細雪 02 中巻 / 谷崎潤一郎
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が篤くて、毎月廿六日には欠かさず阪急沿線の清荒神へ参詣したこと。又百二十八社巡りと云って、住吉、生玉、高津の
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「あれが丸ビル、あの向うが宮城やで」
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と肌が合わないせいでもあるが、一つには関東の水そのものが性に適しないのであることが、自分にもよく分る
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当るので俗に「鷺さくさん」と呼ばれた、大阪に「山村」を名告る舞の家筋が二三軒ある中で最も純粋な昔の
は置き舞台の用意などがあるのだけれども、それを大阪から蘆屋まで運んで来るのは厄介であるから、蒔岡方では階下の二
人ではないのに、もう初夏の暑い日ざかりに、大阪の南の方から阪急電車で出向いて来てくれると云うのは、破格の
ていても不安なので、神戸方面へ帰る者と大阪方面へ帰る者と二組に分れ、兎も角も線路を伝わって歩いて行くこと
の家を預かっている「音やん」の忰の庄吉が大阪から訪ねて来てくれたのが、見舞としては一番早かった。南海
一番早かった。南海の高嶋屋に勤めている庄吉は、大阪の方は格別のこともなかったので阪神間がそう云う災禍に遭ったろうと
とは余りな違い方であったが、たった今しがた阪神電車が大阪から青木まで開通したと聞いて、それに乗って阪神の蘆屋まで来、
製作に成る羽根の禿の人形があった。六代目が大阪の歌舞伎座でこれと浮かれ坊主とを出した時、妙子が何度も通ったの
た。それで啓坊は、そしたら僕は真っ直ぐに大阪へ帰る、蘆屋の方へは、もう一度寄らなければ悪いのだけれども、
も悦子の安否を知りたかった。すると翌日、貞之助が大阪の事務所から電話をかけて来たので、鶴子と雪子とが代る代る出て
だからわざわざ見舞いに来て貰う程のことはないし、大阪から西はまだ鉄道も復旧しないような状態だから、と、そう云って
打たずに「つばめ」で東京を立って来た。そして大阪で乗り換えて阪神の蘆屋で下りると、工合よく自動車があったので、六
が天下茶屋の方にあって、阪急の蘆屋からは、大阪を北から南へ突き抜けて、難波から又南海電車に乗らなければならなかった
た。そして五時頃にふうふう云いながら帰って来て、大阪のあの辺は何と云う暑い所やろと云い云い六畳の間に這入って
の家を訪れる機会を持ったのであるが、これが大阪で由緒正しい山村流の伝統を伝えていた唯一の人、昔南地の九郎右衛門
「ふじ」の特急券を二枚出した。これだと、大阪を午前七時前に立って横浜へ午後三時前に着くから、三時
が、雪子と悦子とは少しでも朝を遅らすために大阪から乗ることにしてあった。それでもそれに間に合わすためには
巴知ってはるけど、ペータアさんはマニラと、神戸と、大阪より知れへんねんさかいにな」
がして、多少の興奮を覚えないでもなかった。大阪も近頃は御堂筋などが拡張されて、中之嶋から船場方面に近代的建築が
翠色、等々に尽きる。寔に、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、外にはそんなに
ていないが、眼前に見る街の様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道と
部屋に旅行鞄を運び込んだ彼女は、それでも床の間に大阪から持って来た栖鳳の鮎の軸が掛っているのを見た。亡くなっ
のように浮かぶのである。姉がこう云うものをわざわざ大阪から持って来たのは、昔の栄華の形見としてこれだけでも
「ふん、こないだまではお美代どんもいてたけど、大阪へ帰らしてほしい云うし、梅子がよう一人歩きするようになったよってに、
家は行ったことはないけれども、そこの女将はもと大阪の播半の仲居をしていた人で、亡くなった父もよく知って
数も少く、お客と云うのも大部分は気心の分った大阪の人達であり、女中にも大阪弁を使う者が多いと云った風で
、四五年前、昭和九年の秋であったか、大阪の天王寺の塔が倒れ、京都の東山が裸にされた時の烈風は
なるのである。幸子は丹後の峰山の地震の時に大阪の家が随分揺れたのを記憶しているが、地震の場合は瞬間的
、今は躊躇している場合でないので、午前中に大阪の夫の事務所を急報で呼び出し、築地の浜屋へ部屋を申し込んでくれるように
いると、夕刻浜屋から渋谷の方へ懸って来、先程大阪の旦那様からお電話を戴きまして、お部屋を用意してございます、と
「此処は大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」
「ほんに大阪見たいやろ。―――娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんが此処
、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。と云うのは、座敷は川が鍵の手に曲って
、江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、震災前には大阪の長堀辺に似た、古い街に共通な落ち着きがあったものだけれども
が厭や厭や云うて、泣いてなあ。―――大阪へ帰らしてほしい、帰らしてほしい云うてたけど、この頃云わんようになっ
、と云う提議をした。姉は、実はお久が大阪へ帰りたがるのを引き留めるために、そのうち日光へ行かしてやるからと云う条件
「おい、来月は六代目が大阪へ来るで」
家へ寄って彼女の無事なことを聞くと、それきり大阪へ帰ってしまったのではないか。あの夕方板倉方へ現れた時の
の稽古を見てくれる人は、故師匠の高弟で、大阪の新町に稽古場を持っている「さく以年」と云う人であること、
は云った。それと云うのが、今月は又菊五郎が大阪へ来て道成寺を出しているからなので、幸子は菊五郎の所作事のうち
までは渋谷に泊り込み戦術を取ることにした。で、大阪を「かもめ」で立って、着いた日の夕方、取り敢えず幸子は妙子を連れ
「やっぱりあたし等、大阪や京都の方がええなあ。―――昨夜のローマイヤアどないやった?」
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驚くよりは茫然と見惚れてしまった。いったいこの辺は、六甲山の裾が大阪湾の方へゆるやかな勾配を以て降りつつある南向きの斜面に、
