日和下駄 一名 東京散策記 / 永井荷風

日和下駄のword cloud

地名一覧

四谷

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が尠くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と

にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と

相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂に至る街路の如きは

愛住町

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と欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町の暗闇坂、麻布二之橋向の日向坂の如きを見よ。といった処

弁天山

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鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋めつくされた。

高野山

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散歩する中、私の目についた崖は芝二本榎なる高野山の裏手または伊皿子台から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の

は伊皿子台から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の向側なる上行寺は、其角の墓ある故に人の知る処である

茗荷谷

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小石川には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂

この茗荷谷を小日向水道町の方へ出ると、今も往来の真中に銀杏の大木が立っ

観音寺

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ほしわたし思河のよるべに芥を埋む。都府楼観音寺唐絵と云はんに四ツ目の鐘の裸なる、報恩寺の甍の白地

富坂

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ば砲兵工廠の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある。その流れに沿うて蒟蒻

済松寺

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済松寺祖心の尼の若かりしむかしつけたるかねの声々

花園町

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で神田明神の裏手なる本郷の妻恋坂、湯島天神裏花園町の坂、また少しく辺鄙なるを厭わずば白金清正公のほとりの坂、さて

宇田川

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下水に過ぎない。『紫の一本』にも芝の宇田川を説く条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の

王子

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河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華

浅草寺

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に数えられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋め

愛宕山

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は赤坂霊南坂上より芝西の久保へ下りる江戸見坂である。愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来る。芝伊皿子台上の

根岸

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、亀井戸普門院の御腰掛松、柳島妙見堂の松、根岸の御行の松、隅田川の首尾の松なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正

称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の健なるあり。麻布本村町の曹渓寺には絶江の

増上寺

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如何なる小さな寺といえども皆門を控えている。芝増上寺の楼門をしてかくの如く立派に見せようがためにはその門前なる広い松原

条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋敷々々の下水も

芝浦

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芝浦の月見も高輪の二十六夜待も既になき世の語草である。南品の

芝浦の埋立地も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきもので

関西

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関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児は水道

東照宮

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へ下り、不忍池の後を廻ると、ここにも聳え立つ東照宮の裏手一面の崖に、木の間の星を数えながらやがて広小路の電車に乗った

富士山

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いたなら、繁華な市中からも日本晴の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚

の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓

富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連る箱根大山秩父の山脈までを望み得る。青山一帯

寿また一立斎広重らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを俟た

東京市

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れべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或

その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮の夜景

しかし渡場はいまだ悉く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその

れ、百本杭はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景

この汚い貧民窟を見下しでもすると国家の耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人

ない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は他にある

水天宮

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知っている通り有馬侯の屋舗跡で、現在蠣殻町にある水天宮は元この邸内にあったのである。一立斎広重の『東都名勝』

屋敷の長屋が遠く立続いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟が幾筋となく閃いている様が描かれている。この図中

弘福寺

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鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺にある「石の媼様」には子供の百日咳を祈って煎豆を供える

千駄木

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崖が現れていた。根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津

私は振返って音のする方を眺めた。千駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄

宇治

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遠し、嵯峨に似てさみしからぬ風情なり。王子は宇治の柴舟のしばし目を流すべき島山もなく護国寺は吉野に似て一目千本の

青山

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れてある。私は大久保の佗住居より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事が

私は慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原を経、青山の大通を横切って三聯隊裏と記した赤い棒の立っている辺りまで、

の御門というのを中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀登っている。日頃人通の少ない処とて古風な練塀とそれを

異郷にあって更に孤客となるの怨なく、到る処の青山これ墳墓地ともいいたいほど意気頗豪なるところがあったが今その十年

ている。昔四谷通は新宿より甲州街道また青梅街道となり、青山は大山街道、巣鴨は板橋を経て中仙道につづく事江戸絵図を見るまでも

小石川

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好きであった。十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。勿論電車のない時分で

の光景にも少し飽きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻る事になった。その夏始めて両国の水練場へ通いだし

。譬えば砲兵工廠の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽そうという左側に一筋の溝川がある。その流れに沿う

行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。

私は小石川なる父の家の門札に、第四大区第何小区何町何番地と所書

調練場となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の館第も今日われわれの見る如く陸軍の所轄となり名高き庭苑も

二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は

私の生れた小石川には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右

小石川柳町には一方に本郷より下る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対峙している。こういう処は地勢が

、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭、浅草本願寺、品川御殿山、及び小石川の雪中である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した

倫敦

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の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育のホドソン、倫敦のテエムスに対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市

威厳と品格とを帯させるものである。巴里にも倫敦にもあんな大きな、そしてあのように香しい蓮の花の咲く池は見られまい

本所

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に寺院の屋根を望み木魚と鐘とを聞く情趣は、本所と深川のみならず浅草下谷辺においてもまた変る処がない。私は

竹屋の渡しがあり、橋場には橋場の渡しがある。本所の竪川、深川の小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場が

を択んだ。曰く佃島、深川万年橋、本所竪川、同じく本所五ツ目羅漢寺、千住、目黒、青山竜巌寺、青山穏田水車、神田駿河台、

根津

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の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠、もしくは

の如き、本郷なる本妙寺坂下の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折といえば必ず

は、樹や草の生茂った崖が現れていた。根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。

飛鳥山

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ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山より遠く日光筑波の山々を見ることを得れば直にこれを雲の彼方に

