聞書抄 第二盲目物語 / 谷崎潤一郎
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れたのは九月の二十一日で、江州伊香郡の古橋村と云う所へ出ていらしったのを、兵部大輔の家来の田中伝右衛門と
もお暇を下されて、たったお一人で高野村から古橋村へ出ていらしった。それと云うのは、古橋村は舊領地のこと
古橋村へ出ていらしった。それと云うのは、古橋村は舊領地のことでもあり、法華寺の三殊院と云う寺坊にいる
にしてもお身たちは、つい此の間、江州伊香郡古橋村の在所に於いて治部少輔殿を召し捕られ、徳川殿の御感にあずかった
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と、比叡おろしの吹きすさぶ中を逢坂山へかゝりながら涙を流した。そうかと思うと、
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と、眼も遥かな山河が絵のように打ちひろがり、平等院、扇の芝、塔の嶋、山吹の瀬、宇治おち、かたうらの蔵松
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、ちと差支えがございますからと云って、母親に附けて越前へ下しておいたのであるが、最期の時に小童の野中清六を呼び
ので、いかさま御諚に従いましょうと、清六は直ぐに越前へ下った。そうして常陸介の母と北の方とに会うて都の
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へ上る道すがらにもいろ/\の噂があって、まだ伊吹山に隠れているに違いないと云う者や、生れ故郷の石田村へ来た
、同じ故郷の生れでもあれば、そう云う人があの伊吹山の麓の村々、在々所々へ追手を差向け、間道や谷間の隅々までも土
たと云う。委しい様子は分らないけれども、最初殿様は伊吹山へお逃げになって、そこで附き従う侍共とお別れになり、渡辺
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圓一は伊豆と称す。父を土屋昌遠と云ひ、母は菅沼氏。父昌遠の武田信虎
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。今の瑞泉寺が即ちその舊跡であって、往昔は加茂の河原がそんなにひろがっていたのである。ところで、順慶が何故に秀次一族
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通ルベシト言ヘバ、此義尤可然トテ其ヨリ境(堺)ノ町ヘ出デ、紀伊ノ道ニカヽリ、七日七夜ヲ歴テ高野山ニ
て、大坂へ着くと町を引き廻された上、今度は堺へ送られて、そこでも町を引き廻された、そうしていずれ明日あたり
に乗せられ、首に鉄を箝められて、大坂や堺の町々を引き廻された様を考えると、いたましいとか情ないとか思うより先
供えましたところ、その水差と申しますのは、もとは堺の数寄者の物でござりましたが、宗益と云う者が求め出して関白
ずつ罪人を引き出して献じたところ、大坂、伏見、京、堺の牢の者共を悉く斬り盡し、遂にはどんな微罪と雖も皆斬られる
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ましてから、桜ヶ嶽、今熊野、たってん山、聖天山、弁才天山など、峰々の花をお眺め遊ばして、昔義経が暫く忍んで
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は北野の梅松院のおんむすめで十七歳。それから、摂津の国小浜御坊のおんむすめで、中納言の局とも申し、御亀御前とも申したお
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宇治の川瀬にたつはしら波
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その頃兵部殿は、関白殿の御機嫌を損じまして、河内の国の堤普請の奉行を勤めておられましたが、治部殿より急の御用
。治部殿はそれをお聞きなされて、一旦兵部殿を河内へお帰しなされましたが、堤の普請は餘人を以ても勤まるで
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更に七月十一日には、法印の居城である丹波の亀山へ連れて行かれた。太閤記「益田少将忠志の事」の条に曰く
廿二日夜をこめつゝ名残をしくも宿を出て、亀山へいそぎ侍るに、おひの坂にて兵士多く有て、見廻の上下一人もと
順慶も亦右に記す益田少将の如く、丹波の亀山へさ迷うて行った一人であったが、矢張目的を達しないで、途中から
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豊後国安岐の城主であった熊谷直盛に嫁ぎ、一人は尾張国犬山の城主石川貞清に嫁いだと云う。又イツマデ草抜萃に依れば、徳川
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ものありき」と。そうしてその娘の一人は豊後国安岐の城主であった熊谷直盛に嫁ぎ、一人は尾張国犬山の城主石川貞清
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が、更に七月十一日には、法印の居城である丹波の亀山へ連れて行かれた。太閤記「益田少将忠志の事」の条
順慶も亦右に記す益田少将の如く、丹波の亀山へさ迷うて行った一人であったが、矢張目的を達しないで、
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因みに、右位牌の法名は三成が帰依していた大徳寺の圓鑑国師が選んだもので、国師は石田氏滅亡の後、深く生前
た。前にも記すように、三成の遺骸は後に大徳寺へ引き取られたので、そういつ迄も橋の袂に曝されていた
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の妻は三成の孫に当っていたが、彼女は阿波国の人箕浦平左衛門の娘であって、平左衛門の妻は三成が娘であった
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が、お女中は覚えておいでなさりましょう。それ、その三条の橋の下に、関白殿のお首が懸けられておりましたが、
その晩のことがあってから、娘と乳母とは毎日三条の橋のほとりへ来て、父の首にお参りをするついでに必ず塚へ
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の一人として天下に並びない権勢を謳われ、今度も江戸の内府どのを相手に上方勢を寄せ集めて大きな軍を起したほどの偉いお
は、たま/\城に帰っている時でも上方や江戸の形勢を案じて侍たちと密議するような日が多く、ついぞゆっくり可愛がっ
」と尋ねた。傍にいた者が「それこそは江戸の上様よりの下され物でござる」と云うと、「江戸の上様と