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それと云うのが、今月は又菊五郎が大阪へ来て道成寺を出しているからなので、幸子は菊五郎の所作事のうちでも女形の
らしいので、舞台の六代目を偲ぶよすがに、和風の道成寺の音盤を懸けて纔かに腹の虫を治めたが、妙子だけは、あたしは止め
は芝居ぐらいなものだけれども、それもこの間此方で道成寺を見たばかりだから、今月はどうでもよい、と云うのであった
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はハラハラさせられることが多かった。今年の四月、南禅寺の瓢亭へ行った時にも、一番先に座敷へ通って雪子より上に
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おや、と思って心づくと、散歩の時に覚えのある田中の小川が氾濫していて、それに架した鉄橋の上にさしかかってい
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する、夫人はローゼマリーとフリッツとを伴って、来月一旦マニラへ渡り、同地の妹の家に暫く滞在して、それから欧洲へ立つこと
「パパさんは欧羅巴知ってはるけど、ペータアさんはマニラと、神戸と、大阪より知れへんねんさかいにな」
もう学校も始まる時分やし、早く帰らないとルミーさんもマニラへ立ってしまうし、………と、悦子はぽつぽつ母に耳こすりをする始末であった
日、ローゼマリーとフリッツとを連れてプレシデント・クーリッジ号でマニラへ出帆することになった。ローゼマリーは悦子の東京滞在期間が思いの外延びたの
一九三八年九月三十日、マニラに於いて
届いたことを、ついでに此処に書き添えて置こう。それはマニラからハンブルクへ帰ったシュトルツ夫人から、幸子に宛てて来た英文の手紙なの
を、非常に相済まなく思います。しかし実際私は、マニラにいた時も航海中も、全然暇がありませんでした。私は
ています。彼等の名前は今井と云うのです。マニラから独逸までの旅行は大変面白うございました。私達はたった一度、スエズ運河で
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、つい川向うの、此処から今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前を這入った横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地で
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年前、昭和九年の秋であったか、大阪の天王寺の塔が倒れ、京都の東山が裸にされた時の烈風は彼女も
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とその末社とへ月詣りをしたこと。節分には上町の寺々の地蔵巡りをして、自分の歳の数だけ餅を供えて廻っ
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になった。主人と云うのは瑞西人だそうで、名古屋の或る会社の顧問とかをしていて、始終留守がちであり、家
に及んで置くと、前にも云った通りこの人は名古屋の方に勤め口を持っているらしいのであるが、こんな叱言を云って来る
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てからバスの連絡があって、東照宮から華厳の滝、中禅寺湖まで見物して日帰りで行って来られるそうな、兄さんも是非そうしてやっ
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とは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道とか満洲とかの新開地へでも来たような気がする。場末と
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御影から蘆屋までは停りません。住吉、魚崎、青木、深江の方々はお乗り換えを願います」
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の大震災の前のことで、復興後の帝都へは、箱根へ新婚旅行に来た帰りに帝国ホテルに二三泊したことがあるに過ぎない。
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やらに乗れば、降りてからバスの連絡があって、東照宮から華厳の滝、中禅寺湖まで見物して日帰りで行って来られるそうな、兄さん
「はい、東照宮から、華厳の滝から、中禅寺湖まで、………お蔭様で何から何まで見物
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に土砂がこびり着いていて顔も風態も分らぬこと、神戸市内も相当の出水で、阪神電車の地下線に水が流れ込んだために乗客の
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と、自動車は道玄坂を殆ど上り切ったあたりで、左の方の閑静な住宅街へ曲って行った
と云って、東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋へ案内してくれたり、矢張その近所の北京亭と
屋だとか云う立派な料理屋しか知らないだろうけれども、道玄坂には花柳界を目あてのちょっとした小料理屋が沢山ある、東京は一流の会席料理屋
てさえこんなにも関西が恋しいとすると、雪子があの道玄坂の家にいて、蘆屋へ帰りたさにしくしく泣くと云う気持が、ほんとう
渋谷に泊ってた時に、兄さんがあたしと雪子ちゃんを道玄坂の焼鳥屋へ誘うてくれはりましてん。そしたら、焼鳥のうちはよろ
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阪急の蘆屋からは、大阪を北から南へ突き抜けて、難波から又南海電車に乗らなければならなかったし、稽古は嶋の内の稽古場
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までの旅行は大変面白うございました。私達はたった一度、スエズ運河で沙漠の嵐に遭っただけでした。私の従兄弟たちはジェノアで船から
