礫川徜徉記 / 永井荷風

礫川徜徉記のword cloud

地名一覧

光円寺

地名をクリックすると地図が表示されます

は今博文館の印刷工場聳え立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公孫樹も既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久堅町より竹早町の

四谷

地名をクリックすると地図が表示されます

所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に徒り寒暑昼夜のわかちなく釣魚を事

これを寺僧に聞得て愕然たりき。因にしるす南岳が四谷の旧居は荒木町絃歌の地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。

小石川

地名をクリックすると地図が表示されます

で来りてわが面を熟視する事良久にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端なく四十年のむかし

金剛寺坂

地名をクリックすると地図が表示されます

、三町にしてまた坂の下口を見る。これ即金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ

坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の

金剛寺坂の中腹には夜ごとわが先考の肩揉みに来りし久斎とよぶ按摩住みたり。

南岳

地名をクリックすると地図が表示されます

翁の貲を捐てて建てられしものなり。われ初て南岳と交を訂せしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善く

を得たり。褒賞授与の日川端玉章手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下

の日川端玉章手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々と

その席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生

達したるを以て嘉賞する処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし来由する所ありといふべきなり。大正四、五年

する所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に徒り寒暑昼夜のわかちなく釣魚を

丸の内

地名をクリックすると地図が表示されます

裏町の泥濘も大方はかわきしかと思はれし昼過。丸の内より神田を過ぎて小石川原町なる本念寺に大田南畆の墓を弔ひぬ。

新長谷寺

地名をクリックすると地図が表示されます

に関口に出で、目白坂の峻坂を攀ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗の不動堂は幸にして震災を免れしかど、

茗荷谷

地名をクリックすると地図が表示されます

ば、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗荷谷のあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通

赤城

地名をクリックすると地図が表示されます

ば、ほどなく新坂の降口あり。新樹の梢に遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の邸、音楽学校長伊沢

葛飾郡

地名をクリックすると地図が表示されます

これに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身

両国

地名をクリックすると地図が表示されます

音吐鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月日魯両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を鼓煽し電車を焼き官庁を破壊す。

巴里

地名をクリックすると地図が表示されます

しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にあり

英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴里にありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、

福岡

地名をクリックすると地図が表示されます

ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽にして懸崕の頂に

を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽に

東京

地名をクリックすると地図が表示されます

わが東京の市内に残りし古碑断碣、その半は癸亥の歳の災禍に

上野

地名をクリックすると地図が表示されます

を知らずと。その為人おほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒状を得たり。褒賞授与の日

桜田門

地名をクリックすると地図が表示されます

ば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り綸を御溝に垂れて連日鯉魚十数尾を獲て帰りし

神田

地名をクリックすると地図が表示されます

泥濘も大方はかわきしかと思はれし昼過。丸の内より神田を過ぎて小石川原町なる本念寺に大田南畆の墓を弔ひぬ。われ

鶯谷

地名をクリックすると地図が表示されます

詩仏が『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その

紐の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼の旧址は

金剛寺の裏手多福院に接する処明地の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと

金剛寺坂なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり

また六樹園が狂文『吾嬬なまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、勾欄の前なる桜の咲きみだれたるが

日比谷

地名をクリックすると地図が表示されます

て、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭に醜陋なる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。

新宿

地名をクリックすると地図が表示されます

代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身

大久保

地名をクリックすると地図が表示されます

父三たび家を徒して、終に燕息の地を大久保村に卜せられし時、衡門の傍なる皀莢の樹陰に茅葺の廃屋

麹町

地名をクリックすると地図が表示されます

塗の看板に反映し洋食の臭気芬々たり。神楽坂を下り麹町を過ぎ家に帰れば日全く昏し。燈を挑げて食後戯に

目白

地名をクリックすると地図が表示されます

出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を攀ぢて新長谷寺の樹下に憩ふ。朱塗の不動堂