岸田劉生の日本画 / 木村荘八
地名一覧
土佐堀
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いつたのが、岸田にたちまち霊感したのだらう。土佐堀の油なめ小僧といふのは画商森川喜助である。森川君の酒席におけ
鎌倉
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入れてから匂ひが高くなつたが、存外これは京都から鎌倉へ移つた、最晩年のことだつたかも知れない。(その後この墨の
番町
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だつたが、九つに限つたのは推定すらく、番町皿屋敷のお菊の皿の数に因んだものだらう。
に化けものを九つまで描いて、十はかかずに、番町皿屋敷を利かせる(これはぼくの推定であるが、さうに相違ない)など
鵠沼
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大正十年には歳三十一。鵠沼に住んでゐた時代の、日本画ではその頃ほひまだ初期だつた
し、殆んど強要せんまでにしてその九冊本を急ぎ鵠沼へ持返り、やがて彼の画室へ行つて見ると、沢山に半折の十
ば岸田が日本画式を手がけたのが前記の如く既に鵠沼の後期からで、彼の鵠沼後期といへば、その前に元気旺盛な代々木
京都
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月とあるから大正十四年に当り、岸田は三十五歳、京都に偶居した頃の逸作である。(岸田は三十九歳、昭和
同十二年春陽会成震災 癸亥 秋以後京都移住
手に入れてから匂ひが高くなつたが、存外これは京都から鎌倉へ移つた、最晩年のことだつたかも知れない。(その後
日本橋
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ぼくはその時分にたしか日本橋仲通りの骨董店あたりで、岸田が沈南蘋の猫を描いた画幅を求めた
代々木
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、彼の鵠沼後期といへば、その前に元気旺盛な代々木時代――郊外風景や肖像、静物の、草土社創始時代――があり