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、そのまま下りて行って、あの時夫がしたように平戸の花のよごれたのを一つ一つ毟り始めた。彼女のつもりでは
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紳士と少年とを案内しながら、帝国ホテルのロビーだの、丸の内の官衙街だのビルディング街だのに現れた光景を想像すると、いかにそれ
尤も昼は一時間休みがあるから、今日でも正午に丸の内の方へ来てくれたら昼食ぐらいは附き合ってもよい、などと云って
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いた時であった。「西宮の誰々さあん」、「下関の誰々さあん」などと云うのが飛び出して来て、しまいに「フィリッピンの誰々
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一々握手をして、自分は明日の朝パパと一緒に三宮から横浜へ向けて立つことになった、亜米利加を廻って独逸へ着くのは
で、悦子達は夕飯を早めに済まして出かけ、阪神の三宮からタキシーを飛ばしたのであったが、税関の前を通り過ぎると、忽ちイルミネーション
。外で食事することの多い彼女は、神戸も元町から三宮界隈に至る腰掛のうまいもの屋の消息には実によく通じていて、
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。実は今日、輝雄が学校から帰るのを待ち受けて、明治神宮へ案内して貰い、さっき、五時頃に二人で一度此処へ来たの
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の街の殺風景なのが嫌いであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んで行くに従い、夏の夕暮であるにも
遊びに行きたいのだと云う。幸子は今日の午後、青山のお友達を訪問する約束をしたから、夕刻までは不在になるが、
時頃には戻るからと云って電話を切ったが、青山でえらく引き留められて夕飯の馳走になり、七時過ぎに戻って来ると、
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「悦ちゃん、今日は富士山がよう見えたで。―――なあお春どん」
ひとしきり日光見物の話が栄えたが、お春が「富士山も見えましてございます」と云い出したのが問題になった。
「へえ、富士山が?」
「東武電車で富士山見える所あるやろか」
「ほんまかいな、お春どん、富士山の恰好した山と違うか」
「いいえ、たしかでございます。お客さん達が、みんな富士山が見える見える云うてはりましたよって、そうに違いございません」
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既に船室の予約までした、それは八月の下旬に横浜を出帆するエムプレス・オブ・カナダであると云う、全く急な話なので
ていたのであった。でも、ペータア父子が近日横浜を出帆するなら、それを見送りがてら行くのもよいと、幸子はそうも思い付い
をして、自分は明日の朝パパと一緒に三宮から横浜へ向けて立つことになった、亜米利加を廻って独逸へ着くのは九月
、そんな話が出たのが切掛けで、それなら悦子、横浜へ行ってペータアさんに会うたげなさいなと、幸子が云い出した。お母
、悦子は姉ちゃんと明日の夜汽車で立ち、明後日の朝横浜で下りて真っ直ぐ船へ行ったげたらどう? お母ちゃんも二十六日頃
た。これだと、大阪を午前七時前に立って横浜へ午後三時前に着くから、三時ちょっと過ぎには突堤へ行けるであろう
に東京駅に着いた。そして雪子と悦子とは、もう一度横浜まで附いて行って、出帆を見送るつもりであったが、シュトルツ氏が再三辞退
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のは九月の上旬になると思うが、独逸ではハンブルクに住む筈であるから、どうか今度はあなた方の方から是非ハンブルクへ来
筈であるから、どうか今度はあなた方の方から是非ハンブルクへ来て下さい、と云うような挨拶をしたが、亜米利加を通る時に
「ハンブルクへ行ったらきっと手紙下さいね」
「エツコさんのママさん、エツコさん、ハンブルクへ来て下さい」
た。厚く厚くお礼を申します。彼等は無事安全にハンブルクへ着いたと云うことで、先日私は電報を受け取りました。彼等は
ことを、ついでに此処に書き添えて置こう。それはマニラからハンブルクへ帰ったシュトルツ夫人から、幸子に宛てて来た英文の手紙なのである
一九三九年五月二日、ハンブルクに於いて
ペータアも亦同様で、彼は私の親戚や友人たちとハンブルクの停車場に出迎えていました。私はまだ私の年老いた父親や他の
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一回は一回と開きかたがひどくなるのである。幸子は丹後の峰山の地震の時に大阪の家が随分揺れたのを記憶している
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に暮したいからでもあるけれども、それにも増して関西の土地そのものに対する愛着心の結果であり、東京が厭と云うことは
上は杉浦博士の診察が済みさえしたら一日も早く関西へ立ちたい、と、そう思いつつ八月じゅうはとうとう渋谷で暮してしまった
風の害の少い関西に育った幸子は、そんな凄じい風もあるものだと云うことを知らなかった
たが、たまに一週間程やって来てさえこんなにも関西が恋しいとすると、雪子があの道玄坂の家にいて、蘆屋へ帰りた
としても、渋谷へ帰って来たばかりで又慌しく関西へ立つ口実がない。とすると、この場合お春を一と足先に立た
ない。自分も矢張生粋の関西人であり、どんなに深く関西の風土に愛着しているかが分る。別に取り立てて風情もない詰まらない
白いのを使った。醤油も、東京人は決して使わない関西の溜を使い、蝦、烏賊、鮑等の鮨には食塩を振りかけて食べる
ていた。少し大袈裟に云うならば、彼女を東京から関西の方へ惹き寄せる数々の牽引力の中に、この鮨も這入っていたと
云えるかも知れない。彼女がいつも東京に在って思いを関西の空に馳せる時、第一に念頭に浮かぶのは蘆屋の家のことで
見え出すのであった。そして、貞之助夫婦も、雪子の関西に於ける楽しみの一つがこの鮨にあることを察していて、大概
「―――何処やったか、関西の中学校で、制服のズボンにポッケット附けさせないとこがあったけど、あれ、