上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中で最も偉大なものであろう。神田

丸の内

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見るようであった。その時分に比すれば大名小路の跡なる丸の内の三菱ヶ原も今は大方赤煉瓦の会社になってしまったが、それでも

筑波

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眺望を東都の誇となした。西に富士ヶ根東に筑波の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間

江戸見坂

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して最も名高きは赤坂霊南坂上より芝西の久保へ下りる江戸見坂である。愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来る。

寛永寺

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今日上野博物館の構内に残っている松は寛永寺の旭の松または稚児の松とも称せられたものとやら。首尾の

東京府

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番地と所書のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れ

、漸と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその辺の船宿では釣船の外

谷中

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ている。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷、谷中、渋谷、雑司ヶ谷なぞを編入したように、地理よりも実は地名の文字

吾妻橋

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述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけ

ている処から今だに食傷新道の名がついている。吾妻橋の手前東橋亭とよぶ寄席の角から花川戸の路地に這入れば、ここは芸人

赤城

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見る趣がある。これと対して牛込の方を眺めると赤城の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなし

朝夕のかすみのいろも赤城やまそなたのかたにむかでしらるゝ

神田錦町

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事があった。勿論電車のない時分である。私は神田錦町の私立英語学校へ通っていたので、半蔵御門を這入って吹上御苑

雷門

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に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば雷門は既に焼失せてしまったが今なお残る二王門をば仲店の敷石道から望み見る

思川

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逢初川、橋場総泉寺の裏手から真崎へ出る溝川を思川、また小石川金剛寺坂下の下水を人参川と呼ぶ類である。江戸時代に

八丁堀

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街路について見るのが一番便宜である。神田川や八丁堀なぞいう川筋、また隅田川沿岸の如きは夕陽の美を俟たざるも、それぞれ他

武蔵野

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した閑地で、冬枯の雑草に夕陽のさす景色は目のあたり武蔵野を見るようであった。その時分に比すれば大名小路の跡なる丸の内の三菱ヶ原も

奥から巣鴨滝の川へかけての平野は、さらに広い武蔵野の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡て耒耜が加えられている

加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処にそれを求むべきであろう。高低の

ある。しかしこの不快を与うるその大機関は、また古の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。

。西に富士ヶ根東に筑波の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間葛飾北斎『富嶽三十六景』の

竹橋

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も休んで飯をくっている事もあった。これは竹橋の方から這入って来ると御城内代官町の通は歩くものにはそれほど

赤坂

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浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方なく埋めつくされた。それによって私は将来不忍池も

牛ヶ淵

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蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに留めて置く。

日枝神社

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なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。麹町日枝神社の山門の甚だ幽邃なる理由を知らんには、その周囲なる杉の木立のみ

有馬

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今年の五月頃の事である。友人久米君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚が今だに残っているという事だ

の種となすに足るべき興味が繋がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れ

も彳んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度破壊されたその跡

箱崎町

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まとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲と箱崎町の出端との間に深く突入っている堀割はこれを箱崎町の永久橋また

町の出端との間に深く突入っている堀割はこれを箱崎町の永久橋または菖蒲河岸の女橋から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数

根津権現

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ばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中

感想を伺って、夜も九時過再び千駄木の崖道をば根津権現の方へ下り、不忍池の後を廻ると、ここにも聳え立つ東照宮の裏手

江戸城

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江戸城の濠はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を

ナポリ

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思えば伊太利亜ミラノの都はアルプの山影あって更に美しく、ナポリの都はヴェズウブ火山の烟あるがために一際旅するものの心に記憶さ

牛込

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かくの如き眺望は敢てここのみならず、外濠の松蔭から牛込小石川の高台を望むと同じく先ず東京中での絶景であろう。

に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中

物せし一巻をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけしきもなつかしくこゝにその題をうつして夷歌によみつゞけ

江戸

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の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一とし

これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それに

ないものも、時にはこれを衒ったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛

審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探りこれが保存を主張しようという訳でもない。如何

、いつものようにそっと歩を止めた。私は不健全な江戸の音曲というものが、今日の世にその命脈を保っている事を訝しく

新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の下で演奏せしめる世俗一般の風潮にも伴って行く

目に青葉山時鳥初鰹。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字にいい

この十七字にいい尽されている。北斎及び広重らの江戸名所絵に描かれた所、これを文字に代えたならば、即ちこの一句

と調和して、あくまで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士はその邸宅に花ある木を植えず、常磐木の中にても殊に松

亀松がある。広重の絵本『江戸土産』によって、江戸の都人士が遍く名高い松として眺め賞したるものを挙ぐれば小名木川の

に昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである

は何のいわれもなく山の手のこの辺を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明時代の風流を思起すのである。『狂歌才蔵

江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄

処に夥しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と武家の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処

見ゆれども水上はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少くなかった。下水の

中に残された池の中の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内

甚だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉めている。しかし

山、窪、堀、池、橋なぞいう分類の下に江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処

的興味に基いた処が尠くない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である。

の鼻先に浮べる有様、これに因ってこれを観れば古来江戸名所に数えらるる地点悉く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。

半分は江戸のものなり不尽の雪    立志

道灌山

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上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中で最も偉大なものであろう。

