盲目物語 / 谷崎潤一郎

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地名一覧

琉球

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○三味線は永禄年中琉球より渡来したること通説なれどもこれを小唄に合わせて弾きたるは寛永頃

越前

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おられます。さればこそ織田家と御えんぐみのときにも越前のくにゝは手をつけぬと、信長公よりかたいせいしをおとりになったの

元はといえば朝倉のことからだ、しかしこちらはすでに越前をきりなびけ、義景をうちとってしまったから、その方にたいしなんの意趣を

ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス太閤コノヨシ聞召柴田ヲ越前ヘ帰スマシトテ江州長浜ヘ出陣云々」又いう「柴田北ノ庄ヘコモラレケレバ太閤僧ヲ使トシイニシヘノ

清洲迄ノ行路ニ来迎勝家夜半ニ清洲ヲ出告秀勝曰越前ニ急用アルヲ以テ道ヲカネテ夜半ニ此前ヲ通ル間不能応招云々」

江南

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が、そのときに備前のかみながまさとお名のりなされ、江南の佐々木抜関斎の老臣平井加賀守どのゝ姫君をお迎えなされました

と申すことでござります。下野どのゝお考では、江南と江北とは昔からたび/\いくさをする、今はおさまっているようなれ

また合戦がおこらないとも限らないから、和議のしるしに江南とこんいんを取りむすんだら、ゆくすえ国の乱れるうれいがないであろうと、左様

を一たんはおもらいになりましたものゝ、そのゝち江南へ出むいて加賀守と父子の盃をしてまいれと云う久政公の仰せがあり

しまおう。さすれば信長さっそくに馳せくだろうとするであろうが、江南には佐々木ろっかくの一族がいるからやす/\通すはずはあるまいし、

あいだしゞゅう世の中がさわがしく、あるときはとおく都や江南の御陣へお出かけになったりしまして、いちにちとしてあんらくにお

、濃州尾州はさっそくお手にはいります、そのいきおいにて江南の佐々木をおいはらい、都に旗をおあげなされて三好をせいばつあそばされる

滋賀

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滋賀の浦とて

小谷

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十八か九のとしでござりました、ふとしたことから小谷のお城へ御奉公を取り持ってくれるお人がござりまして、そのおかた

申す迄もない、旦那さまはよう御存知でござりましょうが、小谷の城と申しましたら、浅井備前守長政公のお城でござりまして、ほんとう

それで御返事には、いや、それよりも、いずれ信長が小谷のお城へおしよせてまいりましょうから、そのとき当国のにんずをもよおしてお

山本、大嵩の城々をおい/\にせめ抜かれて、小谷の本城ははだか城にされ、その麓まで敵がひし/\と取りつめて

が公もなゝめならずおよろこびになりまして、小谷のおしろと、あさい郡と、坂田ごおりのはんぶんと、いぬがみ郡と

江北のしゅごとなされました。そのおり藤吉郎どのは、小谷のおしろは小ぜいにてはまもりがたいと仰せられ、わたくしのこきょう長浜

それはとにかく、ひでよし公が小谷のおくがたに懸想なされましたのはいつごろからでござりましたか。わたくしはおくがた

日は最初れいになく御きげんのていでござりまして、小谷のころのこと、長政公のおんこと、そのほかいろ/\古いことをおもい出さ

た。またおくがたも久々にておん兄ぎみに御たいめんのため小谷よりおこしなされましたので、のぶなが公のおんよろこびひとかたならず、

たしか遠藤喜右衛門尉という者だったか、あのときわたしたちが小谷へかえると、あとから馬でおいかけて来て、こよい織田どのはかしわばらで

を見てとって急にひきかえし、馬にむち打ちもろあぶみにて小谷へはせつき、人をとおざけてながまさ公へ申されますようは、それがし

ずお口へ出たのかもしれませぬ。なれども小谷のころのことを十とせにちかい今となってもおわすれなさらず、これほど

はまあおもてむきでござりまして、まったくのところは、御両人ながら小谷のおん方にけそうしておいでなされ、どちらもおくがたをわが手に入れようと

、わたくし小耳にはさみまして、さてはひでよし公、小谷のときよりれんぼなされていらしったのだ、あの時そうとにらんだ

それにのぶなが公御他界のゝちとなりましては、小谷のおしろぜめのときいちばんに大功をあらわして浅井どのゝ御りょうぶんを残ら

大阪

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好事家の一人たりし歟、予が三絃の師匠菊原検校は大阪の人にして今は殆ど廃絶したる古き三味線の組歌を心得られたるが

安土

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○志津ヶ岳合戦事小須賀九兵衛話には清洲会議を安土に作る、当時「挨拶及相違て柴田と太閤互に怒をふくむ其時丹羽

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のうえもなく仕合わせかとぞんじます。隆達どのも元は堺のくすりあきうどでござりましたのに、うたが上手なればこそ太こう殿下

愛宕山

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まいり、ひでよし公もやがてとうちゃくなされまして愛宕山のうえより諸軍をさしずあそばされ、おしろをすきまもなく取りまかれたので

河内

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二十八にちの巳の刻ごろに、織田どのゝおんつかい不破河内のかみどのが三度目におこしになりまして、いま一ぺんかんがえなおして降人

稲葉

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おかえりあそばすことになりました。当時信長公はぎふの稲葉やまを本城になすっていらっしゃいましたので、おくがたには閑静なきよすのおしろ

筑前

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またしばらくしてよびもどされまして、その方はそれがしとちがい筑前のかみとかね/″\じっこんにしておられる、それがしへの誓約は

丹波

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につきかついえ公せんだんをもって秀よし公へ丹波のくにをおあたえなされ、御じぶんはひでよし公の御本領たる江州長浜六まん