を極めて、翌朝電話で、昨夜妙子が急用が出来て関西へ帰ったことを告げ、自分も今日帰ることにしたので、何処か
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聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うので、ローマイヤアと云うことにしたが、あたしも行ったことないねん、数寄屋橋で
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たので、悦子達は夕飯を早めに済まして出かけ、阪神の三宮からタキシーを飛ばしたのであったが、税関の前を通り過ぎると、
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から電話で知らして貰い、悦子が稽古している間に夙川から駈け付けると云うようにした。でも病身なおさく師匠は、事実此処
幸子が云ったことは云ったけれども、今朝は妙子は夙川ではなしに、午前中に本山村野寄の洋裁学院へ行く日だったので
洋裁学院も、あれからずっと休みなのであったが、夙川の松濤アパートの方は幸いに水禍を免れたので、製作の仕事を続ける
しまう心配があるので、差控えていましたところ、今日夙川で久し振にこいさんにお目に懸り、御上京中の姉上が目下
は妙に僕に会うことを避けておられるのです。夙川へはめったに出て来られませんし、蘆屋のお宅へ電話をかけて
頻繁にお宅に出入りしています。そしてこいさんはさっぱり夙川へ出て来られません。それでも姉上御夫婦の監督の眼が
いたのであると云って、幸子が帰った明くる日から夙川へ通い出した。洋裁学院の方はまだいつ始まるか分らず、山村の師匠
その日妙子は割合に早く夙川から戻って、二階の自分の居間へ上って、今しがた仕事部屋から持って
する途中に待ち合わす場所があるらしく、奥畑の手紙にも「夙川でお目に懸った」旨を記しているが、どう云う風にして
月のうちのことであった。貞之助たちは、一昨年夙川の彼等の家へ招かれてから、一度お返しをしなければと云い
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た。悦子も二三日の間は、雪子に連れられて靖国神社や泉岳寺などを見て廻っていたけれども、暑い時分にそうそう出歩くこと
に出てお茶を飲み、尾張町でタキシーを拾って、靖国神社から永田町、三宅坂辺を一と周りして日比谷映画劇場へ着けた。妙子は
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、この電車は御影から蘆屋までは停りません。住吉、魚崎、青木、深江の方々はお乗り換えを願います」
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名はそれに因んだのだそうであるが、鮨そのものは昔の両国の与兵衛鮨とは趣を異にしていた。それと云うのが、親爺は東京で修業した
親爺は、今はなくなったが明治時代に有名であった東京両国の与兵衛で修業した男なので、「与兵」と云う名はそれに因んだのだそうで
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陸軍省、帝国議会、首相官邸、海軍省、司法省、日比谷公園、帝国劇場、丸ビル等々を、或は車の上から、或はちょっと降りたり
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ものが何程あるかよく知らないが、半年か一年間の巴里滞在費と往復の船賃ぐらいには事を欠かないであろうから、何卒是非それ
行きの参考になるような話を聞きかけていた。巴里で数年間修業をした経験を持つ女史は、妙子にも是非一度行って
もそんなに長く行っているつもりではない。女史が往年巴里へ行ったのは大分前のことなので、機会があったらもう一度
通い、かたわら仏蘭西語の会話を、玉置女史の紹介で、巴里に六年居たと云う洋画家別所猪之助氏夫人に、週に三回で
にいる間はなかなか絶縁する訳には行くまい、それで巴里へ行った後に、自分のことは諦めてくれろと云う意味の手紙を
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「わたしの旦那さん、ペータアとルミーを迎えに神戸へ行きました。大変心配です」
、子供達の身の上が案じられるので、何とかして神戸まで行って見ると云って、さっき出かけたところである、勿論その時は
小学校へ通っていた。父親のシュトルツ氏の通勤先も神戸なので、以前にはよく親子三人で出かける姿を見たもので
学校へ行っていなかったが、ペータアとローゼマリーとは神戸の山手にある独逸人倶楽部附属の独逸小学校へ通っていた。父親の
ますわ。それにこの水は蘆屋や住吉辺だけで、神戸がやられている筈はありませんから、ペータアさんやルミーさんは大丈夫
て来るし、そうしていても不安なので、神戸方面へ帰る者と大阪方面へ帰る者と二組に分れ、兎も角も線路
「まあ、そんならほんとうに神戸へいらしったのでしょうか」
「わたしそう思います。―――しかし神戸も水出ました。灘も、六甲も、大石川も、皆水、
ように云ってみても、いいえ、わたし聞きました、神戸の水大変です、沢山々々人死にました、と、なかなか気休めの言葉
しても、彼等の通っている学校と云うのは神戸でも高台の方にあるのだから、恐らく災害を受けていないに
「あなたの旦那さん、神戸までいらしったんですか」
「わたしの旦那さん、神戸へ行く道でペータアとルミーに遇いました。そして一緒に帰りました」
「まあ、神戸から徳井まで歩いておいでになりましたの」
が深まるのであった。こう云う少年少女たちでさえ、神戸から此処までの距離を今迄の時間に蹈破することが出来たとすれば
の間に小学校へ行っている息子が一人あり、自分も神戸の某百貨店の婦人洋服部の顧問をしつつ洋裁学院の経営をして
マニラで商売をしていたのが、二三年前に神戸へ渡って来たのであるが、折角東洋を根拠にして地盤を
が事実上の戦争を始めてからさっぱり商売がありません、神戸の店、今年になってから殆ど休んでいるようなものです、直き
かへ出かけて行った。そして夕方の六時過ぎに、神戸の大丸や元町あたりの商店の包紙に包まれた物を一杯提げて帰っ
は欧羅巴知ってはるけど、ペータアさんはマニラと、神戸と、大阪より知れへんねんさかいにな」
ないが、眼前に見る街の様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道とか