愛宕

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の宇田川を説く条に、「溜池の屋舗の下水落ちて愛宕の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋

の下より増上寺の裏門を流れて爰に落る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故宇田川橋にては少しの川のやう

本郷

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裏町の光景を組織する。即ち小石川柳町の小流の如き、本郷なる本妙寺坂下の溝川の如き、団子坂下から根津に通ずる藍染川の如き、かかる

小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢

大に眼界を美ならしむる。則ち旧加州侯の練塀立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、麻布長伝寺の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の

私はまた坂の中で神田明神の裏手なる本郷の妻恋坂、湯島天神裏花園町の坂、また少しく辺鄙なるを厭わず

の高地が坂になっている。小石川柳町には一方に本郷より下る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対峙し

音羽

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の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと音羽へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂にちらばらと

光円寺

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だといい伝えられているものも少くはない。小石川久堅町なる光円寺の大銀杏、また麻布善福寺にある親鸞上人手植の銀杏と称せられるものの如き、

善福寺

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少くはない。小石川久堅町なる光円寺の大銀杏、また麻布善福寺にある親鸞上人手植の銀杏と称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹

両国

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は再び小石川の旧宅に立戻る事になった。その夏始めて両国の水練場へ通いだしたので、今度は繁華の下町と大川筋との光景に一方なら

は尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩漫に過ぎている。本所小

ているので、堂摺連の手拍子は毎夜張扇の響に打交る。両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋袋物屋煎餅屋など種々なる小

小石川の後楽園

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。鉄砲洲なる白河楽翁公が御下屋敷の浴恩園は小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍

日比谷公園

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石垣がそのままに保存されていた時分、今日の日比谷公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に夕陽のさす景色

当世人の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類のもので、清夜

青山墓地

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に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は芒の穂を眺め

湯島天神

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坂の中で神田明神の裏手なる本郷の妻恋坂、湯島天神裏花園町の坂、また少しく辺鄙なるを厭わずば白金清正公のほとり

奈良

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批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会

全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都宇治奈良宮島日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを日本旅行者

意表に出でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せと

である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街

京都

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なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの

往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀に対して異国種の楓の並木は何たる突飛ぞや。

花を見るのが何となく嬉しいというに過ぎない。京都鎌倉あたりの名高い寺々を見物するのとは異って、東京市中に散在

俟って全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都宇治奈良宮島日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを

の意表に出でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せ

注意を払うべき必要があった。しかるに近年見る所の京都の道路家屋並に橋梁の改築工事の如きは全く吾人の意表に出でた

訳である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く

巴里

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には自らまた近世ヂレッタンチズムの影響も混っていよう。千九百五年巴里のアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る

河とは東京市の有する最も尊い宝である。巴里の巴里たる体裁は寺院宮殿劇場等の建築があれば縦え樹と水なくとも

を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。巴里の巴里たる体裁は寺院宮殿劇場等の建築があれば縦え樹と水

便りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに擬し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を

の如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た巴里の凱旋門その他の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、

や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育のホドソン

の出来ぬ威厳と品格とを帯させるものである。巴里にも倫敦にもあんな大きな、そしてあのように香しい蓮の花の咲く池

ていた。私はシャワンの描いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里の夜景を見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さ

Fifth Avenue よりコロンビヤの高台に上る石級を好み、巴里の大通よりも遥にモンマルトルの高台を愛した。里昂にあってはクロワルッス

富山

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かぶり孫太郎虫や水蝋の虫箱根山山椒の魚、または越中富山の千金丹と呼ぶ声。秋の夕や冬の朝なぞこの声を聞け

水戸

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となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の館第も今日われわれの見る如く陸軍の所轄となり名高き庭苑も追々

下谷

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の重立った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。下谷佐竹の屋敷は調練場となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸

ている。そして町の名さえ寺町といわれた処は下谷浅草牛込四谷芝を始め各区に渡ってこれを見出すことが出来る。私

と鐘とを聞く情趣は、本所と深川のみならず浅草下谷辺においてもまた変る処がない。私は今近世の社会問題から

修養の一助になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い溝際の町を通る度々、見るもの聞くもの

五は芝の桜川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如きその名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を

王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川

凹地には溝が小川のように美しく流れていた。下谷の佐竹ヶ原、芝の薩摩原の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町に

左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処より起る雑然たる巷の

仙台

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た。そればかりでない。私の穿いていた藍縞仙台平の夏袴は死んだ父親の形見でいかほど胸高に締めてもとかくずるずる

長崎

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これらの石級磴道はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危くコツコツと

深川

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は遥に銅像以上の審美的価値があるからである。本所深川の堀割の橋際、麻布芝辺の極めて急な坂の下、あるいは繁華

道具立を見るような興味に似ている。私は本所深川辺の堀割を散歩する折夕汐の水が低い岸から往来まで溢れかかって

べからざる静寂の気が潜んでいるように思われる。尤も深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く

の屋根を望み木魚と鐘とを聞く情趣は、本所と深川のみならず浅草下谷辺においてもまた変る処がない。私は今

になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い溝際の町を通る度々、見るもの聞くものから幾多の

船宿の桟橋から猪牙船に乗って山谷に通い柳島に遊び深川に戯れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与え

神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は

現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残

堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の扇橋の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処で