姉川

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それから姉川、さかもとの合戦がござりまして、いちどは扱いになりましたけれども、

伊吹

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まして、長浜よりお船にめされました。おりふし、伊吹やまにはもう雪がつもっておりまして、みずうみのうえはひとしおさむうござりました

京極

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あそばして、お茶々どのが淀のおん方、おはつどのが京極さいしょうどのゝおん奥方常高院どの、いちばんすえの小督どのが忝くもいま将軍家

に腹をきらせるばかりだと、のぶなが公おんみずから京極つぶら尾というところへおのぼりになってそうぐんぜいに下知をなさ

、せきがはらのときに大津でうらぎりをなされました京極さいしょうどのゝ仕打ちなども、はらが立ってなりませなんだ。あのお

伊勢

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て江北へ打って出られました。ひでよし公は伊勢の御陣よりながはまへはせつけられますと、あくるあさはやく足軽にすがた

敦賀郡

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と申されて、総りょうのまんぷく丸どのはえちぜんのくに敦賀郡のしるべをたよりに、二十八日の夜おそく、きむら喜内之介と申す小姓を

高野山

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きょうまでのいしゅを水にながされ、このしろをあけわたして高野山のふもとへたちのいてくださらぬか。そうすれば三万石のりょうぶんをさしあげて

於高野山千手院谷しるす

岐阜

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いるからやす/\通すはずはあるまいし、そのまに岐阜から取ってかえして、佐和山おもてにまちかまえてかっせんすれば、のぶながの

朝倉ぜいと一手になって、美濃へきり込んで、岐阜をせめおとしてしまおう。さすれば信長さっそくに馳せくだろうとするであろうが、江南

/″\御さたあそばされ、九がつ九日にはもはや岐阜のおしろにおいて菊の節句をおいわいあそばされました。重陽の

出しあそばされ、おだどの主従をこと/″\く討ち取って岐阜へらんにゅうなされましたなら、濃州尾州はさっそくお手にはいります

をいたしておりますと、そのさいちゅうに前田玄以斎どのが岐阜のおしろから城介どのゝ御台やわかぎみをおつれなされて清洲へ

でござりました。あづちがそんなふうでござりますから、岐阜でもきよすでも、さあもう今にあけちが寄せて来はせ

た。のぶなが公御在世のみぎりは、きよすより岐阜、ぎふよりあづちと御本城をおすゝめあそばされ、めったにこちらへ

から、おくがたはきよすより、かついえ公はえちぜんより岐阜のおしろへおこしなされ、かの地において御祝言がござりまして、

知行あそばし、きよすのおしろには北畠ちゅうじょうどの、岐阜には三七のぶたか公がおすまいあそばすことになりまして、大名しゅう

破竹のいきおいをもってみのゝくにをたいはん切りなびけ、岐阜をはだかしろにしましたのがわずか十五六にちのあいだのことで

いはうしおのごとくみのゝくにゝらんにゅういたし、岐阜のおしろにせめよせたのでござります。北の庄へもしきりに知らせ

和ぼくのていにとりつくろい、らいねんの春ゆきどけを待って岐阜の三七どのとしめしあわされ上方へせめのぼるように、御そうだんがとゝのっ

かわったと申すことでござります。なれども、このおり、岐阜においては三七どのがふたゝび上方をてきになされて柴田がたに

国浅井カ妻ナリケル云々天下一ノ美人ノキコヘアリケレバ太閤御望ヲカケラレシニ柴田岐阜ヘ参リ三七殿ト心ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス太閤コノヨシ聞

大津

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関ヶ原かっせんのおりには、大坂がたに裏ぎりをなされて大津にろうじょうあそばされ、わずか三千人をもって一まん五千の寄せ手をひきうけられ

にくいと申せば、せきがはらのときに大津でうらぎりをなされました京極さいしょうどのゝ仕打ちなども、はらが立っ

京都

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にみなさま御あつまりでござりまして、ひでよし公も京都において亡君のお骨をひろわれましてから、いったん長浜の御本領

○蒲生氏郷後室の墓は今京都の百万遍智恩寺境内に在り、寛永十八年五月九日於京都病没

宇都宮

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おぐしをおろされましたので、蒲生どのゝお家が宇都宮へおくにがえになりましたのは、そんなことから御前のしゅび

後室これを聴かず、ために蒲生家は会津百万石より宇都宮十八万石に移さる、委しくは氏郷記近江日野町誌を可見

長崎

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「木幡山路に行きくれて月を伏見の草枕」の歌長崎のサンタマリヤの歌其の他珍しき歌詞少からず予も嘗てこれを聞き

上野

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にかくれておりましたけれども、またおそばをしとうて上野守どのゝ御陣へあがりましたところ、気にいりの座頭であるから

蒲生

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佐和やま長浜の諸城をおとしいれて江州をいちえんに切りなびけ、蒲生どのゝたてこもる日野じょうへとりつめてまいりました。勢州からは北畠中将

まして、あづちのおしろにはお留守居役の蒲生右兵衛大夫どのが手うすのにんずで御台やお女中さまがたをしゅごし

かえっておなげきあそばしておぐしをおろされましたので、蒲生どのゝお家が宇都宮へおくにがえになりましたのは、そんなこと

″\をおしたいなされまして、まだこのほかにも蒲生ひだのかみどのゝおくがたにのぞみをかけていらしったと申します。この

なさんとしたれども後室これを聴かず、ために蒲生家は会津百万石より宇都宮十八万石に移さる、委しくは氏郷記近江日野町

○蒲生氏郷後室の墓は今京都の百万遍智恩寺境内に在り、寛永十八年