカツフヱー皆妙齢ノ婢ヲ蓄ヘ粉粧ヲ凝シテ客ノ酔ヲ侑ケシムルコト

「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩

は今に至っても容易に一掃することができない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のこと

たが、何ぞ図らむ。斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈していようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く

使は純粋の町言葉であった。三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち

断定の当っていなかった事は、やがて僕等一同が銀座のカッフェーには全く出入しないようになってから、或日突然お民

「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」

浅草

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カウンターに倚りかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェー

ゲタルモノ。然ルガ故ニ婢モ亦開店ノ当初ニ在リテハ浅草ノ本店ヨリ分派セラレシモノ尠シトナサヾリキ。今ヤ日ニ従テ新陳代謝シ四方ヨリ風

答ヘテ曰ク閣下ノ言フガ如シ。抑是ノ酒肆ハ浅草雷門外ナル一酒楼ノ分店ニシテ震災ノ後始テ茲ニ青※ヲ掲

復問フテ曰ク卿等女給サンノ前身ハ何ゾヤ。聞クナラク浅草公園上野広小路辺ノ洋風酒肆近年皆競ツテ美人ヲ蓄フト。果シテ然ルヤ

東京

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いう語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を

も同じく進化の道がある。江戸時代に在っては山東京伝は吉原妓楼の風俗の家毎に差別のあった事を仔細に観察

たところを聞くのに、お民は矢張その様子にたがわず東京の下町に生れた者であった。

ァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い

大阪の方へ行って半年あまり遊び暮していた。別れて東京に帰ってから二三軒あちこちのカッフェーを歩いた後遂に現在のカッフェーへ出る

では、新聞紙には、二六、国民、毎夕、中央、東京日日の諸紙毒筆を振うこと最甚しく、雑誌にはササメキと呼ぶもの、

カッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだ

得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦いとも思っていなかった

新橋

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葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家

ず、服部撫松は柳巷新史を著し、松本万年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げ

上野広小路

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フテ曰ク卿等女給サンノ前身ハ何ゾヤ。聞クナラク浅草公園上野広小路辺ノ洋風酒肆近年皆競ツテ美人ヲ蓄フト。果シテ然ルヤ。婢

浅草橋

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。広小路に福本亭という講釈場のあった事や、浅草橋手前に以呂波という牛肉屋のあった事などもきいて見たが、

東中野

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「兄さんや母さんと一緒に東中野にいます。母さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公し

神田

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死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わ