運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも

あり、橋場には橋場の渡しがある。本所の竪川、深川の小名木川辺の川筋には荷足船で人を渡す小さな渡場が幾個所も

をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得た

望み得る処の景色凡そ十数個所を択んだ。曰く佃島、深川万年橋、本所竪川、同じく本所五ツ目羅漢寺、千住、目黒、青山

東京

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一名 東京散策記

東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文の

蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に

ず、外濠の松蔭から牛込小石川の高台を望むと同じく先ず東京中での絶景であろう。

、丁度この辺がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次に麹町四谷の方へと高くなっているので

の詩情を味おうとしたら埃及伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思をさせる処はあるまい。今日看て

今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去

されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというので

しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易に

れべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景

も、市中到る処その色の美しさにわれらは東京なる都市に対して始めて江戸伝来の固有なる快感を催し得るのである。

東京はその市内のみならず周囲の近郊まで日々開けて行くばかりであるが

どこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい固有な趣があるような気がするであろう。

醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい

、日の光の麗しく照添うさまを見たならば、東京の都市は模倣の西洋造と電線と銅像とのためにいかほど醜くさ

東京に住む人、試に初めて袷を着たその日の朝といわず、

ば縦え樹と水なくとも足りるであろう。しかるにわが東京においてはもし鬱然たる樹木なくんばかの壮麗なる芝山内の霊廟とても

断言する。山の手を蔽う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。巴里の巴里たる体裁は寺院宮殿劇場等

もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一

かえって老樹を愛重する人の多く知る処となっている。東京市中にはもしそれほどの故事来歴を有せざる銀杏の大木を探り歩いた

またこの二つを除くわけには行かない。幸にも東京の地には昔から夥しく樹木があった。今なお芝田村町に残っ

に至るまで※々として柳が生茂っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋

ありしは柳北先生の同書にも見えまた小林清親翁が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面籠る朝霧に両国橋

東京市は頻に西洋都市の外観に倣わんと欲して近頃この種の楓

に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目のあたり比較対照する事ができるからである。

を懐中にする。これは何も今時出版する石版摺の東京地図を嫌って殊更昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄

守の眼力は江戸絵図の如し。更に語を換ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。

法律教育万般のこと尽くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守の眼力は江戸絵図の如し。更に語

ている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥に直感的また印象的の方法に出でたものと見ね

町植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優るものはなかろう

ダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩に対しては、東京なる都会の興味は勢尚古的退歩的たらざるを得ない。われわれは市ヶ谷

カッフェーに擬し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法

ぬ。然らざれば如何に無聊なる閑人の身にも現今の東京は全く散歩に堪えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想

は自らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京中には何処に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗

かぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡の桜早くも

江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるもので

江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の

の随筆、芳幾の錦絵、清親の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の渾沌たる新時代の感覚に触るる

番地と所書のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私

なものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西革命史を読むが如き感に打たれるであろう

市中を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば諸処の重立った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となって

京都鎌倉あたりの名高い寺々を見物するのとは異って、東京市中に散在したつまらない寺にはまた別種の興味がある。これ

ないのは当然の事である。私は秩序を立てて東京中の寺院を歴訪しようという訳でもなく、また強いて人の知らない

二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を牽かないのは当然の事である。私

大半を今や郊外目黒の一寺院に見る。かくては今日東京市中の寺院にして輪奐の美人目を眩惑せしむるものは僅

的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には竜動や紐育において見るが如き西洋の貧民窟に比較

ほどの進歩が見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして能く時間の節倹を実施させているのであろうか。

喜び迎えて「便利」と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生がアメリカ人の如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に

に任せて、私はここにそれほど誇るに足らざる我が東京市中のものについてこれを観よう。

て立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町と呼ぶ名称の何たるかを知り

つまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船

対するが如く偉大なる富国の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川の入海と共に、さして美しくもなく

時に不朽の価値ある詩歌絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的

に、水は江戸時代より継続して今日においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便を欠い

今試に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続し

古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった

東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は

船と円ッこい達磨船を曳動す曳船の往来する外、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海である。潮の引く

東京市はかくの如く海と河と堀と溝と、仔細に観察し来れば

我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外はない。

、漸と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその辺の船宿では釣船

その沿岸の商家倉庫及び街上橋頭の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮

、鷺の森の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場を間違えたり市中

ない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭の幽谷を見るよう

特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟で

流をなす溝川の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々可笑しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある

以上河流と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き

に関して最後に渡船の事を一言したい。渡船は東京の都市が漸次整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得る

しかし渡場はいまだ悉く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にし

中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船

たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳せ廻る東京市民の公生涯とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費

で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董の一つである。古樹と寺院と城壁と

今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めと

たものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て公の町名となしたものは恐らくは一つ

路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明には描き出されていない。どこから這入って

私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町の調練場跡は人殺

私は鍛冶橋を渡って丸の内へ這入る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故というに

風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺にした東京名所の図の中に外桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの

明治十年頃小林清親翁が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺にした東京名所の

に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたなら

れ、百本杭はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時

、三十年とは経たぬ中、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次跡方もなく消滅して行きつつある

いる。しかし小林翁の版物に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経たぬ中、更に更に新しい第二の

日和下駄の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉めている。しかし小林翁の版物に描かれた新しい