は思えた。ルドルフと云うのは独逸系の某会社の神戸支店に勤めている青年社員で、妙子も嘗て元町の街上で紹介され
その日貞之助は、午前中一時間程事務所へ出て神戸へ直行し、キチキチに波止場へ駈け着けたので、カタリナとはゆっくり話す暇
のが、親爺は東京で修業したものの、生れは神戸の人間なので、握り鮨ではあるけれども、彼の握るのは上方
かも知れない。外で食事することの多い彼女は、神戸も元町から三宮界隈に至る腰掛のうまいもの屋の消息には実によく
と、若い芸者が神戸言葉を丸出しにして、小声で老妓に話しかけた。
と、四五日前から板倉は中耳炎で耳だれが溜り、神戸の中山手の磯貝と云う耳鼻咽喉科へ通っていたが、一昨日になっ
此処の院長が自分の手に負えなくなったので、神戸で一番名声の高い外科医に来て貰ったところ、大腿部から以下を切断
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「ルミーさん、そしたら京都へ行きましょう」
「東京と違います、京都です」
マリーは京都と云う地名を知らないらしく、いくら悦子が「京都」と教えても「東京」と云うので、悦子は懊れて、
ローゼマリーは京都と云う地名を知らないらしく、いくら悦子が「京都」と教えても「
「違います、ルミーさん、京都です」
朗かさ、空気の肌触りの和やかさを想い浮かべた。これが京都の市中などであると、たまたま始めての街筋へ出ても、前
か覚えていないが、眼前に見る街の様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の
お濠端の翠色、等々に尽きる。寔に、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、外
末子の妙子とが父親似なのであるが、母は京都の人だったので、姉と雪子の顔立には何処か京女らしい匂
の秋であったか、大阪の天王寺の塔が倒れ、京都の東山が裸にされた時の烈風は彼女も知っており、二三十
程前から何となく体がしんどいと云っていて、京都でも余り元気がなかったのであるが、その晩帰宅してから測る
日曜に、貞之助と三姉妹と悦子の五人は吉例の京都行きをしたが、その帰りの電車の中で悦子が俄に高熱を
迄には四五十日は懸る、と云うことなので、京都行きを済ませたら間もなく立つ積りでいた雪子は、当分足止めを
「やっぱりあたし等、大阪や京都の方がええなあ。―――昨夜のローマイヤアどないやった?」
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は板倉が丁稚上りの無教育な男であることも、岡山在の小作農の忰であることも、亜米利加移民に共通な欠点を持つ粗野
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に入り浸っていた。そしてトランプの相手ならまだしも、「水戸ちゃん」と二人で悦子の手だの足だのを掴まえて、瘡蓋を
しないでもめったに移るものじゃありませんなどと「水戸ちゃん」が云うのとで、雪子の叱言もそうそう利かないようになっ
であった。「水戸ちゃん」と云うのは大船の女優水戸光子に似ているので悦子がそう呼んでいるのであるが、この
の「水戸ちゃん」とお春なのであった。「水戸ちゃん」と云うのは大船の女優水戸光子に似ているので悦子が
であったが、いつもその相手をするのは看護婦の「水戸ちゃん」とお春なのであった。「水戸ちゃん」と云うのは
あろうし、それはこの場合或る程度仕方がないが、「水戸ちゃん」に聞かれることは好ましくないと考えたので、二度目からは
ちゃん」と、お春とが聞いていたこと、「水戸ちゃん」とお春とは変な顔をして黙っていたけれども
ので、離れの方へ懸って来、悦子と、「水戸ちゃん」と、お春とが聞いていたこと、「水戸ちゃん」と
たら、と考えつき、そのことを雪子に相談すると、「水戸ちゃん」自身も、もうお暇を戴きましょうかと云っているのだと
で、何の用事もないのであるから、今日で「水戸ちゃん」に帰って貰ったら、と考えつき、そのことを雪子に相談すると
幸子は、看護婦の「水戸ちゃん」がもうさっきから身支度をして待っていると云うので、彼女
雪子と悦子とは、「水戸ちゃん」がいなくなってから離れの方に二人で寝るのは淋しいの
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て貰いたい、自分もそのことを頼むためになら、一度東京まで話しに行ってもよい。そう云って彼女は、奥畑が洋行の費用
はそれに応じないであろうと思えた。彼女は義兄が東京へ移住して以来一層締まり屋になったと云う噂を聞くにつけても
又、幸子は妙子の話のうちに、彼女が最早や東京の本家へは決して引き取られない覚悟でいることも、ほぼ察しがついた
、くろうとでもしろうとでも、近頃だんだん上方の舞が東京の踊に圧倒されて行く傾向のあるのを慨き、このままでは
「東京の姉ちゃんがいやはったらええのになあ」
しかし貞之助は、関東震災の時に東京に居合せた経験があって、こう云う場合の風説が如何に針小棒大に伝播する
真っ白に埃を浴びている光景は、往年の大震災後の東京の街が再現したようであった。阪急の蘆屋川駅なども、
雪子がざっと二箇月半ぶりに東京から戻ったのは、そう云う埃っぽい夏の一日のことであった。
、そう云って電話を切った。しかしその晩、幸子と東京の噂をした時に、雪子ちゃんが来たそうに云っていたから、
東京では水害のあった当日、夕刊にその記事が出たけれども、委しい
で、その日はわざと電報も打たずに「つばめ」で東京を立って来た。そして大阪で乗り換えて阪神の蘆屋で下りると、工合
芝生の緑が眼に沁み入るようである。この春彼女が東京へ立って行った頃にはライラックと小手毬が満開で、さつまうつぎや八重山
「そうですねえ、東京へ行きましょうねえ」
「東京と違います、京都です」
知らないらしく、いくら悦子が「京都」と教えても「東京」と云うので、悦子は懊れて、
「東京へ行きましょうねえ」
「違います、東京までやったら百停ります」
「明後日東京へ着きますねえ」
ては流石にじっとしていられず、機会があれば東京へ打って出ようと云う考が動いていたこと。まだ御当人は死ぬ
東京へ連れて行って専門の大家に診て貰おう、まだ東京を知らない彼女は、学校の同級生で二重橋を拝んでいるのは
を訴え始めたので、あまり病気が昂じないうちに一度東京へ連れて行って専門の大家に診て貰おう、まだ東京を知らない彼女
どう? お母ちゃんも二十六日頃には行くから、東京見物でもさせて貰うて、渋谷で待っていたら、………
