少将滋幹の母 / 谷崎潤一郎
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伺いに行った。本院と云うのは、中御門の北、堀川の東一丁の所にあった時平の居館の名で、当時時平は故関白
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ではなかった。そのほか、宇多天皇の女御に上って京極御息所と云われた女子があったが、これも短命を以て終り、他
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が、此の大臣の孫たちのうちで、三井寺の心誉、興福寺の扶公等、佛門に入った者は恙なきことを得て、大僧都や
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帰ることなどが記されているが、大和物語にも、仁和寺の宇多上皇―――亭子院の帝が平中をお召しになって、「
添えて差上げた。古今集巻五秋歌の下に、「仁和寺に菊の花めしける時に、歌そへて奉れと仰せられければよみ
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の住んでいそうなけはいもない。東の方には比叡の峰つゞきの丘が聳え、西の方がだら/\と緩やかな斜面に
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昔、比叡山の或る上人のもとに召使われている中間僧があった。僧とは云う
つけさせると、男は西坂本(江州の坂本ではなく、比叡山の西側の山麓、即ち現在の京都市左京区一乗寺辺)を下って蓮台野へ行くの
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とされたのであった。これより先、菅公が筑紫の配所で薨じたのは延喜三年二月二十五日であるが、同六
、自分は此のことを申上げたいと存じて、只今態々筑紫から参ったのです、と云うのであった。
の諷諫を用いなかったゝめに左遷の憂き目を見、筑紫の空に流寓して果敢ない最後を遂げたのであるが、今、梵天帝釈
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た滋幹の母が住んでいた西坂本、即ち今の京都市左京区一乗寺のあたりに敦忠の山荘があったことは、拾遺集巻八雑上の部伊勢
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が叶ったかと思えば、その翌日から公用で四五日京都を離れるようなことになり、而も不覚にも女に事情を知らしてやる
は、何処のことか明かでないが、蓋しその頃の京都の街には、こう云う風な屍骸の捨て場が方々にあったので
とあるのに徴して明かで、その頃の京都の市中から馬を走らせて行く分には、左程の道のりで