の時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって

幸兵衛」「明石島蔵」などと並んで、明治初年の東京を窺い知るべき無上の資料である。維新の当時より下って憲法発布に至ら

小林翁の東京風景画は古河黙阿弥の世話狂言「筆屋幸兵衛」「明石島蔵」など

遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも幽邃なる森林が残されていようとは夢にも思い及ば

戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。目白の奥から巣鴨滝の

まい。当路の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の

この汚い貧民窟を見下しでもすると国家の耻辱になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例

現在私の知っている東京の閑地は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外に

ない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は他

の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々として東京市の風景を毀損する事に勉めているが、幸にも雑草なるもの

東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々として東京市の

私は既に期せずして東京の水と路地と、つづいて閑地に対する興味をばやや分類的に記述し

もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ宛然堡塁を望むが

という一章は設けられていない。しかし高低の甚しい東京の地勢から考えて、崖は昔も今も変りなく市中の諸処に

団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている

高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、

無聊に苦しむ閑人の散歩には余りに単調に過る。けだし東京市中における眺望の一直線をなす美観は、橋あり舟ある運河の

破るが如きはけだし賢人のなさざる処。われらが住む東京の都市いかに醜く汚しというとも、ここに住みここに朝夕を送るかぎり、

ずその眺望の大なるに歩みを留めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべき

そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の大都である。この

たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。

東京の坂の中にはまた坂と坂とが谷をなす窪地を間に

コツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないよう

如き愚をなすものはあるまい。しかし私は日頃頻に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と夕陽との関係甚だ

晩霞の濃い紫と、この夕日の空の紅色とは独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。

、ここにもまた意外なる美観をつくる。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四谷麹町青山白金の大通の如く、西向き

東京における夕陽の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月

亭北寿また一立斎広重らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるや

以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人

ものの心に記憶されるのではないか。東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは徒に議員選挙に奔走

旅するものの心に記憶されるのではないか。東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは徒に議員選挙

する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射そうが射すまいが、富士の山が見えようが見え

日本橋

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ども山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい。

を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を

を収めた宝庫かと誠に奇異なる感に打たれる。日本橋の大通を歩いて三井三越を始めこの辺に競うて立つアメリカ風の高い

川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝

は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の中日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側に

今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処西洋まがい

職業によって路地は種々異った体裁をなしている。日本橋際の木原店は軒並飲食店の行燈が出ている処から今だに食傷新道

ある運河の岸においてのみこれを看得るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸にし

の久保へ下りる江戸見坂である。愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来る。芝伊皿子台上の汐見坂も、

おいては既に世界屈指の大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥に市

、千住、目黒、青山竜巌寺、青山穏田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭、浅草本願寺、品川御殿山、及び小石川の雪中である。

銀座

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いえども山の手一面赤土を捏返す霜解も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通、やたらに溝の水を撒きちらす泥濘とて一向驚くには及ぶまい

つく。並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通の柳の木かげに夏の夜の露店賑う有様は、煽風器

。西洋文学から得た輸入思想を便りにして、例えば銀座の角のライオンを以て直ちに巴里のカッフェーに擬し帝国劇場を以てオペラ

奪うように引掴み、めいめい後をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、漸と息をついた事があった。その頃に

沿岸の燈火と相乱れて徹宵水の上に揺き動く有様銀座街頭の燈火より遥に美麗である。

今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処

銀座通に鉄道馬車が通って、数寄屋橋から幸橋を経て虎の門に至る間の

舟ある運河の岸においてのみこれを看得るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸に

においては既に世界屈指の大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥に

麹町

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当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次に麹町四谷の方へと高くなっているのである。夏の炎天には私

あった。十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。勿論電車のない時分である

煙草屋の屋根を貫いて電信柱よりも高く聳えていた。麹町の番町辺牛込御徒町辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の其処此処に

門前なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。麹町日枝神社の山門の甚だ幽邃なる理由を知らんには、その周囲なる杉

は少しく低い土地には千仭の幽谷を見るように地獄谷麹町にあり千日谷四谷鮫ヶ橋にあり我善坊ヶ谷麻布にありなぞいう名が

官舎がこの近くにあったので、憲法発布当時の淋しい麹町の昔をいろいろと追想する事ができる。一年ほど父の住っておら

はたまたまわが『日和下駄』の事に及んだ。四六君は麹町平川町から永田町の裏通へと上る処に以前は実に幽邃な崖があっ

を眺むるによろしく、皀角坂水道橋内駿河台西方は牛込麹町の高台並びに富嶽を望ましめ、飯田町の二合半坂は外濠を越え江戸

のために私の記憶する処である。赤坂喰違より麹町清水谷へ下る急な坂、また上二番町辺樹木谷へ下る坂の如きは下弦

、それ相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂に至る街路

けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四谷麹町青山白金の大通の如く、西向きになっている一本筋の長い街路に

永田町

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た。十三、四の頃私の家は一時小石川から麹町永田町の官舎へ引移った事があった。勿論電車のない時分である。

と話された。小波先生も四六君も共々その頃は永田町なる故一六先生の邸宅にまだ部屋住の身であったのだ。丁度その

『日和下駄』の事に及んだ。四六君は麹町平川町から永田町の裏通へと上る処に以前は実に幽邃な崖があったと話さ

住吉

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雪の曙思ひやらるゝにや爰も流なくて口惜し。住吉を移奉る佃島も岸の姫松の少きに反橋のたゆみをかしからず宰府

