柳橋考 / 木村荘八
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一方のものになつてゐる。これは震災後、一列一体に東京市内の橋が構造本位のがつしりしたものになつた、その時矢張り同じ
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陽樹ださうで、柳原封疆の見当といふものが、江戸城から見ると、凶位に相当したといふことだ。そこで特に陽樹の
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江戸の柳橋
―とはいへ、この橋は、痩せても枯れても江戸から東京へかけて、この良い響きなり匂ひの名をもつ名橋はこの一
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年一月二十八日御届とある)には、珍らしく、本所側から浜町大川端一帯を見渡した景色が描いてあつて、川岸の頃合ひの
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力の頃になると両国界隈がトピックになるやうである。両国界隈の風致景物の中でも柳橋などは特に角力の頃でなくとも話題になつたも
角力の頃になると両国界隈がトピックになるやうである。両国界隈の風致景物の中でも柳橋などは
両国といつた。(ぼくが子供の頃には、まだこの辺を元両国と呼ぶ年寄りが沢山ゐた。)
、却つてそれまで仮橋のあつた位置の方を人は呼んで元両国といつた。(ぼくが子供の頃には、まだこの辺を元両国と呼ぶ年寄りが沢山
この間、仮橋の両国に人の親しむこと十六年の久しきにわたつたので、本橋が出来上つてからも
この元両国に難波橋があつたのであるが――「夫婦柳、なにはのはしの詰にあり、来歴
「夫婦柳、両国の南川はた通り、難波橋の北の方に、左右に二本、いにしへより在。近きこ
にかけて柳橋と呼ばれようことは容易くうなづける。元両国の地にある柳橋、それが「元柳橋」の名の起りである。
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一方のものになつてゐる。これは震災後、一列一体に東京市内の橋が構造本位のがつしりしたものになつた、その時
はいへ、この橋は、痩せても枯れても江戸から東京へかけて、この良い響きなり匂ひの名をもつ名橋はこの一本
するよりも図で描く方が早いから、明治二十九年の東京全図を関係の区域だけこゝに略写しておくことゝしよう。
切れなかつた地形で、明治三十三年版の東陽堂の「新撰東京名所図会」に「現在の橋梁は木橋にして長さ五間、明治二十
は古くは広重、中頃は清親、安治、近くは「新撰東京名所図会」の山本松谷の写生図を徴するも、それらしい柳樹の縁
明治二十三年四月の版の「東京地理沿革誌」に、「米沢町は三町あり。元祿の頃までは矢
は沿革誌として相当古い文献になるから、後の東京市で編輯した公文書あたりにもこの記事は尊重されてゐるのと
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柳橋は今も昔の通り神田川筋の「……東の大川口にかゝるを柳橋と号く。柳原堤の末
これはいつの時代にも神田川筋の、地の利の自然で、さういふ羽目になるわけだらう。
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明治三十八年の焼打騒動の時に、柳橋は矢張り、並ぶ浅草橋と一緒に、火をかけて落さうとされて、落ちなかつた
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薬研に似たるを以つて薬研堀と称すと。」(日本橋繁昌記)
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二十八日御届とある)には、珍らしく、本所側から浜町大川端一帯を見渡した景色が描いてあつて、川岸の頃合ひの所に
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た橋畔の柳の大樹を通して、夕靄の彼方遠くに両国橋を望むところが写してある。
享保十三年(西一七二八年)の八月に、両国橋は出水で流されたことがあつた。それで普請をして仮橋が
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て、大川端の元柳橋が元の、そもそもの、柳橋。神田川の大川口にかゝる柳橋は「新柳橋」であると、恰も人でいへば