吉野葛 / 谷崎潤一郎
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友人の津村と云う青年、―――それが、当人は大阪の人間なのだが、その親戚が吉野の国栖に住んでいたので
津村は何日に大阪を立って、奈良は若草山の麓の武蔵野と云うのに宿を取って
へ這入る時に、家事上の都合と云うことで彼は大阪の生家へ帰り、それきり学業を廃してしまった。その頃私が聞いた
に変化が起るものだが、津村の人柄にもどこか大阪のぼんちらしいおっとりした円みが出来、まだ抜け切れない書生言葉のうちにも
到底理解されないかと思う。君もご承知の通り、大阪には、浄瑠璃と、生田流の箏曲と、地唄と、この三つの固有
責められたのであろう。そう云えば、信田の森は大阪の近くにあるせいか、昔から葛の葉を唄った童謡が家庭の遊戯
せて見たことがあるが、唄の文句も節廻しも大阪のとはやや違う。それに遊戯する者も、東京ではすわったままだ
遊戯する者も、東京ではすわったままだけれども、大阪では普通立ってやるので、狐になった者が、唄につれて
この唄にはほのかながら子供の郷愁があるのを感じる。大阪の町方には、河内、和泉、あの辺の田舎から年期奉公に来ている
からすぐ彼の父に嫁いだのでなく、幼少の頃大阪の色町へ売られ、そこからいったん然るべき人の養女になって輿入れをし
ある顔の主であった。彼が学校生活を捨てて大阪へ帰ったのも、あながち祖母の意に従ったばかりでなく、彼自身が
は彼女に似通った女に会うことが稀だけれども、大阪にいると、ときどきそう云うのに打つかる。母の生い育ったのはただ色町と
年号が書き入れてないのだが、多分この文は娘を大阪へ出してからの最初の便であろうと思われる。しかしそれでも老い先短かい
この歌の中にある「くらがり峠」と云う所は、大阪から大和へ越える街道にあって、汽車がなかった時代には皆その峠を
につけて押し戴いた。少くとも明治十年以前、母が大阪へ売られてから間もなく寄越された文だとすれば、もう三四十年
大阪と違って、田舎はそんなに劇しい変遷はなかったはずである。まして田舎も
二十年来の彼の疑問を解くに足りた。母が大阪へやられたのは、たしか慶応頃だったと婆さんは云うのだけれど
家へ縁づいてから、彼女の母は一度か二度、大阪へ会いに行ったことがあるらしく、今では大家の御料人様に出世し
て語っていた折があった。そして彼女にも是非大阪へ出て来るようにと言づてを聞いたけれども、そんな所へ見すぼらしい姿で
この写真の外に、琴が一面ございました。これは大阪の娘の形見だと申して、母が大切にしておりましたが、
と思うけれども、今ではそれも見あたらない、ただ「大阪へやられた人」から譲られたものであることを聞き覚えている、と
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生家の暮らし向きが思わしくないので、尋常小学を卒えてから五条の町へ下女奉公に出たりしていた。それが十七の歳に、
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には多分ご承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今も土民によって「南朝様」
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いったい吉野の山奥から熊野へかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や由緒ある家筋の
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今の大台ヶ原山の麓の入の波から、伊勢の国境大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷と云う渓合い
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子供の郷愁があるのを感じる。大阪の町方には、河内、和泉、あの辺の田舎から年期奉公に来ている丁稚や下女が多いが
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その二 妹背山
「あれ、あれをご覧なさい、あすこに見えるのが妹背山です。左の方のが妹山、右の方のが背山、―――」
「お前、妹背山の芝居をおぼえているだろう? あれがほんとうの妹背山なんだとさ
谷に臨んだ高楼を構えて住んでいる。あの場面は妹背山の劇の中でも童話的の色彩のゆたかなところだから、少年の心
「君、妹背山の次には義経千本桜があるんだよ」
もう少し芝居の筋に関係を付けないはずはない。つまり妹背山の作者が実景を見てあの趣向を考えついたように、千本桜の作者も
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の遺臣等は一時北朝方の襲撃を恐れて、今の大台ヶ原山の麓の入の波から、伊勢の国境大杉谷の方へ這入った人跡稀な
ある小橡の竜泉寺、北山宮の御墓等に詣で、大台ヶ原山に登り山中に一泊。第四日は五色温泉を経て三の公の
路は、大台ヶ原山に源を発する吉野川の流れに沿うて下り、それがもう一本の渓流
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郷愁があるのを感じる。大阪の町方には、河内、和泉、あの辺の田舎から年期奉公に来ている丁稚や下女が多いが、冬
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は二つに分れる。右へ折れる方は花の名所の吉野山へかかり、橋を渡るとじきに下の千本になり、関屋の桜、蔵王