ペータアさんが大そう名残惜しそうにしていた、エツコさんいつ東京へ行きますか、来られたら船まで来てくれませんか、二十四日
て関西の土地そのものに対する愛着心の結果であり、東京が厭と云うことは、本家の兄と肌が合わないせいでもある
するに違いないので、それから先、自分は又当分東京に残らなければならない。そう思うと雪子は、自分が蘆屋にいたい
にして、自分は暫くあとに残りたい、久し振に東京へ行くのであるから、少しはゆっくりして、芝居なども見て帰り
では不便なので、こう云う機会にお春にも東京見物をさせてやることを思いついた。貞之助の身の周りの世話は
は悦子を疲らせる心配もあるので、先方の云うままに東京駅頭で別れたのであった。
と云うのは、ペータアは勿論、父のシュトルツ氏もまだ東京へ行ったことがないことを、雪子は知っていたからであった
けれども、お茶には今から早過ぎるので、いっそ東京まで来ないであろうか、電車の往復が一時間と見て、三時間
「東京が立派やのんで驚いたらしいわ。なあ悦ちゃん」
「流石に東京やなあ思うたらしい様子やったわ」
「何せ、東京知ってるのんはあたし一人やさかい、説明するのんに骨折ったわ」
輝雄はひとりアクセントの正しい東京弁を使っていた。
、その高架線の上からの眺めは、彼女の知っている東京とは違ったもののように見えた。彼女は、列車の窓が次々
と、流石に壮観であるけれども、何と云っても東京には及ばない。幸子はこの前、復興後まだ日の浅い帝都を見
、悦子が生れてからの九年間と云うものは、全然東京を見ていないのであった。彼女はさっき、悦子やペータアのこと
だが、そう云う幸子も、そんなに東京をよく知っている訳ではなかった。ずうっと昔、十七八の娘
ついその辺の人に話しかけてみたくもなるのに、東京と云うところは、いつ来て見ても自分には縁もゆかりもない
な気がする。場末と云ってもこの辺はもう大東京の一部であり、渋谷駅から道玄坂に至る両側には、相当な店舗が並ん
様子は、京都や大阪や神戸などとは全く違った、東京よりもまだ北の方の、北海道とか満洲とかの新開地へでも
来てしまったような心地がした。彼女は前に東京のこのあたりを通ったことがあったかどうか覚えていないが、
は住みよい土地とは思えなかった。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌いであったが、今日も青山の
棚引く千代田城のめでたさは申すも畏いこととして、東京の魅力は何処にあるかと云えば、そのお城の松を中心に
しかし正直なことを云うと、彼女はそんなに東京が好きなのではなかった。瑞雲棚引く千代田城のめでたさは申すも
「彼奴等みんな東京弁が巧いんだけれど、叔母さんに歓迎の意を表して、大阪弁を
調度はそれが亡き父親の遺愛の品々であるだけに、東京の場末のこんな所へ持って来られて置いてあるのがいかにも奇妙
と云うことなので、それを待たなければ、悦子を東京へ連れて来た目的が果たされないのであった。
ちゃんも、何も経験だからまあ僕に附き合うて、東京の気分を味おうて見給え、などと云って、姉には留守をさ
道玄坂には花柳界を目あてのちょっとした小料理屋が沢山ある、東京は一流の会席料理屋よりも却ってそう云う腰掛の家の方がおいしい物を
、家ではゆっくり晩飯もたべられないからと云って、東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋へ案内
多いと云った風で、泊っていても家庭的で、東京にいるような気がしない、と云うように云っていたから、
だったのかと意外に感じたくらいであり、勿論今度東京で経験したのとは、比べられるようなものではなかった。実
深い。阪神間ではまだこんなことはないであろうが、矢張東京は寒い土地柄だけに秋の訪れが早いのであろうか。或は颱風後
のはいつも三月の休暇の時で、九月の今頃東京にいたことはないのであるが、こうしていると、こんな街
道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の
の新聞を待ち兼ねるくらいにして読むのであるが、東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染のうすい
「此処は大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」
「ほんに大阪見たいやろ。―――娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんが此処へ連れて来やはってん」
「最初のうちはあたしと一緒で、東京が厭や厭や云うて、泣いてなあ。―――大阪へ帰らして
蒔岡幸子様、親展」と記してある。夫より外に東京のこの旅館へ宛てて手紙を寄越す人はない筈だがと、不思議に
預けて、雪子や悦子を連れ、お春までも連れて東京へ出ることを思い付いたのは、誰でもない、自分ではないか
彼女は、こう云う手紙を手にした以上一日も東京にぐずぐずしてはいられない気がした。何を措いても帰宅
でしまった。そして昨日から今日へかけては、埃っぽい東京の街を日中に彼方此方歩き廻って大活躍をした。ほんとうに何と
てから今日で十一日になる訳であるが、今度の東京滞在ぐらい、落ち着かない、そわそわした旅行をしたことはない。最初は
けた東京と云う所は何と云う厭な都会であろう。東京と此方とでは風の肌触りからして違うと、雪子が口癖のよう
してもあのざわざわした、埃っぽい、白ッちゃけた東京と云う所は何と云う厭な都会であろう。東京と此方とでは
に濃い緑の毛氈を展べている景色は、彼女が先日東京へ立って行った当時と大した変りはないのであるが、それでも
見物までさしてもろて、ええことしたけど、あたしは東京と云う所、ちょっともええことあれへんなんだ。やっぱり自分の家が
神経衰弱が感染していたのかも知れない。実際東京のあの苛々した空気の中にいれば、自分のような者は神経
のであった。どうも、今から考えると、自分も東京にいた間は悦子の神経衰弱が感染していたのかも知れ
風にして日が立つうちに、奇妙なことには東京から持ち越しの疑念が次第にうすらいで行きつつあった。あの朝浜屋の一室
「―――あたし、実はこないだ、東京に行ってた時にけったいな手紙貰うてんわ」
「東京で、そんな話出えへんなんだ?」
「早い方がええことはええけど、今度はいつ東京へ行かはるやろ」
でマニラへ出帆することになった。ローゼマリーは悦子の東京滞在期間が思いの外延びたので、エツコさんまだですか、なぜ早く帰って来
ましたが、彼等はあなたの妹さんやエツコさんと東京見物をして、非常に楽しい時を過したそうですね。それは本当