護国寺

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。王子は宇治の柴舟のしばし目を流すべき島山もなく護国寺は吉野に似て一目千本の雪の曙思ひやらるゝにや爰も流

美人目を眩惑せしむるものは僅に浅草の観音堂音羽護国寺の山門その他二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして

目黒

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して肩落したり。山並もあらばと願はし。目黒は物ふり山坂おもしろけれど果てしなくて水遠し、嵯峨に似てさみしから

五百の羅漢のみ幸に移されてその大半を今や郊外目黒の一寺院に見る。かくては今日東京市中の寺院にして輪奐

東都の西郊目黒に夕日ヶ岡というがあり、大久保に西向天神というがある。倶

て麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂に至る街路の如きは、以前からいやに駄々広いばかりで、何

なければならぬ。雑司ヶ谷の鬼子母神、高田の馬場の雑木林、目黒の不動、角筈の十二社なぞ、かかる処は空を蔽う若葉の間より

橋、本所竪川、同じく本所五ツ目羅漢寺、千住、目黒、青山竜巌寺、青山穏田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭、浅草

向島

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百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺にある「石の媼様」には子供の百日咳を祈っ

山なぞと呼ばれている。島なき場所も柳島三河島向島なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森、鷺の森の如き名称が

、築地の海岸からは新に曳船の渡しが出来た。向島には人の知る竹屋の渡しがあり、橋場には橋場の渡しがある

の棹を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲や白髯に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私

大久保

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富坂の源覚寺にあるお閻魔様には蒟蒻をあげ、大久保百人町の鬼王様には湿瘡のお礼に豆腐をあげる、向島の弘福寺

富嶽卅六景』中にも描かれてある。私は大久保の佗住居より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにし

市民もしくは村民の蹂躙するに任してある。騎馬の兵士が大久保柏木の小路を隊をなして駆せ廻るのは、甚だ五月蠅いものである。

耒耜を加うるに躊躇しない。然るに如何にして大久保の辺に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか

東都の西郊目黒に夕日ヶ岡というがあり、大久保に西向天神というがある。倶に夕日の美しきを見るがために人

駒込

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芝日蔭町に鯖をあげるお稲荷様があるかと思えば駒込には炮烙をあげる炮烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが

にて名高き渋谷の金王桜、柏木の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺の並木の桜の如く、来歴あるものを捜むれば数多あろうが、

神田

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といわず、外出の折の道すがら、九段の坂上、神田の明神、湯島の天神、または芝の愛宕山なぞ、随処の高台に登っ

の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代のわれわれに

揚場の光景もまたしばし杖を留むるに足りる。夏の炎天神田の鎌倉河岸、牛込揚場の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方と

も明治当初のままなるものは、桜田外の参謀本部、神田橋内の印刷局、江戸橋際の駅逓局なぞ指折り数えるほどであろう。

私は近頃数寄屋橋外に、虎の門金毘羅の社前に、神田聖堂の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るより

。左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処より起る雑然たる巷

の坂にして眺望の佳なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂は駿河台岩崎邸門前の坂と同じく万世橋を眼の下に

私はまた坂の中で神田明神の裏手なる本郷の妻恋坂、湯島天神裏花園町の坂、また

お茶の水の錦絵はわれら今日目のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に佇んで西の

御徒町

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て電信柱よりも高く聳えていた。麹町の番町辺牛込御徒町辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の其処此処に銀杏の大樹の立っ

浅草

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称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹である。浅草観音堂のほとりにも名高い銀杏の樹は二株もある。小石川植物園内の

る時、最も日本らしい山水を作す。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の公孫樹中の冠たるものといわねばならぬ

土手には神田川の流に臨んで、筋違の見附から浅草見附に至るまで※々として柳が生茂っていたが、東京に改め

いる。そして町の名さえ寺町といわれた処は下谷浅草牛込四谷芝を始め各区に渡ってこれを見出すことが出来る。私は

して輪奐の美人目を眩惑せしむるものは僅に浅草の観音堂音羽護国寺の山門その他二、三に過ぎない。歴史また美術

木魚と鐘とを聞く情趣は、本所と深川のみならず浅草下谷辺においてもまた変る処がない。私は今近世の社会問題

の一助になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い溝際の町を通る度々、見るもの聞くものから

心理は到底私には解釈し得られぬ処である。浅草観音堂とその境内に立つ銀杏の老樹、上野の清水堂と春の桜秋の

、長い敷石道の此方から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば雷門は既に焼失せてしまったが今なお

は寺の門口からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び随身門である事を語った。然れば今更ここにその

の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川、

と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、あるいは浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、あるいは橋場

に数えられた鏡ヶ池や姥ヶ池は今更尋る由もない。浅草寺境内の弁天山の池も既に町家となり、また赤坂の溜池も跡方

今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板

池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ賑さである。鰌と鮒と時には大きな

には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処より起る雑然たる巷の物音

巌寺、青山穏田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭、浅草本願寺、品川御殿山、及び小石川の雪中である。私はまだこれらの錦絵

市ヶ谷

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ぬ松の姿にそぞろ昔を思わせる処が少くない。市ヶ谷の堀端に高力松、高田老松町に鶴亀松がある。広重の絵本『江戸

