光り合ういのち / 倉田百三
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「出雲のお国なんていうのは、元は大社の巫女でしょう。巫女というものは
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佐々木家に養女に行っており、三女の種子は十四で尾道の伯父の家にこれも養女に行っていた。家には長女の豊子
尾道の千光寺には珠の巖と言って、ダイアモンドの大きな珠が巖の上
祖母は十六の歳尾道から庄原へ、十八里の道を馬に乗せられて嫁入りして来たの
「尾道の吉助さんが死んだ。遠いからもう行けない」
の話だが、この祖母が八十の祝いの時父は尾道や、広島や、三次の親戚たちを招き、傾きかけた家産の中から、
は四女の政子姉がもう不起の床に就いており、尾道では三女の種子姉がこれも余命幾ばくもないという。同時に三人
迎えで思い出すのは尾道に養女に行ってる種子姉が秋の祭りに実家へ泊りに来るのを迎え
春に大阪の博覧会があり、父は私と政子姉と尾道の種子姉との三人を連れて、博覧会見物を兼ねて、京都、奈良
尾道の伯父の家で種子姉を加えて、私たち四人は楽しい春の旅に
で行った。もとよりまだ汽車はなかった。十八里離れた尾道か、二十二里ある広島迄行かねば汽車は無いのだ。
だった。丈が高く、声がきれいで、笑う時に尾道の種子姉に口元がどこか似ていた。それがへんに私を牽き
尾道へ!
にはあの大好きな種子姉がいるのではないか。尾道一のハイカラな洋品店と西洋人形を飾ったショウヰンドー。鏡と灯の多い明るい感じ
尾道へ行こう。尾道へ!
尾道へ行こう。尾道へ!
私は尾道の姉に手紙を書いた。すると大喜びで種子姉は一日も早く来いと
尾道行きの仕度に私は凝りだした。帽子は吉舎の中学の友だちがいい型
秋までの、春期の催しの多感の日を私は思うさま尾道の港街でおくった。
せようとするような多感な心で、十七になる少年は尾道の街に起るすべての美を捕えようとした。
尾道に着いた最初の夜から私は市街の明るい賑わしさと、美しい娘たちの
「カネ久(尾道にある倉田家の宗家)のみつのさんはどう思う。お祖母さんが百松
下には青い帯のような海と若緑の島と、尾道の市街とが横たわっていた。
そのころ児島丸という美しい連絡船が尾道と多度津との間を往復していたが、その船がちょうど目の下
は所の習いに随って「町まわり」をした。尾道の通りは極く狭いので、一座の俥がずらりと並ぶと、見物の人だかり
しかし尾道での少女の思い出はこれだけだったのではない。もっと楽しい、軽い、
渋谷すみ子という少女は、尾道風の町娘で私と同い年であった。彼女はめりんすばかり専門に売る反物
尾道の宴会と言えば大阪の商人趣味で、あまり上品なものではなかった。
天神祭と言えば、夏祭りの多い尾道でも有名な祭りであるが、その夜に私は天神山の裏でばったりすみ子
「いつまで尾道へ居てん?」
尾道での年少の私の憧憬はもとより思春のものだけではなく、文化と学芸
の美しいもの、価あるものへの思慕であった。もし尾道という土地にそうした、施設と雰囲気とがありさえしたら、私は
てそれに向かって行ったであろう。しかし不幸にして尾道には商業学校以上の学校もなく、芸術的なサークルもなかった。私のいのち
思えば私は尾道でも美しいもの、価あるものを掘り出すように探し求めていたのだ。美しい
ある寺々、それは尊いものであったが、人間のつくり出す尾道のカラーは、美しい時にも多少商業的な卑俗性をもったものであっ
尾道の思い出が、少女達との思春の絵本や、手習いのすさびのようなもの
「尾道から庄原へ勉強に行くと言うのもへんな話だけれど、遅れていた
「今だって尾道は学問は駄目ですね」
「そうです。父がよくこぼしますよ。尾道には学問の話が出来る人がいないって」
実際私は尾道でのただ一つの「学びごと」が出来たのを喜んでいた。
兄の信一は歌はつくらなかった。彼はしばらくして尾道の住友銀行に勤めるようになった。彼は※の店へもよく立ち寄るように
逢う度び毎に親しくなり、趣味の一致を感じた。尾道で知った少女で話しの出来るのは鈴子一人であった。
暖かい潮の色、海べの砂州と、嶋々の浦わ、尾道の自然は歌の材料にみちみちていた。少女の追憶は歌の思い出と
尾道は夏祭りの多い港であるが、住吉明神の祭礼は「お旅」と言っ
もとより尾道にもっと長く私がいられたら、そんな偶然的な障碍は時が経てば解消
所詮すさびであった。尻切れとんぼに終らざるを得ない。尾道での私の年少の恋の手習いはみなそうした結末になった。また
尾道での私の年少の異性の対手に、も一人の少女を書きとめて置かね
その頃尾道には図書館がなかった。細谷という尾道に二十年も小学校長を勤めた
その頃尾道には図書館がなかった。細谷という尾道に二十年も小学校長を勤めた人が、奔走して、ようやく市民のため
「これが尾道の唯一の図書館か」
私は今更ながら尾道の文化のプーアなことにいや気がさした。こんな繁華な町でこんなお粗末な
かようにして多感の思い出を残して、私は尾道を去ったのであった。
止しよ、そんな無理なこと。あんたは脚気を治すために尾道に来たんじゃないの」
嬉しいわ。庄原のお父さんも、お母さんもお喜びでしょう……尾道に来ていてよかったわね」
時、末吉は涙をこぼしていた。私の事を尾道の方言で、「坊さん、坊さん」と言って、少年同士一年間色々
宿のランプの下で私は尾道の人々に手紙を書いた。
尾道から帰って来た私は又以前の屋根裏の見苦しい書斎に入れられた。しかし
