新古細句銀座通 / 岸田劉生
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この横町を入れば、誰の目にも歌舞伎座の大建築が見える。が私はこの建物を美しいとどうも思えない、和風
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が、新聞社は皆それ/″\銀座から影をかくし、丸の内へと移ってしまった。
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歌舞伎というものは江戸で生れ、江戸で栄えたものであって、江戸歌舞伎の芝居小屋というもの
歌舞伎というものは江戸で生れ、江戸で栄えたものであって、江戸歌舞伎の芝居小屋というものの持つ味は
としてはコンクリートでいいからやはり、歌舞伎座は思い切って、江戸風の大芝居の形にしてもらい度かった。がそれはそれとして
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一つ、一丁おいて又一つ、それから新橋際の博品館と六、七軒の勧工場があったものである。
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松山君は、白馬会での私の先輩であった。松山君はあの長いからだと顔とをよく研究所へあらわし、ブラ/\とし
れる、これが出来るとじき、プランタンが出来た。プランタンの松山君は、白馬会での私の先輩であった。松山君はあの長い
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ここへ出かけた、志賀にいわせると、岸田の知識は金沢亭がもとだそうである。
ものである。いま東朝館といっているのが旧の金沢亭で、青年時代私はよくここへ出かけた、志賀にいわせると、
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新古細句銀座通
聞きながら、青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確な
私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車
盛り場には必ず一つや二つはあったものだ。銀座だけでも一丁目のもとの読売新聞の一、二軒隣に丸十、
は石油ランプ、それがおいおいガス灯になったものだが、銀座の勧工場は早くから電気灯がついていた。子供の時分、一丁目の
銀座の街路樹を何故もとの柳にしないのかと私はよく思う。今
。これが柳の並木に照りそって、二昔前の銀座は誠に面白い風情があった。
今も昔も変らないのが骨董の夜店であるが、銀座の夜店の骨董に真物なしといわれるまでに、イミテーション物が多いのは
銀座の夜店は私のもの心づく時分から盛であった。この節はまたちょい
ながら将棋の必勝か何かの本を売っているが、銀座では見かけない。
に一日ずつ出世する出世地蔵が有名である。昔は銀座四丁目の角から三十間堀の方へずらりと出たもので私はぶどう餅
銀座の縁日といえば七日、十八日、二十九日と十日毎に一
銀座の縁日に見世物が御はっとになったのはいつの頃からか、二十
ような音便の変化によるものであるが、私共は銀座の家の二階でよくこの見世物ごっこをして、盛んに「アーバイ/
が夜店ばなしはこれ位にして、今度は、今日の銀座を歩きながら、新を語り、旧を思ってみる事としよう。
足が一歩銀座に入ると実にモダーンである。何かいい材料にと思ってポカンと
話がどうも飛んだ面倒な議論になったが、併し銀座の事を考えるからは、モダンなりモダンガールなりの事を考えない訳には
銀座の話がどうも飛んだ面倒な議論になったが、併し銀座の事
庵というそば屋も古い。一体この地代なり店員なりの高い銀座通りに、そば屋が昔からあるということはちょっと異なものであるが、
銀座通りで、昔から今まで残っている店は私の思ったより多いが、
以前はなかった様だ、しかし二十年位は経つだろう。銀座の牛屋では一丁目に吉川というのがあって、今は新橋ステーション
小さな煙草店があり、そのわきには、明治風の例の銀座特有の洋風な店が立っている、夜など誠に美しい感じがした
の大名物である。ここの建築は何といっても銀座通り洋風建築の中最も美しいものであろう。
松坂屋は松屋とともに銀座の大名物である。ここの建築は何といっても銀座通り洋風建築
は古くからここにある。もとこの角が絵葉書屋で、銀座にいた頃、小遣いをもらうと弟などとよくここへ来て食べた
、三十間堀の家の二階に寝ていたが、銀座の裏通りの昼間というものは何という、のどかな、下町らしい静けさの
の処に住んでいたことがあった。父の歿後銀座の店の十一番地の方を、救世軍に売った当時住居だけをこの
たのを覚えているが、新聞社は皆それ/″\銀座から影をかくし、丸の内へと移ってしまった。
さてここは、東都目貫の場所たる、銀座四丁目の交叉点である、昔はここに毎日新聞、日日新聞、その他
木村家の隣には宝来というパン屋あり、その向いには銀座パンという家がある。殊にこの宝来の盛況はめざましいものである。夕方
しというのはどんなものか食べた事はない。近来銀座にこういう安値の食物屋が出来、中にはショウウインドーに、料理し
覚えている。常に赤い著物で赤い馬車に乗り、銀座街を乗りまわしていたものである。一時国益新聞というのをやり、
銀座三丁目の角が松屋である。松屋についてはもう別に
ここの店は一丁目のつやぶきんの佐々木とともに、銀座の名物として今なお名高い。ここの番頭さんに前田さんという非常
書く程どうも長くばかりなってしまう。何しろ銀座の事を書くとなると、思ったより書く事が多くなってしまう。
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はもとよりわからない。が、「煉瓦」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろ/\のうつりかわりにはまた語るべきことも多い
ているような気がする。角には博品館という東京一の勧工場があったが、これはもと博品館とはいわず、俗
一体に東京のうまいものは、本式の料理よりは、ざっかけないものに多い、天ぷら
にでもあんな醜い町はないであろう。それに今日、東京その他に出来るへんな四角い橋はあれは何という形であろう。私
バラックも夜となれば、美しく、何となしに古の東京のおもかげをみせてくれる。ここから先はもう私の領域ではない。
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向うあたりに一つ、一丁おいて又一つ、それから新橋際の博品館と六、七軒の勧工場があったものである。
景をみることが多い。ここの階上の裏側の窓から新橋の美妓諸姉の夕化粧の艶姿がみえるとて、若いものたちが事に託し
たが、これはもと博品館とはいわず、俗に新橋の勧工場といっていたが、私が十一、二の頃に改築さ
新橋が美しい鉄のらんかんの橋となったということを私はおぼえている
では一丁目に吉川というのがあって、今は新橋ステーションわきの有楽軒?というレストランをしている。この辺の事は
私はこの新橋の近くの通りの昔の姿が誠になつかしい、先程まであったチューインガムの
ていやだ。内部も私は好まない。これに比べれば新橋演舞場の方がまだ、下手なライト式ではありながら、素直に西洋風に
一切が概念的である。がこれをよく考えてみる時、新橋や、常磐橋は素直に西洋の形を真似たからの事で、今日
形であろう。私はたとい貧弱でも一と昔前の新橋や、常磐橋がなつかしい。実に今日は一切が概念的である。がこれ
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南谷という人がやっていた。南谷は今以て人形町に店があるがきんちゃくが漆くいで入口に出来ていたので俗
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たのを覚えている。明治三十何年かの有名な御茶の水のおこの殺しが、じき見世物になり、おこのの血だらけの顔を
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られるそばの事である。「八文うりのけんどんや、浅草町は安まんじゅう」などといったものにて、その入れものが今日いう「けんどん
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京橋が架けかえられた時、家の父と松平翁とが渡り初めをしたこと
京橋づめが池田茶舗、この店も古く、昔は店の奥に真黒な茶壺
ふと見れば、京橋のかなたには、相互ビルディングがき然と聳えている。夜はようやく町々を