春琴抄 / 谷崎潤一郎
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もうそれ以上の詮議は止めて取敢えず身二つになるまで有馬へ湯治にやることにした。それは春琴が十七歳の五月で佐助
月で佐助は大阪に居残り女中二人が附き添って十月まで有馬に滞在し目出度男の子を生んだその赤ん坊の顔が佐助に瓜二つであったと
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その程度ならあえて不服はなかったのであろう。もちろん佐助は淀屋橋へ行ってからも少しも前と異った扱いはされなかったやはりどこまで
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が最も当っているようである。ここに考えられることは土佐堀の雑穀商美濃屋九兵衛の忰に利太郎と云うぼんちがあったなかなかの放蕩者
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境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹
に眠っているのである。それにしても今日の大阪は検校が在りし日の俤をとどめぬまでに変ってしまったがこの二
によると「春琴の家は代々鵙屋安左衛門を称し、大阪道修町に住して薬種商を営む。春琴の父に至りて七代目也。母し
見えるのでもあろうが、その朦朧とした写真では大阪の富裕な町家の婦人らしい気品を認められる以外に、うつくしいけれどもこれという
は鵙屋のこいさんの芸を手本とせよ〔注、大阪では「お嬢さん」のことを「糸さん」あるいは「とうさん」といい姉娘
実家はやはり薬屋を営み彼の父も祖父も見習い時代に大阪に出て鵙屋に奉公をしたことがあるという鵙屋は実に
感じなかった最初から円満具足した顔に見えた。今日大阪の上流の家庭は争って邸宅を郊外に移し令嬢たちもまたスポーツに親しんで
垢抜けがしているが悪く云えば病的である。これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いの
を自慢にしたくらいで色の白きは京阪に及ばない大阪の旧家に育ったぼんちなどは男でさえ芝居に出て来る若旦那そのままに
した。それは春琴が十七歳の五月で佐助は大阪に居残り女中二人が附き添って十月まで有馬に滞在し目出度男の子を生んだその
なぜ春琴は佐助を待つことかくのごとくであったか。ただし大阪は今日でも婚礼に家柄や資産や格式などを云々すること東京以上であり
てそうではなかったらしいかつて作者は「私の見た大阪及び大阪人」と題する篇中に大阪人のつましい生活振りを論じ東京人の
ことをふっつりあきらめたがよかろう、それでも習いたいのなら大阪には幾らもよい師匠があるどこへなと勝手に弟子入りをしや私の
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あり女児は分娩後に死し男児は二人共赤子の時に河内の農家へ貰われたが春琴の死後も遺れ形見には未練がないらしく取り戻そう
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かというと、いえ無縁という訳ではありませぬ萩の茶屋の方に住んでおられる七十恰好の老婦人が年に一二度お参り
歳とある。すなわちこれが温井検校の墓であった。萩の茶屋の老婦人というのは後に出て来るからここには説くまい
意味を持たせた嫌いがありはしないか。前掲の萩の茶屋に住んでいる老婦人というのは鴫沢てるといい生田流の勾当
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これは大阪に限ったことでなく都会の通有性だけれども江戸では女でも浅黒いのを自慢にしたくらいで色の白きは京阪に
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脚下にひろがる大大阪市の景観を眺めた。けだしこのあたりは難波津の昔からある丘陵地帯で西向きの高台がここからずっと天王寺の方へ続いて
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春琴の父に至りて七代目也。母しげ女は京都麩屋町の跡部氏の出にして安左衛門に嫁し二男四女を挙ぐ。
には脅威ともなったであろう検校と云えば昔は京都より盲人の男子に下される一つの立派な「位」であって特別
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今日でも婚礼に家柄や資産や格式などを云々すること東京以上であり元来町人の見識の高い土地であるから封建の世の風習は
人」と題する篇中に大阪人のつましい生活振りを論じ東京人の贅沢には裏も表もないけれども大阪人はいかに派手好きの
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見えたのでもあろうか。まだこの外にも駒鳥鸚鵡目白頬白などを飼ったことがあり時によっていろいろな鳥を五羽も