た。堀野は娘たちの前では意気地がなかった。尾道での私の訓練がものを言った。私は会をリードした。堀野
受けたに相違なかった。しかし本意なくも先生は私が尾道から帰って、二度目の三年生の二学期からやり出した時には、
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張り出した神楽殿の三方をとり巻いて、野天の座席で見物人はギッシリと詰まっていた。
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仙台萩の忠臣片岡外記はこの正しき裁きをもとめて、仁木弾正と合拷問にして
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真間の手児奈の奥津城どころ
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「霧立ち罩むる犀川を」という川中島の戦いの歌を誦する度びに私は馬洗川や、
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が家のすべてにあった。庭には池があって八ツ橋がかかっていた。鯉のはねる音がした。
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野平君は薩摩の同性愛の「しづのおだまき」の一節などを唱って聞かせたことがあっ
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と英語で出鱈目にしゃべり掛けた。何もワシントンでなくてもいいのだが、中学のナショナル・リーダーで暗誦しているの
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その年の夏休暇だ。豊子姉は西城町にいた雪子姉のところへ弟妹を皆つれて泊りに行きたいと父に
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張った。母のきょうだい達、孫たちが多く集まった。尾道市の長老として名のある祖母の弟新助翁が本家として正客
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討論することを好むのでなくては教育者ではない。アテネのプラトンの聖堂のような、真のアカデミーが私たちは欲しい。
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又笠間という不良じみた生徒を母親からたのまれて、あずかりながら、
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。花を活け、三味線を弾き、義太夫をよくした。大阪に仕入れに行く時のたのしみは文楽を聞くことであった。しかし父は物
姉は地元の流行のさきがけであった。しかしその元は大阪にあるのだ。何しろそのころは、汽車に乗るにも十八里へだてた
、電燈もない北備の山間、小さな町なのだ。大阪で髱の長いのがはやると先ず姉の髱が長くなり、妹たちが之
たちの髱が皆長くなった。そして姉や妹たちのは大阪の娘よりまだ長いのだ。髪結いたちは姉からリイドされるのだ。勿論
私が十三の春に大阪の博覧会があり、父は私と政子姉と尾道の種子姉との三人
は妙齢の美しざかりだったのだ。きれいないとはんと大阪の常宿で主婦はしきりにほめていた。事実二人とも美しかった。その
大阪では博覧会見物をすますと父は大好きな鴈治郎の芝居と、文楽の人形浄瑠璃
尾道の宴会と言えば大阪の商人趣味で、あまり上品なものではなかった。芸者がまた「かっぽれ」
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若獅子のような少年は老いた退役将校として、江南の野に戦死してしまった。そのラブ・レターのことで私をからかった
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彼女は父親がハワイに出稼ぎに行ってる間に産れた子で、あちらで育ったので英語が
父親はずっと若い時、広島県に多い移民の群にまじってハワイに渡って農業をやって少し目鼻が付いた時、郷里から妻を迎えて
彼女はハワイの話をよくして聞かせた。
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芝居を見ていた。芸題は黒田騒動と紙治と妹背山であった。私は座るとこから鶴子たちの席を探していた。二
妹背山では鴈治郎のお三輪は無白であった。あのしゃがれ声を避けるためだっ
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味方のチームでは浅賀という関東の私立中学から転校して来た生徒がピッチャーで派手なユニフォームを著けてい
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「ホノルルはとてもきれいな港よ。コーヒー畑で働いていたの。熱帯植物はきれい
彼女はホノルルでカトリックの教会に行っていた。ホノルルはローマ正教の僧正が駐在して
彼女はホノルルでカトリックの教会に行っていた。ホノルルはローマ正教の僧正が駐在しているのであった。
へ登ったことだった。これは彼女に瀬戸内海の景色がホノルルのよりも美しいことを知らして、彼女の郷愁を解消させようと思って私
「ホノルルは高い火山脈があって、登りなれてるもの」