興味は勢尚古的退歩的たらざるを得ない。われわれは市ヶ谷外濠の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測する

をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡の桜早くも散って、茶の木稲荷の茶の木の生垣伸び茂る頃

、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい

なっている。下谷佐竹の屋敷は調練場となり、市ヶ谷と戸塚村なる尾州侯の藩邸、小石川なる水戸の館第も今日われわれの

である。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署後の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の

市ヶ谷谷町から仲之町へ上る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂という

段の高台、右には造兵廠の樹木と並んで牛込市ヶ谷辺の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込揚場辺の

日暮里

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なかった。この近くに山の手の新日暮里といわれて、日暮里の花見寺に比較せられた仙寿院の名園ある事は、これも

愚か庭らしい閑地さえ見当らなかった。この近くに山の手の新日暮里といわれて、日暮里の花見寺に比較せられた仙寿院の名園

千駄ヶ谷

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がある。寺は青山練兵場を横切って兵営の裏手なる千駄ヶ谷の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、

上野

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今日上野博物館の構内に残っている松は寛永寺の旭の松または稚児の

もの決してこれを閑却する訳には行くまい。桜には上野の秋色桜、平川天神の鬱金の桜、麻布笄町長谷寺の右衛門桜、青山梅

の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原の如く柳ある

上野寛永寺の楼閣は早く兵火に罹り芝増上寺の本堂も祝融の災に

処である。浅草観音堂とその境内に立つ銀杏の老樹、上野の清水堂と春の桜秋の紅葉の対照もまた日本固有の植物と建築

不忍の池に泛ぶ弁天堂とその前の石橋とは、上野の山を蔽う杉と松とに対して、または池一面に咲く蓮花

私は上野博物館の門内に入る時、表慶館の傍に今なお不思議にも余命を

あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕を

今日東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処西洋まがいの建築物とペンキ

上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中で最も偉大な

自由に浮雲の定めなき行衛をも見極められる。左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が

時である。一際高く漂い来る木犀の匂と共に、上野の鐘声は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯

である。その代り、私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋

渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のように残してい

吉祥寺

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名高き渋谷の金王桜、柏木の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺の並木の桜の如く、来歴あるものを捜むれば数多あろうが、柳

渋谷

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また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の金王桜、柏木の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺の並木の桜の如く

。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷、谷中、渋谷、雑司ヶ谷なぞを編入したように、地理よりも実は地名の文字から

日比谷

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半蔵御門より外桜田の堀あるいはまた日比谷馬場先和田倉御門外へかけての堀端には一斉に柳が植ってい

をしている。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷、谷中、渋谷、雑司ヶ谷なぞを編入したように、地理よりも実は

人形町

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並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通の柳の木かげに夏の夜の露店賑う有様は、煽風器なくとも

お茶の水

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教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を過る度々「仰高」の二字を掲げた大成殿の表門を仰げ

価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、最早や現代のわれわれには昔

崖の中で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁の名がある位で、崖の最も絵画的

坂にして眺望の佳なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂は駿河台岩崎邸門前の坂と同じく万世橋を眼の下に神田

目のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に佇んで西の方を望めば、左に

俟たない。北寿が和蘭陀風の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日目のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂の門前を

品川

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も想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川の入海と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でも

に当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は

れているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅してしまったにかかわら

ては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼の八ツ山の沖に並んで泛ぶこれも無用なる御

はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅に房州通の蒸汽船と円ッこい達磨船を曳動す曳船

たる水とを有する頗変化に富んだ都会である。まず品川の入海を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる

かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の

汐見坂も、天然の地形と距離との宜しきがために品川の御台場依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に

穏田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭、浅草本願寺、品川御殿山、及び小石川の雪中である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景

月島

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北原白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるもの

富士見の渡、その川下に安宅の渡が残っている。月島の埋立工事が出来上ると共に、築地の海岸からは新に曳船の渡し

浅草橋

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繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋の船宿から小舟を借りてこの辺を漕ぎ廻り、河中に碇泊している

以て造った彼の眼鏡橋はそれと同じような形の浅草橋と共に、今日は皆鉄橋に架け替えられてしまった。大川端なる元柳橋

千住

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築地の河岸の船宿から四梃艪のボオトを借りて遠く千住の方まで漕ぎ上った帰り引汐につれて佃島の手前まで下って来た時

容易くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩漫に過ぎて

深川万年橋、本所竪川、同じく本所五ツ目羅漢寺、千住、目黒、青山竜巌寺、青山穏田水車、神田駿河台、日本橋橋上、駿河町越後屋店頭

蔵前

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新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、あるいは浅草蔵前の電燈会社と駒形堂の如き、国技館と回向院の如き、あるいは橋場の

赤羽

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になる。麻布の古川は芝山内の裏手近くその名も赤羽川と名付けられるようになると、山内の樹木と五重塔の聳ゆる麓を

新橋

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艶しい限りであるが、私はこの種類の中では新橋柳橋の路地よりも新富座裏の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた

巣鴨

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近郊に珍らしい広開した地である。目白の奥から巣鴨滝の川へかけての平野は、さらに広い武蔵野の趣を残したもの