川上の方を見入ったことがあった。川はちょうどこの吉野山の麓あたりからやや打ち展けた平野に注ぐので、水勢の激しい渓流の趣
狐の皮で張られた鼓の音に惹かされて、吉野山の花の雲を分けつつ静御前の跡を慕って行く身の上を想像した
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等は更に宮の御子お二方を奉じて義兵を挙げ、伊勢から紀井、紀井から大和と、次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の
恐れて、今の大台ヶ原山の麓の入の波から、伊勢の国境大杉谷の方へ這入った人跡稀な行き留まりの山奥、三の公谷と
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私が大和の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の
ものあいだ、ともかくも南朝の流れを酌み給うお方が吉野におわして、京方に対抗されたのである。
のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え、「五十有余年で
いったい吉野の山奥から熊野へかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や
加えずにはいなかった。南朝、―――花の吉野、―――山奥の神秘境、―――十八歳になり給ううら若き自天王
が、当人は大阪の人間なのだが、その親戚が吉野の国栖に住んでいたので、私はたびたび津村を介してそこへ問い合わせる
有名なのは後者の方である。しかし葛も国栖も吉野の名物である葛粉の生産地と云う訳ではない。葛は知らないが
は季候もよし、旅行には持って来いだ。花の吉野と云うけれども、秋もなかなか悪くはないぜ。―――と云うので
万葉に、「天皇幸于吉野宮」とある天武天皇の吉野の離宮、―――笠朝臣金村のいわゆる「三吉野乃多芸都河内之大宮所」
したと聞いているが、私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この※の実を大切に持ち帰って示すで
「ね、昔は吉野の花見と云うと、今のように道が拓けていなかったから、宇陀郡
そう云う訳で、津村が吉野と云う土地に特別のなつかしさを感ずるのは、一つは千本桜の芝居
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の愛妾静御前村国氏の家にご逗留あり義経公は奥州に落行給いしより今は早頼み少なしとてお命を捨給いたる井戸あり静
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ためなのである。それに何と云っても母は関西の女であるから、東京の町では彼女に似通った女に会うことが
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は何日に大阪を立って、奈良は若草山の麓の武蔵野と云うのに宿を取っている、―――と、そう云う約束だった
に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは持主が変っているそう
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待ちくたびれた形で、早く出かけたい様子だったし、私も奈良は曾遊の地であるし、ではいっそのこと、せっかくのお天気が
で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館は今もあるが、二十年前とは
津村は何日に大阪を立って、奈良は若草山の麓の武蔵野と云うのに宿を取っている、――
奈良を立ったのが早かったので、われわれは午少し過ぎに上市の町
られない。しかしその文によると、この家の祖先は奈良朝以前からこの地に住し、壬申の乱には村国庄司男依なる者
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云う約束だったから、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に着いた。武蔵野と云う旅館
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、―――と、そう云う約束だったから、こちらは東京を夜汽車で立ち、途中京都に一泊して二日目の朝奈良に
結果、紙に対して都会人よりも神経質なのであろう。東京あたりの家のように、外側にもう一と重ガラス戸があればよい
、前にもちょっと述べたように、彼と私とは東京の一高時代の同窓で、当時は親しい間柄であったが、一高から大学
も大阪のとはやや違う。それに遊戯する者も、東京ではすわったままだけれども、大阪では普通立ってやるので、
た紐の両端を持って遊ぶ狐釣りの遊戯である。東京の家庭にもこれに似た遊戯があると聞いて、自分はかつてある
に何と云っても母は関西の女であるから、東京の町では彼女に似通った女に会うことが稀だけれども、大阪
そののち津村は東京へ遊学したので、自然家庭と遠ざかることになったが、そのあいだ
べろべどと云う岩がある、だから四五年前に東京からある偉いお方、―――学者だったか、博士だったか、
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ほとんど全部に行き亘っていて、両側の「磯」は住吉の景色であるらしく、片側に鳥居と反橋とが松林の中に配して