妙子の遭難、おさく師匠の逝去、シュトルツ一家の帰国、東京行き、関東大暴風、奥畑の手紙が捲き起した暗雲、………
悦子を連れて三人で出かけた。幸子は九月に東京で見られなかった不満を充たし、且は悦子にも菊五郎の所作事を見せ
過ぎてしまうので気が気でなく、貞之助兄さんはいつ東京へ行かはるやろうと、それとなく幸子に尋ねたりしたが、生憎貞之助
矢張梨の礫であった。こないなったら、こいさん東京へ行って来なさい、その方が話が早いで、と幸子が云うの
の寒さに馴れる迄には三年かかる、姉さんも東京へ移って来られて三年間は風邪を引きつづけたとのこと。それ
と、ぞっとします。麻布の姉さんの話では、東京の寒さに馴れる迄には三年かかる、姉さんも東京へ移って
安心しました。もう本年も残り僅かになり、私は東京で二度目のお正月を迎えることになりますが、又あの恐ろしい冬が
なかった。たしかあれは去年の九月の上旬、幸子が東京へ行っている留守の間に、奥畑に感付かれて一時二人が交際
「そんな約束したのんは、去年あたしが東京へ行ってた間や云うねんわ。あの時分、あたしも、悦ちゃんも
の念頭に浮かんだ。去年の九月、本家の姉と東京駅頭で別れた時に、くれぐれも雪子ちゃんの縁談を頼むと云われた
能動的に動く力を欠いているような雪子の、あれ以来東京の空で佗びしく暮しているであろう様子が、頻りに幸子の念頭に浮かん
「長いこと東京に行てたよってに、鯛の新しいのんが食べたいやろうで」
と云うようなことからしゃべり出して、去年の九月東京で奥畑の警告を受け取った驚きから、最近の舞の会に於ける廊下
そう云う意見だったと云うので、その点で彼は東京の与兵衛の流れを汲んでいるのであった。彼の握るものは、
のを使わないで、白いのを使った。醤油も、東京人は決して使わない関西の溜を使い、蝦、烏賊、鮑等の鮨
は上方趣味の頗る顕著なものであった。たとえば酢は東京流の黄色いのを使わないで、白いのを使った。醤油も、東京
異にしていた。それと云うのが、親爺は東京で修業したものの、生れは神戸の人間なので、握り鮨では
親爺は、今はなくなったが明治時代に有名であった東京両国の与兵衛で修業した男なので、「与兵」と云う名
鮨は格別好きと云う程ではないのだけれども、東京に二た月三月もいて、赤身の刺身ばかり食べさせられることが
も這入っていたと云えるかも知れない。彼女がいつも東京に在って思いを関西の空に馳せる時、第一に念頭に浮かぶの
を感じていた。少し大袈裟に云うならば、彼女を東京から関西の方へ惹き寄せる数々の牽引力の中に、この鮨も這入って
を打ち込んでいたが、そんな役目を引き請けてでも、東京に帰るよりは此方で暮す方が楽しいらしかった。そして、自分以外の者
は、当分足止めを食わされた形になった。彼女は東京へ訳を云ってやって、衣更えの衣類を取り寄せなどして、看護に
もそれが狙いであり、それに一縷の望みをつないで東京行きを思い立ったのに違いないので、義兄は彼女に掴まえられないよう
妙子が何と思ったのか、今の間にちょっと東京へ行って来る、と云い出したのは、悦子の病気がそう云う風
、彼女にはあった。然るに、妙子に同行して東京へ出かければ、否でも応でも本家と妙子との間に立たされる
に任せて置き、妙子の計略の裏を掻いて自分も東京へ附いて行くと云う手を打つとすると、金を繞っての兄妹
こいさんの不利になるような行動は慎しむからと云い、東京の方へも、妙子が今度どう云う目的で上京するかと云う大体の
時間を過さなければならないので、女学校時代の同窓で東京に縁付いている友達の家を訪ねてでも見ようかなどと思ってい
「みんな東京々々云うけど、行って見たいとこもあらへんなあ」
「東京はえらい矢絣が流行るねんなあ。今ジャアマンベーカリーを出てから日劇の前へ来る
、当人は至極元気にしており、僕に構わんと東京へ行っていらっしゃいと云ってくれるので、折角支度したことでもある
依っても察しられたので、承知しました、直ぐ東京へ云ってやりますと云って、早速彼女はあの処置を取ったので
と云うことなので、出て見ると、こいさんが東京へ行ってはりますことも存じておりますので、えらい失礼でございまし
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の停留所の辺を少し北へ這入った所にあって、住吉川の岸から直径二三丁に過ぎないので、今の運転手の話だ
、運転手はそれに附け加えて、蘆屋川もひどいけれども、住吉川の氾濫の方が遥かにひどいと云う噂が専らである、電車は
でお帰りになりますわ。それにこの水は蘆屋や住吉辺だけで、神戸がやられている筈はありませんから、ペータアさん
日は一時間以上も懸ったことであろう。その間に住吉川の氾濫の状況がやや伝わって来て、国道の田中から以西は全部
君等は何処へ行くつもりだ、もうこの先はとても危険だ、住吉川は大変な出水で渡れるどころではないそうだから、まあ此処へ上っ
想像していなかったところ、正午頃に号外が出、住吉川と蘆屋川沿岸の惨害が甚大であることを知って、午後から店
聞いてみたのであるが、誰の云うところも、住吉川の東岸ではあの辺が一番ひどくやられているらしいと云うことに
巨岩のために跡形もなく埋ってしまったこと、国道の住吉川に架した橋の上には、数百貫もある大きな石と、皮
から又いろいろと聞き込んだことがあるからであった。たとえば住吉川の上流、白鶴美術館から野村邸に至るあたりの、数十丈の深さ
られなくなって、自分も様子を見て来るつもりで、住吉川の辺まで出かけた。そして川の両岸を見て歩き、これは大事
たのであるが、今朝になると案の定近所が騒がしく、住吉川の堤防が決潰しそうだと云う噂が耳に這入ったり、自警団員
すっかり涸れ上ってしまった代りに、東の方に別の住吉川が出来、それが国道の甲南女学校前あたりから田中あたり迄の間を
始終貞之助や板倉に靠れかかったり背負われたりしたが、住吉川の本流がすっかり涸れ上ってしまった代りに、東の方に別の
可なり心痛したのであった。新聞で見ても、住吉川と蘆屋川の沿岸が最も被害激甚であることは明かであったが
皆さん、この電車は御影から蘆屋までは停りません。住吉、魚崎、青木、深江の方々はお乗り換えを願います」
清荒神へ参詣したこと。又百二十八社巡りと云って、住吉、生玉、高津の三社とその末社とへ月詣りをしたこと。
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その記事が出たけれども、委しい様子が分らないので渋谷の家では可なり心痛したのであった。新聞で見ても、