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を説くところまで行かねばおさまらなかったのだ。春の上野公園は桜が盛りだった。私たちは三人並んで歩いた。君は救世
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が、この祖母が八十の祝いの時父は尾道や、広島や、三次の親戚たちを招き、傾きかけた家産の中から、費用を
筋のいい漢学者であった。この先生は後見出されて広島の中学に栄転したが、その訣別の辞にも、「私は庄原
農学校を出て技師をしており、二人の姉さんは広島の師範学校を出ていた。この子は腕白で頭の骨が冑の
汽車はなかった。十八里離れた尾道か、二十二里ある広島迄行かねば汽車は無いのだ。
私が三年のころ、時子は広島の女学校を卒業して家に帰っていた。小泉家の前を
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の三人を連れて、博覧会見物を兼ねて、京都、奈良、伊勢等の名所古跡を連れて旅をした。
早く散って行った。同じ病気で、同じ年に……奈良や、お室や、近江の湖水で私たち父と子たちはどんなに楽しかっ
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姉との三人を連れて、博覧会見物を兼ねて、京都、奈良、伊勢等の名所古跡を連れて旅をした。
私はずっと後三十八歳の時に二十年ぶりに京都でこの植松先生に逢った。先生は東山女学校の先生を勤めておら
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、老父がどうにもならないと言うので、泣いて長崎の医専に転校した。恭一君は家は貧乏になっても、貧乏
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「ええ。いく度も。お母さんは高松から来てらっしゃるんですから」
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児島丸の事務長の福井という人は※の店の常客で、姉などとからかい合ったりするほど
児島丸の事務長の福井さんは、元はそれ者だったというその夫人に弾かせて「我
と福井さんがしきりにすすめた。
いい寛大な従兄。――むつみ合った少女たち、仁田さん、福井さん、子供たち……とても忘れられないと私は心の内で思った。
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仙台萩の忠臣片岡外記はこの正しき裁きをもとめて、仁木弾正と合拷問に
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「天井が低くていやだと思うけれど、直ぐ大津の河原に散歩に出られるのがいいので、未だに引き越す気になれ
と言っておられた。大津というのは、江の川の抱く広い砂州のことで、先生の家を出
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旅の宿々から郷里へは手紙を寄せ書きした。私たちは東京を想い見ることはなかった。伊勢参宮迄で満足していた。私たち
「僕は東京に行って来たんだよ。ほんの一カ月だけ。ある商店へやられ
「僕はこの土地の商業学校を出ました。兄は東京の国学院大学に行っていますがね。僕は後とりじゃないし、正直な
この少年は呉から来ていたが、東京の言葉を使った。父は造船所か何かに出ている、母親は
のには選手の中には現在生徒でない先輩で、東京の私立大学の選手なども加わっていたということであった。
ていなかった。大きな精神と、自由の気魄とのある東京の学校に行きたい。なるべく一高へはいりたい。あの寮歌集の雰囲気こそ
「お父さんお願いがあるのです。僕中学を出たら東京の学校へやって下さい」
一方では父は私の東京への進学をなかなか許してくれなかった。それは父にとっては、
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たえ切れない気がした。私はその事ばかり考えて上野池の堤のまわりを歩いた。
「夜はしんしんと更け渡り、人影絶えたるここ上野の池のほとり、サツと音して吹き来る一陣の風に、木ノ葉
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当座は寺々を訪ねたり、渡しを渡って小歌島や、向島へ行ったりして遊んだ。恋人のない私は姉と並んで歩くの
「あの向島の、一等高い尖った山何と申しましたっけ」
「向島へあがって見やんせん?」
「ええ。僕こそ。今度向島の高見山に登って見ない? そしたら瀬戸内海の景色がどんなに
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「あてて見ようか。渋谷のすみ子さん?」
渋谷すみ子という少女は、尾道風の町娘で私と同い年であった。彼女
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そうした追憶の一番濃いのは住吉神社の夏祭りの夜の神楽の折のことだ。
尾道は夏祭りの多い港であるが、住吉明神の祭礼は「お旅」と言って、街はずれの「御所」という
住吉神社は中浜という海べにあった。満灯飾した大船小舟が一杯
汀をこうして長く歩いた。どうで年に一度の住吉祭りの、わけて今夜は夜通しお神楽があるのであった。