の上様よりの下され物でござる」と云うと、「江戸の上様とは誰のことでござる」と、又押し返して尋ねるので、
又国々へお預けになった人々は、一柳右近将監が江戸大納言へ、服部采女正が越後宰相へ、渡瀬左衛門佐が佐竹右大夫へ、明石
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労したかゞ分るのであるが、ついで翌年の正月から伏見城の大土木を起したのも、可愛い秀頼に大坂の城を譲ってやりた
なりなされましたのは、お拾さまの御誕生やら伏見城の御普請やらがあってからのことでござります。それも愚僧は、一々
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和歌はようお詠みなされましたが、或る年の春吉野山にてお歌の会をなされました時のおうたに、
「それから、あの吉野山のお花見から一年の後、文禄四年二月の中ごろのことでござり
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あるのでござります。また辰巳には松柏の生い茂りました青山が峨々とそびえ、その洞にある醍醐寺からは遠寺の晩鐘がきこえて
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し、それともう一人和田千之助と云う武士が扈従して奥州へ落ち行き、津軽為信の内に知る人があったのを頼って密かにその
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増田長盛、長束正家等の嫡子と共に人質として大坂城内にいたのであるが、一説には、九月十九日の夜、
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連れられて浅井郡の草野谷に出られ、草野谷から大谷山へお這入りなされ、その山の中に暫く潜んでいらしったが、やがて三
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れるのが順序ではござりますまいか、それには今宵志賀の山越えに東坂本へ移らせ給え、しかしそれでもお疑いが晴れず、討手
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等の総数は二十五萬人に達し、醍醐、山科、比叡山雲母坂より大石を引き出すこと夥しく、堀普請などは、幾つにも区分けをして奉行
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、人足等の総数は二十五萬人に達し、醍醐、山科、比叡山雲母坂より大石を引き出すこと夥しく、堀普請などは、幾つにも区分けをし
れ、其故いかにと云に、秀次公六月八日比叡山へ登り、狼藉を御心のまゝにし給ひしが、七月八日高野山
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と。秀次高野山で生害の砌、介錯を勤めたのは篠部淡路守、刀は浪游と
の見廻飛脚が賑わうのを憚り多しと云って断り、又高野山へ見廻之儀一切停止なさるゝ旨、駒井中務少輔、益田少将方から廻文に
かくて高野山に到着、青巌寺を仮の住まいと定め、剃髪染衣の身となって道意
日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮方に高野山へ着いて、上人を始め一山の老僧共の命乞いに耳を貸さず、青巌
何故であったろうか。今や秀次は謀叛人として高野山に送られ、彼の畫策は大半成功したのであるから、もはや順慶
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、粟野杢助どの、熊谷大膳どの、白井備後守どの、東福寺の隆西堂どの、などの方々がひかえておいでなされましたので、
者の手にかゝり給うては餘りに無念でござりますから、東福寺へ御輿を入れられ、彼の所にてお心静かに御生害をなされませ
細腰まで引き下げたところを、首を刎ねた。四番は東福寺の隆西堂、五番が秀次、これは正年二十八歳、篠部淡路守が
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三笠山雲井の月はすみながら
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乳母や津山甚内と云う武士に扶けられて大坂を逃れ、京都に来て妙心寺の寿聖院に入ったので、寺からその旨を所司代
となりし時も、嘗て敵となりし人々の婦女も京都堀川にてその行装を見物せりと云ふ。されば佐和山にて戦死せし正澄の妻
頃に生存していた武士であって、壮年の折京都に滞留していたものゝ如くである。自分は或は、一族のうち
べき部分を読むに、此の書は安積源太夫が若年の砌京都に滞在したことがあって、或る年、と云うのは寛永十八年
も町を引き廻された、そうしていずれ明日あたりは、京都の町を廻されるだろうと云うのである。
ゝまれない心地がした。さればそのゝち父が京都へ送られて来て、所司代奥平殿の邸へ預けられたと聞いた
遺族たち数十人が首を刎ねられた地点であった。京都瑞泉寺縁起に依れば、順慶の歿後、此の石塔は洪水のために崩れ
※※となり、(中略)元和七年十二月二十五日京都に歿す。年八十一。諡して誠江と曰ふ。(中略)或は
、母は菅沼氏。父昌遠の武田信虎に従ひて京都に赴くの後、眼を患ひ明を失ふ。因て母と倶に
人知れず陣中を脱出して釜山より名護屋に帰り、ついで京都に上ったのであるが、その途中から盲人の真似をし始め、琵琶
亀山城に預けられていたこれらの女子供たちは再び京都の法印の邸へ連れて来られた。そうして翌八月の一日
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られたのだと云う。だが、感心なことに、大津の陣屋へ引いて行って徳川殿が直き/\の調べをした
そう思っているのでないことは明かであったが、大津の町へ這入ってみると、治部少輔のありかを知っていると云う立派
て犬上郡の高宮を経、守山に一晩泊まって、明くる日大津の内府殿の陣屋へ連れて行かれたことなど、その日/\の
その他、大津の陣に引かれて行った時、内府殿は陣屋の門外に畳
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であると、臆する色もなく云い返したと云う話。福島殿の後から通りかゝった黒田甲斐守殿は、父を見ると馬から下り
まゝすわらせて出入の諸将の見せ物にした。すると福島左衛門太夫殿が通りかゝって、汝無益の乱を起し、今のその有様
申し上げ、御一身を乞い受け奉るべしと云ったが、検使は福島左衛門大夫、福原右馬助、池田伊豫守を大将としてその勢五千餘騎
、如何にしてもお赦しが出ず、検使のために福島左衛門大夫、福原右馬助、池田伊豫守の三人をお遣わしになりまし
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その夜は奈良中坊井上源五に宿を取る。方々からの見廻飛脚が賑わうのを憚り多し