、それだけでもどんなに喜ぶであろう、それに幸子も渋谷の本家を訪ねたことがないのだから、ちょうど好い機会でもある、
には行くから、東京見物でもさせて貰うて、渋谷で待っていたら、………ふん、そないしてもええなあ、…
幸子は、前の晩に荷纏めをしてみると、渋谷へ持って行く土産物や何やかやで鞄が大小三つ程になり、
なのが嫌いであったが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んで行くに従い、夏の夕暮であるにも拘らず、
渋谷の姉一家の生活の様子は、毎々雪子から聞かされていたけれども
貞之助は幸子が出て来る時に、子供連れで渋谷へ泊っては姉さんに気の毒だから、一と晩か二晩厄介に
関西へ立ちたい、と、そう思いつつ八月じゅうはとうとう渋谷で暮してしまった。
勢も強かったには違いないが、たまたま泊っていた渋谷の家が安普請であったことが、その勢を五倍にも十倍
のうちにも変りたいと思っていると、夕刻浜屋から渋谷の方へ懸って来、先程大阪の旦那様からお電話を戴きまして
避けたい。第一雪子は諒解してくれるとしても、渋谷へ帰って来たばかりで又慌しく関西へ立つ口実がない。とすると
「このお土産、折角やけど、うちより渋谷の方へ持って行ったげなさいな」
帰って来て、午後に皆で買い物に出かけよう、もう一度渋谷へも顔出しをしなければ悪いのだけれども、とても行っている暇が
て、三日の午後二時頃と云う時間を選んで渋谷へ行ったが、それは義兄よりは義姉の方が話しよいように思え
「ふん、あんさん知りなされへんけど、いつか渋谷に泊ってた時に、兄さんがあたしと雪子ちゃんを道玄坂の焼鳥屋へ
ような形になるのを避けて、用談を片附けるまでは渋谷に泊り込み戦術を取ることにした。で、大阪を「かもめ」で立っ
に極めているらしいのであった。なおよく聞くと、渋谷では義兄も姉も、妙子を下へも置かぬような款待ぶりで
午少し前に渋谷から電話で、明日の歌舞伎の切符が取れたことを知らして来たが
ってに、そない姉さんに云うといてほしい、それから、渋谷の方にも小さな鞄が一つ置いてあるよってに、お帰りに
したので、何処かでちょっと会いたいが、此方から渋谷へ出向こうかと云うと、それならあたしが行こうと云って、間もなく
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から承知した。四人は直ぐに桜木町へ乗り付けて、有楽町で下り、最初に帝国ホテルでお茶を飲み、四時半にホテルを出て
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と、車が外苑前にさしかかった時、悦子が云った。
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そんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派と云えば立派だけれども、何か空気が
話をした。午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋
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にはそんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派と云えば立派だけれども、何か
春が宿まで送って来てくれたので、皆で銀座へ散歩に出て洋食でも食べようと云うことになったが、そんなら
も始まっていないことが分った。とすると、毎晩銀座の散歩でもするより外に、格別行ってみたいものもない。そう
三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はある
銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、話に聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うの
たら、何処かで三人落ち合って一緒に食べたいから、銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、
一つ宛空けて、ローマイヤアを出てから初夏の夜の銀座通を新橋の方へそぞろ歩きしたが、幸子は新橋駅前まで二人を送っ
たが、今日は一日することがないので、午後から銀座に出てお茶を飲み、尾張町でタキシーを拾って、靖国神社から永田町
幸子は取り敢えずそう答えて、銀座通まで姉を送って行き、尾張町で別れて宿へ戻ったが、今
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も二三日の間は、雪子に連れられて靖国神社や泉岳寺などを見て廻っていたけれども、暑い時分にそうそう出歩くことも
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貰おうではないか、あたしも日光は知らないけれども、浅草から出る東武電車とやらに乗れば、降りてからバスの連絡があって
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気が紛れるであろうかと思って、午後から三人で上野へ出かけた。そして二つの展覧会を見るとくたくたに疲れてしまったが
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の銀座通を新橋の方へそぞろ歩きしたが、幸子は新橋駅前まで二人を送って行って別れた。
空けて、ローマイヤアを出てから初夏の夜の銀座通を新橋の方へそぞろ歩きしたが、幸子は新橋駅前まで二人を送って行って
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を一と周りして日比谷映画劇場へ着けた。妙子は日比谷の交叉点を横切る時に、窓の外の通行人を眺めながら、
て、靖国神社から永田町、三宅坂辺を一と周りして日比谷映画劇場へ着けた。妙子は日比谷の交叉点を横切る時に、窓の
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お茶を飲み、尾張町でタキシーを拾って、靖国神社から永田町、三宅坂辺を一と周りして日比谷映画劇場へ着けた。妙子は日比谷
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悦子の睡りを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、籐椅子にかけた。