は新宿より甲州街道また青梅街道となり、青山は大山街道、巣鴨は板橋を経て中仙道につづく事江戸絵図を見るまでもなく人の知る

これらの大通は四谷青山白金巣鴨なぞと処は変れど、街の様子は何となく似通っている。昔

目白

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原は東京の近郊に珍らしい広開した地である。目白の奥から巣鴨滝の川へかけての平野は、さらに広い武蔵野の趣

には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人の東豊山十五景の狂歌にもある通り昔からの

方を眺めると赤城の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人の

しも又天明のむかしなればせき口の紙の漉かへし目白の滝のいとのくりことになんありける

東豊山新長谷寺目白不動尊のたゝせ玉へる山は宝永の頃再昌院法印のすめる関口

杉のはのたてる門辺に目白おし羽觴を飛す岸の上の茶や

代々木

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わが意を得たものである。こは直に移して代々木青山の練兵場または高田の馬場等に応用する事が出来る。晩秋の

とかいう話のあった頃、もしそうなった暁四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下しでもすると国家

鮫ヶ橋の貧民窟は一時代々木の原に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなっ

信濃町

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私は慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原を経、青山の大通を横切って三聯隊裏と記した赤い棒の

大塚

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ある。この通を行尽すと音羽へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂にちらばらと喬木が立っている。

水道橋

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眼の下に神田川を眺むるによろしく、皀角坂水道橋内駿河台西方は牛込麹町の高台並びに富嶽を望ましめ、飯田町の二合半

牛込市ヶ谷辺の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込揚場辺の河岸まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常

新宿

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附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂に至る街路の如きは、以前から

、街の様子は何となく似通っている。昔四谷通は新宿より甲州街道また青梅街道となり、青山は大山街道、巣鴨は板橋を経て

桜田御門

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はせめんとにかためられて再び露草の花を見ず。桜田御門外また芝赤羽橋向の閑地には土木の工事今まさに興らんとするにあら

私は錦町からの帰途桜田御門の方へ廻ったり九段の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町

それ故私は唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する場所の名を挙げるに留め

隅田川

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ない。既に宝晋斎其角が『類柑子』にも「隅田川絶えず名に流れたれど加茂桂よりは賤しくして肩落したり。

腰掛松、柳島妙見堂の松、根岸の御行の松、隅田川の首尾の松なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正三年の今日幸

また釣や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育

のみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水本所の竪川を始め市中の水流は、

欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命で

して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の

眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙

にかかわらずその上下に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希う

を以て、大に山の手の誇とするのである。『隅田川両岸一覧』に川筋の風景をのみ描き出した北斎も、更に足曳の山の手

が一番便宜である。神田川や八丁堀なぞいう川筋、また隅田川沿岸の如きは夕陽の美を俟たざるも、それぞれ他の趣味によって

小名木川

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が遍く名高い松として眺め賞したるものを挙ぐれば小名木川の五本松、八景坂の鎧掛松、麻布の一本松、寺島村蓮華寺の

ざる静寂の気が潜んでいるように思われる。尤も深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤烟と

のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川より猿江裏の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残も容易く

神田川

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のなびきゆらめくほど心地よきはない。東都柳原の土手には神田川の流に臨んで、筋違の見附から浅草見附に至るまで※々として

如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等

高地の側面は崖の中で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁の名がある位で、崖の

は駿河台岩崎邸門前の坂と同じく万世橋を眼の下に神田川を眺むるによろしく、皀角坂水道橋内駿河台西方は牛込麹町の高台並び

筋の長い街路について見るのが一番便宜である。神田川や八丁堀なぞいう川筋、また隅田川沿岸の如きは夕陽の美を俟たざるも

と並んで牛込市ヶ谷辺の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込揚場辺の河岸まで、遠いその眺望のはずれに、われら

両国橋

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にも描かれてある。図を見るに川面籠る朝霧に両国橋薄墨にかすみ渡りたる此方の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜になり

、一株の柳も植えず〕」とある。しかして両国橋よりやや川下の溝に小橋あって元柳橋といわれここに一樹の老

故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口の風景

たように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋における

悉く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見の渡、その川下に安宅の渡が

橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無にかかわらずその上下に今なお渡場が残されてある如く隅田川その

京橋

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、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の

て十字形をなす処である。本所柳原の新辻橋、京橋八丁堀の白魚橋、霊岸島の霊岸橋あたりの眺望は堀割の水のあるいは

久保へ下りる江戸見坂である。愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来る。芝伊皿子台上の汐見坂も、天然

永代橋

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回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋や両国橋の如くに醜くいとは思わない。

ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故

の帆前船を見ればおのずと特種の詩情が催される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する

白秋諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが尠く

私が十五、六歳の頃であった。永代橋の河下には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐れ

橋等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例

について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口の眺望を第一とする。吾妻橋両国橋等の眺望は今日の処

あろう。江戸時代に溯ってこれを見れば元禄九年に永代橋が懸って、大渡しと呼ばれた大川口の渡場は『江戸鹿子』や

新大橋

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が出来ない。これを例するに浅野セメント会社の工場と新大橋の向に残る古い火見櫓の如き、あるいは浅草蔵前の電燈会社と駒形

蓮池御門

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てするに如くはない。それ故私は唯代官町の蓮池御門、三宅坂下の桜田御門、九段坂下の牛ヶ淵等古来人の称美する